潮風のアルペジオ 第四章

潮風のアルペジオ 第四章

2022年11月25日

第四章  唯 一 無 二 の 音

32・遠い春

 どこまでも深く沈んでいく、海の底にいるような青。
 小さなアルミ製の窓から入る冷たい夕暮れ色が、静かに部屋を照らす。
 薄暗い空間に浮かび上がる顔を見つめた。ただじっとそこに立ち尽くし、疑問の視線を送ることしか僕にはできなかった。
 やがて青い闇は音もなく消え、淀んだ夜の色が僕たちを包んだ。
 部屋の灯りを点けて畳の上に座り込んだ透さんを、僕は立ったまま凝視する。どんな言葉を吐けばよいのか見当がつかず、ただひと言だけ小さく言った。
「どういう、こと?」
「嘘を、ついてた……ごめん」
 透さんは息を詰まらせてそう言い、僕を見た。それ以上の説明はなかった。でももうわかっている。優一が電話で言ったことだ。恋愛感情ではない──あのとき優一はそんなこと言っていなかったんだ。殴り合い、ひたすら緊迫していく二人の様子に、ことの発端が自分であることはわかっていても、はっきりした理由が理解できず混乱するばかりだった。けれど、今彼の言葉を聞いてやっと納得がいった。
「どうして」
「お前が欲しかった。わかってたさ、すぐにバレてしまうって。でも……」
 片手で顔を覆い、わずかに肩を震わせ、深くため息を吐く。
「初めてなんだよ。ずるい手を使ってまで自分のものにしたいって思える相手なんてさ。自分でもどうかしてると思った。お前のことが好きだって、電話であいつがはっきりそう言ったとき、わかってたんだ。俺に勝ち目はないことくらい。だけど、どうしてもその場で諦めきれなかった」
 灯りを点けてもどこか薄暗いアパートの部屋。黄土色の薄い壁に身体をもたせかけ項垂れている。嘘をついてまで、そんなことをしてまで、透さんは僕を手元に置きたかったのか。
「泣いてくれただろ、高城。俺のためにさ。あれがダメだったな」
 そう言って、自嘲気味にうっすらと笑った。
 言葉が出なかった。
 けれど、透さんを責める気持ちは起きない。嘘をつかれたのに、怒りは微塵もなかった。僕だってずっと優一のことを誤解していた。……もういいんだ。今は何もかもが色褪せて遠く思える。あの人から告げられた言葉の前には……。
 無言のまま時が流れた。
 透さんを助けたい──その気持ちに変わりはない。でもこの部屋でできる限りの時間を過ごしたり、泊まり込んでそばにいたり、そんな気持ちはもう持てない。
「ごめん」
 謝る透さんに対し、僕が告げたのも同じ言葉だった。
 その意味を悟ったのか、透さんは静かに「ああ」と言った。
「行けよ、もういいよ。行けよ」
「え……」
「これ以上お前が俺のもとにいてくれるなんてさ、さすがにそんなこともう思ってねえから」
「透さん、でも」
 あれこれ逡巡している間に時は刻一刻と過ぎていく。どうすればよいかわからず、互いに黙ったまま、長い夜の中をあてもなく彷徨った。
 やがて夜明け前の淡い光が小さなアパートの部屋に流れ込む。外の世界では、忙しない冬の日の日常が動き始めたのがわかった。
「行けよ」
 ぽつりと吐かれたその言葉に弾かれるように、僕は顔を上げた。ゆっくりと立ち上がり、部屋を出る。こちらへ振り向くこともない寂しげな背中を見やってから玄関のドアを開けた。軽い足取りと言えたらよかった。たしかに、それは新しい一歩のはずだから。
 夕凪ハウスへ戻りたい。優一の隣にいたい。
 特別な意味であの人が僕を想ってくれているというのなら、僕の気持ちが向かう場所はたったひとつだ。だけど──
 そうしたら、透さんはどうなるのだろう。
 僕がここを出ていけば透さんはどうなる? 彼は住まいか健康のどちらかを確実に失うことになる。バンドのメンバーが用意してくれる計画もすべて台無しになる。元気な姿で自分の曲をステージで歌い、音楽をやっている仲間と笑い合う、その瞬間を迎えて欲しいと、僕から行動を起こしたのではなかったか。僕にできる限りのことはしたい、その気持ちは変わらないのではないか。
 ──足が止まる。
 願ってもない道。好きな人の隣へと続く道。
 だけどこのまま歩みを進めることに躊躇いがないといえば、嘘になる。
 約束をしたんだ。僕が説得をしたんだ、彼を。
 迷った末、僕は決意をした。
 透さんは、戻ってきた僕の顔を見て一瞬顔を歪めたが、すぐにため息をついて肩を竦めた。「……お前ってさ」と、諦めたように脱力した様子を見せる。
 だけど、どこか安心したような、嬉しげでもあるような、口元にはそんなかすかな笑みが浮かんだのを僕は見た。そして彼は、僕から顔を背けたまま静かに言った。
「……ずっとなんて言わない。俺もちゃんと考えてるから」
 みゆきさんに電話をする。当分の間は帰ることができないと。凛と凪々にも申しわけないけれど、二人のことはしばらく任せるからと。学校は休学届けを出し、しばらくバイトに専念するのだと。全部、一人暮らしをしている病気の友達を助けるためなのだと伝えた。彼女からすれば不審も不服もあるだろう。それはわかっている。
「ずっとじゃないわよね? すぐ戻ってくるわよね?」
 何度も僕に訊き返した。
「うん、もちろんだよ。ずっとじゃないから。迷惑かけるけどごめん。二人のことよろしく」
 ずっとじゃない。……そう告げたが、実際どれくらいの期間戻れないのかは今の時点で僕にもわからない。透さんを必死で説得した──あのときはぼんやりと、生活が安定するまでアパートに通い続け、凛と凪々にきちんと説明をしてから、いずれは透さんと二人でここで暮らすようにしたい、そんな考えすら心をよぎっていた。
 でも今は……いつか戻りたい。必ずあの家へ。
 元の生活へ。あの人のいる場所へ。

 朝日が眩しくて目を覚ます。
 小さなアパートの部屋には冬の光が流れ込み、周囲のノイズに塗れ忙しない時がコツコツと刻まれ始める。時計を見ると八時だった。そろそろ出かけなければ。
 乾燥した空気が辺りを覆い尽くしていた。
 歩道を進み駅へ向かう途中、空を見上げる。
 結局アパートに留まった僕のことを、優一はどう思っているだろう。僕が透さんともう深い仲なのだと伝えたとき、彼はただまっすぐ、僕に帰ってくるよう促すばかりだった。そんな強い態度をとったのは全部、僕への特別な感情のせいだったと知った。すべて理解しても帰らない僕のことを、もしかしたら見限ってしまうだろうか──。
 夕暮れにはまだ早い冬の午後、バイトを終えて夕飯の買い物を済ませたあと、アパートで待つ透さんに電話をした。
「もうすぐ帰るから」
「ああ、わかった。風呂沸かしてるから」
 一時的とはいえ、小さな部屋で身を寄せあうように生活を始めた。今月バイト代をもらえれば、ちょうど来月分の家賃の支払いに充てられる。残りは生活費。慎ましくやればなんとかなりそうだ。
 街には少しずつ一年で最大の華やかなイベントに向け、見慣れた飾り付けが増え始めていた。帰りの電車の中窓の外を眺めると、遠くに見える観覧車が高く澄んだ空の下にくっきりと姿を映していた。
 夜、食事を終えて、大きなカップで薄めの紅茶を啜っていたとき。透さんが僕から顔を背け、壁を見つめながらぽつりと言った。
「お前は、バカだよな」
「……なに、急に」
「お人好しっていうか、本当に……変な奴だよな」
「透さん」
「普通好きな男のほうを選ぶだろ。俺のことなんか放っておくだろ」
「できないよ、そんなこと」
 もちろん、迷いはした。もちろん……。
 だけど、僕を必要としている人を見捨て、約束を都合よくなかったことにして、そんなふうにして選んだ道に心から納得がいくとは思えなかった。どうしても。
 透さんは、輝きのない乾いた目で壁を見つめ、どこか遠い場所を見ていた。
「僕がやりたくてやってることだから、いいんだって」
 言葉を重ねた。沈黙が続く。
 ふいに、彼は思い立ったように僕に近づいてきて、正面から肩を抱えた。そのまま力なく僕の胸に顔を埋め小さくつぶやいた。
「ずっとなんて言わないから。もう少しだけ、一緒にいてくれるか」
「……うん。そのつもりだよ」
「本当は……冬が終わるまでいてほしい。その頃になったら色々整う気がするんだ」
「冬が終わるまで」
「ああ」
 冬が終わり、春がくるまで。
 それは遠いのか、近いのか。
 だけどその頃になれば少しずつ透さんの体調もよくなっているかもしれない。そうだよ、その頃には何か新しい展望が開けるかもしれない。そしてそのとき、もしもまだ優一が、僕に同じ言葉を言ってくれるなら……もしまだ同じ気持ちでいてくれるなら……。
 期待と不安がない混ぜになり膨らんだ空気が胸に溜まった。苦しくなってゆっくりと吐き出すと、透さんは気づかぬふりをして、ただ黙って僕の胸に頭を預けていた。
 
 イルミネーションに彩られた街の騒めきが去り、いよいよ年の瀬を迎える頃、いつかの同じ会場で透さんのバンドのライブが開催された。ついにきたその日、空はどこまでも澄んでいた。僕は気持ちを集中させる。
 訪れたのはほとんど以前の客と同じ顔ぶれのような気がした。得体が知れないなんて前は思っていたが、考えてみればメンバーの友人やら家族やらが大半を占めているのだろう。
 その日、僕と牧さんたちの間で密かに計画が立てられていたそれは、予想以上の成果を得た。
 そもそも、自分の曲をライブで披露できると牧さんから伝えられていた透さんは、この日まで張り切って練習を続けてきたのだ(それはほぼ自宅で、隣人のいない日中の合間に行われた)。そして、いざメンバー皆が周りを固め「一緒にやろう!」と声をかけたときの彼の驚きようといったら……!!   
 僕と牧さんは目を合わせ、やったね! と無言の合図をした。
 手にしていたエレキを脇に置き、アコースティックギターを抱えた透さんは、ステージの真ん中で短い挨拶をして、曲を奏で始めた。歌詞や歌声は脇役かと思うほど、彼が弾くアルペジオはとても印象的で、聴いている誰もが胸を打たれたのではないかと思う。それほどに、小気味よく弾かれる弦の響きがその場の空気をさらった。
 二コーラス目でゆったりとドラムが入ってきて、ギター、キーボードがパートを膨らませていき、次のサビで透さんのギターは力強いストロークに変わる。デモで聴いたものとは違う、迫力あるその演奏は見事だった。最初かわいい印象すら覚えたその曲は、軽快かつ壮大なバラードへと昇華したのだ。
 僕はステージに向かって最前列でそれを見ていた。
 隣にいた二十代くらいの女性が二人、
「素敵な曲」
「うん、ボーカルの彼かっこいいね」
 うっとりとステージに見入っていた。
 胸がいっぱいになる。自分の曲を自分のバンドと一緒にステージで演奏すること。透さんの夢であったろうそれが実現したのだ。
 ああ、この日までやってきてよかった。僕は間違っていなかったんだ。……感無量って言ったら大袈裟かな。でも少なくとも今日まで、彼の身体に負担をかけまいとしてきた努力は報われた。本当によかった。
 曲が大サビに入り、感慨が一層増したそのとき。
 ブブブ……と腰の携帯からメッセージ受信の振動を感じた。こんなときに……と思いながらも手が勝手に動き、それを開く。短い文だった。
『待ってる』
 優一から……だ。
 とたんにステージの光が眼を刺す。演奏が終わり、拍手が沸き起こった会場の熱気がはるか遠くに感じられた。優一が僕にくれた言葉。優一が……。

 その夜アパートに帰ると、興奮覚めやらぬ透さんはかなりハイな気分になっているようだった。
「高城ありがとっ! 全部お前のおかげだよっ」
「透さんの才能だよ。よかったね、なんかすごい好評だったよ、透さんの曲」
 僕も少なからず興奮気味だった。
「はははっ、そっかなー」
 相変わらず、子供みたいに無邪気に笑う。目にきらりと光るものを見る。心から満足できる最高の夜だった。
「高城がいると、俺なんでも出来そうな気がするよ。……このまま頂いちゃっていいかな」
 高まったテンションのまま冗談めかして、彼は僕をベッドに押し倒した。
「え……」
 一緒に暮らすということは当然こうなることもあり得た。だけどここに住むことを決めた日から、僕は彼と恋人ではなくなったのだと思っていた。彼もまた、大事な友人として僕と過ごすのだと暗黙のうちに了解してくれていると思っていた。でも、話し合ってもいないのにそんなこと、都合のいい思い込みだったのだろうか。
 彼の手が動く。迷いなく。僕の身体が意思に反してびくりと反応した。触れられる場所から生まれる気持ちよさをこの身体は覚えている。小さな刺激を上手に拾い上げ快感の波へと変えていく術を僕は覚えてしまったし、この肌も素直にそれを求めていた。だけど……もう。
「すげーいい触り心地、お前の肌」
 透さんの目にはまだステージで見せた輝きが残っていた。幸せそうな、その輝きが。
「んっ」
 ふいにキスをされる。だけどその唇にはもう奇妙な息苦しさしか感じない。首筋に唇を這わされそうになり、反射的に彼の頭を抑えた。
 ……何をしてきたのだろう、これまで僕は。
 ずっとずっと、心の中に好きな人がいたのに。
 たとえ報われなくても、この気持ちは変わるはずなどなかったのに。
「玲人」
 名前を呼ばれたとたん、不穏な騒めきが全身を一気に駆け巡った。
「い、やだ……っ」
 力の限り、僕は透さんを押し除けた。突き飛ばす勢いを込めたつもりだったが、実際は彼の身体が少し後ろに引いた程度だ。でもそれで充分だった。はっと、夢から覚めたように目を瞠る。その顔に驚きと悲しみが浮かんだのを、僕ははっきりと見てしまった。
「ごめん……」 
「…………」
 歪な形ではあっても、一緒に生活までしているのだ。彼がこういうことを望むのも自然かもしれない。……僕は、勝手だ。
「ごめん、透さん」
 それでもできない。もうできないんだ。
「……そっか。だよな」 
 彼はすっくと立ち上がり台所へ行くと、水道の蛇口へ頭を突っ込んだ。ジャバジャバと水を被りながら、なりふりかまわず頭を振る。
 一緒に生活してきたのは彼を助けるため。だけど、僕は本当に彼を助けているのだろうか? それともただ苦しめているのだろうか?
 何が正しいのか。どうするのが一番よかったのか。もうわからない。

33・別れ

 年が明け、冬休みをもらっていたバイトが再び始まった。
 小さなアパートの部屋には、使い古してしょぼくれた濃緑色のソファーがある。僕が拒絶を示したあの日から、透さんはそのソファーで眠るようになっていた。隣の襖続きの部屋のベッドで、僕は毎日眠り目を覚ます。 
 徐々に体調がよくなればいいとの願いも虚しく、透さんは年末以来、週に一度は浮腫による腹痛を訴えた。入院まではいかなかったが対症療法は欠かせない状態だ。当然ギターを手にしている様子もない。活気に沸いた年末のステージがまるで遠い昔のようにも思えた。
「まだ、仕事戻れねーな……」
 僕に聞こえないほどか弱い声で、ある日そうつぶやく声を聞いた。
 暮れから始めていた僕の仕事のほうはすっかり板についていた。慣れた作業をこなしていく日々。僕の体調だけは変わらず調子がよかった。
 夕刻ごろ、みゆきさんに電話をする。
「凛たちはどうしてる……?」 
「玲人、そろそろ帰ってくるんでしょ、友達の具合はまだよくならないの?」
「うん、もう少し。あの子たち元気でいるかな。電話もかけそびれてしまっててさ」
「凛たちなら元気よ」
「そう、よかった。あの……」
 ……優一は? と訊いてしまおうか。そう思ったが言葉は発しなかった。
「玲人、あなたは意外にも頑固なところがあるのね」
「え」
「でも、それも玲人なのかもね。自分が決めたとおりにやればいいと思うわ。でも忘れないでね。みんな待ってるから、あなたのこと」
 そう言ったみゆきさんは、電話口の向こうで静かに笑ってくれたようだった。僕の叔母はやはりどこまでも僕の味方なんだと感じた。
 空を見上げる。桃色の雲がゆっくりと、まだ青みを残す空を流れていく。移ろう季節の中で一人取り残されたような寂しさが胸を覆う。だけどみゆきさんも言ってくれたとおり、自分で決めたことは最後まで果たしたいと思う。冬が去り春がくる、その頃にはきっと……。

 まだ夢うつつの明け方頃。
「俺、そろそろ行くよ。ずっと欲しかったもの見つかったんだしな……お前もそうだろ……お互い、見つかったんだよな」
 耳元でそんな囁きを聞いた気がした。
 透さん? そんな寂しい声でしゃべらないでくれよ。
 きっとよくなるよ。僕がそばについてるから元気を出してほしい。
 うつろな意識のまま、かろうじてそうつぶやいた。意識がはっきりと覚醒し隣の部屋を見ると、彼はまだ眠っている。声を聞いた気がしたのは夢だったのか。僕は静かにアパートを出る。冬の空は高く晴れていた。

 夕方バイトが終わり駅まで歩く道の途中、珍しくばったりと見慣れた人物に会ってしまう。
「あれ、高城くん」
「あ、牧さん。この辺でしたっけ?」
「ああ、ちょっと近くのコンビニに。なに、バイトの帰り?」
「はい」
 小さなレジ袋を手にした彼が「ちょっと時間ある?」と訊いてきたのでうなずく。僕たちは駅のそばにある全国チェーンの珈琲ショップに入り、広い窓のある角の席に向かい合わせになって座った。
「いやさ、知ってると思うけど、あいつバンド辞めたじゃん? それで……」
 切り出されたひと言めから、僕は目をまたたかせた。
「えっ、今なんて」
「え、まさか聞いてないの? 神崎、この前俺んちに来てさ。辞めるって言ってきたんだよ」
「うそ……」
 彼とは毎日顔を合わせている。でもそんな話は聞いていない。
「変だな、高城くんに話してないなんて」
 透さん、いつの間に……。
 少し前、ステージの上で嬉しそうにオリジナル曲を演奏したあの日の表情。瞳のきらめき。楽しかった記憶がよみがえるのと同時に、透さんはそれを捨ててしまったのだと思うと、めまいがした。
 ショックを受けた僕は、拳をギュッと握りしめたまま彼を見据え、耳を傾けた。
「なんでもさ、引っ越すんだって? 今度、北海道へ」
「えっ」
 さらなる衝撃が僕を襲う。
 な、なんだよそれ。北海道ってつまり、彼の家族がいる場所……。今のアパートを出ていくってことだ。なんで何も話してくれないんだろう。意味がわからない。
「知らなかったです」
「まじか」
「あのっ、いつって言ってました?」
「今週中には出るって言ってたけど」
「そんなっ」
「あのさ、高城くんも一緒に行くんじゃないの?」
 そのとき、聞き憶えのある曲の歌い出しが無遠慮に店内を流れた。三回繰り返す『Time』。サイモン&ガーファンクルだ。焦燥感を掻き立てる、冬の空気のように乾いたその伴奏。それはまるで今僕が為すべきことを告げているような──
「牧さんっ、すみません、帰りますっ」
 目を丸くした彼におかまいもなく、僕は店を出て駆けだした。真冬の道をひたすら孤独に突き進むような『A Hazy Shade of Winter』の音の残響が、頭にうるさいほど渦巻き鳴り響く。息を切らして階段を駆け上り、アパートのドアを開ける。開けると──
「えっ」
 そこは僕の知らない部屋だった。
 壁沿いに固めて置かれていた荷物はすべて無くなり、ソファーもベッドも消えていた。ただ畳の部屋にぽつんと取り残された小さなテーブルがあるだけ。おそるおそるそこに近づくと、小さな手紙が目に留まる。

『突然でごめん。俺、家族のとこへ行くことにしたよ。アパートは大家に鍵渡して話もつけてるから、高城はそのまま自分の家に戻ってくれ。今までありがとう。 神崎』

 反射的に携帯を取り出し、彼の番号へかける。
 まさか、まさか出ないなんてこと、ないよね。
 不安が気持ちを埋め尽くして手が震えた。呼出し音が鳴った。かろうじて。
 ……よかった。
「はい」
「透さんっ!? 今どこ?」
 僕はもう部屋を飛び出し、階段を駆け下りていた。
「姉がさ、言ってくれたんだ、一緒に住もうって。悪かったな高城。ずっと一方的に世話になってばかりでさ……」
「どこにいるんだよ、透さんっ」
「最後に来ておきたくて……」
 返事もせずプチリと電話を切り、駅まで駆けた。迷いなく電車に飛び乗る。電話口の向こうに実際の音が聞こえたわけではない。けれど『最後に来ておきたくて』と彼が言った瞬間、あの駅の聞き慣れた発車サイン音が耳の奥で鳴った。そう、透さんがいる場所はたぶん──

 いつも待合せをしていた南改札。入口前の壁沿いに彼は立っていた。ぽつんと、どこか遠い場所へ視線を向けたまま。彼はゆっくり振り向いた。
「高城……」
「黙って行くなんて、ひどいよ、ひどいよっ、こんなの」
 この冬が終わるまでは共にいるはずじゃなかったのか。そう言ったのは透さんだったはずだ。僕はそれでいいと思い今までやってきた。そうしたかった。なのに、こんなに突然に勝手な行動を起こすなんて……。
 僕の訴えを彼は耳に入れたのか、入れなかったのか。
「……どう足掻いても敵わない相手ってさ、いるよな。きっと誰にでも」
 まるで放心したように、知らない遠い場所を見てつぶやく。
「俺にとってはあいつがそれだったんだよ。わかってたんだ、本当は。担任やってたときからさ。こいつにはきっと何をやっても敵わないんだろうって……本能的な、直感みたいなものかな」
 そう言って小さくため息を吐いたあと、彼はやっとまっすぐな視線を僕に向けた。
「学校休ませたり、バイトさせたり、一方的に助けてもらってばかりで、ほんと悪かったな」
「そんなことっ。僕がやりたくてやってるんだし。それより、バンドはどうするの? 仕事だってそのうちまた……あったかくなればまた……」
 頼りない口調の僕の言葉を遮り、透さんは「はっ」と吐き出すように短く笑った。
「もうやめようぜ、高城。もういいよ。もうさ。一緒に生活しててもどうなるってんだ。……本当はどこかで、一緒に暮らすうちに俺のことを選んでくれんじゃないかって期待しかけた。でもさ、無理だろそんなの。もういいさ。お前は帰れよ、あいつんとこに」
 毎日僕の心にあった想いを透さんはちゃんと知っていた。その上無意味に期待までさせてしまっていた。僕だってどうすればいいのかわからなかった。それでも、彼を助けたいと思いやってきた行動は決して嘘ではないのに。
「透さん、でも僕は……」
「もう十分、約束は果たしてもらったよ。お前に嘘までついたこんな俺にさ、お前は律儀に、お人好しに、ちゃんと果たしてくれたよ。これ以上卑屈な気分にさせないでくれ」
「そんな……、そんなつもりじゃ」
 透さんは、歪めた顔で僕をじっと見ていたが、ふいにその表情をゆるめる。そしてごそごそとポケットに手を入れ何かを取り出して、僕にそれを差し出す。
「あっちに行ってから送ろうと思ってた。でもお前が来たから今渡すよ。二人でライブ四、五回行けるくらいはあると思う。受け取ってくれ」
 二つ折にされた茶封筒。躊躇っている僕の手を透さんが掴み、強引にそれを握らせる。手に伝わる感触で何となく中身の予想がついたが、まさかと思い不思議な顔で僕は彼を見た。すると自嘲したような表情で説明される。
「ギター、手放したんだ」
「えっ」
「これで、咲野と二人で楽しんでくれよ。こんなことくらいしかできなくて悪いけど……お詫びの気持ちだ」
「ギターって、透さんの……」
「本当はもっと早くこうすべきだったよ。お前にはたくさん迷惑かけたし、あいつは礼すら受け取らなかった。このまま帰る訳にはいかないってわかってたんだけど……渡すタイミングなくて」 
 透さんが愛用のエレキを売った。僕と優一のために。音楽を辞めただけでなく思いのこもった大切なギターまで彼は手放した。透さんがそんなことをしていたなんて……。僕は手に握ったものに力を込め、とっさにそれを彼の前に差し出す。
「こんなの……だめだよ」
「いや、受け取ってくれ! なにがなんでも」
 僕の弱々しい言葉を強い言葉が遮った。そして勢いよく僕の手が掴んでいるそれを僕のズボンのポケットへとねじ込むようにして入れた。
「透さんっ」
「いいからっ」
 再び彼は顔を歪め、どこか苦しげに語り出す。
「俺はさ、高城。いないと思ってた家族をもらったんだよ、あいつに。そうだろ? なのに奴は最後まで礼すら受け取らず当然の顔してさ……俺がしたことをあれ以来責めてくることもしない」
 透さんは自分の右手をぎゅっと強く握りしめた。わずかに震えるその手を見つめ、僕は言葉を返すこともできない。ゆっくり彼の瞳を覗き込むと、真剣なその顔にはもう、決意しか浮かんでいなかった。
 僕たちは黙って互いの目を食い入るように見た。その目に浮かぶ真摯な光。これは透さんの思いなのだ。それはわかる。だけどもう、本当にこうするしか道はないのだろうか。僕の頭にはまだ迷いが渦巻く。自ずと声がこぼれた。
「北海道……そんな遠いとこ……会えなくなるよ」
 彼が行く場所を思い浮かべ小さく言うと、
「もちろん。もう連絡しないつもりだよ」
 淡々とした口調でそう返される。
「そんなっ」
「そのほうがいい。お互い、さ」
 もう、もう本当にお別れなのか。彼は行ってしまうのだろうか。そんな遠い場所へ。
「ま、向こうでまた音楽やれるかもしんねーし、働き口だって姉が無理のないように色々手を回してくれるらしくてさ」
「行っちゃう……の、本当に?」
「ああ」
 僕のポケットに収まった透さんの決意。それを感じながらもまだ不安が残っている。このまま彼を行かせていいのか、僕にできることは完全に終わったのか、これが正しいのかわからない。けれど……。
「透さん……本当に大丈夫? それでいいの、本当に?」
 腕を掴み、僕が払拭できない不安を口にすると、彼も僕の腕を強く掴んで言う。その声は、力強かった。
「ああ、もう大丈夫だよ」
 ゆっくりと、僕に届いた最後の決意の言葉。
「お前はもう自由だ。帰るべき場所へ帰って、これからは幸せになれよ」
「ごめんなさい。僕、何もできなくて……いっぱい苦しめた」
「よせよ。お前に会えて楽しかったことしかなかったぜ、俺は」
 そのときようやく笑った彼の顔が、またたく間に視界に滲んでしまった。僕の頬に流れるものに透さんはそっと手を当て、そして──
「……さよなら、高城」
 低い声を聞いた次の瞬間。躊躇いもないその一瞬に、彼は大股で歩き出し、するっと改札を通り抜けてしまった。
「あっ」
 手を伸ばす僕に振り向き、彼はさらに笑う。
「最後にここに来ておきたくてさ、……ははっ、じゃあな」
 あの見慣れた明るい笑顔。改札の向こう側、透さんは大きく手を振った。その力強さが、本当に決別の時が来てしまったことを僕に告げた。
「元気でっ、高城、元気でなっ」
 彼と過ごした日々が目の前を駆け巡る。
 楽しくて、胸が躍るようなおしゃべり。音楽と……、共に暮らしたアパートの部屋。
「透さんもっ、……元気でっ」
 思わず僕も叫んでいた。最後のその声は届いただろうか。あっけなくホームへと消えていった姿。もう二度と見られないのだろうか。本当にもう二度と会えないのだろうか。
 透さん……。
 周りを行き交う人々が、僕たちが見た最後の景色を、あっという間に日常の風景へと上書きしていった。あふれたものを拭うこともせず、僕は呆然とそこに立ち尽くす。
 去っていった人のこれからの人生が、ただ、ただ、幸せなものであるように、それだけを強く願った。どうか彼が「幸せな気持ち」を、これから何度も何度も噛みしめることができますように……。

 電車の窓の向こうに、花火みたいな光が見える。
 次々に彩りを変え、薄闇の空に輝きを放つ丸い形。彼と会うたびそこにあった大きな観覧車。通り過ぎた窓に映るその光の残像を、僕は指先でなぞりつぶやいた。
 
「さよなら……」

34・赤い花と蝶ネクタイ

 海風が止む。
 厚い雲間から陽の光が差し込む。
 海鳥の行く声がやんわりと耳に滲み、水平線の彼方から青と桃色の美しい色彩が翼を広げた。
 空は今、夕闇に移る前。
 移ろわない空気はどこか暖かくすら思える。
 もう一度耳を澄まそう。唯一無二の音を聴くために。
 今、僕がいるのは春隣はるとなり
 
 続けていたバイトは、引越しを理由に辞めた。復学予定の日にもまだ余裕があった。当面何もすることがなくなってしまった僕は、毎日叔母の仕事の手伝いに明け暮れていた。
 朝早く起きて、水回りの掃除をしたあと朝食の準備をする。一段落ついたらカフェのほうへ出て、店内の掃除と備品のチェックや準備などを済ませる。その後また隣の洋館に戻り皆と食卓を囲んでから、日中はリビングや二階の各自の部屋を簡単に掃除して整頓した。カフェではだいたいみゆきさんが店にいるから、僕は雑用や接客などの手伝いをした。店の片隅で叔母夫婦と昼食を共にしたのち、また手伝い中心に作業をして買い物に出かける。早めに夕飯の準備を済ませ、お風呂を沸かし、同居猫の世話もして、午後の時間はあっという間に過ぎていった。
 
 僕が茅ヶ崎の夕凪ハウスへ戻ってきたのは、一週間前。
 凛と凪々には、いつかのように泣きべそ顔で出迎えられるかと思っていたが、違っていた。
 凛が僕に言う。口先を少し尖らせて。
「あまり心配かけんなよ、玲人」
 彼は手を伸ばし、まるで子供を扱うように、まだ彼より少し背の高い僕の頭をくしゃっと撫でた。その声は大人のように落ち着いたものだった。ほんの少し見ない間になんという成長ぶりだろう。でもそれだけ、僕の振る舞いが彼にいろんなことを考えさせ悩ませてしまったのかもしれない。ごめんとありがとうという気持ちが同時に湧き起こった。
 凪々は、僕に話があると言って自分の部屋へ来るよう言いつけた。
「ずいぶん留守にして……ごめんな、凪々」
 扉を閉めてから僕が言うと、彼女は窓のほうを向きながらゆっくり語り始めた。
「お兄ちゃんにもいつか、私と凛より大切なものができるかもしれないって思うよ。恋人ができたり、いつか結婚だってするだろうし」
「凪々」
 それが少し厳しい口調であるのは伝わってきた。
「だけどね」
「……?」
「私たちが……親に捨てられた私たちが……、どうして、まっすぐここまでやってこれたと思ってる?」
 ずっと触れずにきた、兄弟の誰もが口にしなかったそこに、幼かったはずの妹が切り込んできた。そのことに僕は驚く。
「全部お兄ちゃんがいたから。そばにいつもお兄ちゃんがいてくれたからだよ。お兄ちゃん、自分が遊んだりするの全部後回しにして、いつも私たちのことかまってきてくれた。すごく一生懸命私たちのこと考えてくれた。……私も凛も、そのことよくわかってるの。だから、そんなお兄ちゃんを悲しませたくなくてここまでやってきたのよ。真面目に勉強したし、皆の言うこと聞いてきた……」
「凪々……」
 振り向いた妹の双眸から涙がこぼれている。彼女は訴える目で僕を見つめ、さらに告げた。
「病気のお友達を助けるために、一緒に暮らしてたって聞いた。……お兄ちゃん優しいから、反対しなかった。だけど……」
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「まだ、もう少しだけ一緒に、そばにいてよお兄ちゃん。ここで、私たちと一緒に暮らしてよ。私たちと、みゆきさんたちと、優一さんと……皆でいようよ。皆でいたいの。だって私の……家族なんだもん」
 その声は徐々に涙声になり、しゃくり上げて彼女は泣き始めた。
「凪々」
 この家に来たとき、ここに住む人たちとこれほどまでにひとつになれるなんて想像もしていなかった。彼女にとってここの皆は、まぎれもなく新しい家族だったんだ。家族そのものだったんだ。それを痛感させられた。きっと凛も……。
「凪々、ごめんな本当に。あのさ、お兄ちゃんずっといるから。もうどこにも行かない。ずっとここに皆と一緒にいるから。約束するよ」
 背の伸びた凪々。あとひと月ほどで彼女は中学二年生だ。僕が初めて彼女を見たとき。おずおずと伸ばした僕の手を握り返してはくれず、ただ恥ずかしそうに母親の後ろからこちらを見ていたっけ。あの日の僕の年齢に、彼女はなったんだな……。

 凛と凪々に勝手な行動で困らせてしまったことを謝り、二人といつもの関係を取り戻したのち、僕は一番迷惑をかけたみゆきさんに謝ろうと部屋を訪ねた。 
 みゆきさんは笑いながら、快活に「おかえり」と言ってくれた。以前と同じく詳細を問い尋ねることもなく、ただ、よかったわ本当に、を繰り返した。そして、そのあと彼女に告げられた言葉。
「あのね、玲人。優一なんだけど……」
 名前を言われただけでドキッと心臓が跳ねた。
「実はね、あいつ、今両親のとこへ行ってるのよ」
「えっ」
 意外な報告に、喉から驚きが飛び出す。
「両親のとこって……」
「ロンドンよ」
 そういえば、優一の両親は海外に住んでいるのだった。イギリスから電話をもらったあの暑い夏の日。ずっと以前の出来事が脳裏に浮かんだ。
「三日前、優一に電話があったの。ご両親から」
 なんでも急な用件だったらしいのよ、とみゆきさんは言う。
「……それでロンドンに?」
「もともとあいつがここに住むときに、呼び出されたらちゃんとご両親に会いに行くっていう約束があったのよ。どうせ大した用じゃないだろって優一はぼやいてたけど、約束は約束だから。観念して出かけていったわ」
「そう、だったんだ」
 ここへ足を踏み入れたとき、なんとなくではあったが気配がない気はしていた。でもまさか本当にいないだなんて。
 ……いつ戻ってくるんだろう。
「いつ戻るかははっきり言わなかったけど」
 疑問を声に出す間もなくみゆきさんが言った。
「あのね、玲人。玲人に、帰ってきたら話があるって言ってた」
「僕に……?」
「うん、なんかね。帰ったら、今度こそ玲人にちゃんと話したいことがあるって。そう伝えておいてくれって、言われたの」
『帰ったら、話したいことがある』
 それは、まさにあの夏の日、電話口で聞いた言葉だった。結局あれはなんだったのだろう。わからないまま日が過ぎてここまできたけれど、今度こそそれを聞けるのかな。再び温かなものが心に広がった。──彼は僕を見限ったりしていない。確信が胸を覆って、とくとくと鼓動が高まった。

 ピンポーン。
 ちょうど皆の食事が終わった頃、玄関で軽やかな呼び出し音が鳴り、その日、夕凪ハウスにめずらしい顔ぶれが揃った。早坂充のすぐ隣には風原瞳子、その隣には「クマさん」が立っていた。今まで三人で話し込んでいたらしい。

 テーブルに置かれた各自の飲み物は、智彦さんが用意した小洒落たノンアルコールのカクテルと珈琲。僕の前には、僕だけはなぜか、温かいミルクがマグカップに入って置かれていた。完全に子供扱いじゃないか。いつの間にこうなったのだろう。飲んだら眠くなりそうだ。
 三人は、優一が渡英してここにいないことを聞き残念そうな顔をしたが、すぐに気持ちを切り替え、今日は瞳子さんと婚約者のめでたい報告に来たのだと明るく語り始めた。
「そういうわけで、私たち来月には結婚式だから、皆に来てもらいたくて」
「わあ、行く行くーー!!」
 三ヶ月ほど前、恋人を背に許婚と立ち去った彼女を複雑な心境で見ていた凛と凪々は、今日はけろりと態度が違って二人に対し超歓迎ムードだった。まあ、それは当然だろう。皆が口々に二人を祝福し、必ず式に行くよと声をかける。
 瞳子さんはソファーに腰掛け、ちょうど隣のテーブルの向かいに座る僕に目配せをした。僕も彼女に答える。
「必ず伺います。瞳子さん」
「サキくんと隣の席用意しておくから」 
「……あ、はい」
 わずかに声のトーンが変わった僕に、彼女はくすくすと小さく笑った。
「私ね、玲人くんが思ってるより玲人くんのこと知ってるのよ」
「……は、え。そうなんですか」
「なにしろ実家までの往復の道程を、毎回延々と聞かされたからねぇ。玲人くんの話」
 それは優一に、という意味だよな。彼女は僕にだけ聞こえるように囁き声で言った。
「出会った日のこととか、色々」 
 出会った日……。危ない場面を助けてくれたあの日のことだろうか。
 すると彼女は思いがけないことを言う。
「玲ちゃんって呼ばれてたんでしょ? 頭に赤い花つけて。夕暮れの浜辺で、歌声がすごーくすごーく素敵で片時も目を離せなかったんですって? 私もそれを聞いて光景が目に浮かぶようだったわ」
 最初こそこそ話していたのに、彼女はもう顔を上げて皆に聞こえるのもおかまいなしに、そう語っていた。僕は慌てる。
「……えっ、な、なんの話ですか?」
 そのとき、みゆきさんが僕たちのほうを見ていて、ふと何かを思い立ったようにすっと無言で立ち上がった。彼女はリビングの脇にある本棚から一冊の写真アルバムを取り出してきて、どんっとテーブルの真ん中に置く。一目で特別仕様だとわかる臙脂色の布表紙でできた分厚いアルバムだ。
「なんなの? みゆきさん」
 凪々が問う。
「私も思い出したの、あの日のこと! そういや凛と凪々には写真見せてなかったわよね。玲人もまだちゃんと見てないでしょ?」
「なになに、何かのアルバム?」
「これ、プロのカメラマンに撮ってもらってるからきれいに写ってるわよー。見る?」
 みゆきさんは楽しげに笑いながら、ページをめくり始める。
「いつの写真?」
 凛が尋ねると、智彦さんもすこぶる愉快そうに答えた。
「あれだな。姉の結婚式の、二次会パーティーのな」
「へえーーっ」
 凛と凪々は口を揃えて言い、身を乗り出した。
「この日さ。ああ、思い出した。そうだ。今本人いないから言っちゃうけど、優一は玲人くんのことたしか『玲ちゃん』だと勘違いしてたんだっけな」
「え? なんですか、それっ」
 僕がぼやくと、智彦さんはなにやらニヤニヤたくらむような表情を作った。見ると、詳しい事情を知っているのか、早坂さんも瞳子さんも、僕を見ながらやたら意味深な微笑を見せている。なんだか、とても……とても……嫌な予感がした。
「あーーっ、見っけ!」
 そのとき、とある写真を指差して凛が叫んだ。
「これ、玲人だよね?」
 凛が広げて見せたそのページを凪々が覗く。
「うそー、ハイビスカス、赤い花つけてるっ、なにこの白いワンピース! 三人同じ格好してる! こっちにいるのはみゆきさんよね? 反対側の隣は誰? お兄ちゃんに顔そっくり」
 僕の頭の中で、楽しかった思い出だけが切り取られ、嫌な部分は見事に封印されていた、それ。今の今まで、都合よくきれいにそこだけ記憶が取り除かれていた。消去されたはずのそれは当然ながら事実として消えてなどおらず、今はっきりと光景がよみがえってしまった。
 写真を見なくてもわかる。みゆきさんに、二人と同じ衣装を着せられ、拒めずに仕方なく出た砂の上のステージ。蝶ネクタイをひん剥かれ、代わりに赤い花を頭につけられ、ワンピースに見えてしまいそうな大人用の生成りの長い丈のシャツを着せられたあの日の自分の姿。歌い終わったあと、周りの人から玲ちゃんと呼ばれたこと。三人で衣装を揃えたのは正解だったと、大ウケして笑い転げていたみゆきさん。不貞腐れた僕を必死になだめていた母。
「あの日さぁ、ドレスコードがあったんだよなぁ」
「ドレスコードってなに?」
 凪々が問うと、凛がすかさず「優一さんに訊けよ」と言ったが、今は不在だということを思い出し不平そうな顔をする。それを見て智彦さんが言った。
「服装のルールのことだよ。男は蝶ネクタイ、女は頭に花飾り、だったんだ。そうだよ、たしか歌のときだけ玲人くんに花つけたんだよなぁ、衣装揃えるために」
「そうだったわね。玲人嫌がってたけど、時間なくてそのまま出て歌ったのよね」
 みゆきさんが憎らしくも無邪気に笑う。……ああ。あの情けない姿を皆の前で知られてしまうとは。
 ──っていうか、あれ? 
「あの……優一も、あそこにいたってこと?」
 口から自然と疑問がこぼれた。みゆきさんがきょとんとした顔で答える。
「いたわよ、もちろん。優一と智くんはこの頃から家族ぐるみの仲だったんだもの。玲人が気付かないのも無理はないけど、優一はちゃんと式にも来てたのよ」
 彼女は僕に笑顔を作った。
「考えてみれば優一は、もうずいぶん前から知ってるのよねぇ。玲人のこと」
 たしかに。言われてみれば。
 僕も納得する。
 え、そんなことも気づかなかったのか、今まで。
 優一は僕のこと、中一の頃から知っていたということか。そんな昔から。
 ああ、それに──そうだ。もしみゆきさんと智彦さんが、姉夫婦と同じように日本で結婚式を挙げていたなら、僕と優一はそこで会い、もっと早くにこの事実に気づけていた──そういうことだったのか。でもそうはならなかった。
「ほんと、なんか色々思い出しちゃったわ。あの日たしか、玲人のこと女の子と思ってたのよね、優一」
 はっと彼女を見る。──今なんて。
「だって、いつだっけ。智くんの家で三人で食事したとき。あれは私の甥っ子よって言ったらやけに驚いてたもん。はっきり言わなかったけど、あの様子は絶対勘違いしてたに違いないわ」
「えっ、なにそれ」
「玲人あの頃まだ背が低くてさ、声変わり前だったしね。夕方で薄暗くて、おまけに前髪で眉毛も隠れてて、さらにあの衣装でしょ。たしかに見間違えても無理はなかったかも……。たぶん本人は隠しておきたかったのね。だから高校で話したことあったくせに、いつも玲人の話題に乗ってこなかったんだわ」
 みゆきさんは、僕がここに来た当時のことを思い出したみたいだ。高校で知り合いだと話せば、その話題を振られ突っ込まれるのが嫌だった、ということなのか。
 額に脂汗が滲んでくる。いくら誤解される要素が多かったとはいえ本当にそんな勘違いをされていたのか。……でも、言われてみれば、優一がこれまで僕を見てくすくす笑うことが多かったような気がする。なんでそんなに笑うんだろうって思ったことがある。
 だんっ──と、思わず手のひらでテーブルを叩いてしまった。
「ひどい……っ。なんで黙ってたんだ。そんな昔から知ってたこと。しかもそんな勘違いをしてたなんて。……あんまりだ」
 ショックだった。思わず不満が声に出る。
 周りがあからさまに大丈夫? という目で僕を見ている。でもそんななか、叔母夫婦の隣でじっとこちらを見ながら頭を抱えている人物がいた。彼は突然立ち上がり、皆の後ろをすいすい歩いて僕の前に来た。そして腕を軽く掴み、僕を立ち上がらせた。
「高城、この際だから、もうお前に全部説明させてもらうぞ」
「え、なに?」
「サキのことだよ。本人の了承は得てないけど、もう解禁ってことでいいと思うからさ」
 そう言って僕を引っ張る。早坂充──彼が優一に関してあらゆることを熟知した人物であることは、僕もよく知っている。
「みゆきさん、ちょっと隣の店貸してくれる? 高城と個人的に話したいことがあって」
「え、う、うん。いいけど……」
「んじゃ、あとでな」
 呆気にとられている皆に手を軽く上げると、彼はリビングのドアを開けた。腕をがっしり掴んだままの早坂充に、僕は誘導されていく。裏口の通路を抜け、勝手口から隣のカフェへと入り、店の奥の一席に腰を下ろされた。早坂さんは僕の向かいの席で居住まいを正し、真面目な顔をして僕を見据えた。
「高城、ついにきたぜ。このときが」
「え」
「俺の肩の荷を、すべて降ろせるときがさ」

35・恋した臆病者

 閉店した店内には、当然誰もいなかった。間接照明のみ点けた静かな空間。早坂さんはもぞりと動いて脚を組んだ。テーブルの端に置いてある名刺サイズの案内カードを抜き取って指に挟む。組んだ脚の上でそれを弄りながら語り始めた。
「あいつ、高城にちゃんと話したんだろ、自分の気持ち」
 どきっと胸が鳴り、顔が赤くなったのがわかった。
「え、あの……、はい」
 ふっと妙に見透かした感じの笑みを見せ、早坂さんはつぶやいた。
「そっか。とうとう言ったんだな、あいつ。……本当は、瞳子の件を春には終わらせ万全の計画だったはずが、狂ってしまってたからな。ずっとタイミング逃しっぱなしで……。でもついに、言ったんだな」
 瞳子の件──事情なんて知らない僕はずっと「彼女」だと思い込んでいた。
「あいつ、瞳子の兄貴にさ。好きな子がいても告白も交際もなしで真剣に取り組んで欲しいって言われてたんだ。前金で高額な報酬もらって、完遂する決意固めるために車まで買って。だからたとえ長引いたとしても約束破るわけにはいかなかったんだよ。当然俺の口からは何も言えなかったしな」
 僕が知る由もなかったこれまでの事情を、大きな息を吐き出しながらそう言った。瞳子さんのことが終わったら、ちゃんと気持ちを話してくれる気でいたんだ、優一は。
「……っていっても。気持ちのアピールだけはしてきたつもりらしいんだけどな、本人としては。なのにそこは全然伝わってなかったそうで」
「それは……」
 言葉が出なかった。たしかに、これまで尋常でないほど心配されたり、かまわれたりしてきた。でも同時に、僕に怒りをぶつけるような態度もとられてきたし、挙げ句に、一つの告白は嘘の形をとって僕に伝わった。あの日、アパートの前ではっきり告げられるまでは、僕にとって優一の気持ちは、永遠に答えのでない謎、不透明な靄の中だったんだ。ましてや「彼女」がいると思ってきたのに。
「さっきお前、なんでサキが昔から知ってたこと黙ってたんだろうって、ちょっと不満げな顔してたじゃん」
「え、あ、はい」
「もうなんかさ、あいつがやってきたこと全部裏目に出てしまいそうで、俺、黙ってられなくってさ」
「裏目に?」
「そ。まずさ、高城のこと女の子だって勘違いしてた件。なんで黙ってたか本っ当ーっにわかんない?」
「…………」
 それはさすがに僕に怒られそうだったから? そんな考えがとっさに浮かんだが、早坂さんが続けた言葉はそんな予想とはまったく違った。
「あれはつまり。あいつ惚れてたんだよ、その玲ちゃんに」
「えっ」
 思ってもいない理由だった。惚れてた? 惚れてたって……そんな。
「あの」
「ほぼ一目惚れだったらしい。いや、一聴き惚れ? とにかく顔も声も笑い方も全部あいつの好みど真ん中だったわけ。ずっと忘れられなかったみたいで……」
「……そ、んな」 
「それで何ヶ月かあとか。智彦さん家で、あれはみゆきさんの甥だって聞かされたとき、あいつ態度にこそ表してなかったけど相当ショック受けたはずなんだ」
「……そ、……」
 なんと言えばいいのか。ざらざらと何かで胸の中をかき混ぜられてるような、甘いような苦いような、すごく妙な気分だ。
「でも結局、男だと知ってからも好きになった」
 ごくりと唾を飲み込んでしまう。
「お前が思ってるよりあいつの気持ちは相当重いし、たとえ事情がなかったとしても軽く告ったり出来なかったろうな。それほど拗れてるし、思い詰め過ぎてる。もうかれこれ七年か、片想い歴。……なんかこう、今や変態の域に達してんじゃないかな」
 笑っているのか、嘆いているのか、推し測り難い表情で彼はそう言ってのけた。
「変態って……」
 そんな言葉を投げつけたこともあったけれど……。
「あいつの携帯の中身とかエゲツないぜ。これ教えると、さすがに奴の逆鱗に触れそうだけどな」
「携帯?」
「今度覗いてみろよ。どうせパスコードなんて高城の誕生日とか、そんなとこだろ。誰の写真がどんだけ入ってるか、わかるだろ」
「……そんな、まさか」
 本当だろうか。
「自分で確認してみろよ」 
「あのっ、優一は、早坂さんにはなんでも教えてたんだ……っ」
 焦ってそう言うしかなかった。
「そうだよ。あいつ高校んときから臆面もなく俺に協力させまくったからな。全部知ってるさ。何を考えて、どうやって高城の気を引こうとしてきたか」
 ……気を引くって。
「本を、貸してくれたりとか……?」
「それもそうだし。高城、駅の裏道、俺たちが本当に偶然あんな所にいたと思ってるか?」
「ま、さか……」
「あいつ絶対本当のこと言わないだろうけどさ。あの日のこともみゆきさんから智彦さん伝いにずいぶんあいつの耳に入ってたんだ。高城、みゆきさんにどこへ行くか詳しく教えてただろ。それがサキまでちゃんと届いてたんだよ。様子を見にいくとか言って追っかけてってさ。聞いたら、そのあと鎌倉へ追いかけていったこともあったらしい。どうせ偶然みたいな顔してお前に会ってたんだろ、あいつ」
 言われたことの衝撃が強過ぎた。情報量も多過ぎた。もはや僕のゆっくりとした思考回路では上手く整理ができなかった。目が回りそうだ。楽器を買った帰り道、あの日助けてもらったのは、僕が街に来ることをすでに聞いていて、つけていたということだろうか。それに、あの子猫を拾った日も?
「上手い具合に高城たちを助け出せたからなぁ、あんときは。名前訊いたりとか初めての素振りを俺もしてやって。あいつ高城にうまく近づけた気がしたんじゃないかな。ひどくご機嫌だったよ、あのあと」
「そんな……」
「まったくさあ、男が男をストーカーするのに付き合わされた俺の身にもなってくれってんだっ」
 彼は伸びをし、天井を見上げて派手に嘆いた。
「早坂さん、あの、優一は……」
「ギターのエフェクターでさ、あるじゃん? 少し遅れて音がくるやつ。何て言ったっけ」
「え」
 言いかけた言葉を遮り、想定外の方向からものを言われた。けれど、ごく自然に僕の口はそれに答えてしまう。
「……ディレイ、ですか」
「そ、ディレイ。高城ってさ、あれに似てるんだって」
 なんとなく、例えられた意図を察知して僕はつぶやく。
「反応が遅れてくる……ってことですか」
「よく分かってんじゃん。お前ってさ、なんかこう、じわじわとゆっくり物事を理解していくタイプだよな。サキに言われて俺も納得したんだけどさ」
 それはたしかに身に覚えがある。のんびりしているとか、ぼんやりしているとかも言われるし、つまりそれは頭の回転が鈍い、と言われているも同然なんだろう。だけど、この人たちに言われるのは気にならない。実際そうだと思うから。それほど僕を理解してくれている、そんな気がするから。
「高城と一緒に暮らせるって知ったとき、今度こそゆっくり焦らず高城のペースに合わせて近づかなきゃいけないって、そう思ったらしい。高校んときみたいにしつこくならないように、ってさ。ちゃんと告白できるまではせいぜいいい関係築いとけよって忠告してたけど、俺も。なのに気持ち拗らせておかしな行動ばっか取ってたんだろ、どうせ。また嫌われたみたいだとかぼやいてたからな。……まあ、瞳子の件が片付いたらなんとかなるだろうって、俺も高を括ってたんだけどさ。なのにまさか他の奴に取られてしまうなんて不手際、情けないにもほどがあるよな」
「そんな……」
 他の奴って、そんなことまで知ってたんだ、早坂さんは。その人とどうなったのかまで知っているんだろうか。
「ま、高城、あとは本人に聞けよ。俺が言えるのはここまでだ。言いたかったのはつまりだ、高城」
「はい」
「あいつが戻ってきたら、言ってやってくれよ、高城の気持ち。……お前も好きなんだろ、サキのこと」
「えっ……あ」
 早坂さんはプッと吹き出す。
「わっかりやすい奴だよな、お前。なのに当人は少しもわからないみたいで。落ち込んだり、悩んだり、回りくどいことやってさぁ。まあ、男女と違ってそこんとこかなり難しいのかなって、思ってたけどな」
「早坂さん……」
「ったく、あいつはさ」
 息を吐き出し言う。
「高城に関しては、ビビり屋のチキンなんだよ」
 やれやれといった面持ちで眼鏡の真ん中を押さえ込み、彼はさらにため息を吐いた。
 優一も悩んだり、苦しんだりしていた……。
 そんなこと、少しも気づかないでいたんだ、僕は。
「あ、あの……話すから、僕から、ちゃんと」 
 もしも、優一の気持ちを僕がもっと早く気づけていたなら、優一も、もっと僕にわかるような形で気持ちを表わしてくれていたなら、これまでの悩みはすべてなかったんだろうか。わからない。けれど今わかるのは、僕のほうこそちゃんと言葉で伝えなければいけないということ。
「頼りないなぁ、お前」
「そんなことないよ。ちゃんと言うから」
「あ、それと」
「……?」
 ふいに彼は、組んでいた脚を崩しテーブルに肘を付いた。僕に身を乗り出してささやく。
「お前覚えてるか、いつか本屋で俺が言ったこと」
「え……」
「高校んときさ。あれ、なかなかナイスな忠告だったろ?」
 それはすっきりとした、しかし彼らしい、どこか不敵な表情だった。
 ──臆病者で、変態で、ストーカー。
 あの言葉をこの人が僕に吐いた理由を、今となっては理解できないわけではない。
「お前あの頃、サキをいかにもかっこいい最高の先輩だって、そんな顔して見てたからな。公平さを保つために、ここはあいつの本性を教えてやらないとまずいと思ったわけ」
 そう言って、遠慮もなく肩を揺らし愉快げに笑う。
 どこまでも優一を扱き下ろして楽しむ癖が抜けないらしい早坂充。優一のほうも彼には毒舌だし、お互いさまなのだろう。
 
 リビングに戻ると、皆は消えた僕たちのことなど気にも留めておらず、普通に会話をして盛り上がっていた。
「なに秘密会議なんかしてんの、玲人たちったら」
 みゆきさんがそう言って笑いはしたが、それ以上詮索してくることもなく、凛と凪々も智彦さんと一緒にアルバムを開き、写真を指差したりして会話をしていた。そこへ、瞳子さんが急にむくりと立ち上がり、こちらに近づいてきた。僕の隣にすとんっと腰を下ろす。
「……玲人くん、私ね。心残りがひとつあるんだ。今日最後にそれをすっきりさせてもらうね、ごめん」
 彼女は談笑を続けている皆に向かい、言葉を放った。
「えっと……」
 皆というより、それはみゆきさんと智彦さんに向けられているようだ。
「ここって、同居人同士が交際してはいけないルールあるじゃない?」
 みゆきさんが目を丸くしてスローな動作でうなずく。
「あれ、なんとかならないかしら。どっちかが出ていくなんて酷だと思うんだもん。それがあるからいつまで経っても、本当に好きな相手に告白できない困った人がいるの」
「え……」
「こっち側のダイニングにね」
 瞳子さんの指先がひょこりとキッチン方向へ動く。
「…………」
 誰しもが沈黙した。誰のことだろう、と皆一瞬思ったに違いない。けれど該当する人物なんてもう限られているじゃないか。瞳子さんは全部知っている。知っていたんだ、最初から。
「いや、そろそろお暇しよう、俺たち」
 早坂さんが沈黙を破って立ち上がり、いそいそと帰り支度を始めた。クマさんの肩にぽんと合図を送ると、彼も弾かれたように瞳子さんの肩を抱いて、去る気配を見せた。
 そのときだった。
 はっと顔を上げ、確信に満ちた叔母の声がリビングに響いた。
「わかっちゃった。あ、そういうことなのね。やだ……」
 みゆきさんは赤くなり、両手で自らの口を塞いだ。
 僕が呆気に取られていると、畳み掛けるように同じ意味の声が続く。
「俺……も。わかった、な」と、智彦さん。
 それを見て凪々が、
「えっ、なに……私わかんない……」
 そう言いながらも両頬を手で覆っている。
「あのさ、誰が誰を好きなのかってことだよね。それって……え……」
 凛だけは考えがまとまりかけたところらしい。でもそんなこと考えなくていい。瞳子さんはルールのことを持ち出したけれど、そこが問題じゃないんだ。知られるわけにはいかない。僕がただただ焦っていると、みゆきさんが未成年二人を気遣ったのか慌てて何かを話しかけてごまかし始めた。頼むよ……本当。
「あら、みんな鋭いのね。やっぱりあの人の態度、バレバレだったってことなのかな」
 うふふ、と笑い出し、調子に乗ってまた何か言いかけた瞳子さんを、早坂さんと婚約者がなだめるように慌ててリビングから連れ出した。彼女は不服そうに頬を膨らませていたがすぐに観念したようだ。三人は連れ立って玄関を出ていき、その日、すべてがお開きとなった。
「やれやれ、今日は賑やかな来客だったなぁ」
 智彦さんが伸びをしながらそう言うと場の空気が切り替わる。みゆきさんがグラスなどを片づけ始め、凪々もそれを手伝い、二人は笑いながら会話を始めた。
 誰も僕を見ない。
 どくどく……と、心臓が速めの脈を打つ。
 気づいてしまったというさっきの言葉。どうしたらいいんだろう。
「そろそろ、寝るか」
 智彦さんが皆に声をかけると、みゆきさんがすっと近づいてきて僕の耳にささやくように言った。
「優一が帰ってきたら、検討しようかな。ルールの件」
 顔を赤らめて彼女を見たら、その口端には意味深な笑みが浮かんだ。

 優一が帰宅したのは、それから三日後のことだった。

36・帰国

「今日、帰ってくるんだって」
 朝ごはんは休日の恒例で皆で揃って食べている。といっても、ここをしばらく離れていた僕には久しぶりだ。大きなリビングの窓は開け放たれ、まだ春先だというのにずいぶん暖かな日和だった。今朝、優一からの電話をみゆきさんが受けて、彼女が彼の帰宅を告げたそのときから、僕の心臓はやたらとうるさい。
 席を立ち、部屋に戻ろうとする僕をみゆきさんが呼び止めた。
「玲人、もうひとつ、優一から伝言があるの」
「え、伝言?」
「うん、あのね。ここに戻る前に寄りたいとこがあるんだって。あとで場所をメールで伝えるから来てほしいみたいよ」
「え、僕にってこと?」
「うん、そうみたい」
 その会話を聞いていた智彦さんと凛、凪々たちは、なんだろう……やたらギョロっとした目で僕を見ている。いつもの顔なのに瞳孔だけがやたら大きく開いてる奇妙な表情だ。もしかして、優一と僕の動向が気になるのだろうか。まあ、そうだろうな。注目されている感じがなんだか落ち着かない。
 階段を上がるタイミングでピョコンと音がして携帯を見ると、メッセージ画面に一言、
「14:30、高校の駅、改札前」
 とあった。
 優一から直接送信された文字。どれくらいぶりだろう。ドキンと鳴った胸に、じわりと甘い痛みが広がった。
 午後二時を回った頃、僕は家を出た。朝と同じく、靴を履くときにまた瞳の大きさを一、五倍増しにした皆の視線にさらされてしまった。僕が気にし過ぎなだけかもしれないけれど、凛と凪々の二人は口元を手で隠し、こそこそ何かをしゃべっている。やっぱり居心地がいいとは……言えない。
 ともあれ、電車を降りると改札が見え、僕の心臓は再び鼓動を速めた。
 もうすぐ会える。優一に。
 久しぶりに来る高校に通った藤沢駅。どうしてこの駅なんだろう。やっと帰国したというのに家に戻る前の用事なんていったいなんだろう。あれこれ考えながら、カードを取り出し改札を出たとき。
「あ……」
 人けは意外にもまばらですぐに気づいた。銀色の旅行用スーツケースと襟からフードを出した黒のダウンジャケットにジーンズ。そして白いスニーカー。優一も僕を見つけて、手を上げた。
「呼びつけてごめん」
 僕は黙って首を横に振る。
「すぐ近くにある店なんだ」
 短い言葉に、今度は首を縦に振り、階段を降りて、優一が進む方向へ並んで歩き始める。足を踏み出すたび、吹いているかどうかもわからないかすかな風が優一の髪の匂いを運ぶ。懐かしく恋しいその香りに、歩いている間ずっと甘い軋みが胸にあった。
 五分ほど歩き到着した場所は、駅にほど近いショッピングビルの五階、小さなCDショップだった。
「あれ」
 店の入り口から少しずれた脇、彼が示したほうに目を向けると、特設コーナーが設けられていた。よく見ればかなり凝って作られているはずなのに、その先が行き止まりになっているせいか不思議と目立たないのがちょっともったいない。そこに大きなポップとモノトーンの色使いで名前を掲げられていたのは──『DEAL BRAKER』。
「あ」
「もうかれこれ三年かな。ここ、まだ全然変わってなくてさ」
 壁一面を覆うほど大きな黒く塗り固められたパネルに、埋め尽くすように白い文字が書き込まれている。ほぼ等身大に近いメンバーの写真、過去のアルバムすべてが丁寧に並べられた上、今にも熱がこぼれそうな解説が星やハート形の小さなポップにびっしり書き込まれ、各アルバムの脇に取り付けられていた。そして何より目を引くのは、中央にどんっと貼り付けられた四角い紙。本人たちのサイン入りの色紙だ。これは……、すごい。
 知名度はそこそこあるけれど、ここまで大々的に展開されているなんてさすがに驚きだった。
「高三のとき偶然見つけたんだよ。ここの店長が、彼らが小さなライブハウスで演ってた頃の知り合いらしくてさ。この店で買ったんだ、俺」
 優一がそう言って手に取ったのは、いつかミニの車内で流したあの曲が収められている一枚だった。
「すぐ近くにこんなとこあったなんて、知らなかった」
「脇目もふらず電車に乗り込んでたからな、お前はいつも。たぶん知らないんだろうって思ってた」
 さりげなくそう言われたけれど、それは毎日僕が電車に乗るところを見ていたということだ。
 フロアの隅にある店、休日午後なのにやたらと静かだった。客などいるのだろうか。すぐ隣は同じく人けの少ないカフェだ。真新しいベージュ色の壁に上品な木目の椅子が並んだその店内へ、「入ろうか」と言った優一について入る。言葉もなく僕たちは窓辺の席へ腰掛けた。
 いつも家の大きなテーブルで向かい合って食事をしていたのに、久しぶりだからか、場所が違うからか、顔を向き合わせるのが新鮮でわずかな緊張が否めない。
 水を運んできた店員に、メニューをちらっと見てから「ブレンド二つ」と優一が注文を告げた。店内を眺めたり、メニューへ目をやったりしていると間もなくそれはやってきて、僕たちの目の前に置かれた。優一は珈琲カップに手をかけたまま黙りこむ。そして、
「……おかえり、玲人」
 やっと口を開いた優一が発したのは、遠慮がちな挨拶だった。今日帰国したのは優一のほうなのに。僕も静かに答える。
「ただいま」
「もう、いいのか?」
 なんのことかはわかっている。
「うん、もう終わったんだ」
「そうか……」
 窓の外へ視線を移した優一の、薄い色素の髪の毛に午後の陽が当たり、その輪郭が光っている。長い前髪から覗く瞳と整った鼻梁。見慣れた彼のラインに目をやりながら、僕もまた黙り込んだ。
「覚えてるか」
「え」
「いつか俺があっちから電話したとき、高校んときに、お前に言ったこと」
『──帰ったら話がある』
「……うん。覚えてるよ」
「本を受け取ったあと、今の場所へ連れてこようと思ってたんだ。お前の反応が見たくて」
「用事って、これ……だったんだ」
 少し拍子抜けした。けれど穴場を知れたのは嬉しくもあったからただ黙っていると、優一はわずかに眉をひそめた。
「いや、……そうじゃない」
 幾ばくか言い淀むその雰囲気が、あのときと同じく僕の鼓動を速めていく。優一の目を覗いてみると、彼の瞳にも僕が映っていた。けれどその視線はすぐにカップのある手元へと落ちた。僕はテーブルの下で手をぎゅっと握り言葉を待つ。
「帰ったら伝えようと思ってたんだ。玲人のこと昔から知ってたことと、俺の気持ちを全部」
「…………」
「お前のことが好きだって……告白するつもりだった」
 左胸がきゅうと音を立てた。
 暑い夏の空気が記憶の中に一気になだれ込んでくる。あの日僕の心に浮かんだ根拠のない期待。まだ形にならなかった想い。
「お前に本を返されて、嫌われたって思ったよ。しつこいのがバレて、もうダメなのかって」
 約束してもいない次の本をお決まりのように手渡されていた数ヶ月。
 優一は苦笑してため息を吐いた。
「お前、電話に一度も出てくれなかったよな。何度もかけたけど……」
「…………」ただ心臓が鳴った。
「直接会って話そうとしたこともあった。でも、しつこいの上塗りで、今度こそ本当にお前に嫌われたらお終いだなって……」
 あの頃の気持ちを苦しげに吐き出す優一に、僕は何も言えなかった。
「だから、一緒に暮らせるチャンスに賭けようと思ったんだ。なのにお前、春になっても来なくてさ。本に書いたメモを見てるから、俺と暮らすのが嫌で来ないんだろうって……ああ、やっぱめちゃくちゃ嫌われてんなって……」
 あの暗号のことだ。僕があれを見て避けていると思ってたんだ、優一は。ひどく落ち込んでいた時期っていうのは、その頃のことなんだろうか。
 声を詰まらせて、まだ下を向いたままの優一は固く目を閉じ、さらに絞り出すように言う。
「めいっぱい落ち込んだよ。次の年に来るって知るまでは。だからお前が来たら今度こそ失敗できないって思ってた」
 心臓の音を忙しく鳴らし耳を傾けている僕に、次に届いた声はかすかに震えていた。
「なのに、お前のこと何度も傷つけたよな、俺。……嫉妬したんだ。彼女がいたってことにも、お前とあいつの仲にも」
「優一……」
「飛行機に乗ってから、後悔したよ。強引に連れ戻そうとしたのも失敗だったかなって」
 鼓動が収まり、代わりに小さな疼きが生まれた。
「あのとき言ってくれたことも、失敗……だった?」
 涙声になってたらどうしよう。手が震えた。
「玲人」
 顔を上げた優一が僕を覗き込む。さっきとは別の意味で心臓が速くなる。あれから僕のすべてを支え続けてくれた言葉。失敗……なんて。
「違う。言ったことは全部本当で……」
 机が揺れて、カチャリと珈琲カップが鳴る。
「本気だよ。お前が好きなんだ」
「…………」
「ただ、嫌われてもおかしくないことを……したと思ってる」
 低く、掠れた声。
「今さらだけど……ごめん、玲人」
「優一」
 こんなふうに面と向かって謝られるなんて思いもしなかった。この人がこんなに正直になってくれるなんて。いたたまれない気持ちに襲われる。けれど何かが心の底で強く弾け、僕を突き動かした。
「嫌いなわけない。ずっと好きだよ。優一のこと」
「れい……」
「ずっと……優一だけが……好きなんだ」
「…………」
 僕を覗きこむ優一の瞳に吸い込まれそうだった。
「高校のとき、もし告白されてたら……舞い上がってたかもしれない」
「本当に?」
「でも、本気で好きになったのは小説の話をしてくれたときだよ。嬉しかったんだ。あんなふうに言われたことなくて……」
 瞳孔が開いたあと優一はうつむき、片手で顔を覆ってしまった。嗚咽にも似た吐息を、ゆっくり、ゆっくり吐き出したのがわかった。
 胸の中に色んなものが詰まっているせいで、苦い液体はいつも以上に喉に入れる気にならない。でも、嬉しかった。やっと好きな人に気持ちを伝えられたんだ。
「あの、すみません、ホットミルク下さい。甘いやつ」
「はい、ただいまお持ちいたします」
 とっさに追加注文をしてしまい、ふと向かいを見ると、顔を上げた優一の口元に小さな笑みが浮かんでいた。テーブルに並んだ水の入った二つのグラスが、傾きを増した午後の陽にきらりと反射した。
 
「あれ、君、いつかの大人買い高校生じゃないか?」
 店を出て再び例のコーナーを通りかけたときCDショップの店員らしき人が出てきて言った。胸の名札には「店長」と書かれている。
「あれ、あのときの」
「なかなかいい男がいるから誰かと思ったよ。やっぱり君か」
「覚えられてたんですね」
「当たり前だろ。特にファンってわけでもないのにアルバム十枚一気買いする学生なんて、そうはいないからな。ディーブレ聴いてるかい?」
「ええ、まあ」
 バンドのメンバーと知り合いだったという店長さんは、薄く生やした髭を手で撫でながら、優一を見て目を細めた。そして、
「で、あれから、ディーブレのファンだという好きな子に、これをネタに近づけたのかな」
 にまりと笑う。
 え……。
「それを言いますかっ」
 優一が慌てる。
「いいじゃないか。好きな子の興味を引くため陰でいじらしい努力。いやあ、青春だねぇ」
 さらに髭を撫でつけながら、いいねぇ、若いってのは……と、うなるように首を捻る。優一がアルバムを持った経緯をこんな形で知ってしまうとは。僕が照れたふうの優一をじっと見ていると、店長さんはさらに何かに気づいたようだった。
「お友達、君さ」
 僕のことらしい。「はいっ」と慌てると、
「君、ひょっとして……ギターやるのかな」
 と目を細めた。
「いや、左手だけがずいぶん深爪になってるから」
 返答に迷っていると、そんなことを付け加えられる。
 すごい観察力だ。
「あ、はい。やります。アコギですけど」
「そっか、そっかー。君も好きなのかな?」
 そう言って、派手な展開のほうを指差した。
「はい、ファンなんです。でもここ全然気づかなかったです」
 昔の話やサインをもらったことなど、たくさん聞きたいことがあった。でも今は、優一が僕のために取ってくれた行動のことで胸がいっぱいで、何も言葉が出なかった。
「これね、実は今日で最後なんだよ」
「えっ」
 その言葉に僕たちの声がぴったりハモる。 
 別にもう人気がないからとか、もちろんそんな理由じゃなく、別の支店へパネルごと移動することになってね、と店長さんは笑った。渾身の力作な上に貴重なサイン展示でもあるので、県外からもずいぶん貸出を希望されていたらしい。明日からは都内にある某支店の自慢コーナーになるのだと、またもや彼は髭を撫でながら嬉しげに語ってくれた。
「だから今日が最後ってわけ。これも何かの縁だろうね」
「……あのっ、写真撮ってもいいですか?」
 僕がとっさに声をかけ、ああ、もちろん、と言った彼の前でスマホを取り出し掲げると、
「撮ってあげるよ。二人ともここに並んで」
 そう言って、僕と優一の身体をくっつけパネルの脇へと押した。
「二人ともいい顔してるね。いやあ、青春だねぇ」
 口癖なのだろうか。そう言った次の瞬間、軽快なシャッター音がして、僕と優一の初めてのツーショットが、ディーブレのロゴとともに景色から切り取られた。
 
 駅の階段を上る前、時刻を見ると六時半を回っていた。
 この季節特有の気温差は剥き出しになり、さっきから冷たいを通り越して痛いほどの冷気を感じ始めていた。今朝からの暖かさが嘘のようだ。この寒さ、もしかして雪でも降るのだろうか。
「早く戻らなきゃな」
 白い息とともに吐かれた優一の言葉に、家で帰りを待ち侘びている人たちの顔が即座に浮かぶ。僕のイメージの中で彼らの目はひときわ大きくギョロリと輝いた。
「優一……」
「ん?」
「帰りたくないんだ」
「え」
「まだ帰りたくない。もっと二人でいたい」
 瞠目した優一にかまわず、僕はその指先に自分の指先を絡めた。
 数秒ほどの時間が経過して、ぽつりと優一が言った。
「いいところがあるんだ。案内するよ」

37・音楽

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小説:鍵かけ公開ページ
23・彼が欲しいもの  座れよ、と促され、畳の上に置かれた小さなテーブルの前に腰を下ろす。透さんはビールを飲んでいたらしく、台の上には凹んだ空缶が二、三本転がっ…
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