夏へ続く道 Ⅰ (前編)

夏へ続く道 Ⅰ (前編)

2022年11月25日

※この話は、「潮風のアルペジオ」の番外編です。本編を読んだ人のみ楽しめる内容になっています。
              
         

 Ⅰ(前編)

1・歌声 


 
 てぃんさぐぬ花や
 爪先ちみさちみてぃ
 うやぬゆしぐとぅや
 ちむに染みり
 
 耳の上に赤い花を飾り、その子は歌っていた。右隣には母親らしき女性、反対側には俺の友人の恋人がいる。三人でどこか懐かしい沖縄地方の唄を歌っているのだ。夕暮れの浜辺。砂浜のステージで。その歌声と笑顔に俺は完全に魅了され、時間が経つのも忘れてしまった。それは、中学二年の春だった。
 
「優一、ドレスコードって分かるか?」
「え、ああ。分かるよ」
「男は蝶ネクタイ。女は花の髪飾りってことになってるからな。蝶ネクタイ持ってるか?」
「いや、持ってない」
「だったらこれ使え、ほら」
 式のあと智彦の家に立ち寄り、一緒に身支度をする。俺より十個も上の幼馴染み、渚沢智彦なぎさわともひこ。彼には六つ上の姉がいて、この日は俺も時々顔を合わせる彼女──芹香せりかさんの結婚式があった。新婚夫婦は二人揃って自由人といおうか、型にはまらない開放的な人間だ。渚沢家は資産家で経済的なゆとり故に豪勢な催しはいくらでもできそうだが、新郎側の意向なのか。二次会は、式が終わった一時間後から近くの浜辺で、簡素な海の家を借り切って行われる。
 
 会場に着くと、辺り一面に南国風の装飾が品よく施され、海の家はちょっとしたパーティー会場に仕上がっていた。ハワイと沖縄の音楽を融合させたメロディーが静かに流れ、柵の上に取り付けた松明の明かりが、日暮とともに輝きを増して揺らめいている。招かれた友人知人の中には、式に参加していない者もいるという。新婚夫婦の気取らない雰囲気が、この集まりを笑いの絶えないリラックスした場所にしていた。
 余興が始まる。音楽好きの夫婦に合わせたのか、歌の出し物が多かった。参加者たちにアルコールがほどよく回った頃披露されたそれは、「てぃんさぐぬ花」という歌だと司会者が告げた。とたんに柔らかな旋律が辺りを包む。
 並べられたテーブルの一番奥の隅にいた俺から、ステージで歌う三人はよく見えた。奏でられる三線と共にギターまで加わる厚みのある伴奏だったが、その音に埋もれることなく、その子の声はよく響いていた。埋もれるどころか、なめらかに流れる声に、なぜかとても心惹かれた。

 てぃんぶし
 みば読まりしが
 ……

 曲の二番をその子がソロで歌ったとき、はっと何かに頭の芯を掴まれた。今まで感じたことのない感覚だ。徐々に胸の締めつけを覚え始め戸惑った。軽く咳払いをする。
 なんだ……この感じ。
 透明感のある美しい声。だがそれは、よくある女子の高いトーンより少し落ち着いた……アルトの域? 密度が高く、芯のある安定した響きだ。人前でも臆することなく、流暢に音を紡ぐその歌声に、誰もが心を奪われていた。俺の中にも特別なものとして入ってきた。曲に思い入れがあるわけではない。それどころか、音楽自体たいしてこだわりもない。まして歌声などに深く聴き入ったことなど一度もない。なのに数分の間、片時も赤い花の子から目を離すことができなかった。
 拍手とともにステージが終わる。すべてを歌い終えたその子は、今までの自信に満ちた表情とは打って変わり、照れたようにはにかんで笑った。「れいちゃん、最高!」などと周りの大人に声を掛けられてはさらに赤くなり、なぜか不服げに頬を膨らませ文句まで言っている。かと思えば、また幸せそうに照れて笑う。その微笑みは、周りを囲む人たちに惜しげもなく振り撒かれていた。
 ──なんてかわいいんだ。
 シャイな笑顔。前髪に隠れがちな瞳に、優しい光を感じる。才能があるのに、鼻高になるタイプとは真逆そうだ。近づいて声をかけるなんて発想すら浮かばない。ただ見惚れた。なんだろう。存在そのものが愛しい、この感じ。
 好きだ……。
 恋をした自覚があった。
 
「サキーっ、今から前田んちでゲームやるんだけど来るだろ? お前も」
「んー、ああ、今日はやめとくよ」
「なんでっ?」
「ちょっと用ができてさ。また今度な」
「そっか、残念。んじゃあな」
 いつも連む数人と手を振って別れ、一人で帰路につく。智彦の家で本を借りる約束をしていた。早くそれを手にしたくてつい誘いを断ってしまった。
 中学二年なんて、ガキの真っ盛りだ。俺自身、そして周囲を見てもそう感じる。頭の悪い人間が多い。友達はいい。それが大人ならどうしようもない。知識と理屈ばかり脳みそに詰め込んで、それを振りかざし生きている。教師などはいい例で、能書きを垂れる割に本物の論理思考ができないらしい。事あるごとに小さな器を巨大化して見せたがり一端の知識人を気取る勘違い人間だ。そんな奴がやたらと多い。……なんて。知ったような口を聞く自分も自分だが。
 気に食わない大人に、理論武装で何を言ったところで所詮ガキの遠吠えに過ぎない。早く大人になりたい。マニュアル人間やステレオタイプの大人が嫌いだ。真に頭のいい人間が考えるロジックのその先を、いち早くそれを掴める人間になりたい。本を読むことくらいしか、今はそれに届くものがない。せいぜいガキを楽しもう──。毎日、自らにそう言い聞かせ時間が過ぎる。親や教師、そして自分にすら。周囲のあらゆるものに対して抱く冷めた感情は、心の隅に深く根を張ったまま動かなかった。
 
 智彦の家にお邪魔するのは度々のことだ。互いの親が旧知の親友で家族同士の交流は頻繁だった。そのせいで、歳が離れていたにも拘らず、彼とは幼い頃から兄弟のように時間を過ごしてきた。
「優一、お前やっぱ高校は地元の学校なんだろ」
 リビングでわが家とばかりに寛いでいると、智彦がふいに訊いた。
「え、ああ。なんで?」
「いや、まあ、あそこは県内でも有名な進学校だしな。お前ならもっといいとこ行く手もあるだろうけど、うん、妥当な選択か」
「あのさ。俺、別に一流企業へ就職して出世街道とか進む気ないし。将来はスキル身につけてフリーで何かやるか、手早く金貯めて起業するか、そんなとこだから。高校のレベルなんて充分過ぎるよ。それにあそこ、図書室が充実してるらしくて気に入ってんだよね」
 借りた本を適当にめくりながら答える。
 智彦が目をぱちくりさせた。
「ほう、さすがだな。よく考えてるっていうか、自由な発想というか、んーおじさん譲りかな」
「まあ、親父の影響もあるけど。智彦だって大学行きながらプログラミング勉強してそのままフリーになったじゃん。俺もそんな感じでやりたい」
「はあ。中学生のくせにしっかりしてんなぁ。しかも本、本って……たまには女の子の話とかないのか」
 とたんににんまり顔を突きつけてくる智彦を一瞥し、本をパタンと閉じた。今日は相手をする気もない。玄関を出るとき、「悪いけどそれ、一週間で返して欲しいんだ」と言われ、「そんなにかかんないよ」と返し彼の家を出た。

 友人達はたまに女子の話題で盛り上がる。俺の場合、女の子に好意を抱くまではいかない。クラスには頭の悪い奴が多いが女子はそこへ拍車をかけている。そのせいもある。ただ、俺は俺なりに、飛びきりきれいな子を見ると目を奪われるし、人並みに気になったりもする。やっぱり決め手は見た目。性格だって大事だが女の子は一にも二にも顔だ、と思っている。好みの顔っていうのは理屈抜きに心を鷲掴みにする。
 ──顔が好みだったのだ。
 といえばあまりに短絡的で聞こえは悪い。しかし実際そうだった。
 砂上のステージで歌うあの子を見たとき、これほど惹かれたのは、やっぱり顔が『好み』だったからに違いない。
 あれから思い出すたび、あの子と近づきたい気持ちは強くなった。今のところわかるのは、智彦の恋人藤川みゆきさんの親戚であること。葉山町に住んでいるらしいこと。それくらいだ。あの、ほの紅い唇で俺の名前を呼ばせてみたい。あわよくば手を繋いでみたい、触れてみたい。キスなんてしたら……どんな感じだろう。つい妄想が捗ってしまい、近頃読書スピードはめっきり落ちていた。
 鎌倉から電車に十五分程度乗り、藤沢で降りる。海方向に夕焼けを見るたびあの姿が浮かぶ。柔らかな、照れた笑顔と歌声が……。こんなんじゃ、借りた本を一週間で返せるか不安だ。
 勉強。部活。友達。読書。すべて卒なくこなしながら、ぼんやりする日も多かった。
 一週間後の金曜日。あやうく期限を過ぎそうになり、夕方慌てて家を出る。数ページ分の未読が残っていたので、多少時間はかかるが藤沢から江ノ電に乗り、車内で読みながら行くことにした。今日中に返せばなんとかセーフだろう。三十分後、読破した五百ページの本をバッグに押し込み、終着駅の鎌倉で降りる。
 本を返してまた借りた。わが家もそうだが、智彦の家には知らない本が山ほどあった。人がいい智彦は、どれほど大事な本でも気前よく俺に貸してくれる。俺なら、購入した本を人に貸すのは躊躇うけどな。例え友人であっても、だ。
 
 結婚式があった春から数ヶ月が経っていた。
 その日久々に智彦の家を訪れると、彼は交際相手の藤川みゆきを家に招いていた。彼女とは面識があったが、まずいタイミングで来てしまった。さすがに恋人同士の時間を邪魔する気は起きない。退散しようとしたが、彼女が俺を引き止めてくる。人好きで、世話好きなみゆきさんに促され、ちょうど昼時だったこともあり、一緒に手作りランチまで食べる羽目になった。やれやれと思ったが、情報を得るチャンスでもあることは承知していた。
「そういえば、優一くんに写真見せていなかったわよね」
「写真?」
 お手製パエリヤをスプーンの先で突きながら顔を上げ、唐突な問いに注意を向けた。
「そう。ほら、芹香さんの結婚式のときの」
「ああ、見てないけど」
 俺から訊くまでもなく話題がやってきたようだ。智彦の姉の結婚式といえば、あの日に他ならない。
「そこのテーブルに小さなアルバム置いてあるでしょ、後で見ていいわよ」
 恋人のために作られた自慢のスペイン料理なんかより、よほどそっちへ興味があった俺は、すかさず立ち上がり、カフェテーブルに置かれたアルバムを手に取った。素早くページをめくり、記憶にある姿を探してみる。
 ふと、ハイビスカスの赤色が目に留まる。耳元に飾った花と生成りのワンピース。あの子が一人で微笑みながら写っている写真だ。
「みゆきさん、あのさ……」
「なあに?」
 智彦と同じのんびり口調の彼女が答える。極力何気ない素振りで俺は訊ねる。
「一緒に歌ってた親子いるじゃん、沖縄の歌のとき。あれ、みゆきさんの親戚だって聞いたけど」
「え、あ、そうよ。私の姉親子」
「へえ……。なんかさ、れいちゃんって皆に呼ばれてたよね。同じ服着て歌ってた子」
「ああ、れいちゃんね。あの日ね、三人で衣装合わせようってなって。生憎大人の女性用しかなかったから嫌がるのを無理やり着せたのよ」
 衣装のことがなぜおかしいのか、くすくす笑い出した彼女は、さらに続けた。
「歌、すごく上手かったでしょ?  素直でいい子なのよ。今時珍しいくらい」
「ふぅ……ん」
 素直でいい子。予想はついていた。
 もっと情報をくれ。さりげなく問い尋ねる方法を探す。
「中学生、だよね」
「うん。優一くんより一個下だと思う」
「へえ」
 俺が写真を眺めながらその子のことを訊ねた──それで察知されたのは無理もない。案の定、智彦が予期した台詞を吐いた。
「気になるのか? れいちゃんのこと」
 この前と同じ、物言いたげな顔が俺を見る。
「ん、気になるっていうか、まあ……」
 照れたところで仕方ない。
 これほど惹かれてしまった今となっては。
「中学は違うけど、高校はひょっとしたら同じになるんじゃないかな。あの子の住んでるとこ高校がないからこっちへ出てくるはずだぞ」
 藤沢に来る可能性──?
「マジ? どこの高校になるかわかる?」
 食いつき気味に訊いてしまう。
「それはさすがに、まだ分からんだろ」
 もごもごとメシを咀嚼しながら智彦が答える。
「でもお前のとこ有名校だし、可能性は高いと思うぞ。まあ、図書室の充実度にどれほど引きがあるかはわからんがな」
 口に物を詰めたまま、大げさに顔をしかめてみせる。たしかに、図書室が売りだなどと言ってもあまり意味はないだろう。そうしていると、俺たちの会話を聞いていた恋人がうつむいて何やら肩を震わせ始めた。不思議に思い訊こうとすると、彼女は途端に顔を上げ、笑いを堪えながら言った。
「ねぇ、ねぇ! 智くんったら、真面目な顔して話すんだもん、おかしくって。ちょっと、わかってるの? 優一くんっ」
「え、何が?」
 何をそんなにウケている。俺が視線を向けていると彼女はさらりと言った。
「れいちゃんってね、れいとって言うのよ。たかしろれいと。男の子よ?」 
「え……」
 言葉が頭で消化されるまで、数秒かかった。
 ──男?
 今までそう経験したことがないレベルの衝撃だ。声が出ない。黙り込んだ俺に彼女の説明は続く。
「お姉さんの息子、私の甥っ子なの。きれいな顔してるでしょ。前髪で眉毛とかすっかり隠れちゃってたしね。あの日もね、皆に女の子と思われたみたいで、本人すごく気にしてたのよ」
 にこやかに宣ってくれる。歌のあと頬を膨らませていたのはそういう理由だったのか。
 でも……
「あのさ、でも、花付けてたじゃん。ドレスコードの」
「ああ、そうね、確かに。あれはね、衣装を合わせたとき、蝶ネクタイひん剥いて無理やり付けさせたのよ」
 俺の動揺もよそにくくくっ、と思い出し笑いをし始めた。あれは、彼女の悪戯心が生んだ姿だったのか。衝撃が収まらず言葉を失ったままの俺に、今度は智彦が言った。
「優一。なんだ、そんな不思議そうな顔して。まさか本当に女の子だって勘違いしてたのか?」
 本当にって……なんだよ。他人事だと思って。
「いや、別に」 
 誤魔化したが、二人は向かい合わせに楽しげな視線を交わしていやがる。
「……知らなかったな」
 出来うる限りの冷静さを保ちつぶやいた。
「まさか惚れてたとかっ?」
 智彦のスプーンの先が、ひょいと俺に向く。
「まさか、そういうんじゃない。ただ誰だろうって思ってたからさ」
 アルバムを閉じ、帰り支度を始める。ランチなど食べてやるか。
「ふーん、そうか。まあ、あの日玲人くん、目立ってたからなぁ」
「そうねぇ」
 二人は無邪気にうなずき合ったあと、再びパエリヤに夢中になる。俺の勘違いにそれ以上突っ込んでこないのをいいことに、早急に二人の元から退散し電車に飛び乗った。

 四月半ば、夕暮れの海岸。
 砂上のステージには照明などなく、たしかに辺りは薄暗かった。言われてみれば、女の子にしては動作がさっぱりしていた。芯の通った印象的な声も、ただの女子にしては不思議な雰囲気があった。しかし花をつけていたから疑わなかったんだ。
 失恋と言っていいのか。元々存在しない恋だったのか。四ヶ月も俺の中にいた世界一可愛い女の子は、この日記憶の中から強制退去させられた。こうなってはもう考えても仕方ない。早く忘れよう。
 まったく以って予期せぬ展開だった。その後一週間は放心状態が続き、ろくに本も読めなかった。心に空いた穴は他の存在で埋められる筈もなく。気になる相手を想う俺の心の領域は、存在を失ったままだった。
 高校二年の春。校庭の桜の下で、新入生の「高城玲人」を見つけるその日までは──。

 

2・再生

 それは皮肉にも、グリーフケアの本を手にしている時だった。 
「え、亡くなった? みゆきさんの──」
「ああ、お姉さんだ。交通事故だったらしい」
「そんな……」
 いつものように智彦の家を訪れた金曜夕方。返事だけで姿を見せないのは常だからと、勝手に部屋に上がり込んだ。買ったばかりの本のページをめくろうとした矢先、智彦が告げたのがその言葉だった。昨日恋人の口から聞いたという思いもかけぬ訃報。呆然とした様子に返す言葉もない。俺はゆっくりと本を閉じ、デスクに置く。
「みゆきさん、一人にして大丈夫なのか」
「それが、昨日様子を見に行ったら、かなりまいっててさ」
「今日も行ってやったほうがいいんじゃないか」
「ん……」
 智彦はしばらく逡巡していたが、そうするよ、と言う。今来たばかりだったが辞するしかないようだ。じゃ、と告げて立ち上がり、さっさと玄関を出た。
「悪りいな、優一。せっかく来たのに」
「そんなこと気にすんなよ。早く行ってやったほうがいい。何かあったら連絡して」
「ああ、わかった」
 智彦の家を出て電車に乗ってから、一気に大きなため息を吐く。胸の中に生まれたしこりが、俺の感情と思考を徐々に圧迫し始めていた。鼓動が速まる。窓の外を流れる景色と、ガタガタうるさい電車の音。それを遮断するように固く目を閉じた。
 みゆきさんの姉、それはつまり──。
 瞼の裏によみがえる、一年少し前のあの日。夕暮れの浜辺で聞いた歌。笑っていた。楽しそうに。みゆきさんと、彼女の姉と、その息子の三人で。
 ズキリと感じたこの痛みの正体はわかっていた。忘れていたはずの存在。だがひと時でも想いを寄せていた相手だ。今どれほどの苦しみに襲われているのだろうと想像するたび、俺の心もまた平穏とはほど遠くなっていった。
 
 高校一年の夏。
 親友の早坂充と校門を出て手を振って別れたとき、携帯が鳴る。
「久しぶり~。優一くんっ!」
「時恵さん? なに、どしたの急に」
「ん? そろそろ私のサインが欲しいって考えてるだろうなぁーって思って、かけてみたの」
「は? なんだよ、それ」
「ごまかしたってわかるわよ。君、絶対私の新刊買って読んでるでしょ。いいわよ、会ってあげても」
 図星だ。
 くすくす笑いながら、明日空いてるからおいでーと楽しげに告げる。
「ちっ、じゃあ行くよ。あの店だっけ」
「そう。うちの弟がやってるあの店。おいでー、待ってるから」
 笑い声とともに通話が切れる。
 彼女は、母親の学生時代からの友人だ。元々は心理学者を目指していたが、大学院卒業後、臨床心理士の資格を取り、現在は医療機関などの現場でカウンセラーとして活動している。自身でオフィスを構えカウンセリングの個人受付もしている。日本ではまだ黎明期であるグリーフケアへの積極的な取組が評価され、度々メディアでも取り上げられるらしい。その上、知識を活用して動画配信、ブログ運営、ラジオ出演、様々な形態で情報発信をしているらしく、俺の周囲では稀に見る活動的な女性なのだ。
 俺は子供の頃から度々会っていた。気心知れる間柄なせいか、ふと暇ができたタイミングでたいした用もないのに連絡をもらうことがあった。歳は三十代後半。人の心理を見抜く鋭い観察眼と洞察力を持つ一方、けろりと大雑把な性格も兼ね備えていて、人当たりがいい。
 最近自身が運営しているブログ記事をまとめた内容で立て続けに本を出版している。その中にはグリーフケア関連のものがあり、出版当初、俺はそれを手に取って読んでみた。専門性を打ち出したものではなく、亡くなった家族への哀しみと向き合うため寄り添うように書かれた柔らかな文体の本だ。特に関心があったわけではなかった。が、純粋に何だろうという興味から読んだ。それを手にした日、奇遇にも智彦の恋人に不幸があり、彼にも買って読むよう薦めると、とても役に立ったと、ずいぶん感謝された。そして俺は昨日、続編となる本を早速購入して読んでいたところだった。虫の知らせなのか。そんな絶妙なタイミングに電話をよこしてきたのだ。
 あのことを訊いてみようか……。
 ふとそんな思いが頭をよぎる。
 親しい家族を亡くした者が立ち直るには過程があるという。本に書いてあったそれはたしかグリーフワークといって、ショック期、喪失期、閉じこもり期、再生期のプロセスを辿るのが自然の流れということだった。一番最後の過程、再生期に至ったとき、ようやく通常の生活を取り戻せるらしい。──気になっていた。あれからずっと……。

 藤沢の駅近くに小さな店構えの飲食店がある。店の名前は『南ぬ島』。時恵さんの父親が開業して今は弟さんが店主となり経営している沖縄料理専門店だ。郷土料理なんて渋いスタイルの店ではあるが、明るいインテリアと手頃な価格のため若者にも人気があり、ランチ時の店前には行列ができることもあるという。
 天然木の一枚板でできた重い扉を開け暖簾をくぐる。店内には、いつかどこかで聴いた音楽が遠慮気味に流れていた。奥のテーブル席に時恵さんがかけていて俺を見て手を振った。
「来たわねー! こっちこっち」
「この時間は客少ないんだな」
「そうなの。夜になるとぽつぽつ入り始めるみたいよ」
「時恵さん、オフの日はいつもここにいんの?」
「んー、たまにね。気が向いたら来るの。繁盛してるか見に来ないと……って、あ、本持ってきた?」
 俺は彼女の向かいの席に座り、バッグから新刊を取り出した。
『大切な人を亡くしたあなたへ──再生へ向けてできること』
 タイトルを彼女のほうへ向けると、時恵さんは手慣れた手つきでサラサラと表紙の隅にサインをくれる。
「ありがと」
「どういたしまして」
 和かな笑みは、さしずめ営業スマイルといったところか。
「はい」
 目の前に薄黄色をした冷茶のグラスが差し出される。
「さんぴん茶か」
「うん、どうぞ」
 一口飲むと、さわやかな香りが鼻腔へ抜けた。ふと、笑っていた彼女の表情が一変し、わざとらしく歪む。
「あのさぁー、優一くん」
「ん?」
「本読んでくれるのは嬉しいんだけど、私ちょっと心配」
「え、何が?」
 意外なことを言われ、俺は目を丸くする。
「君、高校生だよね。もしこれを趣味として読んでいるんだとしたら相当変わり者……て言うと悪いけど、かなり出来過ぎな感じだなって思って。知識欲が高いのはすごいと思うけど、たまには羽目外してバカな事やったり、騒いで遊んだり、ちゃんと青春を謳歌してるのかなって、時々心配になっちゃう」
「はっ、そんなことか。んー、俺は俺なりに楽しくやってんだけどな」
 老婆心が疼いたのか。この類を言われるのは初めてではない。大人はすぐ相手が『普通』の人間であるかをジャッジしたがる。たしかに人より読書時間が多いのは事実だ。かといって友達と遊んだりしないかというとそんなことはない。仲のいい奴は多いし、学校ではほとんど本を読まず誰かと会話するか、けっこうバカなこともしている。
 中学の頃は本を読み過ぎて一人になりがちだったが、結局本から得た知識そのものが俺を「人」へと向かわせた。知識というものは使わないとただのゴミになる。常に誰かと関わりそこで生かしていないと意味がない。高校に入りそれを自覚して以降は、『普通』にやっているつもりだった。その上親父の座右の銘である口癖がいつも俺の頭に木霊している。
『知らない人間から聞く経験話は、一冊の本を読むのに値するんだ、優一。本も大事だが、とにかく人と会話することに価値があるということを忘れるな。一人でも多くの人間と関わって色んな話を聞くんだぞ』
 そんな話を持ち出して言い返してやろうかと彼女に目線を合わせると、今度は覗き込むような眼差しで見返された。
「ねえ、ひょっとして、何か気になることでもあるの?」
 さっきとは打って変わり真顔だ。俺が疑問の目線を送るとさらに言う。
「この本ってほら、家族を亡くした人の心理状態とか、回復について書いてるじゃない? そんな本を熱心に読んでくれるなんて……本当はただの興味以外になんかあるのかなって」
 ──やはり、鋭い。さりげない顔をしているが、逐一俺の表情や態度から心理を読み取っているのだろう。昔から彼女は、そういう人間だ。
「ん……実は、さ。そうなんだ」
 ……やっぱり、訊いてみようか。
 ゆっくり口を開いた。
「智彦って覚えてる?」
「あ、覚えてるわよ。幼なじみの智くんでしょ」
「そう。あいつがさ、今付き合ってる人がいるんだけど、その人のお姉さんが……」
 そこまで言って、胸に溜まったものを小さく息にして吐き出す。
 店内には静かな音楽が流れている。沖縄料理店だけあって、うちなーぐちで唄われる地方音楽、島唄だ。三線のカラカラと小気味いいリズムが耳に残る。
「まさか、お亡くなりになったの?」
 時恵さんが神妙な面持ちになる。
「そう。一年前くらいに。それで智彦にも時恵さんの最初の本──ほら、グリーフワークのこと書いてたあれ、読ませたんだよ。すごい助かったって言ってた。けどさ、気になってんのはそれだけじゃなくて……」
 彼女はもう心理カウンセラーの顔になっていて、思慮深そうな表情が俺に安心感をくれた。この胸の支えを理解してくれる人がいるとしたら、この人しかいない。その直感が喉の奥に溜まっていたものをするりと押し上げた。
「そのお姉さん、子供がいてさ。俺と歳近くて」
「子供?」
「うん。俺より一個下なんだけど。住んでるとこも葉山町だし、話したこともないんだけど……なんかさ、大丈夫なのかなって……」
 そこまで言ってまた言葉を止めた。こうして誰かに吐露してみて初めて自覚したことがある。自分で思う以上に、抱えてきたしこりは大きかったようだ。
「その子のことが気にかかるんだ……」
 時恵さんの声がさらにトーンを低めた。
 背後に流れている三線の音色は素朴な乾いた音色で拍を取っている。気づくと俺が店に入ってから客が二組ほど増えていた。キッチンの奥からする声は時恵さんの弟だろう。後で挨拶しなきゃな。ふーっと再びため息を吐き出してから、小さく覚悟を決める。
「父親が再婚して連れ子もいるんだって。二人ともあまり家族を気にかけないタイプの人みたいで……まあ、あまり詳しいことは知らないんだけどさ。みゆきさんがそんなことを言ってて、……あ、みゆきさんてのは智彦の恋人の」
「そうなんだね……けっこう複雑な環境ね」
「ああ。俺が心配したところでどうにかなる問題でもないんだけどさ」
「優一くんって、優しいのね」
 ふいにそんなことを言われる。
 ──あんたはけっこう友達思いなとこあんのよねぇ。顔にこんなに傷作っちゃって。……優一のいいところ、友達にも伝わってるわよ、きっと。
 中学の頃、揶揄われて泣いていた不器用な友達を庇いケンカをしたことがある。擦り傷だらけで家に帰ったあの日、母が俺に言った言葉を思い出してしまった。
「私も、それだけの事情を聞いたくらいでとやかく言える立場ではないけどね。でも一つだけ言えることがあるわ」
 次の言葉を静かに待つ。彼女の目に真摯な光が灯った。
「あなたがそうやって気にかけていることが、その子に伝わるといいな。……人を失った悲しみに打ち勝てるのはやはり人からの支えだけだもの。自分の中から湧く力ではなくてね」
 小さく静かな笑みを見せ、言葉を重ねる。
「……ほら、再生ボタンだってそれを押すのは人でしょ。自動では回らない。再び物事が回り始めるにはやっぱりきっかけがいるの。だから、一人でも多くの人間から気遣ってもらえてることをその子が知るのは大事な……うん、とてもいいことだと思うのよ。伝えられる機会があるといいわね」
 慈愛に満ちた、とでも表現すればいいのか。彼女は俺の目のさらに奥を見るようにゆっくり告げた。そして、さっきから手にしていた本をすっと押し付けるように返してくる。サインしてもらったその本を俺は黙って鞄に入れ、少しの照れ臭さを隠しながら小さく咳をした。照れ臭い──って、なんでこんな気持ちになっているんだ。
 店の扉が開き、暖簾をくぐって次の客が入ってきた。夜にならないと混まないのかと思っていたのに、なかなか繁盛してるじゃないか。いらっしゃい、と軽快に厨房のほうから声がする。
「あ、そうだ。おじさんにも挨拶してくる」
 そう言って立ち上がると、時恵さんがふいに声をかける。
「ねえ……その子って」
 一瞬溜めてから遠慮がちな声が言う。
「──女の子でしょ?」
 意味深な表情がその顔に浮かんだのを知り、俺はとっさに否定する。
「違うよ……っ」
 違う、とも言い切れないほど、まだ俺の脳裏には、浜辺で見たあの赤い花の姿が鮮やかすぎるほど残っていた。むろん即座に理性がそれを否定する。ふんふんと鼻歌を口ずさむように上機嫌に彼女も立ち上がる。その後、二人で店主である彼女の弟さんに挨拶をして、俺はそそくさと暇を告げた。
「優一くん、また来てねー。たまには友達と一緒にランチ食べに来て!」
 ひらひらと手を振る彼女を見ると、最後にまた口端を上げていた。気のせいかもしれないが。
 暖簾をくぐり玄関を出るとき、流れ出した唄が一瞬心を捉えたが、俺も手を振り返しありがとう、と言って店を後にする。
 
 てぃんさぐぬ花や
 爪先に染みり
 ……
 
 そのメロディーは鼓膜を通り越し、血流に乗って、遠慮もなく俺の心臓にまで潜り込んでくる。歌っている歌手の声の裏に、俺にだけ聴こえる音色がある。あの日なめらかに耳に流れ込んできた優しく強い声。一瞬にして心を鷲掴みにされたあの声。忘れようと何度も言い聞かせた。俺には関係ないと。だけどまたこうして考えている。今、どうしてる? 記憶の中で笑う柔らかな姿に、届くはずもない声をかけてみる。会える機会などない。理由もない。あの姿は、ただの過ぎ去った幻影なのに。
 
 ──あなたがそうやって気にかけていることが、その子に伝わるといいな。
 
 駅の周りの雑踏を抜け、足早に自宅方面へ向かう市内循環バスに駆け乗った。停車場を出たバスがエンジンをふかして走り出すと、窓の景色も速度を増し流れ始める。
 時恵さんに説明し忘れたことがあった。
 ──あのさ、その子、今度俺の高校に来るかもしれないんだ。
 新入生が入学してくる日までもうひと月もない。
「伝えられる機会……か」
 吊り革を持ちぼんやりと窓の外を眺める。歩道の脇に並んだ桜の木。そっか、もうすぐ蕾が膨らみ始めるのか。葉山にある桜の木も同じように花を咲かす準備を始めているのだろうか。蕾が開き、新たな季節が芽吹くように、再び笑うその日がまた来るといい。闇に沈んだ心を再生できるその日が。
 フィルムが回り出す。俺の心のフィルムもゆっくり回り始める。フィルムのタイトルは何の色気もないただの箇条書きのようなメモだ。次のタスクを消化しろ、と言わんばかりにそこにはこう書いてある。
 
『高城玲人と知り合うこと』
 
 鞄に入れた本の存在をたしかめるように、外側から強く手を押し当てる。
 たったひと月が、やたら待ち遠しく思えた。  

3・自覚


 
 そこに桜の木があったことを、俺は初めて意識した。
 目に映ってはいたが、その木が咲かす花をこれほどきれいだと感じる日が来ようとは、思いもしなかった。その木が咲かす花──いや、俺がきれいだと思ったのは……。
 
 高校二年の春。
 校門近くの桜の木の下でその姿を見つけた。
 制服を着ているというより制服に着られている、どこかぎこちない格好だ。背はあの頃より伸びているが俺よりは低い。前髪に隠れがちな瞳はぱっちりと大きく開いている。白くて柔らかそうな頬は記憶の中にあったそれと違わなかった。ほの紅い唇も、違わない。けれどはっきり違うのは、紛れもなく俺と同じ性の人間だということ。衣装のせいとはいえ四ヶ月にも亘った勘違いに今さら苦笑する。だけど──
 ……きれいだ。
 桜の花がとてもよく似合う。
 なぜそんなことを思ったのか理由を考えるのは後回しだ。ただ、どこか儚くも映るその姿が、薄桃色の淡い色彩の中に溶け込んでいるようで。美しい絵を見ているようでもあった。
 俺から彼の立つ場所まではいくらか距離がある。辺りは新入生も交じる生徒が行き交い騒がしい。まるでそこだけ時が止まっているようだ。ふと、彼が桜の木を見上げた。いや、空を見上げたのか。うっすらと開いた唇がわずかに動く。──何かを口ずさんでいる? とっさにそう思ったが距離のせいでよくは分からない。はらりと数枚の花弁が舞い落ちてきて肩に重なったが、気に留めず見上げている。まるで空から落ちてくる何かを見ているかのように、じっと……。 
「玲人ーっ」
 友人がかけた声で静寂が途切れた。振り向き、駆け寄って来た笑顔に応えるその顔には、静かな微笑があった。ただ、かつて俺が見た笑顔とは……違っている。明らかに。寂しげに見える、どこか。何かを諦めているかのようにも見える。
 二人はしばらく話をしてから、一緒に校門方向へ歩き出した。
 ──立ち直れないだろう、そう簡単には。
 桜木が揺れ、春風が辺りを包み、吹き去った。
 後ろ姿をしばらく目で追ってみた。胸がわずかに軋む。桜の木の下に俺も立ち、同じように空を見上げてみた。
 何を見て、何を歌っていたのだろう?
 智彦たちからいつも聞いていた『高城玲人』。
 彼は俺が想像していたよりリアルに男だったし、絶望に打ちひしがれた弱々しい姿でもなかった。しっかりと地に足をつけ前に進んでいる、そんな確信すらあった。けれど、かすかに感じたこの透明なイメージが、俺の心に不思議な印象を残した。心臓辺りにいつもと違う感覚がある。きゅっと軽く締め付けられるような感覚が。これの正体に心当たりがあるが、まさかという思いしかない。高城は、男だぞ。
 
 両こめかみという妙な場所へ強い圧力を感じハッと顔を上げる。見ると、そこを指先で押さえつけたまま、鋭い目線が俺を覗き込んでいた。
「充かよ。何すんだ」
「お目覚めか? 大丈夫かお前。本の読み過ぎなんじゃないのか」
 昼休み。
 教室で昼食を食ったあと、少しぼんやりしてしまっていた。我ながら珍しい。親友の早坂充が机の向こうから俺のこめかみを押さえつけ、やっと離したかと思えば文句を垂れ始めた。窓際の席の反対側には女子が数人固まって、俺たちを見ながらくすくす談笑している。数人というか、いつもの三人組だ。
 うちのクラスの女子ははっきりとタイプが二手に分かれている。大人しめで真面目なタイプと活発ではきはきした分かりやすいタイプ。だがこの三人は、何というのだろう。自分たちだけの世界を持っていて日頃クラスを観察しては意見を交わし合い楽しんでいる。独自の空気感を放っていた。なにかと俺と充に茶々を入れては好き勝手に盛り上がる。俺たちは構うときもあれば軽くあしらうときもある。中学の頃ならうんざりしていたが、今はそんなものかと付き合っている。
「咲野くん、珍しいよね。ボーっとしちゃってるの」
 充の隣に、三人組女子の一人が遠慮もなく寄ってきて声をかけた。
 遠藤梨奈。いつも率先して俺の言動にコメントしてくる。比較的さっぱりして誰とでも上手くやれる洒々落々な性格だ。両手を後ろに回し、喉に笑いを溜めている。
「昨夜あまり眠れなかったんだよ」
 軽く言い訳をしてみる。
「お前、最近何かにご執心、だよな」
 充が余計なことを言った。
「は、何の話だ」
「誤魔化したってわかるぞ」
 それを聞いた遠藤が、我が意を得たりとばかりに目を輝かせ割り込んできた。
「それ、わかるー。咲野くん、最近なんとなく変だもん」
「は? お前まで何言ってんだ」
 ほら見ろ。充の奴、要らん推量をしやがって。案の定、そばにいた女子二人も好奇心剥き出しの顔で俺に振り向き、口を挟んでくる。
「やだサキくん。まさか好きな子がいるとかじゃないよね。そうだったらショックなんだけど」
 これ見よがしに眉を下げてみせ、声のトーンが異様に高い笹尾が大げさに言った。それに呼応して、勝気でムードメーカーな斉藤まで声を張り上げる。
「えーっ、うそよ! サキくんはみんなのアイドルでしょ! ダメよそんなの。早坂くん、何とか言ってやって」
 始まった、いつものやつが。
「んなんじゃねーよ」
 面倒な彼女らは無視して充にだけ返す。何がアイドルだ。そんな胡散臭いものになった覚えはない。見ると充も、いささか困り顔ではあるが楽しんでいる気配がある。
「どうだかね。意外と遠藤たちの予測が当たってたりして」
「いい加減にしろ」
 平坦な口調で返し、その額をコツンと弾くと、くくくっと充が肩を揺らした。女子三人はいつの間にか肩を並べ愉快げな笑みを浮かべこっちを見ている。遠藤は手で作ったメガホンを充の耳元に当て、機械的な声で何かを告げた。
「早坂充。咲野くんのご執心の相手は誰か、ちゃんと探りを入れなさい」
 筒抜けだ。調子に乗ってくれる。
「……って、言ってるぞ、サキ。どうする?」
「どうするって。勘弁してくれよ」
 意に介さぬふりをして軽く笑い流し、席を立つ。ここは場を去るのが賢明だろう。悪ノリが過ぎる連中には付き合ってられない。大股で教室のドアまで行き振り返ると、早坂充、背後に女子三人組。揃いも揃って俺を見て、逃げるなーっ、あやしいぞーっ、などとぼやきつつ俺の名を呼んでいる。周囲の連中がなになに? と面白げに寄ってくるのを見るに及んで、もはや顔を歪めるほかなかった。背中を向けて手をひらひらさせ、俺はそのまま教室を出た。
 能天気な連中だ。充はなんでまた今日は彼女らに付き合いがいいんだ。女という生き物は、どうしてすぐ小さな異変に気づき、やいのやいのと騒ぎ出すのか。いや、いつもならここまで呆れることはないはずだ。それは自分でもわかっている。
 ダメなんだ、これだけは。俺の心にいる存在を勝手に探られたり、口出しされたり、それだけは回避したい。まだ自分ですら理由を言えない。この感情が何なのか、まだ名前をつけていないんだ。だけど──。
 何気なく屋上に来て校舎の上からあの桜の木を眺めてみた。何の変哲もない樹、見慣れた風景だ。なのにもう俺には特別な場所になっている。あのときもし気づかれていたら、俺はなんて声をかけただろう。
『顔を見られてよかった。ずっと心配だったんだ。泣き顔じゃなくて安心したよ』
 智彦たちがいう、頑張り屋でしっかり者の高城玲人。男か女か、そこが問題ではない。ただ俺は望んでいるんだ。あの子がもう一度、無邪気に笑えるときが来るのを……。
 
「キャンプ? まじで行く気?」
「ああ、らしいな。今年の夏に。お前も来いよ」
 智彦の姉夫婦からのお誘いで、彼は恋人の藤川みゆきを誘ってキャンプに参加するという。人数が多いほうが楽しいから、との理由で俺にまでお誘いがかかる。
 アウトドアか、悪くないな。まして奥多摩の山奥ともなれば、大自然の風景が頭に広がる。マイナスイオン。フィトンチッド。森林浴がもたらす効果は侮れない。フィジカルにもメンタルにも相当効くし、想像以上に生産性を上げてくれるらしい。たしか、先日読んだマインドフルネスの本にそう書いてあった。美味しい空気を吸いながらのんびり本を読むのも乙かもな。
「まだ三ヶ月も先の話だけどな。なんでも秋川渓谷の最奥部にある一日一組限定のキャンプ場らしくてさ。人数いないと寂しいからって、みゆきの甥っ子たちも誘おうかってなっているんだ」
「え──甥っ子って」
 一瞬、思考が止まった。
「ああ。いつか話したろ? 玲人くんに凛くんに凪々ちゃん。仲良し三兄弟だよ」
 それ本当か。高城も来る? つまりこの夏は高城と一緒に──って、
「うそだろ」
 唖然としてこぼすと、智彦はおや、という顔で振り向き、まじまじと俺を見た。
「なんでだ? 何か都合悪いことあるのか」
「いや、別に……」
 すると智彦は、やおら照れたふうに下を向き、口に手を当てこほんと一つ咳をした。
「ま、いずれは……俺の親戚になる子たちだし。俺も仲良くなっときたくてさ。お前も付き合ってくれると助かるよ」
 助かるも何も、願ってもない機会だ。ついに『高城玲人と知り合うこと』──その目標に達するときが来た。
 
 始業式、桜の木の下で見かけたあの日から偶然に出会す機会はほぼなかった。一度だけ同じ場所で一人でいるのを見かけたとき、また何かを口ずさんでいるように見えた。まるで桜の色彩に溶け込んでいるようで見惚れてしまった。変だと思う、こんなのは。でも見つめずにいられなかった。何を歌っているのか。気づかれるのを覚悟でかなり側へ近づいてみれば、それは何かの伴奏のような単調なメロディーで、とっさに頭の中で復唱し記憶にインプットした。何の曲なのか後で調べようと思ったが、結局調べたところで何一つわからなかった。高城は俺に気づきもせず、ふらりと去った。それも珍しいが、そのときは好都合だった。
 その後も気にかけてはいたが、学年も違うし行動パターンも違う。彼は家が遠いから、下校時は速攻で帰宅するのかもしれない。なかなか見かけないのはそのせいだろう。充や女子たちに、やっぱり誰かを気にかけているなんて茶化されるのも御免だし、その後は俺も表面上知らぬ顔で過ごしてきた。
 しかし鋭い充は気づき始めているのか、この前「あれ一年かな。グラウンドで文化祭の何かのリハやってるぞ。見て帰る?」と帰り際妙なことを言った。一年──その子が一年だと、何を根拠に見当をつけたんだあいつは。「別に見なくてもいいだろ」気になったが、笑いながらごまかした。「……そっか」と充は言葉を返す前に少しの間を置いた。やはり何か言いたげに見えた。 
 
「どうだ? 来れそうか?」
 智彦の声にはっと我に帰る。微妙に頬が緩むのを抑えながら返す。
「もちろん、行くよ」
 ──もちろん。当たり前じゃないか。高城と仲良くなれる絶好の機会だ。いつになく気持ちが浮かれてくるのを自覚しながら、智彦の家を後にした。
 
 変だよな。男なのに。
 こんなつもりじゃなかった。
 うちの制服を着た姿を確認しておきたかっただけだ。脳裏にこびりついた赤い花のイメージを払拭したかった。こんな展開は想定外だ。気にかけてきたのは事実だが、きれいだと感じてしまうなんて……俺はどうかしてるんじゃないだろうか。初めて見たあの日よりずっと心惹かれたのはなぜだ。やっぱ俺はおかしいのか。
 高城にしかない魅力があると思う。歌声と同じ、透明に澄んだ、しかし力強い何かを感じる。幼い頃、イギリスに住む祖父母の家に行くためデヴォン州をよく訪れた。週末に両親、地元の人達も交えてなだらかな丘陵地帯でハイキングをした。ダートムーアの大自然、濃緑の丘の上に薄紅色の小さな花が咲いていた。辺りの壮大な景色に圧倒されていた俺は、その花の繊細な柔らかさについ見入ってしまった。そっと手を伸ばすと丘陵の向こうから冷たい風が吹き上げてきて俺の頬を撫でた。小さな花弁は震えるように揺れていた。──なぜだろう、あの時の光景を思い出す。
 少し寂しげなあの瞳が、いつかのように煌めく瞬間を見てみたい。頭の中でイメージを創れば、俺の脳内で高城が優しく嬉しそうに笑う。胸がきゅっと締め付けられる。女の子じゃないと重々理解している。なのに苦しい。この気持ちが何なのかまだきちんと答えを出せていない。けれど、もうそんなのいいんだ。
 俺は、高城が好きなんだろう。
 否定したところでもうどうにもならなそうだ。
 
 六月半ば。
 文化祭は昨年同様さらりと盛り上り、過ぎた。うちの高校は秋に行われる体育祭のほうがメインで、力の込め具合が比較にならない。三年生などは受験に忙しくなる十一月まで、青春のすべてを賭けているかのように血眼で準備に励み、数々の事前イベントを発生させ、春から秋までずっと全校を騒がせている。名物の部活対抗リレーも今年は教師が率先して動画撮影をして学校の公式チャンネルにアップまでするという。そんなわけで、文化祭のほうは比較的あっさりしているのだ。
 とはいえ、普段接触のない他学年を観察できるその日、一日ずっとどこにいても姿を探してしまっていた。見つけたからといって、どうするつもりだ。まだ何と声をかければいいかもわからない。彼は目立つわけでもなく、探し当てるのは想像以上に困難だった。結局、終了後教室へ戻るとき一年生の下駄箱付近でちらりと見かけただけだった。いつか一緒にいた友達と二人で話しながら教室へ向かっていく。その姿を数秒眺めた。それで終わりだ。あっけない。
「一年生、妙に張り切ってたよな」
 次の日、窓際の席の充が校庭を眺めながらぽつりと俺に言った。唐突に一年の話題なんか出して、変な奴だ。突っ込みを入れて意図を具体化してしまうのも嫌で半ば無視して話題を変えた。が、その後もちらちらと俺の様子を窺う素振りを見せる。多分、もうすぐ、こいつに何か言われるだろう。俺が気にしてる相手が一年だと見当つけてはいても、まさか男だなんて思ってもしないだろうが。いや、そこも含めて気づいているのか。いずれにしろ隠し続けるのも苦しい。
 
 そして、夏休みが近づいた頃。
 珍しい場所に高城が来た。  

4・恋慕


 
 うちの高校の名前は、有名海岸地である地名からして、海、夏、若者、を問答無用で連想させる。
 そのせいで校舎の正門付近には青で彩られた波の形を模したモニュメントがあったり、所々校舎そのものがそれに象られた構造になっているし、サーフボードの飾り付けまである。この図書室──校庭の隅に個別に建てられてるため正確に言えば図書館になるが──も例外ではなく、入り口にある柱は真っ青な色で、白い波が描かれ、ドアの片側の壁面には『夏休み』必読の推薦図書が季節を問わず掲げられている。しかももう片側には、毎年恒例である、写真部と図書委員共同制作の派手な客引きポスターまで貼り出されているという状況だ。ポスターはほぼ等身大の人物の写真で、『さわやかな海辺の読書』のイメージに該当する生徒が毎年一名全校生徒による投票で選ばれ、一年間この場所で、特に新入生へ向けて『素敵な図書室』アピールの役目を担うのだ。
 あれは今年の五月だった。遠藤が俺を推薦するや否や、俺はクラス代表から、気づけば学年代表として選ばれ、二週間の全校生徒による投票期間の結果、このありがたくもない役目を勝ち取ってしまったのだ。写真を撮られるのは嫌いなんだ! なんて主張する間も与えられぬまま、その日のうちに一眼レフを抱えた写真部の女子が嬉々としてやって来て撮影されてしまった。
「今日もいい笑顔でお役目果たしてるな」
「うるさい」
 同じクラスで中学から一緒の須崎涼太と早坂充と俺の三人で、担任の代理としてとある資料探しのために図書室まで来ていた。入り口にある、俺にとっては気恥ずかしい産物以外の何者でもないそれを見ながら充が揶揄う。
「どこがいい笑顔だよ。不平たらたらが伝わんないのか」俺が不貞腐れると、「あの時、アイドルのように笑ってー! とか言われてたよな、サキぃ」涼太までおかしげに目を細める。まったく、飛んだ晒し者だ。写真を撮られるのは本当に嫌いなのに、何度、どこで、誰に言っても信じてもらえない。忌々しいポスターを眺めながら図書室へ入る。司書の中川に用件を告げ、探し物をしてもらっている間、充と涼太は適当な椅子に腰掛けたが、俺は次に借りる本をついでに探しておこうと書架の奥へと進んだ。
 海外の古典は大体制覇したから、日本の近代文学や名著と名高い随筆などに手を出そうと、先日ガイド本を借りてみた。そこに出てきた岡潔の『春宵十話』を探してみる。そういや、坂口安吾の『堕落論』も読んでみたいと思っていたな。タイトルに目を走らせていると、雨の音に気づき窓の外を見た。
 にわか雨か。
 パタパタと雨粒がガラスに当たり、湿った音が図書室内に響き始めた。目星をつけた本は今度にとっておき俺が二人の元へ戻ると、「なんか雨降り出したし、いつも以上に人来ないんじゃないのか」涼太がそう言って、早く帰りたげな様子を見せる。「だよな。来ないだろ」充は欠伸までしている。
 そこへふと、雨に濡れながら校庭を横切り、飛び込んできた生徒がいた。はっとして見ると、
 ──高城だった。
 え……。
 どくんっと、左胸が大きく跳ねる。
「あ、雨に濡れましたね。タオルあったかな。取ってくるから待ってて」
 中川がそう言って俺たちの用件を中断して事務室へ入っていく。
「すいません」と小さく言って頭を下げる。
 高城……。
 今降り出した雨に打たれ、髪の毛と肩が濡れている。図書室が慣れないのか、おどおどした様子で辺りを見回し、手にしていた本を数冊テーブルへことんと置くと、ポケットからハンカチを取り出し、ごしごしと顔や腕を拭き始めた。
 室内で、こんなに近くで見たのは初めてだ。
 大きく跳ねた左胸は、予想もしない速度で鼓動し始めた。こんなのおかしい……戸惑いつつも甘い焦りが心臓を撫で、成す術がない。四、五メートルは離れている彼に目が釘付けになる。その一挙手一投足が、目の前にあるレアな現実だった。
 透明な印象が強いのは、肌の白さのせいだ。肌理細かくて柔らかそうな……いや、女子じゃあるまいしそんな言い方変か。だけど透き通っている。肌も、瞳も、その視線も。前髪から垂れている雨の雫がなぜかよく似合う。そう思った。桜の木の下にいたときより口元があどけなく見える。
 かわいい──。
 とてつもなくかわいい。
 これほど愛らしい存在が他にあるだろうか。
 俺たちの方をあえて向かないのはシャイだからか。所在なげな素振りで待つ高城に、中川が持ってきたタオルを渡すと、再び小さくお辞儀をして用件を告げた。
「なんだ、この本を返却するためにわざわざ来てくれたのか。今日は担任からお使いされる生徒ばかりだな。えっと……」
「あ、一年二組の高城です。橋本先生急用できて。中川先生に今日中に戻さないとお目玉食うからって頼まれて……」
 久しぶりに聞く澄んだ声。
「ははは、そっか。高城くん、雨の中ありがとう。あ、今日は二年生しかいないけど、一年生もたまに来てるよ、ここ。押し付ける気はないけど高城くんもたまには来てくださいね」
 中川が笑いかけると微かに口端を上げる。
「あ、はい。じゃあ」
「あ、そこの傘使っていいよ」
「ありがとうございます」
 足早に彼はその場を立ち去った。玄関で追いつけるかと思い後を追ってみれば、──なんて速いんだ。高城はすでに校庭へ駆け出していた。
 なんだ、もう行ってしまうのか。俺に気づくこともなく。
 俺、これでも入り口のポスターとかで目立ってんだけどな。大抵ここにいると一年なんか「あ、ポスターの先輩だ」と言って会釈してきたり、女子男子問わず振り向いて見る程度の反応はされるんだけど、高城はてんで無関心なんだ。そっか……。
 無意識に肩を落とし、ため息を吐く。玄関先で立ち尽くしている俺へ、図書室のガラス越しに充がじっと視線を送っていた。
 
 雨が小降りになってほぼ降り止んだ頃、俺たちは中川から受け取った、男三人でやっと抱えられるほどの資料を持って教室へ戻った。腕がいてぇーっと大げさに嘆いていた涼太が、じゃあなと言って教室を出て行くと、俺と充も帰路に着く。さっき降っていた雨が嘘のように、夕暮れた空は澄んで光っていた。
「そういうことか」
 指をぱちんとさせ、充が突如、脈絡もない言葉を発した。
「何の話だ」
「お前が気にしてるのが誰か、今日完全にわかったよ」
「え」
「いやー、すげーっ、わかっちまったーっ」
 と大きな伸びをしながら軽快に笑う。笑ったかと思えば今度は真顔になって語り始めた。変な奴、と睨みを利かせながら聞くが、内心速まった鼓動に気を取られていた。
「最近たまに何かをぼんやり考えているだろ、お前。ほら、遠藤たちが気になる子がいるのかって言ってた話。その相手が誰かということと……」
「またその話か」
 語尾をぼやかしたから、さらにくるなと覚悟する。
「お前が前言ってた、智彦さんの親戚になりそうな葉山に住んでる子の話。色々大変そうでつい心配してしまうって言ってた、その話と……」
 そんな話を、いつの間にこいつにしてたんだ俺。俺が何気なく言った言葉も隅々まで記憶する細かい奴なのは知ってるが。充は淡々と続ける。
「最近やたら一年生を気にかけている件。それと……」
「まだあるのか」
 呆れた顔で聞きながら、少しずつ鼓動の勢いが増していく。
「こいつがすごいんだけどさ──。中学の頃、お前どっかの何かのパーティーに連れられて行ったらかわいい子がいてさ、とか口走ったの覚えてる? そのあと急に勘違いだった、忘れてくれって焦ってた話」
「充。いつの話持ち出すんだよ。よく覚えてんな」
「お前が女の子の話題すんのが珍しかったから、全部覚えてるよ」
 この時点で、もうこいつの鋭さには敵わないと確信が起き、腹を括った。
「……で、なんだよ」 
「その全部がさ。完全に繋がったんだよ、俺の中で。さっき図書室で一年が駆け込んできた時さ」
「……」
「一年二組の高城……だっけ。あの子がそうなんだろ。お前がずっと気にかけてる相手。かつて女の子と勘違いして、家庭が大変そうで心配して、入学して来てからも何かと気にして……」
 にやつくでもなく、引くでもなく、不思議がるわけでもなく、充はゆっくり息を吐き出しながらあくまで冷静に言った。俺は観念して答える。
「そうだよ。なんか文句あるか?」
「いや。文句っていうか、ちょっと驚いてるよ」
「男だったことに?」
「いやー、まあ、そうだな。まあ、そこは置いといて。なんかこう……お前の真剣さにさ。高城を見てる時のお前の顔が……こう……」
 さすがにこれは恥ずい。咳払いをして誤魔化したが、充は変わらず平坦な声で言った。
「まじ──だった」
「そっか」
「ああ」
「友達やってんの、考え直したいか?」
「まさかっ」
「だったら協力しろ」 
「へ?」
「聞こえなかったのか? 俺に協力しろよ、充」
「はあーーー??」
 立ち止まって目を丸め素っ頓狂な声を上げる充に、俺は飄然と笑いかけた。
「当然だろ。そこまでプライベートな事情を把握したんなら、お前はもはや共犯者だ。俺は今後堂々と高城を追いかける。後押し頼むよ」
「ええーーっ!」
 目を白黒させる充。ここにきて罪悪感や羞恥心で小さくなる趣味は俺にはない。気にならないなら受け入れてもらうしかない。
「じゃあ、また明日な。色々相談乗ってくれよ」
 そう言って、互いの行き先が変わる住宅街の角で手を振った。
「なんだよ、それー。まじかよーっ」
 強引な理屈だと承知している。まだ腑に落ちないらしい充の大げさな嘆き声が背後から聞こえる。嘆きながらも本気で嫌がってはいない様子だ。そもそも心底関わりを望まないなら、俺が気にしている相手を勝手に探ったりしないはずだ。同性を好きになったのに責めも恥じもしてこない。いや、少し覚悟はできていたのだろう。あいつなりに答えを出してから探り当てたのかもしれない。奇特な奴と言えばそれまでだが、充は俺の想像をはるかに超えて懐の大きい男だ。そして何より、得難い親友だった。

「え、来ない?」
「ああ。双子が風邪気味らしくてさ。残念ながら」
 キャンプ当日。午前九時。
 それなりに重い荷物を抱え、約束の集合場所に着くと、いきなり智彦から高城兄弟の不参加を報告された。
 ショックだった。これは想像以上に。
 わかりやすく口を開けて驚いた俺に智彦が謝ってくる。そんなに楽しみにしてたのか、悪いな、と。智彦に謝られても何の意味もない。しばし放心状態だった時間が途切れ、軽くため息を吐いた。
「そっか。ま、仕方ないよな。具合悪いんじゃ」
 気持ちを切り替えた体で、智彦の姉夫婦が今日のために調達したバンへと乗り込む。高城兄弟不参加の知らせはドタキャンに近い状態だったらしく、本日の主催者である夫婦は、出発時刻だというのに車にも乗り込まずごちゃごちゃ話をしている。しばらくすると智彦が俺に突然の提案をしてきた。
「おい、優一。お前、友達で誘える奴いないか? 二、三人ほど。食材もたっぷり過ぎるほどあるし、広めのバンガロー予約したから余裕あるんだってよ。できれば多い方がいいらしくて」
「え、そんな急に来れる奴なんか──」
 と言いかけたが、思い当たる人物が数名いた。一人は、明日は暇だーっとぼやいていた充。もう一人は、先月テニス部の県大会で、急遽俺が代打を務めたとき、「悪りぃな、サキ。借りは必ず返すからっ!」と言った奴。欠席した部員の代打を俺に頼み込んだ上、申し訳なさげに顔をくしゃくしゃにして拝みポーズをしていたテニス部部長の笠原──あいつはそもそも何にでもノリがいい奴で、性格的にも応じる可能性が高い──その二人だ。ついでに笠原と仲の良い涼太も誘ってみるか。

 かくして、高校二年の夏休みとは、こういうものだろうか? 
 ダメ元で、いや面白半分で連絡を入れてみたつもりだが、電話をしてから三十五分後。そろそろ出発だな、と誰かがつぶやいた時、見事に三人は飛び入り参加を果たしてしまった。
「暇だなー、お前ら」
「来てやったのにその言い方なんだよ、サキ」
 腕を組んだ充の横で、脳天気な涼太と笠原がはしゃぐ。
「肉ーーっ! バーベキュー! やりぃ!!」
「得したぜー、うほーっ」
 やたらと盛り上がっている。
 ──こんなはずじゃなかった。
 俺の目の前には、高城がいるはずだった。
 
 夜半の山奥。深い森の中は、街や日常から切り離され、圧倒的な自然界の風景と音世界へ誘ってくれる。空を見上げれば、漆黒の闇に鋭い光が幾千も輝きを放ち、樹々のざわめきは何かの生き物のように畝りながら聞こえてくる。まるで咆哮を上げるているようだ。
 智彦の姉夫婦が調達してきた松坂牛を一同揃ってバーベキューで楽しんだ後は、銘々が好きな場所で夜を過ごしていた。涼太と笠原などはよほど高級肉が効いたのか、今日が初対面とも思えないほど智彦の家族に馴染んでしまっている。俺はバンガローの外へ出て、辺りの鬱蒼とした森林が吐き出す清涼な夜の空気を吸い込んでいた。
 静かだ。しかしふと意識を切り替えてみると、虫の声がやたらと五月蝿い。静かなのに、騒がしい。お喋りな虫の声が、知らぬうち脳内に映像を創り始めていた。
 
『高城、知っているか? 虫の声が聞こえるのって日本人だけだって』
『えっ、そうなんですか』
 俺の突然の蘊蓄披露に、高城が目を丸めて答える。
『そうなんだ。欧米人とかにはただのノイズに聞こえるらしいんだ』
『へえ……』
 言葉少なに、しかし興味津々といった表情で高城が俺を見る。控えめな仕草、素直な言葉。相手の心を見通すような鋭い光も眼の奥に窺える。そのすべてが愛らしく心地よい。男ではあるが、高城は他のどこにもない清純な魅力を秘めている存在だ。……かわいい。
『俺、子供の頃アメリカに住んでたんだけどさ。こうやってみると、ちゃんと虫が鳴いてるって意識を持てるから、やっぱ生粋の日本人なんだなって実感してしまうんだ』
 そんな俺のどうでもいい情報、特に聞きたくもないだろう。わかっている。それでも何か喋りたい。少しずつ俺のことを知ってほしい。
『アメリカに住んでたんですね、すごいな』
『あまり記憶ないんだけどさ』
『へえ。……でもどうして、虫の声って外国人に聞こえないんだろ。不思議ですね』
 想定内の疑問を返してくる。そこで俺は続けて説明を加える。
『なんでもさ。西洋人は音楽や雑音を処理する右脳で聴くのに対し、日本人は言語として捉える左脳で聴いている、ってことらしいんだ。これって世界でも日本人と、他はポリネシアン民族だけだそうで……不思議だよな』
 本から得た俺の豆知識は、性懲りもなくまだ続く。高城は満更でもない様子で大きな目をキョロキョロ動かし聴いている。
『初めて知りました』
 受け答えが真面目だ。これもかわいい。
『こんなに風流なのに、変ですね』
 口元に笑みを浮かべる。──え、笑っている? 気を取り直して俺は尚も言葉を継ぐ。何食わぬ顔で、平静を装って。
『俺が思うに、多分さ。日本人の繊細な感性とか美意識とか、そんなものが関係してるのかもな。八百万の神とか言うじゃん。自然界の中に命を感じる民族特有のものなんだろうな。この前読んだ本にさ、そんなことが書いてあって……』
『へえ。咲野先輩って、すごく詳しいんですね』
 感心して答える高城は、心なしか照れているようだ。見間違いでなければ。柔らかそうな口元はどこかあどけない。星の光を乗せた眸は深く、聡明さを感じさせる。想像していたとおりだ。甘い蜜に誘惑される虫の如く、高城の愛らしさに吸い寄せられる。ゆったりと笑いかけてみると、幸せそうに微笑み返してきた。なんて笑顔を見せてくれるんだ。俺のこと嫌いじゃないのか。むしろ好かれている? ──いや、待てよ。まだろくに互いのこと知らないのにこんな都合のいいこと……
 
「──ずいぶん、楽しそうだな」
 不粋な低音が響き、至福の時間が遮断された。また両こめかみに圧力を感じる。はっとして目を開くと案の定、視界に映ったのは充の顔だ。高床式のバンガローの端に腰かけ目を閉じていた俺に、仁王立ちになった充が正面から俺を観察していた。
「お前、そのニヤついた顔。さては頭ん中で妄想劇場繰り広げてたな。朝からずっと元気なかったくせに、ついに変人の境地へと足を踏み入れたか」
「余計なお世話だ」
 不貞た俺に向け、充がため息を一つ吐く。つい訊いてみる。
「気持ち悪い、って顔してるな」
「んなこと思わないよ」
 すかさず返して顔を歪めた。充の寛容な心構えはこの際救いではある。じっと見ていると、
「あのさぁ、やめろよ。そのらしくない謙った感じ。確かにさ、お前のこと不思議に思うところはあるよ。高校に入ってからお前何度告白された?」
 急に話を広げてくる。
「なんだよ、突然」
「告白したい予備軍入れると、すげー数だぜ。なのに当人が追いかけてるのはまさかの地味な一年坊主ときてる」
「だから?」
「だから、俺は純粋に気になるんだよ。お前がなんでそこまであの子に入れ込むのか。どこまで本気なのかって。咲野優一の恋の行く末を見守る責任感? みたいなもんかな」
 右の指先で顎を挟み、吹き出しそうな顔で頷いている充に、俺は怪訝な顔を向けた。半分楽しんでるのか、こいつ。
「責任感なんて、お前何様のつもりだ」
「まあ、さすがのサキでもこればかりは難しいと思うぞ。然るべき時が来れば俺も、友を慰撫する役を担うつもりだ」
「お前……」
 なるほど、そうか。及ばぬ恋の滝登りとでも言いたいわけだ。充の意図が読めた。
「じゃあ、それまでは協力してくれるのか」
「やらないこともないけど。借りはでかいぞ」
 分かったよ、と素直に答える。ひとまず今日は一人にしてくれと頼めば、やれやれといった顔を一つ残しバンガローに入っていった。充は人のいい策士だ。しかし救いの存在であるには違いない。
 そのとき、部屋の中から乾いた弦の音が流れてきた。
 カン、カカ、カン、コン……
 芹香さんが自宅から持ってきた三線を弾いている。この曲は……懐かしい、今ではもう特別な唄となったメロディーだ。
 夜の森。頭上を振り仰げば、天鵞絨のような空に浮かび上がる顔と歌声があった。星空と高城と赤い花の唄。胸が締めつけられ、同時にひどく温かい。闇の中に見える幾千の光は、美しい星々の瞬きとなって俺の上に降りてくる。
 高城と見たかった。
 どんな顔でもいい。少し寂しげなあの笑顔でいい。俺のそばで微笑んでみて欲しかった。近くでその声を、聴いてみたかった──。
 
 このキャンプの日を皮切りに、俺が立てた高城と知り合う作戦はことごとく失敗を重ねていった。鬱積が募った俺は不意に遭遇したときのレア感に耐え切れず、ついに隠し撮りにまで及んでしまった。充が写真を覗き込み、「際どい方向へ邁進してるな、お前」と呆然としたのを尻目に、瞬く間に俺の写真アプリにはお宝写真が積もっていった。夜毎眺めては妄想が暴走しているなんて、口が裂けても言えないが。
 機を逃し続けていた俺に、思いもかけず幸運の女神が微笑んでくれたのは、それから数ヶ月後のことだ。
 ──高校三年の春。
 最寄り駅の裏道で、誂えたような絶好の機会が俺に舞い込んできた。  

5・好転

 幼い頃、ニューヨーク州のハリソンという街に住んでいた。マンハッタンから二十二マイル離れた郊外、ウエストチェスター郡のきれいな街だ。日本人が多く住み、周囲を囲む自然と治安の良さから、東海岸屈指の日本人向きな街だった、と今にして思う。
 学校や日常生活のことはさほど記憶にない。ただ、今でもよく思い出すことといえば、秋に家族で出かけたアップルピッキング。農園の入口で渡された袋に、無我夢中で林檎を詰め込んだのを覚えている。それと、広い家の庭に度々野生のリスが出没したこと。頭に白い斑点がある面白い顔をした奴だった。俺はそいつにハリーと名前をつけて遊んでいた。
 そしてもう一つ。これは後々俺の生活に大いに影響を及ぼすことになるのだが、隣の家に住んでいた日系アメリカ人の梶原というおじさんだ。彼は合気道の師範で、道場を持っていた。週末は道場内の片隅に子供たちを専門で指導するコーナーを設けていたので、父親の勧めで俺はその道場によく通った。メープルの樹々の生い茂った葉が地面に深く影を落とす、湖畔の小さな建物。そこが週末の俺の居場所だった。
 梶原さんは大変厳しい性格で、「努力」と「辛抱」が口癖だったのを覚えている。六歳から始めて、ハリソンを去るまでの三年間、俺はずっと彼に師事して合気道を習った。日本に帰ってからも父が道場を見つけて入れてくれた。車で送迎されながらしばらくの間は足繁く通ったものだ。小中学時代、運動が割と得意だったのはこの頃の鍛錬の賜物なのかもしれない。
「お前は何でも器用にこなすタイプだな、優一。だが一つの道を極める職人肌ではなさそうだ。合気道だけでなく他に色々やって好きなものを探すほうがいいのかもな」
 父は俺を車に乗せるたびそんなことを言った。これほど熱心にやらせておきながら、どこか冷めている。物事を俯瞰して捉え、一つの考えに固執せず常に中庸を探す──そんな癖がかなり俺と似ている。いや、俺が父に似ているのか。そういうわけで、俺は習得した武術のお陰で、仮にケンカして誰かに飛びかかってこられてもやり込めてやる自信があった。
 技をそのまま活用するのは無理だが(特に合気道の型はケンカ向きじゃない)、基礎体力や瞬発力、即座の判断、何より対峙した相手への根拠のない自信、そういうものが身についたおかげだ。俺がこの腕を振るう機会が、まさかあんな場所で得られるとは思いもしなかった。
 
 満開の桜もそろそろ終わりそうだ。
 そんな四月の日曜日。
 前日から俺は幼馴染みの智彦の家に泊まり込んでいた。親は週末からふらふらとどこかへ出かけ帰ってこない。食い物を求めてパソコンだけ脇に抱えてやって来て、面倒くさいからそのまま居座っていた。高一から始めたライターの仕事のことで、彼から意見を聞きたいこともあった。
 リビングで珈琲を飲みながら、キーボードを打つ。広い部屋の向かいのソファーには、悠々と自宅で仕事をしている智彦が、手軽なランチと称してフランスパンとチーズを貪り、その手にはワインまであった。呆れたやつだ。
 なんでも今日は、恋人と一緒に過ごせないらしい。彼の恋人、つまり藤川みゆきは、面倒を見ている甥っ子たちを遊びに連れ出すとかで朝から出かけているのだという。その話を聞いたとき、もちろん俺は即座に問い質すのを忘れなかった。
「甥っ子たちって、三人?」
 そこには高城もいるのか、という意味だ。
「いや、凛くんと凪々ちゃんの二人だけだよ。玲人くんはその分自分の時間ができるだろ。たまにはそうしてやらないと可哀想だからって、みゆきが張り切っちゃってさ」
「へえ」
 そうやってわざわざ時間を作ってやらないと自分の時間が持てないなんて、正直よくやるなと思う。俺だったら気が狂ってしまいそうだ。高城はよほど辛抱強いのか、同じ高校生なのに、血も繋がらない弟妹への献身ぶりは凄まじいと思う。それは褒められるべきなのか、それとも……。
「あ、みゆきからだ」
 智彦が電話に出る。二人は互いの今日の様子を語り合っているようだ。みゆきは、──この頃から智彦が彼女の名前を呼び捨てし始めたのに乗じて俺もそう呼び始めた──高城家の双子を連れて横浜の水族館へと繰り出し、無事三人で楽しんでいるということだった。それはよかった、と思う。ただ、今日高城はどうしているのだろう。訊くわけにもいかず聞き耳を立てながら悶々とした。すると、智彦が目を丸めた。
「へえ。意外と行動的なんだな、玲人くんは。半日で藤沢に遊びに来るのか」
 え、今なんて言った? 藤沢に来る? 高城が?
 電話を切った智彦にさりげなさを装って問えば、
「さっき玲人くんからメッセージが入ったらしくてさ。なんでも休みなのにわざわざ友達と今からこっちに来るんだと。藤沢駅のそばとか言ってたかな」
 そう言ったあと、いつものやつがきた。
「えらいよなぁ。そんな細かい報告をちゃんとしてくるなんてさ。みゆきに心配かけないよう気を回してるんだろな、あの子なりに」
 智彦とみゆきは、節々で高城のことを褒める。いかに努力家で真面目な子か、耳にタコができるほど事あるごとに話題に取り上げ感心しきりだ。ただの高校生、しかも母親を亡くし、父親に頼ることもできず、幼い弟妹の世話を余儀なくされた一人の子供なはずなのに、やけに大きな責任を背負わされたものだ。
 期待し過ぎじゃないのか?
 下手すると追い詰めてやしないか? 
 俺としてはそこが引っかかり、些かの不安が否めない。
 いや、そんなことを言っている場合ではない。今なんて言った、高城が藤沢駅まで来る? 今から来るのか。
「何の用事で?」
「さあ、買い物があるとか何とからしいが」
「ふうん。あ、智彦、俺用事思い出したから帰るわ」
 既にパソコンは閉じて財布をポケットに仕舞っていた。さほど散らかしてもいないし、ここはひとつお暇させていただこう。そう彼に告げて玄関を飛び出す。
「おーい、優一。仕事のことで聞きたいことがあるんじゃなかったのか?」
 玄関から顔を出した智彦が背後から叫んだが、「また今度でいい」と答えて、その後はダッシュで帰宅した。手際よく着替え、ついでにシャワーも浴び、充に電話をかける。
「今日付き合えよ。チャンスなんだ」
「は?」
 面食らった声が聞こえる。おかまいなしに事情を話し、智彦の家を出た一時間後にはもう藤沢駅の前に立っていた。我ながら凄まじい行動力だと思う。

 その日の行動を思い返すのはやや照れがある。いや、正直恥ずかしい。
 羞恥心というものがお前にはないのか、サキ。充は何度も怪訝な顔つきで俺に不平をこぼす。そのくせしっかり付き合ってくれる態度は相変わらずだ。こいつは人が良いのか、悪いのか。
 駅の前に立ってから一時間後。高城と、いつも一緒の友人が改札に姿を現し、俺はその行き先を辿るという不審極まりない行動を開始した。共犯者を引き連れ、罪悪感は多少軽減させてもらったが。
 よほど仲がいいのだろう。友人と高城は終始楽しげに喋っている。その後駅近くの楽器屋に入っていった。そこからかれこれ数時間、一向に出てこない。俺と充は道を挟んで向かいのバーガーショップで時間を潰す。まるで気長な張り込みだ。やれやれ、と呆れた顔で充が天を向くが、俺に付き合う暇があるこいつもこいつだと思う。
 そうこうしているうちに、何やら重い荷物を抱えた友達と高城が店を飛び出した。ふと時計を見れば夕方で、辺りも日が落ちてかなりの薄暗さだった。できれば電車に乗り込む前に声をかけてみたい。ただ口実がない。数時間ポテトとコーラで粘りながらプランを練ったが目ぼしいものがなかった。智彦繋がりの間柄を持ち出しても、だから何なんですか? という顔をされるのがオチだ。多分、場所を訊くとかその辺りが妥当だろう。そう思い先回りして改札付近で待っていたが、ようやく階段を上って来た二人はハプニングが生じたのか、慌て始めた。どうかしたのか? と声をかけるべく近づくと、今度は二人いそいそと階段を駆け降りていく。あれ? と拍子抜けして姿を追えば、駅の脇の歩道を二人は徒歩で進み始めた。 
「どうしたんだ? あの二人。電車に乗れない、ってか」
「らしいな」
 しばらく様子を観察してみる。歩道の反対側、彼らの十メートルほど後を行く。そういえば、この辺りで物騒な噂を聞くな、と思い出し徐々に心配が増してきたとき。あいにく予想が的中してしまったらしく、二人の様子に不穏な状況が見てとれた。高城たちに絡む人数は二人。若い男だが、どう見ても柄が悪い。
「おいサキ。まずくないか、あれ」
「ああ、まずいな」
 迷ってる暇はなかった。駆け寄って近づく。明らかに高城を威圧している男のそばへ詰め寄り声をかけた。
「おい、あんた何やってんだ?」
「なんだと? 割り込んでくんなよ」
 一方は違う学校の生徒だ。目の前の男は際立って背が高く図体もデカい。道場ではよくこんな体格のアメリカ人を目にしたものだ。頑丈な身体が師範と対峙するたび気を削がれ、萎れた枯枝のように倒れ込む光景を幾度となく見てきた。
「聞こえなかったのか? どけよカス」
 男の目がこれでもかというほど見開かれた。高城の様子を窺う余裕はなかった。気迫だけは充分に備えているそいつらは、今にも飛びかかってきそうな勢いで俺を睨む。
 その後の展開は想定どおりだ。
 救出劇はわけもなかった。
 むろん型通りな合気道の技など大して役に立たなかった。遮二無二攻撃を交わし、勘だけを頼りに身体が動く。中途半端な行動をして却って高城に火の粉が降りかかるような真似はしたくない、その一心で。気づけば、俺は軽くその二人を伸していた。充がそれは合気道の応用パターンか? と訊いてくる。まあ、そういうことにしておこう。
「大丈夫か、ケガなかった?」
 高城は蒼白な顔で小さく震えていた。茫然といった様子だ。相当に怖かったのか。平気でケンカを買いやり合うようなタイプでないと分かっていたが、これは想像以上かもしれない。隣にいる友人も同じく、言葉もなく固まって俺を見ている。二人揃ってまったく、俺が来ないとどうなっていたんだ?
 と思いつつも俺自身少しおかしかった。そのとき高城と何を話して何をしたのか具体的なことを覚えていない。覚えているのは、心臓がやたら変な速度で動いていたことだ。舞い上がっていた。高城に近づけたことに。視線を交わし、目の前で声を聞いた。呆気に取られた顔には怯えが含まれていたと思う。とにかく怪我に至らずよかったと、安心させたくて頭を撫でてみた。見開いた瞳が澄んでいた。怯える相手にこんなことを思うのはよくないが、こんな時でもかわいい高城はやっぱり特別な存在だった。
 
 ウエストミンスターの鐘が分厚い電子音で鳴る。
 はっと顔を上げると、目の前にあったのは例のごとく充の顔だ。妙に愉快げに俺を見ている。
「おい、近いぞ」
 無造作に顔を手のひらでどかす。俺の雑な扱いを受けながらも薄笑いを止めない充。
「なんだよ?」
 あれあれ、と親指で廊下のほうを指さした。見ると、開いたドアの向こう、廊下の端に高城と友人の姿があった。
 え──っ
 居心地悪そうに佇む二人。席を立って近づき声をかける。するともぞもぞ互いに目線を交わした後、
「あのっ、咲野先輩、ありがとうございました。この前」
 藍沢が言い、二人して頭を下げた。
「ああ、なんだ。そんなわざわざいいのに」
「あの、これ」
 高城がおずおずと差し出した手に、千円札が二枚あった。そういえばお金を貸したのだったな、とあの日のやり取りを思い出す。細かいことをすっかり忘れていた。
「ありがとうございました」
 ご丁寧な挨拶をされる。高城は緊張しているのか、俺の目を見ていない。ここはそれなりに先輩らしく、また何かあったらいつでも声をかけてくれよ、と言ってみる。
 この前触れた高城の柔らかな髪。色白だから緊張による頬の赤みが目立つ。充は地味と評するが、俺にはこれ以上ないほど魅力的に思える。顔立ちも麗しいがそれに輪をかけて健気な心根に惹かれている。金を返し礼を言うために勇気を出して来てくれた。三年生の教室なんて来づらかっただろう。それでも来てくれた。俺の前に。
 微笑みかけると、彼は一瞬不思議そうに目を瞬かせた。戸惑っているような、でも嫌がっているわけではなさそうだ。静かに口端を上げ、再び礼をしてから二人して去っていった。
 はあ──
 ため息を吐いた俺の隣の席で、充がほくそ笑む。笑いたければ笑えばいい。お前が想像しているとおり、俺は今ご機嫌だ。幸い好奇心の塊の三人組は、その場にいなかった。しばらく高城のいじらしい表情と声と仕草を思い出しボーっとするのも許されるだろう。
 
 突如、幸運へと転がり出した運命に浮かれていたら、尚もラッキーな状況が舞い降りてきた。それは雨の鎌倉での出来事だ。
 その日も俺は智彦の恋人伝いに、願ってもない高城の情報を得てしまい、ありがたくも活用させてもらった。智彦とみゆきは同じ鎌倉に住んでいるが、生憎の天気にも拘らず、高城は今日双子を連れてみゆきの家まで来るという。俺が毎度の渚沢宅を訪れるのはどこから見ても自然なことで、つまり向かう道の途中、駅近くの公園に差し掛かりタイミングよく高城を見かけたことも、まったく違和感のない流れと言えた。
 雨が降りしきる公園の隅。高城が見つけたのは気の毒な子猫たちだ。対処に悩む高城のフォローを申し出る。
「あの、先輩はここの人なんですか?」
 子猫を受け取ったあと、雨で肩を濡らした高城が訊いてきた。
 俺の目を見ている。この日はしっかりと、高城は俺を見た。
 向けられた瞳が雨粒の奥で煌めいている。気持ちの高揚を隠し切れない。思わず視線を逸らす。情けないほど高鳴る鼓動を抑えつつ少しの会話をして、預かった猫を腕の中に包んだ。その日は足早に立ち去ったが、雨でなければもう少しそばにいたかった。畏まっていつもの丁寧な礼を述べたあと、高城は歩き去る俺を背後で見送っていたようだ。図書室で見かけたとき雨が似合うなんて思ったが、やはり雨の中で見るあいつはたまらなく印象的で、ただその姿が俺の胸を熱くした。

 好きだ……。
 毎日その単純な一言が、青空にぽっかり浮かぶ雲のように、俺の頭の空に浮かんでいる。ついに俺は、舞い降りた幸運に喜ぶだけの奥手人間から、勘が冴え渡る行動派人間へと見事に変貌を遂げたのだ。絶好調だ。

 その日も、勘は冴えていた。
 屋上に行けば、高城が一人で購買のパンを食べているところだった。この場所はリサーチ済みで、一度高城と藍沢が屋上へ続く階段を登っているのを見かけ、様子を窺ったことがある。時間さえ合えば会えるのはわかっていた。
 手にしていた本を高城に貸してみる──その発想ができた自分を褒めてやりたい。あれほど他人に本を貸すのを拒んできたのに、これは高城と合う絶好のシチュエーションを作れる機会だ。閃きは瞬く間に適当な口実を頭に浮かび上がらせ、俺はそれを迷いなく決行した。するとどうだろう。高城は満更でもない様子で俺から本を受け取ったじゃないか。押し付けがましい人と思われるのを恐れていてはいけない。ここはひとつ連絡先まで渡してやろう。メッセージのやり取りも可能だったが、あえて電話番号を書いたのは、むろん高城の声を聴いてみたかったからだ。こうして本を使ってやり取りすれば、俺の本に高城の文字が残る。
 勘と閃きと柔軟な発想を駆使して、高城に近づく作戦は見事に好転し始めた。胸の奥から湧き上がる嬉しさをどうにもできない。ずっと見ていた高城、ずっと心配してきた相手とこれほど近くで会って言葉を交わし、例え礼儀正しさからくる笑顔だとしても、笑った顔を見られることが嬉しかった。
 
 ──高校三年の夏。
 今、俺はあいつと本のやり取りをしている。
 ぺージの最後に書きつける小さなメモは、俺と高城の秘密の交換日記と言えなくもない。幸せで頬が弛む。
 妄想の中で笑っていた高城は、俺の目の前で笑う。遠慮がちで躊躇いがちだが、そこがまたいい。いつか俺のことを「先輩」じゃなく「優一」と名前で呼んでくれる日が来ないだろうか。欲張りな心はもう抑えられそうもなかった。  

6・暗号

 いつも行く書店とは別の小さな本屋で、店先に陳列された文庫本のタイトルに目を泳がせているのには理由がある。ここは駅構内の書店。高城を待ち伏せするには好都合な場所だ。充が一度ここで高城と会った話をしていた。今日はどう考えてもうちのクラスより二年のほうが遅い。高城は今からここを通るはずだった。
 俺が書店前をうろつき始めてからちょうど二十分後、高城が階段を登ってくる。藍沢はいない。今日は一人か。さらに都合がいいと思い声をかけるため近づいたが、高城はいつかを彷彿とさせる速さで改札を通り抜けてしまう。
 なぜそんなに脇目も降らず帰路に着くんだ。もう少しペースを落としてくれれば……。俺の願いも虚しく、さっさと電車に乗り込み去ってしまった。
 あの速さは尋常じゃない。思わず腕を組み唸ってしまう。たまにはこの本屋へ立ち寄ったりするのだろうが、普段はあの調子なのか。しかも一人のときは一目散という感じだな。──と、そこで思い当たる。
 おそらく双子のために急いでいるのだろう。そうに違いない。
 家に帰ってからあいつのすべき仕事は多い。夕飯作り。その前には買物もあるだろう。お風呂を沸かしたり、宿題を手伝ってやったり、食器洗い、洗濯、家の掃除、部屋の片付け、諸々の家庭の仕事をあいつは一手に引き受け、その身に背負い込んでいる。
 ──尋常じゃない。
 想像しただけで目が回る。
 俺ならそんな生活、確実に精神に異常をきたしてしまう。自分の時間なんてどれだけ持てるのか。そんなあいつに俺は本を貸した。読書をする時間などないんじゃないか? と思うが、高城は毎回ちゃんと読んでくれている節がある。特に感想を言われることもないから根拠はないが、最後のページのメモを見るたび、ああ、ちゃんと目を通してくれている、そんな感慨と小さな感動を覚えてしまう。
 
 ため息を一つ吐き、気持ちを切り替えてから、家に帰るわけでもなく駅近くをぶらぶらしてみた。五分ほど歩いた先にあるショッピングビル内、とある店の前で立ち止まる。ずっと昔からあるような店構えのCDショップだ。入り口の脇に、とてつもなくどデカい宣伝パネルが設置されている。そこに掲げられたアーティスト名に、俺は目を瞠った。
 DEAL BRAKER──。
 たしか、高城が本の最後に書いていた名前がこれだった。つまりあいつがいつもギターで演奏している音楽、というわけだ。俺が呆然とパネルを眺めていると、「おや」と、店員らしき人物が一人店から顔を出した。
「君、ひょっとして、ディーブレのファンかい?」
「は?」
 いきなり何だ、この人。
「あ、いや悪りぃ悪りぃ。僕はね、実は彼らがまだアマチュアで活動してた頃知り合いだったもんで、それらしい人を見かけるとつい声をかけてしまうんだ。すまないね」
 頭を掻きながら気のいい笑顔を見せるその人の胸ポケットには「店長」の文字があった。薄い髭を手で撫でつけている。
「いえ、全然。あ、俺は特にファンってわけじゃないけど、アルバムとかあるなら欲しいなって思って」
「そうなのか。もちろんたくさんあるよ、アルバムなら。案内するよ」
 彼について店に入る。数分の間、バンド名の由来やらメンバーの紹介やらを捲し立てるように語り、売り込みの激しい態度が気になったが、一頻り宣伝して気が済んだのか、和かに問いかけた。
「で、どのアルバムか決まっているかい? 決まってなければおススメのもあるけど」
「あ、いや。その……全部ください」
「え?」
 一瞬、意味が飲み込めないという顔で俺を見る。そのまま無言でいると「なんだ、そっか、そっか」と一人納得したようにぽんっと手で判を押した。そして棚に押し込んであるCDケースをごっそり十枚は取り出してみせた。二人してレジへ行き、俺はスマートに代金を払う。
「高校生なのに、すごいなぁ」
 感心させておきながら無視を決め込むわけにもいかず答える。
「ちょっと、このバンドを好きって子がいて、俺も聴いてみようかと」
 この説明は、却って彼の興味をそそってしまったようだ。
「ちょっと聴いてみるために五万もする大人買い、か」
 はあ……といたく感じ入ってため息を吐いたかと思えば、次に得たり顔になりこう言った。ぱちん、と俺の目の前で指を鳴らして。
「好きな子か!」
 ぎくり、とした俺の顔を見て、唸るような仕草をし始める。
「……いやあ、青春だねぇ」
 おかしな人だ。やたら宣伝してきたり、一人得心したように頷いたり。でも悪い人ではない。嫌な気持ちは少しもしない。ずっしり重みのあるビニール製の青い袋を抱えて、俺は店を出た。
「どうも」
「また来てね」
 フレンドリーな笑顔が俺を見送る。手を振りながら、「いいねぇ、青春だねぇ」とまた唸るように呟いていたので、ぷっと吹きだした。
 ……青春、か。
 きっと彼の頭の中には、学園ドラマや映画なんかの映像が浮かんだのだろう。恐らくそれは若い男女の画に違いない。この店に俺が高城を連れてきても、その子だと気づかれはしないだろう。少しばかり躊躇われるが、高城を誘う格好のネタができたことに、俺の口元は自ずと緩んだ。
 
 それほど浮かれて帰ったというのに、同じ書店前で充を引き連れて待ち伏せをした数日後。この口実を活かして高城を誘う計画は、生憎日の目を見ることはなかった。高城との遭遇は果たせたが、俺が誘いをかけた瞬間、双子が病院へ連れられた知らせが入り、あいつは迷いもなく改札を抜け電車に飛び乗ってしまった。考えている暇などなかった。慌てて追いかけ、隣の席に滑り込む。
 双子への責任を感じて項垂れている高城。
 真面目な上に、これほど強い責任感を持っているなんて、俺が想像した以上にこいつは大きな荷を背負っている。不安と愛しさが湧き上がり、気づくとその肩に手を回していた。慰めになどなれないかもしれない。かといって放って置けるはずもない。お前がそこまで苦しむ必要はないはずだ、双子はきっと大丈夫だよ、そう言ってやりたかった。そして本当はぎゅっとその身体を抱きしめてしまいたかった。
 病院の場所を知らないようだったので案内して、青白い顔のままロビーに駆け込む高城を見送る。中にみゆきがいるのだろうと思い、顔を合わせないよう門の外で様子を窺っていた。しばらくして出てきた高城から怪我の様子を聞く。大事にならなくて安堵した。家まで送ろうか? と訊けばやんわり断られてしまった。まあ、当然かと諦める。
 さっき降車した大船駅まで高城と歩いた。言葉少なく、ただゆっくり歩調を合わせて歩いた。何か役に立てることがあるだろうか? こいつの背負っている荷が少しでも軽くなるような何かを、俺が与えてやれないだろうか? 頭の中でぐるぐる思考を巡らせていると駅に着いた。週末久しぶりに一人の時間を持てるという高城。ギターの弾き語りをするのか、と訊けば、はい、と答える。
「聴きたいな、高城の歌」
 本音がこぼれる。高城は、わずかに目を丸くした。
 ずっと心を捉えて離さないあの歌声、いつか目の前で聴いてみたい。ささやかなこの望みを今だけは許して欲しい。
 ごく短い時間だったが、二人で歩けたことが嬉しかった。じゃあ、と言って頭を下げるあいつの顔が心なしか不思議そうに微笑むのを見て、俺も手を振った。
 
「優一、帰っているの?」
 母が父と共に帰宅したのは夜の十時。とっくに食事も風呂も済ませ、部屋でパソコンに向かっていたときだ。
 俺の部屋のドアを開けると開口一番、母は言った。
「あのね、ロンドンで住むことにしたから、優一も来る?」
 ちょっとそこの公園に散歩に行くけど一緒に来る? みたいな調子で。
「は? 何の話だ? いつ?」
「えっとね、来年の春なんだけど。その前に一度家を見に行きたいの。優一も来るでしょ?」
 うちの親は少し変だ。一人っ子の俺に愛情を注いでくれた親に対しこう言っては悪いが、父も母も普通の親とは言い難いところを持っている。
 二人はそれぞれ文章を書く仕事をしていて、父親はジャーナリスト、母親はエッセイストだ。各自それなりに出版物も多く、海外での翻訳本まである。特にこの母親──彼女は右手に切符、左手に旅行カバンを持って生まれてきたと揶揄されるほど旅好きな、旅こそ我が人生という人間だ。著作のエッセイもほぼ旅がテーマで、それこそ俺が生まれる前までは世界中を飛び回っていたのだという。アフリカだけは行ったことがないが、英語圏の国やヨーロッパはもちろん、中南米、豪州、アジアの様々な国。小さな頃からどれほど話を聞かされたかしれない。彼女にとっては国から国を移動する感覚が、地元の街から都内まで行き来する感覚に等しいのではないか、と思うことがある。そういうわけで、ちょっと散歩に、と軽い感じで引越しの予定を告げてくるのも不思議ではなかった。ただ、俺は来年大学受験だし、もう少し気遣ってくれてもいいのではないか。
「アメリカは街、イギリスは村」
「は?」
 突然何を言い出すのかと思えば、
「今度書くエッセイのテーマなの」
 ということらしい。
「本当はコッツウォルズの村に住みたいんだけど難しくてね。親が住むトーキーも物件が見つからなくて、やっぱりロンドン郊外辺りかなって思って決めたのよ。再来週には発つんだけど優一大丈夫?」
「え、再来週? ああ、まあ大丈夫だけど」
 引越し前に本当に出かけるらしい。
「じゃあ予約入れとくね」
 イギリスで両親と一緒に住むことについては、むろん俺の中に肯定の意志は微塵もない。物理的に高城と距離を置くなど考えられない。やっと少しずつ近づけているのに、ここで放棄してしまうほど愚かな選択肢はないと思う。まあ、下見くらいは付き合ってやるか。母が出ていったドアをぼんやり眺めてしまった。
 
 今年の夏は猛暑だ。酷暑と言ってもいい。
 じりじりと照りつける日差しは容赦なく気力と体力を奪い取っていく。そんな気だるい夕方、部屋でパソコンに向かっていると携帯の呼び出し音が鳴った。智彦からだ。
「おお、優一。今ロンドンか?」
「んなわけないだろ。まだ日本だよ。出かけるのは再来週だ」
 うちの親から智彦の親へ当然この件は伝わっている。智彦としては、俺も両親同様に来年の春からあっちへ行ってしまうと想像しているのか。
「なんだ、そっか。……実はさ、お前に伝えておきたいことがあって」
「何?」
 やや神妙な気配を見せて切り出されたそれは、俺にとって衝撃的な内容だった。
「……え、シェアハウスって。親戚も呼ぶのか? なに、それって……」
「ああ、もちろん。みゆきの甥っ子たちだよ。差し当たり玲人くんにだけ話をしたらしい」
 シェアハウス運営の話は、おおよそのことを聞いていた。鎌倉から茅ヶ崎へ越して、芹香さんたちが経営していたサーファー向けの宿を改良し、みゆきと二人でやっていく、と。つい先月結婚式を挙げたばかりなのになんて行動的なんだ、と感心して聞いていたが、まさか高城たちを呼んで共に暮らす予定があるとは。──これは思わぬ展開だ。確かに言われてみれば自然な流れなのかもしれない。あいつには助けが必要なんだ、間違いなく。
「で、どうだって? 一緒に住むことになるのか?」
「ああ、まあ、そりゃそうだろ。はっきりとは聞いてないんだけど、あそこのお家事情からしてそうなるはずだ。楽しみだよ」
「智彦、あのさ、そこ部屋いっぱい空いてるんだろ、まだ」
「ああ。これから募集かけるからな」
「俺も入るよ、そこに」
「えっ。でもお前、おじさんたちと一緒にロンドンへ……」
「んなわけないだろ。日本で住むに決まってる。行きたい大学だって決めてるし、受験もあるし、自宅だと色々不便だから、そこへ入居させてもらうよ」
 答えはとっくに出ていたが、これで確定だ。俺が捲し立てるように言えば、隣に奥さんがいたようなので話は早い。「ちょっと待て、みゆきに代わる」とすぐに通話相手が切り替わる。事情を聞いた彼女は俺にひと言言い放った。
「優一、うちに来るのはいいけど、頂くものはちゃんと頂くからね! わかってるわよね」
 俺の前へ人差し指を向け、睨みを利かせた彼女の姿が目に浮かぶ。
「はは、当然だろ」
「ならオッケーよ。リフォーム終わるのは九月だけど、いつから来るの?」
「ああ、入るのは来年の春かな。卒業したらすぐ」
「わかった。二階の端の部屋をあなた用に空けとくわ。Ⅵ号室ね」
 ──決まりだ。
 予想を超えた展開が舞い込んできた。まさに夢のようだ。
 高城と同じ家で生活できるとは。これって想像以上にすごいことじゃないのか?
 まだ正式に返事を受けていないという。決定とは言い切れないのか。ただ、俺の気持ちはもう止められない。
 智彦の親戚だからいつかは近づけると思っていた。やっと知り合えて、本のやり取りまでして、定期的に顔を合わせる仲にまでなれた。ここにきて尚チャンスが転がり込んできたのは、俺と高城の仲を天が味方してくれているとしか思えない。都合よく解釈したくなるのは、この際自然な反応だろう。
 
 夕飯時、高揚感が胸を覆い心ならずもボーッとしてしまった俺を見て、微熱があるとでも思ったのか、母親が首を傾げる。
「大丈夫? 優一。夏バテじゃない?」
 気合を入れて作られたブイヤベースの味はいつもより濃かった。だが、そんなことはどうでもいい。
「別に。どこも具合悪くないし、むしろ好調というか」
 塩っ辛いスープを啜る。バゲットをむしって食べ、まだ残っていたサラダにも手をつける。俺は和食が好きだというのに、母親がワイン好きなせいで週の半分はこんな食事だ。
 ソファーでゆったり寛ぎながらスコッチを飲んでいた父親が、振り向きもせず意見を吐く。
「なんかいいことでもあったんだろ。心配することはない」
 さすが、父は察しがいい。
 あえて何も答えず、皿をすべて空にしてから席を立つ。
「明日は和食にしてくれよ。肉じゃがが食べたい」
 リビングを出るとき不平を込めて注文を告げると、「あら、明日はビーフストロガノフの予定だったのに」と意にも介さぬ様子で母は口を尖らせた。
 
 本棚から次に貸す本を選ぶ。
 あいつの顔を見たい、声が聞きたい。そのためにやっている本の貸し出しではあるが、適当に選んでいるわけではない。読みやすそうな本、家庭の用事や子供への対応に役立ちそうな本、実益と分かり易さを目安に選んでいる。それでいて、高城に気づいて欲しいこともある。
 お前が今やっていること。それは、言ってみれば異常なことでもある。そこまで責任を感じる必要はないし、もっと周りの人間を頼るべきだ。時には愚痴を吐いたり不平をこぼしてもいい。お前は頑張りすぎだ。自分を追い込むな。本来もっと自由でいるべき存在なんだ、お前は。──気づいてくれるわけもないが、そのメッセージが届くよう念入りにタイトルを選ぶ。
 明日、高城に渡す本はこれで五冊目だった。最後のページにペンを走らせる。
『お前が行くシェアハウスへ俺も入ることになったんだ。来年の春から。よろしくな』
 ──本当は、そう書きたかった。直接そう伝えてしまえば、あいつはどう感じるか。一緒に生活なんてやりづらいと思うか、遠慮が生じてしまうかもしれない。さもなくば俺に気遣って硬くなってしまうか。できれば偶然の巡り合わせでスタートするほうが望ましい。とはいえ黙っていられそうもない。シェアハウスへの入居をまだ決定していないなら、俺から口で伝えることでプレッシャーになっては困る。さりげなく、それとなく匂わせる方法はないか……? 長らく思案した結果ページの最後に書きつけた文字は、字面的に暗号のように見えた。
 
『YUNAGI Ⅵ』
 
 ……高城、実は俺ここで住むことになったんだ。春から一緒の家になるけどよろしくな。文字には換えない挨拶とともに「上出来だ」とひとりごちて本を閉じた。綴ったこのひと言が、のちに苦悩の種になるとは思いもせずに。  

7・後悔


 
 夏休みに入る少し前から、充とはまともな会話をしていない。まだ二学期のことだが、体育祭の準備や色々な調整があるとかで、生徒会長を担うあいつの身は俺とは比較できない多忙さの中にあった。授業中ちらと顔を見るだけで、他は少しも行動パターンが重ならずすれ違いばかりだ。そんなある日、不意な出来事から充と会うことになる。下校時、徒歩で自宅へ帰っていると背中に俺を呼び止める声がした。
「サキ……」
 日頃の元気はどこへ行ったのか。充と、横には涼太がぽつんと立っている。涼太の顔にどこか寂しげな笑顔が浮かんでいる。何があったんだ?
「あのさ、突然なんだけど、俺、今度引っ越すことになったんだ。石垣へ」
 涼太の声には、明らかに戸惑いの色が滲んでいた。
「え、どうして。急じゃないか、引っ越しなんて」
「ああ、そうなんだよ。こっちで大学通うつもりだったんだけどさ。そうもいかなくなって」
 家庭の事情……そんな言葉が頭をよぎる。
 俺と涼太と充は、二ブロック先にある小さな公園へと歩き、砂場の隣にあるベンチに腰掛けた。俺の横に涼太、その隣に充。夕暮れの公園は人けもなく風が吹いて肌寒かった。ゆっくり耳を傾ける。
 涼太の家は片親家庭だった。彼は母親と二人暮らし。その母親が沖縄の八重山諸島出身であることは聞いていた。島の人間は大きくなったら本土に出るというパターンが往々にしてあるが、不思議なことに、こっちに来てからも将来は故郷の島へ帰るという思いを常に強く持っているという。すべての人間に当てはまるかは知らないが、少なくとも俺が知人や本や伝え聞く話の中で知る限りはそうらしい。涼太の母親も例外ではなかったようだ。妊娠、出産でその機を逃してから、息子が小学中学を卒業する都度そんな話が湧いて出ていた。涼太が高校生になり移動もしやすくなったところで、いい加減それを果たしたいという親の意向なのだろう。それはわかる。だが、このタイミングはいかがなものか。
「なんかさ、叔父さんが春に亡くなったから、経営してた宿泊施設を譲り受けて、母さんがそこを切り盛りしてくことになったんだよ。俺もそこで手伝いをすることになってさ。大学は諦めた」
「そんな……。お前、それでいいのか?」
 思わず訊き返してしまう。充は話を先に聞いていたのだろう。涼太の隣で寡黙に耳を傾けている。今日は生徒会の仕事を終えてから二人で話し込んでいたふうだった。
「母親の夢だったんだよ、宿の経営。それが叶ってさ。俺が手伝ってやらないと、やっぱりかわいそうだし」
「そうなんだ。でもさ、涼太。お前後悔しないか、そんなんで。こっちで大学行って就職して……って言ってたじゃん」
 寂しげに背中を丸める涼太の肩に手を載せる。今言ったことなど既に承知の上で親についていくことを選んだはずだ。それでも、気持ちの整理のために必要な言葉を置いてやったほうがいい。
「すごい悩んだんだけどさ。とりあえずは親の手伝いをすることにしたよ。そっちをやめても結局後悔してしまいそうで」
 眉を下げて俺を見る。その肩に、同時に勇気と躊躇がのっている。勇気の方を涼太は選んだんだ。
「そっか。お前がそう決めたんなら……その方がいいんだろうな」
 一度の決断が今後の人生を大きく左右する。俺たちはそういう時期にいる。涼太を見てそんな実感が湧いた。頑張れよ、と声をかければ、彼は静かに笑ってから視線を足元へ落とした。
「俺さ、中学の頃、いじめられっ子だったじゃん」
 ふいにそんな話を持ち出した涼太の目には薄い潤みがあった。こいつは本来けろっと明るい性格だが、中学の頃はその不器用さが周りから浮いていて、時々クラスで話のネタにされていた。いじめられっ子とまではいかなかったと思うが、一度やたらクラスメイトに責められていたことがあった。数人に囲まれて悪口を浴びせられ、歯を食いしばり涙を堪えていた。そんな涼太を放っておけなくて、俺は彼を責めてる奴らに食ってかかったことがある。そのときはかなり派手なケンカに発展した。
「でもさ、サキが助けてくれたあの日のこと、忘れられないんだ。あの時から俺変われた気がしてさ。今までやってこれたのサキのおかげだと思ってるよ。向こうへ行く前に、それだけ言っておきたかったんだ……」
 ぽんぽんっと充が涼太の背中を宥めるように叩いた。そのことを伝えるため俺を呼び止めたのか。二人の様子から見てどうやら充が後押しをしたようだ。
 ふうーっと、涼太は伸びをする。空に向かって、「あー、よかったぁ……っ」と相好を崩した。俺に伝えられたことがよかったのか、それとも今やっと引っ越しへの踏ん切りがついたのか。
「すごいなお前は。俺にはそんな真似とてもできないよ」
 辛いことも自ら前を向いて乗り越え、今度は親を助けるために躊躇わず先へ進もうとしている。
 へへっといつもの笑顔を取り戻した涼太と別れ、帰りの道々、充とはやっと久々のまともな会話をした。
「何かしてやりたいな」
「ああ」
 お互い考えていることは同じだろう。俺に目配せをしながら充が言う。
「カラオケ店とかもいいんだけど、もっとちゃんとしたとこないかな」
「ある。石垣へ行くあいつにぴったりな場所が」
「ほんとか」
 閃きはすぐ行動に移すほうがいい。その場でスマホを取り出し、時恵さんに電話をかける。優一くんの同級生たちならお代は心配しないで、たっぷり広いスペースを確保しとくから、たくさん連れておいで。太っ腹な彼女に頼るのは申し訳ない気もしたが、ここはお言葉に甘えよう。時恵さんの心遣いにより、涼太を送る会が決まった。場所はもちろん、『南ぬ島』だ。
 
 夏休みに入ってすぐの日曜日、声をかけたメンバーが店に集まった。俺と充、笠原、涼太、同じ卓球部の奴が二名、その部繋がりで話を聞きつけた同部員遠藤が、さらにいつもの二人斉藤と笹尾まで連れてやってきた。
 店の奥、六人がけのテーブルを二つ合わせた席は店内の面積の三分の一を占領していた。送迎会は想定していたよりずっと盛り上がり、目の前に出された料理と何種類もの飲み物が、開始三十分も経たないうちに皆の腹と気持ちを満たしてしまった。こういうのを女子力というのか。メインの皿が空になった頃を見計らい、遠藤らは持参してきたらしきお菓子の類をどうぞ召し上がれ、と言って一つ一つ皆の前に並べて置いた。
 涼太は笑いながらも、終始目を潤ませていた。
 彼は今度行く親の田舎の様子を次々と語りだす。家族が運営する宿のすぐ近くには、時々星の砂が見つかる白浜のビーチがあるという。内地(本土)の人間はすぐ沖縄に海やリゾートのイメージを抱くが、島の人間にとってはごくありふれた日常の風景なのだ。だからあえて海に出かけ海水浴を楽しむこともそうないらしく、意外にもそこは人けのない穴場のビーチとなっているらしい。よって、夕陽も美しいその海岸は知る人ぞ知る恋人たちの名所と噂されているのだと。どこか自慢げに語るが、かなり地元に限定された噂であるには違いない。くすっと笑いが込み上げる。
「サキ、いつか遊びに来てくれよ」
 にかっと、涼太が笑う。
「例えば、彼女とか。一緒に連れて来てくれたら宿と一緒に案内させてもらうから」
 にやつくでもなく弾んだ声でさらりと言う。さすが宿泊施設を経営する家系だよな。さっそく営業トークみたいな口ぶりの涼太に、こいつはもう大丈夫だと安心感を覚えた。
「ああ。まあ、そのときはよろしく頼むよ」
 俺も笑いながらそれらしく答えてみる。
 隣で聞いていた遠藤が、なになに? と反応したので涼太は穴場ビーチについてさらなる情報を説明し始めた。そんな話を皆が聞いて、素敵、と話を盛り上げたのはもちろん女子だ。遠藤は、「付き合ってる人と一緒に旅行なんてさ、なんか大人の話だよねぇ」としみじみ言って目を細める。「でもそういうの真っ先に叶えちゃいそうなの、この中ではやっぱ咲野くんなのかな」そう言って視線を俺に流した。
「なんで俺が……っ」
 慌てて返せば、
「だって、咲野くんやっぱモテるし、それにさあ」
 もったいぶる言い方に嫌な予感が走る。
「なんだか、気になってる人だっているみたいな感じだし。本当はもうこっそりその人と付き合ってたりして」
 ぬけぬけといつもの調子で言い放ってから、手にしていたクラフトコーラをストローで啜る。この場で厄介な話を持ち出すなよと、俺が顔をしかめれば、斜め向かいの席にいた充がブッと大げさに吹き出した。充の奴……。
「なあ、それもいいけどさ。このメンバーで揃って遊びに行くとかもありなんじゃね?」
 そこへ威勢よく笠原が言葉を挟む。その言葉を受けて涼太が「それしてくれたら最高だよ、マジで来て来て、みんな」と盛り上がり、女子が面白げに話を広げていき、その後もわいわいと会は続いた。上手い具合に話が逸れてくれてよかった。内心ほっとしたが、斜め向かいの席にいる男は相変わらず笑いを堪えた口元と物言いたげな目を俺に向けていた。周りが知る俺と現実の俺のギャップに気づいているのは、当然ながらこの男だけだった。
 
「じゃあな、涼太」
「ありがとなー、みんなっ」
 一同揃って店を出、手を振り別れた頃にはもう太陽が西空に傾き始めていた。元気でいろよ。決めたんならちゃんと手伝いに励んで宿を繁盛させないとな。何かあったらいつでも連絡よこしてくれよ。それと、いつか本当に遊びにも行くから。最後にそんな会話をして俺は涼太と別れた。照れと寂しさが混じった笑顔が目に焼きついた。
 付き合っている相手などいようはずもないが、友達とではなく、できれば本当に大事な相手を連れてこっそり島を訪れてみたい。この店と、涼太がこれから行く場所、芹香さん夫婦が越して行った場所、そして忘れられないあの赤い花の唄。俺にも随分と縁ができてしまったその島を、いつか。
 そんな密かな夢を叶える時が将来もし俺にあるとして、そのとき俺の横にいるのは誰だろう。頭の中に浮かぶ姿があるが、あいにく俺とあいつの間にはまだまだ大きすぎる隔たりがある。俺はすぐにでも手を伸ばしてその距離を縮めたいが、焦って失敗するのは嫌だ。……男同士って、どんなふうに近づくのが正解なんだ。……分からない。せっかく同じ家で暮らせるチャンスができたから慌てることないとは思う。
 家庭の用事で毎日忙しいあいつ。その隙間を縫って俺の本をちゃんと読んでくれる。約束すれば必ずその場所へ来てくれる。嫌な顔一つせず渡した本を受け取ってくれる。『いい加減しつこいなこの人』と内心思われていないか? そんな不安はいつでも心の奥にある。しかし今はこれが互いの一番いいペースなのだろうと思う。
 
 親が越す新居を見るため家族三人で機上の人となったのは、それから一週間後のことだった。
 最初からロンドンに向かわず、ヒースロー空港からデボン州の街トーキーへと向かう。母親は、新居を見る前に祖父母の家を訪れるという大層回りくどい予定を立てていた。
 
 ここへ来るのは度々のことだ。祖父母は母方の親で、子供の頃から幾度となく家族で訪れ、英国にしては温暖な気候の夏や冬を俺はこの家で過ごしてきた。トーキーは有名な作家アガサ・クリスティーの故郷としても知られる街だ。ミステリー好きの智彦とみゆきがその関係で俺によく話を訊いてきた。二人は独身時代それぞれがトーキーを訪れており、帰国間際ロンドンのパブで偶然出会い、互いに英国ミステリーファンであること、鎌倉に住んでいることなど共通点があることに驚き、すっかり話に花が咲いたらしい。それがあの二人の馴れ初めだと聞いている。
 俺の祖母はスコットランド出身のイギリス人なので、幼い頃母は俺によく言った。優一の髪の色が薄いのは、お婆ちゃんの血が流れてるせいなのよ、と。

 家族揃って食卓を囲む夕飯時にはまだ早い午後。蜂蜜色のレンガでできたその家の裏戸を開ける。よく手入れされた庭に、矢車草やクレマチスの紫色が揺れている。それらに交じって赤や黄、橙色の季節の花が高低差をつけて咲き、足元の花壇にはチョコレートコスモスの深い色が全体を引き締め、コモンセージの柔らかな緑がその周囲を隈なく覆い尽くしていた。実に多種多様な花々に囲まれた庭の中央には、イングリッシュ・ローズの株が整然と植え込まれており、春と秋にはそこに、香り立つ薄紅色の花がこぼれるように咲くのだという。このお気に入りの庭のテーブルで、祖母は朝夕とゆっくりお茶を飲むのだ。
 明日いよいよロンドンの新居を見る予定のその日、俺は彼女に誘われて庭のテーブルで共に濃いめの紅茶を飲んだ。レモン味のスコーンを手に取りかぶりついていた俺に、祖母が唐突に宣ってくれる。
「優一、人生で一番大事なものって何だかわかる?」
 禅問答というわけではないが、祖母も祖父もこの手の話題をよく俺に振ってくる。この家の本棚一面に押し込められた書物は、ほぼ哲学書と世界中の詩集だ。そんな二人の関心をよく表していると思う。特に祖母は尊敬する人物が古代ローマの哲学者セネカだと聞いているから筋金入りだ。といっても俺はそこまでよく知らないが。いつだったか、祖母の本棚から世界三大幸福論の一つ、アランの『幸福論』を借りようとしたとき、それを読むならこれも、としつこく二千年も前の著作を薦められたこともあった。
 祖母はいつもまっすぐに俺を見ず、どこか遠くの空を見ながら言葉を吐く癖がある。今も遠い西の空をじっと眺めている。
「さあ……」
 あまりに抽象的なその問いへ、下手に回答などできずぼんやりと俺は答えた。
「──時間。私はね、時間だと思うのよ、優一」
「時間……か」
 昨夜見た夢の続きをまだ見ている。そんな目をして、口元に薄い微笑みを湛えた祖母は、ティーカップをゆっくりと手に取り口元へ運んだ。
「あなたはまだ若いから、気づきもしないでしょうね。世の中のあらゆることは相対的な価値を持っているけど、時間だけは絶対的な価値を持っていることに。だって決して後戻りができない。時間は命そのものなのよ。そうでしょう?」
「ああ、うん。わかるよ」
 俺と話していながら、どっぷりと思想の海に浸かっている。たしか相対性理論では、時間の相対性について書かれていたと思うが、祖母が言っているのはそういうことではないと解っていた。例え進み具合が遅くなろうとも時計は逆に戻らない、絶対に。そう言いたいのだろう。
「家やお金や、大事な資産と言えるものはたくさんあるわ。それらを得るために人はいとも簡単に自らの時間を売りさばく。でもね、人にあげてはいけない、一番大事な資産こそ、時間なんじゃないかしら」
 きっとこういう話を俺の母も毎日聞かされてきたのだろう。エッセイの中に度々母親の言葉を引き合いに出すのは、このせいなんだろうな。
 俺はスコーンの残りに手をつけ、喉に流し込んだイングリッシュ・ブレックファーストの紅茶で咀嚼する。小麦とバターとブレンドされた茶葉の香りが口の中で混ざり合う。子供の頃から変わらない味だ。
「だからね、時間を無駄にして後悔すること、これがこの世で何より虚しいことだと私は思うのよ。時間は戻らないから、後悔だけはしない人生を送って欲しいわ、あなたには。やりたいことがあるなら必ずする。大事な人には必ず大事だと伝える。それが人生で一番大切なことなのよ、優一」
 ──明日に依存して、今日を失う。
 あれはたしかセネカの言葉だったろうか。
 父と母も抱えきれないほど多くの話を俺にしてくれるが、祖母の語りは彼らとはまた違った趣を持っている。薄いグリーンの瞳を優しく細め、彼女はまだ遠くの空を見ている。庭にこれほど自慢の花を咲かせておきながら、誰にも見えない遠い景色を、じっとその目に映して生きている。俺の祖母は、そういう人だ。
 
 ロンドン北郊外の街に構えた一軒家はなかなか立派だった。入居はまだ先だというのに、両親は到着するや否や、リフォームだ、家具だ何だと俺を巻き込み駆けずり回る。
 俺は彼らとは別にパディントン駅近くのホテルを予約した。格式高いインテリアと隙間風が入るガラス窓が共存している何とも奇妙な、快適ながらも古めかしい宿だ。そのホテルの部屋で、ある朝はっと目が覚め、カレンダーを見た。九月の第一週、とっくに二学期が始まっている日付だった。うそだろ、こんなに経っていたのか。こっちでの時間の流れに感覚がすっかり麻痺してしまっていた。それにしても、日本は今、夕方か。
 
 ──大事な人には必ず大事だと伝える。それが一番大切なことなのよ。
 
 スマホを取り、国際通話の呼び出し音を聞く。
 徐々に鼓動が速まっていく。
 次の本の受取りは休み明けにしようと約束していた。高城は気にしているんじゃないだろうか。そう思いながら、彼が出るのを待った。
『はい、高城です』
「あ、高城。俺だけど」
『咲野先輩……』
 久しぶりに聞く声は、乾いた土に浸み込んでいく水の潤いのように、俺の心の隙間に沁み渡るような響きを持っていた。俺はこの声が好きだ。口調の端に垣間見る気遣いや、躊躇いと微笑みが入り混じるやり取りも、脳裏に浮かび上がる高城の仕草、目線、何もかも。俺は世界で何よりも愛しく感じている。
 後悔したくないんだ。
 この気持ちをどう伝えればいい? 
『あの、咲野先輩……』
 俺がまだイギリスにいると告げたことで少し心配をしたのか。旅行ですか、と訊いてきたから簡単に事情を説明した。高城は静かに俺の言葉に耳を傾けた。気のせいかもしれないが、俺の声を聞いて喜んでいるような、そんな気配がある。気のせいかもしれないが……。
 鼓動が速い。
 いっそ、伝えてしまおうか。この気持ちを。
 どんな顔をするだろう。
 俺はもうずっと前からお前のことを知っているんだ。そしてお前のことを……。
 驚くに違いない。ただ、電話の向こう微笑んでいるかのようなこの声。ひょっとしたら、今なら高城はゆっくりと頷いてくれるかもしれない。頬を少し染めて静かに頷いて……
「今度会ったとき、話があるんだ」
 堪えられずそう告げた。電話ではなく直接目を見て伝えたいと思う。
 もうこれ以上気持ちを隠せない。
 後悔はしたくない。帰ったら思い切って告白しよう。
 今のペースを保つしかないと思っていた。でも望む明日が必ずくる保証はどこにもないんだ。ずっと前から話を聞いて知っていたことをまず話そう。それからゆっくりと目を見て話せばいい。
 高城は、話とは次の本のことかと訊いた。それよりもずっと大事なことだよ、と心の中で答える。気持ちを受け止めてもらえる可能性はないに等しいかもしれない。困惑した上、嫌悪と拒否を示されるオチだって容易に想像できる。それは当然だ。いや、むしろそうなるのが自然の流れなんだろう。そうだとしても、俺は伝えたい。
「待っててくれるか」と言えば「はい」と穏やかな返答があり、そっと通話が終わった。
 腰掛けていたベッドから立ち上がり、濃緑の花模様の壁の真ん中にある窓へ行く。さーっとカーテンを開け格子のガラス窓を開け放つと、外は快晴だった。にわかに街の雑踏が耳に飛び込んでくる。車や人が行き交う音。回り出した日常の音。薄い雲がかかったロンドンの青空。真っ赤な二階建てのバスが行き過ぎる。遠くのほうでビッグベンの鐘が鳴っていた。
 今日はサンドイッチを買ってテムズ川のほとりを静かに歩きたい。高城に告げる言葉を一つ一つ丁寧に探しながら、あいつの笑顔を思い浮かべながら、今日だけは、そんな時間を過ごしたい。
 
 叶えられると思っていた。せめて気持ちを伝える、そのことだけは。
 俺の計画が甘過ぎたと思い知ったのはそれから二日後のことだ。現実は容赦なく俺の心を抉る。
 充から電話が入り話を聞いた。それは予想もしていない内容だった。
『すまん、サキ。高城のことなんだけどさ、実は──……』

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