ニセアカシアの庭で

ニセアカシアの庭で

2023年11月25日

2025年6月6日、苦難を経てようやく完成しました。
2025年6月9日〜11日推敲済み本文に更新。

ニセアカシアの庭で

一、手紙

花を浮かべて流れる水の
明日の行方は知らねども
こよい映した二人の姿
消えてくれるないつまでも

『蘇州夜曲』より

 

 その手紙が届いたのは、年が明け数日経った頃だった。夕方にシェアハウスの郵便受けを確認するのは僕の仕事。ブリキ製の扉を開けると乾いた金属音が鳴る。奥に一通、薄黄色の封筒を見たとき、きゅっと締めつけるような感覚が胸によぎった。手に取るとそれはよくある洋封筒だったが、長い時を経た物特有の茶色いシミが所々についていた。四隅はひどく捩れてしなっている。右上の辺りに細かい模様のような滲み跡もある。どこからどう見ても最近出された手紙とは思えなかった。
 封筒の真ん中に掠れ気味の文字。宛名は僕になっている。見間違いじゃない。たしかに『高城玲人さま』と読み取れる。『夕凪荘』という文字も並んで確認できた。『ハウス』じゃなくて『荘』なのが気にかかるけれど。住所は見当たらない。郵便番号が書かれてるけど一部の数字が見えづらい。
 なんだ、この手紙。いったい誰から? 裏返して差出人の名を見れば、案の定住所は書かれていなかった。いや書かれていたけど消えたのだろうか。ただ一つ、人名だと思われる文字が確認できるだけだ。『優』という文字が。
 ふと、優一の顔が思い浮かぶ。この字はゆう、と読むのだろうか。まさる、とかすぐる、とも読めそうだ。でも僕宛てだからやっぱり優一のゆうなのかな。それにしてはどうもおかしい。漢字一文字なのも、僕に手紙を出すなんて行為も不自然に思える。だって優一とはこの家で共に住んでいるし、毎日顔を合わせる仲だ。互いの予定が合わずすれ違うときも電話やメッセージでいくらでもやり取りできる。仮にも僕と優一はいわゆる恋人の間柄だったりする。いや、そうであるはず。世間の恋人とは何かと違いがあるけれど、僕はそう思って過ごしている。だから優一がこんなまどろっこしい伝達手段を使うはずはないし……と考え始めたとき、一つの考えに行き当たる。これって、優一が仕掛けた悪戯だろうか。それにしては、封筒に見られる経年の跡が腑に落ちない。
 手紙を手にして、夕凪ハウスの玄関扉を開けた。家に入るなり、さっき胸に感じた奇妙な苦しさがますます形を帯びた気がした。締めつけられる感覚は強くなるばかりで、僕は小さなため息を吐き出した。
 リビングには誰もいない。大きな窓から冬の柔らかい光がゆったりと注ぎ、みゆきさんが窓辺に飾ったコットンフラワーの枝が、今にもこぼれそうな白い綿の塊をつけていた。
 このシェアハウスに入居してから三年が過ぎていた。いつもにぎやかなこの家。今日は午後からめいめい何某かの用事で外出しているらしく、オーナー夫妻も、僕の五つ下の双子の弟妹も、広い建物の端に部屋を並べる大学生たちも、いる気配がなかった。
 テーブルにそっと手紙を置く。なぜか胸がすっと軽くなった。強くなったり軽くなったり、さっきからするこの胸の締めつけはなんなのだろう。手紙も得体が知れないが、もっとわからないのはこの感覚だ。優一にどうすればいいか意見を訊いてから開けようと思ったが、誰もいない今のうちにこの不思議な手紙を開けて読んでみたくなった。そっと封を開けると、パリッと乾いた音がした。重なった数枚の便箋を取り出す。よれよれの紙に指が触れたとき再び胸が苦しくなった。一つ吐息をついてから文面に目を凝らす。高揚にも似たざわめきが胸に湧き上がった。書き出しはこうだった。
 
 玲人へ
 
 遅くなってすまない。ようやく最後のヒントを送ることができる。いつものとおり、パズルを解いて出てきた文字が答えとなる。今回は最後のピースだ。これを今まで送ったヒントの文字と合わせると、ある一文ができる。それが、君が私にした問いへの答えとなる。言葉は胸にしまっておいてくれ。雪江をよろしく。
 
    優
 
 手紙が示したとおり、二枚目からはパズルになってるようだ。黒の盤面に白いマスが縦横交差して整然と配置されている。白マスの中には小さな記号と番号がところどころ振られている。縦と横のヒントから白マスに入る言葉をすべて書き込み、最後の答えとなる言葉を導き出す、馴染みのあるルールを思い出した。そう、これは優という人自身が作ったクロスワードパズルに違いなかった。手紙に込められた意図はいざ知らず、僕はいつのまにかこのパズルを解き始めていた。夢中になっていた。こんなに楽しいのは何年ぶりだろう……そう思いながら、時間が過ぎるのも忘れてしまった──。


 

 
 ──こんこん。
 誰かが扉を叩いている。いや、扉じゃない。障子の引き戸を開けようとしているんだ。畳に寝転がってうとうと夢の淵を漂っていた僕の耳に、その音は規則正しく、どこか悲しく響いた。
「──たまひと、眠ったかい?」
 たまひと? 誰のことだろう。
 そう思いながらも、心地よい声の主に向けて僕はゆっくりと顔を向けた。表情は見えない。ただそこには懐かしい感触があるばかりだ。
「問題は解けたかな。私の本心を聞きたかったのだろう? 君は約束を守ってくれた。だから私も約束を果たしたよ。君との約束を」
 上背のある着流し姿の男性だった。はっきり顔が見えないのに、端正な顔立ちであることが窺える。彼の背中越しに真っ白な花房が揺れていた。あれは何の花だろう。はらはらと高い枝から舞い降りてくる白い欠片。初夏の日差しを受けてきらめき、辺りに甘い香りを放っている。なんて、静かなんだろう。なんて、寂しいんだろう。時を刻みつけた古い宿が見える。手入れの行き届いた庭先を一面白く埋め尽くしていく花。ああこれは……まだ君がいた頃、よく見た光景だ。
 
 ──こんこん。
 また扉を叩く音がした。
 さっき呼ばれて目を覚ましたはずなのに、僕はまだベッドに横たわり眠っていたようだ。胸が苦しい。苦しくてどうしようもない。はっと身体を起こせば、いつも見慣れた部屋のドアがゆっくり開いた。
「玲人、もう寝てたのか? まだ九時前だぞ」
 顔を出した人は、僕が誰よりそばにいたいと願う人。ほら、こんなに近くにいるのに、どうしてさっき寂しいなんて思ってしまったのだろう。ありふれた日常の中に僕はいる。でもその当たり前が、ひどく貴重なものに感じられた。
「うたた寝してたみたい。どうしたの?」
 目を擦って優一を見た。深い記憶の海の底から、日常という水面へ引き揚げられる。意識が徐々にくっきりとしていった。
「いや、さっき皆でメシ食ってるとき、なんか考えごとしてるみたいだったからさ。どうしたのかと思って。入っていい?」
「うん」
 夕飯が終わり部屋に戻ったら、いつのまにかうとうとしてしまっていた。優一が僕の隣に腰かけて心配そうに顔を覗く。そうだ、今日来たあの手紙のことを話さなきゃ。
「優一、あのさ。実は今日こんな手紙が届いて……」
 デスクに置いていた封筒を取った。
「手紙?」
 優一の目線が手の上の封筒に落ちた。
「うん。意味がわからない変な手紙なんだ。宛名がほとんど消えてて、かろうじて読める字が僕宛になってる」
「ずいぶん古い封筒だな。開けていいのか?」
 僕が頷くと、優一は少し訝しげな表情を見せてから便箋を開いた。もう一度僕も一緒に、几帳面な文字の並びに目を走らせた。
「……なんだ、これ」
 面食らったのも仕方ないと思う。優一は落ち着きなく手紙を裏返したり、封筒を高くかざして目を細めたり、この謎めいた郵便物に興味津々、というより不審の色を露にした。
「僕の名前になってるから開封して読んじゃったけど、人違いっぽいよね? どう考えても」
「だな。やけに古いのもおかしいな」
 優一の長い指が封筒の表面をなぞる。
「そうなんだ。差出人に『優』って書いているから、最初優一の悪戯かと思ったんだけど……」
「どんな悪戯だよ」
 あからさまに眉をしかめる。そして重なった便箋の二枚目を見て、「クロスワードか」と呟いた。さっき一人で必死に解いてみた、マス目が十個ほどある本格的なパズルだ。白黒のマスに見立てられてるけれど、実際は封筒と便箋に使われているのと同じ紺色のインクで描かれている。紫外線の影響なのか、封筒の外側とは打って変わりさほど褪色していない。
「あれ、これは」
 さっきは気づかなかったけど、よく見ると封筒の端にもう一枚へばりついている古い紙切れがある。優一が気づいて取り出した。
「外国の風景写真みたいだな」
 そこには、何の変哲もない草の道が写っていた。一本道の向こうに見える小さな家並みがこれは日本から遠く離れた地の風景であることを物語る。手紙やクロスワードと比べると特に意味を持たないものに思えた。
「ん」
「なに」
 優一がなにかに気づいた。
「この封筒の宛名、『夕凪荘』と『高城玲人さま』という文字、かろうじて見える文字ではなく、もともと添え字として書かれた短い文なんじゃないかな。郵便番号と建物名と名前、日本語でそれだけ書かれているんじゃないか」
「日本語で、ってどういう意味?」
 僕はもう一度宛名の部分に目を凝らす。最初から住所は書かれておらず、この文字だけが書かれていたということ?
「住所は、ほら、ここ、よく見てみろよ」
 優一が指で示したのは、封筒の右上のスペースだ。薄っすらと黄色い英字のようなにじみが、浮き上がった紙の繊維のなかに溶け込んでいる。これは、この封筒特有の模様だろうと僕は捉えていたのだけど、もしかして。
「ここに、別の色のインクで英文の住所が書かれていたんじゃないかな。この模様のように見えるにじみ、よく見ると『Mr.』とか『Japan』という文字に見えなくもないだろ」
「そっかな。……うん、まあ、言われてみればそうかもしれない。封筒の模様みたいに見えるけど、消えたインクの跡なのかな。じゃあ、この手紙は宛名の住所と名前が元々右上に英文で書かれていて、真ん中に書かれてる文字は、受取人に向けて添えられた日本語の宛名ってこと?」
「この裏側の差出人名の脇にもほら、黄色っぽいインク跡が見えなくもない。シミと一緒になって見えづらいけど。きっとここにも英字で住所が書かれていたんだ」
 僕と優一はふたたび精査するようにシビアな視線を封筒に送った。うん、たしかに。一旦そうかもしれないと思ったら、もうそうに違いないと思えてくるから不思議だ。
「俺も最初は気づかなかったけどこの写真を見て思ったよ、これは外国から出されたものかもって」
「優一、うん、僕もそんな気がするよ。でも、なんだかますますわからなくなってきた。そんな手紙がなんで僕宛に届いたのか。だって僕には外国に知り合いもいないし」
 優一は、うーんと少し唸ってから、腕組み姿で要点をまとめ出した。
「今の時点でわかるのは、これは『優』という人が『玲人』という人物に宛てた手紙だということ。消印の跡がはっきり確認できないがエアメールとして書かれたものらしい。小さな風景スナップ写真と手描きのパズルが入っている。そしてこのパズルは、彼が玲人に渡してきた一連のパズルの最後のものであり、答えを今までのヒントと合わせると一つの文が浮かび上がる、というわけだな。その文は、玲人が優にした質問の答えに該当するというわけだ。そして、玲人には雪江という近しい女性がいる——」
 相変わらず整然とした説明が得意みたいだ。
「うん。そういうことだね。どうしてこんな手紙が僕宛に届いたんだと思う?」
「さあな。差し当たり同姓同名のせいで間違って届けられたという推測しか成り立たないが。外国は差し置いても、気になるのは何よりこの古さだよな。しかも玲人という名前、それほどありふれたものに思えないし、よりによって漢字まで同じなんて、いったいどういう縁なんだ?」
 ——縁。ふと口にされた言葉が、紙に一滴落とされたインクのようにすっと心に沁みた。
 眉間に皺を寄せた優一の顔を見る。僕はこの手紙の謎をいくら考えてもわからない。パズルの答えは何とか出せたものの、果たしてそれをどうするべきか見当もつかず、悩んでいるうちいつのまにか眠ってしまっていた。けれど、優一なら何か答えの糸口を掴んでくれるかもしれない。実際今の時点でもう僕が気づかなかったことに気づいてくれた。彼の頭脳は僕とは比較にならないくらい優れている。恵まれた容姿に加え頭までいいなんて、神さまに特別愛される人間ってやっぱりいるんだと思わずにいられない。どれだけ見ても見飽きない、きれいな鼻の形と顎のラインを眺める。するとふっと口元がゆるみ、僕の顔へと近づいた。えっと思った瞬間、唇を重ねられる。伝わってきたぬくもりにずきんっと胸が痛む。僕は焦って激しく瞬きをした。
「……っ」
「そんなに慌てるなよ、誰も見てないだろ」
「だって」
「いいじゃないか。いつも気を遣ってるんだからさ。部屋にいる時くらい許せよ」
 清々しい微笑みを見せつけられればもう返す言葉もない。瞳の奥に覗く鋭い圧を秘めた光に毎回骨抜きにされる。それが悔しい。悔しいけれど、どうしようもない。
「手紙、この手紙のこと、どうするか考えないとっ」
 かろうじて反論すれば、
「玲人って、オレのキスだけでそんなになるの、たまんないな」
「えっ?」
 優一は目を細めて、憎らしいほど余裕の口端を上げた。僕の焦りなんかもうすべてお見通しなんだ。かーっと頬が熱くなる。
「これくらいで感じるんだ? 玲人って」
「なっ、何言ってんだよ。ふざけないで一緒に考えてくれよ、手紙のこと」
 目を逸らしたけど、感じると言われた言葉で本当に身体が熱くなりそうで、ますます余裕をなくしてしまう。そんな僕を見てフフ、と軽く笑ってみせるから、ますます悔しい。
「玲人ってさ」
「なに?」
「かわいいな」
「なっ」
 焦った僕の顔に満足したのか軽快に笑ってから、優一はようやく、手にした古い手紙へと視線を向けた。キスをされて後ずさっていた身体を片手でいとも自然に引き寄せられる。ちら、と優一が僕を見て言った。
「謎を解明するか」
「うん」
 当然、という顔をしてみせると、整った顔に企んだような笑みが浮かぶ。優一は飄然と言った。
「俺がもし手紙の謎をすべて解いたら、玲人は何してくれる?」
「は? 何って、なに……? お礼ってこと?」
「そうだな。形じゃないものがいい」
 ためらう僕を気にも留めず、さらりと話を進めてしまう優一は自信家ならではの目をしている。優一のペースに飲まれたら駄目だと思い、僕も強がってみせる。
「あのさ、謎を解くってことは、僕と同姓同名の人物とか、差出人とか、なんでこの手紙がこんなに古いのかとか、どこから送られてきたのかとか、全部分かるってことだよ? さすがの優一でもそんなことできるの?」
「オレをみくびるなよ。そうだ、玲人。どっちがこの謎を早く解けるか勝負するのはどうだ? 俺が勝ったら、玲人は俺の要求を飲む」
「要求──って?」
 はっと動きを止めると、とたんに僕の左耳に口が寄せられた。鼓膜に届いた言葉は、声にするのも憚られる内容だ。恋人になって何度目かに密な夜を過ごした日、『死ぬほど恥ずかしがる玲人の姿を見るのが俺の一番の趣味だ』と臆面もなくぬかした不敵な表情がよみがえる。……僕は一瞬、頭の中が真っ白になった。

二、謎解き開始 

「さて、どうやって謎を解くかな」
 場所を優一の部屋に移し、僕たちは手紙を前にして首を捻っていた。優一が腕を組んで眉を顰める。僕はぼそっと返す。
「手がかりは、何だろう」
「まず最大のものはこの古さだが、それ以外にもある。本来の宛先である住所だな。消えた英字の部分はどう足掻いても解読不能だから真ん中の文字から見当をつけるしかない、か」
「うん。つまりこの『夕凪荘』って場所がわかるといいんだよね」
 そう言って優一を見ると、早速机に向かってパソコンのキーをカタカタと打鍵していた。うーん、と唸ってから振り向く。
「この名前は多過ぎて、探し当てるのは至難の業だな」
 僕はふと、郵便番号が一文字掠れていることに注意を向けた。
「あのさ、この番号から大体の場所を推測できないかな」
 目を覗くと、優一と視線が合う。
「冴えてんな、お前。たしかにまずはこっちが先だ。そっか、三桁の真ん中の数字。ここから探れば見えてきそうだ」
 優一が再び検索を始める。冴えてんな、と言われたけれどここからどう探せばいいか僕には見当もつかないのに、優一は眉根を寄せて早速三桁を手がかりに場所を探し出そうとしている。
 僕はパソコンをあまり見ない。先月、管理栄養士の資格を無事取れたことで、ここ夕凪ハウスの正式な料理担当者としてホームページで紹介されるというありがたいやら迷惑やらなオーナー夫妻の取り計らいがあり、確認のために覗いたのが最後だ。普段はもっぱら食材調達や手書きのメニュー作成や部屋の掃除などアナログな作業に終始している。
「あった」
「え、もう?」
 早い。どうやって見つけたのだろうと不思議がっているうちに説明が始まる。
「違っているのは大きな括りの三桁の部分だからわかりやすかったよ。うちの市と真ん中の数字が一文字違いの住所を洗い出すと、いくつか候補が上がる。ほとんど県外だったりかなり距離があったりする場所なんだが、同じ県のものが一つだけあるんだ。ここの可能性が高いな」
 優一は人差し指で郵便番号の場所をピンと小さく弾いた。
「そっか、なるほど」
「これで探してみるか」
 僕が頭の中で考えをまとめていると、彼はもうパソコンに向かって画面と睨めっこしている。実に仕事が早い。数秒後、優一がにんまり顔で振り向いた。
「ビンゴ。県内唯一の村に、『夕凪荘』という小さな宿がある。ここだと思う、多分」
「本当にあったの? それはすごい」
「ああ。早速この宿の正式なページがないか確認してみるよ」
 あれよあれよという間に検索が進む。優一のいかにも器用そうな指先が軽やかにキーを弾き、僕が覗き込むパソコンの画面に、宿泊検索サイトの詳細ページが映し出された。
「あったぞ。こいつはすごい。見ろよ、玲人」
 ある箇所を指さされ、僕はそこを注視した。
 そして、目を瞠った。
『高城──』たしかにそこに高城、とはっきり書いてある。宿泊施設の詳細ページ、部屋の仕様や設置されているアメニティー、設備などがずらりと列挙された下方に、『責任者の連絡先』として書かれてある名前がそれだった。
 なんと──。
「驚きだな。高城という人間が、うちと同じ『夕凪』と名のついた宿をそう遠くない場所で運営しているんだ」
 優一の見事な検索能力もさることながら、同姓というあまりの偶然に僕は茫然としてしまった。これはもう十中八九……
「──ここと間違えられて手紙がうちにやってきた、としか思えない」
 結論を優一の声が告げる。
「さて、ここからが肝心だぜ、玲人。電話してみるという手があるにはあるが……」
「なに?」
 とすんっと、ベッドの端に腰を下ろした優一の隣に腰かける。何やら渋い表情になった優一を見て少し緊張感が湧いた。
「あのさ、これは郵便の誤送ではなく、誰かが手にしてわざわざうちのポストへ入れたものだろ?」
「うん」……たしかに、そうだ。
「消印の跡が見当たらないだけじゃなく、ここまで古いことからして普通の郵便とは考えづらい。根拠はないんだが、何かの曰くを感じてしまうんだよな。この古さと相まって、さ。そんな代物を、間違いらしいので問合せましたなんて気軽に訊いていいものかな」
 それには僕も同意する。そもそもこの手紙に妙な重々しさを感じている僕は、電話をかけるという行為がしっくりこない。……と、気持ちの中で結論づいたとき、僕はもうそれを口にしていた。
「行ってみるよ、この場所に」
「玲人。そっか、なら今度の日曜俺と一緒に──」
「いや、僕一人で行ってみたいんだ、優一。ごめん」
「え」
 驚かれたのも仕方ない。どうやったって知らない場所を訪れるのに優一と一緒のほうが心強いはず。なのに、なぜか気持ちがそれしか考えられなかった。なぜと訊かれるとどうやって答えよう。少し焦り始めたら、優一は黙したまま足元へ目線を落とした。じっと何かを考え込んでいる。
「そうだな。お前が一人で訪ねたほうがいいのかもな。大事な手紙かもしれないし」
 そう返した優一は、神妙な顔つきをしていた。
「うん。これを持って、行ってくる」
 優一がさらさらとメモを取ってくれる。これが宿の情報だ、と手渡された紙には、詳細な住所と電話番号と、責任者の名前『高城雪江』の文字があった。
 

三、湖畔の宿

 乾燥した風が吹き渡る湖のほとりを歩く。いつになく僕はぐんぐん歩いていた。まったく知らない場所を。こんなシチュエーションはあまり経験がない。
 今朝、優一が最寄り駅まで僕を送ってくれた。
「気をつけてけよ、玲人。何かあったらすぐに連絡してくれ。必ずだぞ」
 やや睨みをきかせて言われ、うん、と素直に頷く。僕が宿を訪れて謎がすべて解けてしまったら、一昨日二人でかわした約束は自動的に僕の勝ちとなってしまう。そこに何か文句を言われるかと思ったけれど、野暮だと思ったのか、優一は何もその件に触れなかった。それよりも、必ず日帰りしてこいよとか、知らない土地で迷子にならないようにとか色々心配された。まあ、あの約束は半分冗談と受け止めていいのかな。とにかく、この手紙がどうして僕の元に届いたのか、誰が届けたのか、これほど古いのはなぜか、そんなことがわかればいいなと思う。宿の責任者が、手紙に名前が記されていた『雪江』さんなら(きっとそうであるに違いない)、その人が事情を話してくれるという展開になるかもしれない。きっとそうなるだろう。まったくなんの縁もない人物の元に届いたこと、関係ない僕が手紙を開けてしまったことをどう思うだろう。気を悪くしないといいけど。そんなことを考えながら、湖の脇道を進んでいく。徐々に山が近づいてきた。住所に指し示されるまま少しもの寂しい山道を登っていった。
 こんな人里離れた場所にある宿泊施設、か。いったいどういう人がどういう目的で泊まるのかな。よほど景色が綺麗なのだろうか。温泉があるとは書かれていたけれど、有名な温泉地や観光地ではなくわざわざ辺鄙な場所を選ぶのは何故なんだろう。立派に説明ページが載っていたし、確か利用者の声なんかも書き込みされていたから、ちゃんと人が訪れる場所であるのはわかってるけど。
 天気があやしくなってきた。
 山の中腹付近に差し掛かると岩肌から湧き水が滲み出ていて、樹々の隙間からさらさらと沢の音も聞こえた。ここは県内随一の村で自然の彩りに満ちた閑静な場所。聳え立つ針葉樹が森の暗がりを濃くしている。落葉樹は葉を落としきり、鬱蒼とした灌木の茂みが時々もの寂しげにかさかさと音を立てた。灰とも青ともつかない高い空を、音もなく鳶が舞っている。
 ひとしきり山道を歩いた僕の目の前に、ようやく一軒の宿が現れた。とても古い木造の家屋だけど立派な三階建てだ。正面玄関を挟み、左右に同じ大きさの窓が整然と並び見事なシンメトリーを作っている。大正時代とか明治時代とかの写真でこのような感じの建物を見たことがある。ここに違いない。敷地に足を踏み入れると、気持ちの奥でざわりとしたものを感じた。建物も印象的だけど、僕は何より隣にある広い庭に注意を引かれた。冬なのに青々とした芝生はきれいに手入れされていて、周りを背の低い草花が取り囲っている。けれど一際目を引くのは、中央に堂々と生えている一本の木だ。この真冬に緑の葉は見られないけど、幹から伸びた枝はどれも立派だった。ふと何かを思い出した気がして、僕はじっと目を凝らしてみる。この木……ひょっとして……。
「あら、お客さまかしら」
 宿の玄関から出てきたのは、ほっそりした年配の女性だった。小首を傾げてこちらを見る姿に、あ、と思う。髪を丁寧に結い上げ、上品な濃緑色の着物を着ている。きっとこの人が『雪江』さんでは?
「あの、突然すみません。客じゃないんです。実はお尋ねしたいことがあって……」
「あら」と女性が目を丸める。
「ここの宿の方ですか?」
「ええ、女将をしている高城(こうじょう)ですが」
 こうじょう……? 
 そっか、苗字、そう呼ぶんだ。
「あの、たかしろと言います。僕の所に届いた手紙のことで、少しお話があって……」
 女性は、「てがみ」と小さく反復して眉を寄せた。わずかな間をおき、
「お伺いしますわ。どうぞ中に入ってらして」
 たおやかな手つきで、建物の中を指し示してくれる。
 もてなしの宿にしてはこざっぱりした簡素な造りの玄関だった。御影石のような黒光りする三和土で靴を脱ぐ。今日の泊まり客がいるのだろうか。思案していると、「今日の予約はキャンセルになりましてね。お泊まり客は誰もいないんですのよ。ちょうどよかったですわ」ゆるりと笑いながら、女将は客用の履き物を差し出してくれた。柔らかな物腰で、廊下の先にある和室へと僕を案内してくれる。突然の訪問客なのに丁重に扱われてしまい少し気後れがする。思いの外畏まった雰囲気になりそうだ。よく磨かれた廊下を進みながら緊張が増した。客間に足を踏み入れると、うっすら白檀のような匂いが立ち込めていた。
「キャンセルなんて、急に大変ですね」
「ええ、もうすぐ天気が崩れそうとかなんとかで……」
 雪江さんのきっちり揃えた細い指が、和室の障子をすっと開けた。そういえば、さっきから少し雲行きが変な気がする。「どうぞ」と促されるまま座布団に腰を下ろした。「いま、お茶を淹れてきます」そう言って、雪江さんが奥の厨房らしき小部屋へと入っていく。こんな時は、そうだ。「あの、おかまいなく」慌てて言ってみたけれど遅かった。しばらくして香ばしい茶が二人分運ばれてきた。艶のある座卓を挟み向かい合うと、雪江さんが居住まいを正した。
「それで、手紙とおっしゃいましたね」
「はい、これなんですけど」
 カバンから封筒を取り出し、卓の上に載せる。
「え……」
 雪江さんが目を瞠った。明らかに心当たりがある顔に見えた。焦りながらかいつまんで事情を説明した。宛名が自分と同じだったので開封してしまったことを詫びながら。雪江さんは封筒を手に取り、細い指で中の手紙を取り出す。心なしか手が震えている気がする。文面に目を通したあと、目を閉じて低い声で言った。
「──兄からの、手紙ですわ」
「兄……?」
「これは、兄のすぐるから私の夫たまひとに宛てられた手紙です。何年も待って、もう来ないと思い諦めていた……」
 細めた目元にみるみる光る雫が浮かびあがった。手紙を胸に宛てがった彼女は瞼を閉じ、身じろぎひとつしない。しばらくの間時が止まったかのようだった。……これは、想像以上に深刻な理由がありそうだ。僕が所在なく目を瞬いていると、ようやく面をあげた雪江さんは、声を詰まらせながら小さく首を傾げた。
「同じ名前とお聞きしましたが、あなたさまも『たまひと』とおっしゃるのかしら」
「いえ、僕は『れいと』と言います。『たかしろ、れいと』です。これで『たまひと』と読めるなんて知りませんでした」こんな呼び方があったなんて。そして『優』もむろん優一とは何の関係もなく『すぐる』という人の名前だった。
 彼女は後ろを振り向き、小さな箪笥の抽斗から何かを取り出して机に置いた。見覚えのある厚みに、彼女の夫の写真が収められているアルバムだろうと見当をつける。
「『玲』という字は、貴重なものという意味です。とても良い名前ね、と夫と出会ったとき話したのを思い出しますわ」眉尻をわずかに下げ、ページをめくりはじめる。めくりながら、彼女の表情が重々しいものへと移っていくのが見てとれた。心なしか、手紙の中身を熟読するのを避けているようにも思えた。
「もうずっと若い時代、二十代の頃の話ですわ。兄から最後に来るはずだった手紙を、待って、待って、何十年も待ち続け、とうとう諦めて、主人は逝ってしまったんですの。わたくしももう届かないとばかり思っていました。まさかこんなに時を経て目にすることになるとは……」
 これはどういう巡り合わせなのでしょう──彼女はふたたび声を詰まらせた。着物の袖を取り、目頭にそっと当てるこなれた手つきが、和服を嗜む人ならではの優美さを持っていた。曰くありげな手紙を知らずに開けてしまったことをもう一度詫びたら、雪江さんは寂しげな表情のなかに薄い笑みを湛えて、ゆっくりと首を横に振った。
「こうやって届けていただけたことを、どれだけ感謝しているか。わざわざここを探し出してくれたんですね」
「ええ、まあ」
「……なんの所縁か、この手紙を受け取ってくれたのですから、ゆっくりしていってくださいな。そしてできればこの機会にわたくしの兄の話を聞いていただけないかしら。兄がどんな人物だったか、昨年亡くなった夫たまひとがなぜ長い間この手紙を待っていたのか、ぜひ聞いていただきたいですわ」
「もちろんです」
 二つ返事で答える。事情を知りたくて来たぼくにとっては願ってもない話だった。口調の重みから、雪江さんの兄と夫への深い思いが伝わったように思えた。
 ふと、障子の向こうの空が光った。
「あら」
 やにわに同じ方を見た僕と雪江さんの顔を、一瞬強い光が照らす。鋭い怒号のような轟きが鳴ったあと、申し合わせたように雨音が響き始め、みるみる外は激しい風雨となった。
「嵐みたいですわね」
 膝を上げた雪江さんが障子を手で押し開けた。その向こうのガラス戸に打ちつける雨風は容赦なく暴れている。……困ったな。優一に『日帰りしてこい』と口酸っぱく言われている。シェアハウスのみんなにもちゃんと今日帰ると約束した。けれどこれじゃあ……
 畳の部屋に湿気た空気が渦巻き、電灯の明かりが点いているのに、なぜか部屋を暗がりが覆ったように感じた。焦り始める僕に雪江さんは言った。
「どうぞ、今夜はここに、お泊まりになって──」

四、パズルの青年

 座卓の上に差し出された紙に手を伸ばし、引き寄せてつぶさに眺めてみた。黒マスの盤面に、文字を入れるための白マスが縦横接点をもって並んでいる。下に『縦列』と『横列』のヒントが連ねて書いてある。雪江さんがアルバムに続いて大切そうに箱から取り出して見せてくれた、これが手作りパズルであることは疑う余地もない。
「昔兄が作ったクロスワードパズルです。すぐるは幼い頃から、言葉を集めてはそれを問題とするため、白い紙と睨めっこばかりしていました」
 雑誌や新聞で見かけたことはあるけれど、手描きで作られたものを見るのは初めてだった。僕が差出人名を見て優一かと疑った人物は『すぐる』という名の、パズル制作が趣味の知的な青年だったのだ。そう、青年。雪江さんはもうすぐ古希が近い歳だと言ったので、手紙が書かれたのは今から四十年以上も前のことになるんだ。つまり手紙は、半世紀もの長い間行方不明になっていたわけで。僕は改めて、この手紙の背景を知らずにはいられなくなる。
「ずっとこの家で暮らしていたんですか?」
 雪江さんは「ええ」とうなずき、吹きぶる外の様子を眺めつつ語り始めた。
「ここは、夕凪荘という名前で昔から宿屋をしておりましてね。父が経営者で、継母が実用的な作業をして二人で切り盛りしてきましたの。その母が急病で体力を落としてから母の負担を軽減するために住み込みの手伝い人を雇うことにしたのです。体力のある若者が良いというので、学生に下宿屋として提供して家賃の代わりにお手伝いを頼むという条件で広告を出しました。そこでやってきたのが、たまひとさんでした。父は優男に務まるのかと訝しみましたけど、勤勉で真面目な若者を非難する者は誰もいませんでしたわ。同い年のわたしと一つ上の兄は彼と馬が合いましてね。週末によく語り合ったり、休みが取れた日には共にどこかへ出かけたりして、楽しい日々を過ごしましたわ」
「そうだったんですね。あ、僕の住んでいる場所も、夕凪ハウスというシェアハウスなんです。やっぱり名前が似ているから間違って届けられたんですね」
 もはやわかりきったことだった。ついでに些細な疑問も口にする。「僕の場所は海の近くなんですけど、ここは海から遠いですよね」暗に名前の由来を訊いたらくすりと笑う。「ええ。湖がありましたでしょう? 夕暮れどきは湖面が静かに凪ぐのを見て、父が付けたのです。湖と、庭にあるニセアカシアの木が、この宿の看板みたいなものです」
「あ、あの庭にあった大きな木」
「ええ」
 ゆるりとうなずく彼女を前に、僕の記憶はつい先日の、不思議なまどろみの光景へと引き戻されていった。着流しの男性、そうだ、ぼんやりとしか思い出せないが『たまひと』と彼が呼んでいたような……。そして男性の背後に見えたのはこの木ではなかっただろうか。この宿の庭に生えている、まさに同じ木を、僕は見たのでは。
「いつもこの庭でおしゃべりするのがわたしたちの日常でした。初夏になるとニセアカシアの木が真っ白な花を咲かせ、花びらがまるで雪のようにはらはらと降るんですのよ。その下で、兄はいつも腰かけてノートを広げていましたわ。わたしとたまひとさんが『よほど好きなのね、そんなに毎日腰を下ろしていたら根が生えるよ』と何度からかったことか。兄は『こういう性分なのさ』といつも静かに笑いながらペンを走らせていました」
 三人の姿が見えるようだった。夕凪荘と名付けられた宿屋の青々とした庭、そこに立つ大きな木、雪江さんとすぐるさんとたまひとさんが仲良く笑っていた明るい庭。
「名前が同じだけじゃなくて、色んな共通点があって驚きました」
 それだけじゃない。たぶん共通点はもっとあるに違いない。なぜだかもう、そんな気持ちに捉われてしまっていた。
「ほんとうに。不思議な縁があるものですね」そう囁いて、雪江さんはアルバムのページをめくる。僕も順に古びた写真を目で追った。「きれいに撮れてますね」構図も光の加減もまるで映画のシーンのように美しいと感じる一枚の写真を思わず指差した。
「ああ、これ。横浜に出かけたときの写真ですわ。兄が私とたまひとさんを撮ってくれた……」 
 懐かしさが込み上げたのか雪江さんは目を細め時間を巻き戻して何かを感じ取っているようだった。
「港町の海沿いの歩道をね、三人で言葉遊びをしながら歩いたことを思い出したわ。いつのまにかわたしはついていけなくなって、兄と夫だけが延々と、暗号のようにも聞こえる難しい言葉を交わし合っているんですのよ。それはどういう意味、と訊ねてもくすくす笑われてすぐに話を逸らされますの。男の人って面白いわよね。夕陽を受けた二人の笑顔が、写真よりも鮮やかにわたしの胸に収まっていますわ」
 雪江さんの顔には恍惚とした表情が混じっていた。こんなふうに過去を大切に振り返る大人に、いつか僕もなれるのだろうか。さらにページをめくる。
「これが、わたしとたまひとさんの結婚式のあと三人で撮った最後の写真です。三人で……そう、これは兄が旅立つ前の……」そう言って一枚を示してみせた彼女は、写し出された光景に静かに息を飲んだ。懐かしさを超えた感情が込み上げたに違いない。僕も写真に目を凝らしてみる。それは記念撮影のような構図で撮られたかなり色褪せた一枚だった。中央に座る雪江さんを二人の男性が囲っている。片方の人は女性の手を取っているから、彼が『玲人(たまひと)』さんであることがわかる。どこか柔らかな印象がする繊細で朗らかな微笑み。きっと優しい旦那さんだったに違いない。白っぽいシャツを襟元まできちんと留めて着ている。色素が薄い髪のせいか、洋服の似合うすらりとした細身の男性だ。そしてもう一方の男性が、たまひとさんとは対照的に紺色の和服を着ているのを見ても僕は驚かなかった。この人はこういう恰好をしていたはずだと、ごく自然に確信を持っていた。
「いま、すぐるさんは旅立ったと言われましたけど、ここを出て行かれたんですか? お二人が結婚されたあとに?」
「そう。玲人さん、兄は……」
 目を瞑った雪江さんの眉間に細やかな皺がよる。言葉にできない何かをぐっと身体の奥に押し込むように、あるいは長く宿していた思いを胸の奥から引き出してくるかのように、ひととき彼女を取り巻く空気の湿度が増した。なぜだろう。僕も彼女の表情を見て、胸の隅でかすかに何かが軋む音を聴く。それはとても密やかな、それでいて悲しい響きを持った軋みだった。

五、幼き日の約束

『お前の幸せのために、私は必ず何かを差し出す』
『やめてちょうだい兄さん。大げさよ、こんな傷くらいで。兄さんがそれほどの責任を感じなくてもいいのよ。わたしは勝手に幸せになるから、兄さんの犠牲なんて要らないわ』
 
 ──まだ小学校に上がりたての頃、幼ないわたしは悪戯で庭の木に登り、落ちて怪我をしたことがありました。折れた右腕の骨は半年で治りましたが、雨の日にしくしく感じる痛みと袖の裏に隠れるみみず腫れのような手術痕が残りました。父と母からわたしの面倒を見ることを言いつけられていた兄はひどく自分を責めました。その時からことあるごとに言うのです。いつかお前のために代償を払う、と。まるで自ら好んで十字架を背負うかのような口ぶりで。兄の思いを重いと感じることもしばしばでした。とはいえ普段は軽口を叩く冗談好きのさっぱりした態度の人でしたから、実際そう感じるのはその言葉を耳にするときだけでしたけどね。
 
「お茶のみで長話もなんですから……」と、雪江さんが台所からお饅頭を持ってきてくれた。畏まって頂いていたら「どうぞ、平らになさって」と言われ、遠慮しつつも痺れ切った足を崩した。畳の部屋はこれが嫌なんだった。
「お兄さんは、妹思いの方だったんですね」
 足を崩してほっとした声で感想を伝えると、雪江さんがくすっと柔らかに笑った。
「そうですね。世間の兄より、兄は妹のわたしを大切にしてくれたと思いますわ。わたしが幼い頃に来た後妻の連れ子だったのです、兄は。それもあって本物の兄妹であろうという意識が、お互い強かったのかもしれませんね」
 妹思いの彼は自ら好んで雪江さんへの負い目に身を委ねていた──僕にはそのように感じられた。だとすると彼の心の裏には何か特別な感情が潜んでいるように思える。わかるのは、すぐるさんの雪江さんへの想いがひとかたならぬものだったということ。それってなんだろう……? じわじわと一方向へ思考が傾いてしまう。答えに到達する矢先、外が光った。
 あい変わらず天気は荒れまくっている。静かな和室に響くのは、ガラス戸に打ち当たる雨の音。寒さまで伝わってくるほどの吹き荒れる風の音。あとで優一に電話をしなきゃなとぼんやり思いながら、まだ続きそうな雪江さんの話に耳を傾ける。……知りたかった。すぐるさんの胸にあったのはどんな想いだったのか。もっと詳しく、その心の襞まで掴んでみたかった。
 雪江さんは庭のほうを見やり言葉を継いだ。
 
 ──今思えば、兄は、出会ったときからわたしに引け目のようなものを感じていたのではないかしら。わたしの父は地主の息子で、この辺りでも名のある人物でしたし、わたしは愛娘として、町の人々や父の友人知人から可愛がられてきましたから、ぽっと入ってきた親子には居心地の悪い思いがあったやもしれません。兄とわたしは一つ違い。年も性別も違っていましたが、気が合い、近所の友達を交えてよく遊びました。
 わたしが大学に入った年のことです。夕凪荘も評判の良い宿屋としてこの辺ではそこそこ知られるようになっていました。母の急病のため住み込みの働き手を兼ねた下宿人を募集していたとき、彼がやって来たのです。
「今日からお世話になります。藤原たまひとです」
 門をくぐって軽やかに挨拶をした二十二歳の若者に、わたしはすぐに胸の高鳴りを覚えました。春を待つ鶯が気の早い唄を聴かせる早春の朝のような、清々しさと高揚感に満たされたあの日の感覚を、今でもありありと思い出せます。最初不安がっていた父もやがて彼を気に入りましてね。父も兄も、わたしと同い年の好青年を家族のように迎え入れて過ごしましたわ。大学に通うたまひとさんとわたし、出版社に勤め始めた兄、いつも行動を共にしていたせいか、三人はまるで仲の良い兄弟みたいね、と近所の方や親戚たちから何度も言われたほどです。土日に宿の手伝いがない日はよく街へ揃って出かけましたわ。さっき写真でお見せした横浜の街へね。いつも帰りがけ、言葉を使う遊びに夢中になってしまう二人を眺めてるのが好きでした。楽しかった、ほんとうに。しかし父がわたしにお見合い相手を紹介した日、何かが狂い始めた気がするんです。
 
 雪江さんは斜め下に視線を落とした。
「お見合い相手ですか」
「ええ、断りづらい知人からの薦めだと言ってわたしに写真を見せてきたんです。ちょうど兄とたまひとさんがいる部屋で。……そのときかすかに兄が眉を顰めたこと、たまひとさんが何かに囚われたような表情を見せたこと。二人の微妙な、ほんとに些細な表情の変化が今でもくっきり脳裏に焼きついています。結局お見合いは断ったんですけどね。なんとなく今までとは違う空気がわたしたちの中を流れるようになりました。そして……」
 雪江さんは目を伏せてから、すこしの間を置き顔を上げた。形のよい瞳がわずかに潤んでいるように見えた。

 ──ある冬の穏やかな夕暮れどきのことでした。わたしは兄の部屋がある離れに行き、兄に告げました。
「……兄さん、わたし、たまひとさんのことが……」
「好きなのか」
 重々しい声で訊ね返す兄を前に、わたしは静かに頷きました。磨りガラスをはめた木枠の窓から茜色の陽が注ぎ、兄の頬を強く照らしていました。兄は押し黙り、ただわたしを、いえ、わたしの足元を眺めていました。鳥の鳴き声一つせず、部屋はしんと静まり返っていました。やがて強い陰影が兄の姿に落ち、何かが萌したはずのその表情を隠しました。驚き、哀しみ、迷い、安堵、いったい兄の心に浮かんだのは何だったのか、わたしにはわかりませんでした。何かを思案し、決意したかのようにも見えました。兄は最後にひと言「お前は、たまひとと幸せになるといい。父のことは私に任せてくれ。二人が幸せになれるよう私が上手くことを運ぶよ」……そう言って面を上げ、ゆるりとした微笑みを見せてくれたのです。それは包み込むような、柔らかで心許ない微笑みでした。
 
 鳴り響く空の音が、鼓膜の奥を震わせる。
 雨は激しさを増していった。

 ──それから数日後のことです。帰宅したわたしがいつものようにポストで手にした兄の郵便物を届けに庭を横切り離れに来ると、部屋から勢いよく飛び出してきた人がいました。たまひとさんでした。声をかける隙もありません。すれ違いざまに見えた彼の頬は紅潮しており、横顔は妙な重々しさに満ちていました。あのとき高く飛び跳ねたわたしの心臓は、夜までずっと収まらない鼓動を鳴らしていたのを覚えています。
「何か、あったの?」
 部屋を覗くと兄がいたのでおそるおそる訊いたら、兄は「いや」と気まずそうに目を逸らしました。それでもいくらか後に落ち着いた口調で事の始終を伝えてくれました。
「……お前のことを話していたんだよ。この前の見合い話の件から始まって、お前が慕っている相手は誰なのか、そんなことを切り出してそれとなく水を向けてみた。たまひともお前の結婚話に関心を持っていたからね。『すぐるさんはどう思うのか』と意見を求めてくるから、口にしたんだ、私は。たまひとの目を真剣に見つめて。……雪江を、幸せにしてやってくれないか、と。たまひとが雪江と一緒になってくれることを私は願っている、と──」 
 どきどき鳴る心臓の音を聞きながら、わたしは兄の口から継がれる言葉を待ちました。兄は言いました。「たまひとは、ゆっくりとね、頷いたよ。突然のことで驚いたようだったが、彼は心を定めた男の顔を私に見せてくれた」
 そのとき大きく跳ねた左胸の、苦しく甘い感触をわたしは生涯忘れないと思いました。わたしは上擦った声で訊きました。
「ほんとうに? 兄さん、たまひとさんは本当に……」
「結婚式は早いほうがいい」
 兄の微笑みはとても静かでした。静かで、密やかで、けれども強く、揺るぎない。わたしの胸には、この上ない喜びと、えもいわれぬ罪悪感がひたひたと満ちていきました。脳裏を掠めたのは兄の繰り返し語ってきたあの言葉です。
『──私はお前のために必ず何かを犠牲にしよう。それが私の望みだ』
 
 閃光が障子と畳を照らした。強い光はいま雪江さんの瞳の奥に浮かんだ本心という焔を覆い隠した。……僕には、三人の感情がしっかり読み取れなかった。雪江さんは、たまひとさんが自分との結婚を承知したことを喜んだのに、苦しくもなった。すぐるさんは雪江さんのために犠牲を払ったのだとしたら、何を諦めたのか。たまひとさんは、雪江さんの気持ちを受け入れたのに、なぜ重い表情で部屋を飛び出したのか。すこぶる回転の遅い僕の頭では、彼らのやりとりの真意を掴み取れない。今の話になんと反応すればよいかわからず、僕はただ、陶然とした様子で目を伏せた雪江さんを眺めていた。
 次々とガラス戸を叩く雨音が、遠い過去から聞こえてくる誰かの足音のように思える。苦しくて、恋しくて、けれど得ることが叶わず、ただ無闇に駆け出していくしかなかった誰かの、切ない足音に。過去と未来が交差する、三人が若かりしある日の出来事。仲良く語り合っていた彼らの間に、いったいなにが起きたというのだろう。

六、湖の底

 ──その数日後、たまひとさんとわたしは、初めて二人きりで一日を過ごしました。街角の喫茶店で向かい合った日、彼はもの柔らかな微笑みをわたしに向けて言いました。
「夫婦になるとは、どういうことだろう」
 わたしは答えられませんでした。もっともその問いが自問のように感じられたことにもよります。店の中には『蘇州夜曲』がゆったりと流れていて、わたしたちはしばらく美しい旋律に耳を傾けていました。曲が終わり、顔を上げたたまひとさんはわたしの目を見て、また静かにテーブルに視線を落としました。そして言ったのです。
「愛情という水を湛えた湖の上を、たった二人しか乗れないボートに身を置き、共にオールを漕いで向こう岸へと航っていく。もしもそんなものであるならば、僕は君と共に行けることを心底光栄に思う。君と同じ速さで漕いで、君と同じ景色を見て、君と同じ場所を目指す。その一瞬一瞬をかけがえのないものと感じられるだろう。ただ……」
 たまひとさんは長いまつ毛を伏せて、噛みしめるような口調で続けました。
「僕には、湖の奥底に沈めたものがある。それが何かを君に伝えることができない。それはあまりに重くて、暗くて、無理に引き摺りあげれば血を流してしまうものなんだ。命の灯が尽きる日までそっと潜めておくしかないんだ。僕はそれを沈めた湖の上を、生涯にわたり、ただ静かにオールを漕いでいく。迷いはないよ、一片もね。これ以上の道はないと僕は知っている。それを引き揚げようと思うことはない。それでも時々、君は湖の底を覗いてみたくなることがあるだろう。けれどどうか見過ごしてくれないだろうか。君と共にオールを漕いでいく僕の真心を信じて、黙って隣にいてくれないだろうか」
 その言葉を噛み砕くまで少し時間がかかりました。再び曲が流れ出し、わたしとたまひとさんの耳元をバイオリンの柔らかな音色がゆったりかすめていきました。その旋律は温かく、同時にすすり泣いているようにも感じられました。たまひとさんはそっと目を閉じ、再び瞼を開いて窓の外を眺めているようでした。わたしに問うておきながら何を見ていたのでしょう。けれど──言いたいことは伝わったのです。わたしは再び向き合った彼の眸に真摯な色を認めたあと、ゆっくりと頷きました。
「あなたと共に行けること、わたしにとってこれ以上の幸せはありません。隣にいたいのです。誰よりもあなたの近くにいる人でありたいのです」
「ありがとう。僕の精一杯を尽くして、君を幸せにするつもりだよ」
 古いステンドグラスの窓に午後の日が差し込んでいました。私とたまひとさんの間に、美しく柔らかな光が、斜め方向に光のさざ波を作り出していました。何も語らず、わたしたちは互いの目の奥に映る湖の上をしばらく逍遙して、そして手を握り合いました。テーブルの木肌の冷たさと手の温もりの対比が、暗黙の誓いという焼印をわたしの心にくっきりと焼き付けました。
 
 ことん、と茶呑みを卓に起き、雪江さんは目を閉じた。心のスクリーンに、今鮮やかに二人の場面が映し出されているであろうことは想像に難くない。僕は、自分が雪江さんの語ったことをすべて掴み取れたと思えなかった。たまひとさんは、つまり、夫婦にはなるけれど聞かないでいてほしいことがあると雪江さんに伝えたのだろうか。それって、いわゆる秘密──というものなのかな。結婚というものは、恋愛感情の結果として起こるのが普通だけれど、時代や文化や家庭事情、その他様々な理由でそれ以外の形でなされることもあることくらい僕だって心得ている。身近でお見合い結婚の話を聞いたことだってあるし、世間とは違う独特のルールを持つ夫婦だってそりゃあいるだろう。だから別に不思議というほどじゃない。けれど、そうだとしても、僕は少しだけ雪江さんの顔を見づらかった。湯呑みに浮かぶ茶柱を穴が空くほど見つめながら、たまひとさんが四十年も前に告げた言葉を、僕はいま一度思いの中で咀嚼した。
 
 プルルル……
 過去に思いを馳せていた僕を、当時は聞こえなかったはずの電子音が急かすように今へと引き戻す。腰ポケットのスマホを取り出して見ると優一からの電話だった。雪江さんに軽く頭を下げてから画面をタップする。
『玲人、宿には着いたのか?』
「うん、今夕凪荘でお話を聞いてるんだ。あのさ、今日雨がすごくて……」言いかけると「ああ、無理に帰らない方がいいな。ひょっとしてそこに泊まってくるのか?」僕が説明するまでもなく見当をつけてくれていた。
「うん、勧めてもらって、そうしようかと」
『そっか。明日このひどい雷雨が収まったら、俺もそっちに行くよ』
「ほんと? 迎えに来てくれるってこと?」
『もちろん』
 電話口から伝わってくる優一の微笑みが、やけにじわりと沁みこんでくる。突然荒れた天候のせいで自分でも気づかないうちに心細くなっていたみたいだ。
「ありがと。待ってるよ。あ、それと。あとでまた電話するから」
 たぶん今日聞いた話を少し伝えたくなるから、眠る前に優一に電話してしまうと思う。そう伝えたら、今宿の人と話し中であることを慮って『おう』と軽い返答があった。
「すみませんでした」
 雪江さんに向けてもう一度頭を下げると「お友達かしら」と目元を細め小さく小首を傾げた。
「はい、あの、一緒に住んでいる……あ、同じシェアハウスの住人なんです。明日天気が回復したら車で迎えに来てくれるって」
「まあ、お優しい方ね。それなら安心だわ。慣れない場所に来たら突然の嵐でしたものね。明日は晴れるといいんですけど」
 二人して窓の外に目を向ける。風雨の音は絶え間なく、闇に沈んでいく空を覆い尽くしていた。
 
 雪江さんに勧められ、ひとまずお風呂に入ることにした。天然の源泉を引いて加温した湯をこの宿の内湯として使っているらしい。暖簾をくぐれば、脱衣所のすぐ目につく所に説明書きがしてあった。天然アルカリ温泉か。ふと、優一と二人で温泉旅行なんてしたらどんな感じだろうと思った。そんな大人っぽい旅行ができる日も来るのかな、僕たちに。貸切状態の入浴場でひとり想像をふくらませてみる。
 経年の色で風合いを増した木戸を開け、モザイクのような細かい青タイルが敷き詰められた浴室に入った。高窓の磨りガラスに風雨が当たりガタガタ音を鳴らしている。カランを捻り湯をかける。浴室内に木桶の音が響く。こぢんまりしてるけど、ここはやっぱり立派な温泉宿なんだな。古くても細部にわたり日本建築の技術が行き届いているみたいだ。頑丈かつ繊細なデザインの窓枠や壁の重厚さにそれを感じる。岩で囲った一角に変わらず湛えられた柔らかな湯、静けさの密度を増してゆく檜の香り。どれくらいの時を経ればこれほど風情のある空間が仕上がるのだろう。
 今日聞いた雪江さんとたまひとさんとすぐるさんのお話は、僕の心の中に深く染み込んできた。三人の関係性について思い巡らしながら湯船に浸かり、湯気が消えていく高い天井を眺めた。湯上がりにまた続きを聞かせてくれるという。雪江さんとたまひとさんは無事に結婚式を挙げられたのだろうか。いやそれは、多分そうなったから今があるのだと思うけど。でも二人が結婚したあとすぐるさんがいなくなった時のことをちゃんとこの耳で聞きたい。
 髪を乾かし、宿の浴衣を借りて羽織りを掛けて、僕は再びさっきの和室に入り座った。まもなく雪江さんが、熱めのお茶を用意しましたと和かな笑みを見せながら盆を抱えて入ってきた。「あの日のことをお話しなくちゃなりませんわ」と切り出された話に、湯呑みを啜りながら僕は耳を傾けた。

七、旅立ち

 ──結婚式は、この夕凪荘の庭で行ったのですよ。あれは初夏の日差しが暖かな、美しい一日でした。町の人々を招いたわりには簡素な式となったのですけどね。たまひとさんと誓いの言葉を交わしたとき、彼の背後で庭の木がはらはら花弁を落としていく様子が見えました。兄は白い羽織りを着て立ち、わたしたちを見て静かに微笑んでいました。その表情は優しく、どこか寂しくも感じられました。たまひとさんは元の苗字が『藤原』でしたけど、婿養子として籍に入ったので、その日から高城玲人(こうじょうたまひと)となったのです。わたしと、そして兄と同じ苗字に。
 
 そこまで語り、雪江さんは目を閉じて昔日の情景に身を浸しているようだった。それは僕の心に広がる光景と同じか、あるいは少し違う色彩を帯びているのか。整った芝生の庭は、舞い落ちる小さな花弁で覆い尽くされていく。隣で湖の水面がきらきらと初夏の日差しに揺れている。たまひとさんが雪江さんの手を取り、結婚の誓いを述べ優しく微笑む。そんな二人を見守るようにすぐるさんもまた微笑む。彼の頬に浮かぶものを認めて、新郎新婦はそっと胸を温めたことだろう。たまひとさんが湖にボートを浮かべ、雪江さんと一緒にオールを漕ぎ始めた、それは美しい初夏のひと日のこと。まるでこの目で見て触れたかのように、僕はその光景をいつまでも忘れられないと思った。ニセアカシアの花が放つ甘い香りがそこらじゅうに優しく漂っている。祝福のさざめきを背に二つの魂がそっと契りを交わした、晴れやかな門出の日。ああ、すぐるさんがこの地を去る決意をしたのもきっとその日だったのだろうな。
 
 ──兄は翌朝から荷造りを始めましたわ。旅立つことは結婚式の前に話してくれてました。わたしとたまひとさんは衝撃を心に収め、平静を取り戻してから、荷造りを少し手伝って、次の日兄を見送りました。行き先は遠い場所だろうと覚悟したもののさしもスコットランドの小さな町だと聞かされた時はわたしもたまひとさんもたじろぎましたのよ。そんな途方もない場所へ行ってしまうなんて。
「スコットランド?」
 僕も驚き訊き返した。行き先は外国だろうとわかっていても、驚いた。
「ええ、ピトロッホリーという町でね。なんでもあの夏目漱石も英国に滞在中訪れたことがあるとか。書物に『ピトロクリ』と名前が残されているそうです。ある人を伝手に、その地の自然と文化保護の活動に参加することで小さな住まいを借りて生活していける目処を立てていたようです。本当に段取りのよい人で。もっとも、たまひとさんを婿養子として迎えたことで父は兄の渡英に反対する理由もなくまとまった生活費を渡したほどでしたから、金銭面で生活に困ることはないようでした。けれどね、そんな遠い場所へ兄が旅立つことを受け入れるまで時間を要しましたわ」そう語り、間をおいてやや神妙な声音で付け加える。「何の縁もない異国の町、どうして、と最初は訝りました。けれどきっかけになった理由はなんとなく見当がつきましたの」
「理由?」
「ええ。たまひとさんですよ」
「どういうことですか」
「夫には異国の血が混ざっていましてね。いつだったか真冬に、遠い親戚を名乗る人物から便りが届いて、いちど訪ねてこないかと夫を誘ってきたのです。生憎たまひとさんは心理的事情で長時間飛行機に乗れず、外国への旅が叶わない人でしたの。だからその土地へ憧れだけがあることを、三人でおしゃべりした時こぼしていました。たまひとさんに英国人の血縁があることを聞き逃さなかった兄は、そのあと彼から随分詳しいお話を聞いたようでしたわ。それで、その地を選んだのかもしれないと、兄の口から町の名前を聞いたとき自然に思ったんですよ」
 
 僕も自然に頷いていた。そうか、それであの写真なのだ。封筒の中に入っていた一枚の写真、あれは憧れながら旅が叶わないたまひとさんのためにすぐるさんが現地の風景を見せてあげたかったのでは。なんであんなぼんやりした写真を寄越すのか意図が見えづらかったけど、日常の風景はすぐるさんの小さな思いやりだったのかもしれない。僕の考えを読み取ったように雪江さんが言った。
「すぐるから届く手紙には、毎年パズルと一緒に近所の風景写真が入っていました。玲人さんが届けてくれた封筒にもありましたでしょ。なぜか近所の散歩道の風景ばかり。ピトロッホリーには町の象徴みたいな教会や建物があるのに、最初の写真で小さく風景の端に写っていただけでした。変わった人でしたわ、兄は」
 雪江さんは微苦笑をしてみせた。僕は心の端っこで、ここまでの共通点を数えたくなっていた。たまひとさんと同じ名前の僕のそばにも英国人の血が流れる人物がいる。変な理屈だけれど、手紙が僕を介して雪江さんに届いたのには必然性があるのかもしれない。
「お二人はすぐるさんからの手紙が楽しみだったんですね。イギリスなんて簡単に行けないと思いますけど、やはり遊びに行ったりもできなかったのですか」──もし行くのなら、雪江さん一人で行くことになっただろうから、仲の良い夫婦がしばらく会えないことになるんだよな。僕が頭の中で勝手に状況整理していたら、雪江さんはただゆっくりと頷いた。いつも夫との会話の中心は、すぐるが今どうしているか、遠い地で何を思い、どのような暮らしをしているか、というものだったと話してくれた。二人にとってすぐるという人がどれほど意味深い存在であったのか、否が応でも伝わってくる。次々と語りを続ける彼女はもう、僕が同性同名の字を持つ赤の他人であることすら忘れているのではないだろうか。まるで自分自身に語るかのような、くつろいだ、遠慮のない、それでいて時々郷愁を誘う目をしながら、彼女はなお言葉をつないでいく。
 
 ──ある日、友達が訪ねて来たんですの。あれは、そう。ちょうど三度目の結婚記念日をお祝いにたまひとさんとお出かけをして帰宅したあとのことでしたわ。夜分遅くに申し訳ないと言いながら、さしてすまなそうでもない素振りでやってきたのを覚えています。友達というのは、すぐるとずっと仲良しだった西園寺克典という人で、わたしもたまひとさんももちろん面識がありました。つい先日まで旅に出ており、その折にすぐるの住まいに立ち寄ったというのです。すぐるの近況報告だ、ちょっとお邪魔させていただくよ、と。彼はなんと言いますか、時々苦味の効いた冗談や皮肉を言う人とわたしは思っていたので、顔を合わせたとき少し緊張したのです。案の定、客間に腰を下ろすや否や彼は言いました。
「すぐるは病を患っている。心の病を、ね」
 突然切り出した遠慮のない物言いに、わたしとたまひとさんは黙り込みました。その言葉を鵜呑みにするわけにもいかず答えあぐねていると、彼は続けました。
「二人の元を遠く離れたのはどうしてだろうな。あいつなりの美学か哲学か。ああ見えて頑固な奴だからな」
 ジャケットのポケットからタバコを一本取り出し咥えて、ふとわたしを見ました。いそいそと奥の間から父の使っていたライターを持ってきて火をつけてあげました。すまないね、と小さく呟いたあと、にやりと笑ってまた言うのです。すぐるは、あいつは、叶わぬ恋をしているのだ、と。
 彼はわたしの目を鋭く刺すように見つめました。そしてポツリとこぼしたのは、「血がつながっていないんだものなぁ」……まるでこうなったのも仕方ないと言いだけな、ため息混じりの言葉でした。わたしは話を逸らしたくて訊きました。「兄は、風邪など引かず元気にしておりましたか?」すると、「そっちの病はとんと見えなかったね。あいも変わらず紙とペンにまみれ、粋な問題を作ろうと頭を捻っていたよ。あ、それとね、あいつは近頃めっきり洋装に変わったからな。知ってたかい?」そんなことを言いました。
「あら」西園寺さんの目が妙に輝いてるようでした。「そうでしたの。兄はもう着物を着ていないのですね」「そうさ。なんでも土地の自然保護区に関わる事務作業や野外活動で忙しいらしく、内でも外でも動き回るにはこれが一番さと言って渋いツイードのジャケットを着こなしていたよ。にしても、あんな上等な服を毎日着られるなんざやつも良いご身分だよなぁ。すっかり英国紳士といった風情さ」
 西園寺さんはそう言って苦味のある声音で笑うので、わたしがもっと知りたげに顔を彼に向けましたらこう言ったのです。「あのジャケットは町の名士から譲ってもらったらしく随分上質な素材の品らしくてね。最高級の羊毛を使用したツイードで、高価な老舗メーカーの時代物らしい。ひと目見て俺も気に入ったのさ。まあ奴に似合ってるっちゃあ、似合ってるんだがね」
 大人になってから兄の洋装を見たことがなかったわたしは、頭の中でジャケット姿の兄を思い浮かべていました。すると西園寺さんは不意に夫に視線を向けて訊きました。「そうだそうだ、すぐるは毎年たまひとくんにパズルを送っているんだってね?」寡黙に耳を傾けて佇んでいた主人ははっと顔を上げ、「訪れたとき、僕への手紙を書いていたのでしょうか?」と聞き返しました。「そうそう。なんでも三番目になるパズルを作成中だと言っていたね。しかしなんでまた、そんなゲームみたいなやりとりをしているんだいと訊けば『約束なのさ』とだけ答えたな」わたしは夫の顔を見ていました。たまひとさんの頬に、うっすらと安堵とも焦燥ともつかぬ色が浮かびましたわ。
 
「やくそく……」
 ぼそりと繰り返してしまった。僕は想像の中ですぐるさんの表情を探ってみる。でもどんなに探ってもそれは掴めない。
「ええ。毎年暦の立春が近づく頃、主人が兄の手紙を待ち遠しく過ごしているのは知っていました。ある日問うてみたんですの。毎年この時期に届く兄からあなた宛の手紙にはどんな秘密があるのかしら? と茶目っ気を出してね。わずかに怯んだふうの主人は白状しました。これは、僕がすぐるさんにした問いへの答えなのだ、と。毎年ひとつだけヒントが届き十通目にようやく本来の答えがわかるのだ、と」
 雪江さんの微笑には夫への柔らかな愛情がこもっていた。けれど、ややあってその目がどこか遠いところを見ていることに気づく。湖の向こう岸を望むかのような、オールを漕ぐ手を止めてふとため息を吐いたような、それは寂しさを孕んだ目に思えた。
「えっと、僕が持ってきた手紙はつまり……」
「ええ。十通目の手紙ですわ。兄が旅立ってちょうど十年目に夫の手元へ届くはずだった手紙。最後のヒントを知ることのできるパズルが入った、夫が待ち侘びた手紙なのです」
「じゃあ、このパズルの答えは最後の一文を知るための最後のピースだったんですね。……あの、今更こんなこと聞くの変なんですけど、雪江さんは、その、たまひとさんがすぐるさんに何を訊いたのかご存知なんですか?」
 ずいぶん突っ込んだ質問をしてしまい思わず顔が赤くなる。けれど雪江さんは意に介さず、ただ目を伏せて静かにかぶりを振った。
「──存じませんわ」
 どう答えればよいかわからなくなる。自分で訊いておきながら困ったものだ。すると彼女は小さく笑って言葉を添えた。わたしが関わっているようでした──と。

八、訃報

 嵐の夜とは、かくも心細いものだったろうか。宿は頑丈な造りだが、ガラスが揺れる音や微かにうごめく部屋の空気や、今雪江さんが運んで来てくれた夕膳の彩りさえどこか影を落としているように思えたのだ。本来の泊まり客に出すはずだった、山菜が中心の膳にありがたく箸をすすめながら僕は、そばに佇む雪江さんの語りに引き続き耳を傾けていた。雪江さんはもはや取り憑かれたように、僕に兄すぐるさんの話をしている。そして、記憶で手繰り寄せた過去の一日、ついに決定的な出来事が起こったことを、彼女の瞳の広がりを見て僕は知った。
 
 ──その朝、わたしはいつものように台所で朝食の準備をしていました。テーブルの上には湯気を立てている紅茶のカップと、夫が好きだった檸檬ジャムのトーストが並べてありました。玄関のベルが鳴りました。顔を出したのは西園寺克典、英国へ渡った後も兄と度々親交のあった友人です。彼の蒼白な顔に、わたしは心臓の鼓動を速め、手に掴んでいた小皿を落としました。破片は足元に散らばりました。拾いあげようと俯いたわたしの耳に滑り込んできた言葉は、もっとも恐れていた言葉でした。
「雪江ちゃん、すぐるが死んだよ──」
 
「えっ」
 僕が発した声に呼応して、高い空から轟音がした。バリバリッと険しい音は雷が直接どこかに落ちたことを示した。背筋に冷たいものがすーっと流れ落ちていった。どこかではわかっていた。すぐるさんは、雪江さんやたまひとさんよりも早くに亡くなったのだと。けれど今はっきり雪江さんの口がそれを語ったとき、胸にたしかな痛みが走ったのだ。ああ、どうしたというのだろう。彼はもう何十年も前に生きていた人だ。一度も顔を合わせたことがない人だ。なのにどうしてここまで苦しいのか。この痛みは僕のもの? それとも違う誰かのものだろうか。鼓動が速まり、手に冷たい汗が滲む。頭の奥で、きん、と尖った音がした。何かと何かが共鳴した悲しい音だ。いや、共に慄えている音。感じる重苦しさは、初めて手紙を手にしたときと同じものだった。僕の身体が持つ感覚なのに、遠い誰かの心の叫びのように感じる。僕はごくりと唾を飲み込み、黙ってそのまま耳を澄ませた。雪江さんは僕の異変にかまうこともなく淡々と言葉を継いだ。

 ──西園寺さんの元へ地元の警察から連絡が入ったのです。兄は町外れの川で、溺れている子供を救うために水に飛び込み、そのまま流れに飲まれてしまい命を落としたそうですわ。子供はさいわい助かったとのことでした。自然保護区の範囲測定のため数人で出かけた先での出来事で、何人か状況を見守っていたひとがいたのですね。西園寺さんはすぐにピトロッホリーの町へ出向き、現場も見て、遺体の確認をして、わたしに知らせるために飛んで来てくれたのです。その後すぐに、わたしも遠い地まで出向かざるを得ませんでした。遺品整理をして帰国するまでずいぶん時間がかかりました。たまひとさんは飛行機に乗れなかったので、わたしと西園寺さんですべてを片付けて帰国し、後日厳かな葬儀を母屋で行いました。結婚式に参列してくれた面々が同じようにやってきて兄を見送ってくれましたわ。冬枯れのニセアカシアの大きな枝が北風に揺れて、湖の水面は遠くまで小さなさざなみを作り、冷たい空気が足元に絡むばかりの寒々しい冬の日でした。兄を荼毘にふしたあの日は。
 
 庭を吹き抜けていく寒風が僕の耳を掠めた。何十年も前の一日を振り返りながら、雪江さんは目を閉じる。瞼の重みに、すぐるさんを亡くした彼女の悲しみと、たまひとさんのやりきれない苦しみと、すぐるさんを見送ったすべての人たちの寂しさが濃厚に翳りを作っているようだった。雪江さんは未だ静かに目を閉じていた。沈黙そのものを忘れてしまったかのように。震えるような胸の奥にどれほどの思いが募ってるのか、声にして問いかける必要は微塵も感じなかった。たまひとさんは、すぐるさんが最期暮らした土地にすら行けず、どれほど悔しい思いを抱えたことだろう。すぐるさんをこれほど慕っていたふたりの心に突然暗い影が落ちて、それはもう二度と取り除けない闇となり、いっそう三人の絆を深めたのだろう。楽しく笑い合った庭の芝生の色、初夏に舞い落ちる白い花弁、それはとても美しい光景だから、どこまでも透明な深い水底へ、三人の懐かしい記憶を封じ込めていく。僕はみなの心に起きた変化が、ボートが転覆するほどに大きな衝撃とならなかっただろうかとそれだけが気がかりだった。なったわけもないのに……。だって雪江さん夫婦はその後も連れ添いあい長い年月を重ねていったことを僕はすでに知っているのだから。
 言葉を忘れて佇む僕に、雪江さんはゆっくり目を開き告げた。
 
 ──日記があったのですよ。兄の机の引き出しに。遺品整理をしていたとき見つけたのですわ。そこにね、玲人さん。書いていたのですよ、兄は。『明日、十通目となるたまひとへの手紙を出せる。忘れないようにジャケットの内ポケットへ入れた。これで完成だ』と。はっきり書いていたのですよ。
 
 僕は耳を疑った。
「そうはっきり書いていたのですか?」
「ええ、そうはっきりと」
「じゃあどうして」──手紙は投函されなかったのか。つまりは、投函するより前にすぐるさんは亡くなってしまったのだ。子供を助けるために……川へ飛び込んで……? 頭の奥に低い声がこだました。私はお前のために何かを犠牲にする──犠牲──そのひと言が重石のように心に食い込む。ちょっとやそっとじゃ取り去れない重い力で、それは湖の地面に根を張るように食い込んで、二度と浮き上がってはこない。
 
 ──地元の幼い女の子だったと聞きました。知人ではなかったようなので、偶然目にしてしまったというほかないのです。川の流れに飲まれた兄は、最後に何を思っていたのでしょう。この手紙のことを思い出したかしら。とにかく、日記に書かれていたにもかかわらず、遺品の中から手紙を見つけることはできなかったのです。ジャケットそのものがなくなっていたんですもの。
 
「え」再び驚きの声を上げた。ジャケットが消えていた?
「どこへいったのでしょう、兄が着ていたはずの服は、そして手紙は。……帰国してからわたしはたまひとさんと何度もその話を繰り返しました。夫が西園寺さんに尋ねたときですわ。そんなもんわからんさ、とやけに冷たく撥ね返されましてね。その上彼はおかしなことを口走るんです。すぐるの奴には一杯食わされた、あいつは飛んだ食わせ者だった、許してやらないうちに逝っちまいやがって、と。悲しみから口走ってるのだと思いましたけど、最後に喧嘩でもしたのでしょうか。いずれにしても服の行方はついにわからなかったのです」雪江さんは切なげに目を伏せた。ジャケットと手紙の行方、西園寺さんの不穏な態度、これらは何を意味するのか想像がつかない。だけど……。
「雪江さんが遺品を整理したとき、すでになかったということですよね」
「ええ、そうですわ。ひょっとして現場から誰かが持ち去ったのかしら」
 僕も同じことを思った。川に飛び込むとき重たいツイードのジャケットは脱ぎ捨てただろうし、付近にはいくらか人が集まりすぐるさんの行方を案じていたということだから、高価な洋服を心ない人物がくすね取ったのかも。
 それにしても。僕には、何もかもが途方もないことに思えた。遠い異国の地で突如命を落としたすぐるさんのことも、その事実を受け止めた雪江さんの心とたまひとさんの心も。日記に書かれていたのに行方不明になった手紙のことも。すぐるさんと親しくしてた西園寺さんの豹変した態度も。……手紙は、とんでもない年月を経て僕の家へ届いた。その間誰の思惑により隠されていたのか。誰が僕に手紙を届けたのか。……頭が混乱してきた。僕の様子を見てか、雪江さんははっと顔を上げてまだ続きがあるのだと、あることを語り始めた。今はとにかく話を聞こう。
 
 ──玲人さん、それからのことですの。日が暮れても蝉の声が鳴り止まない夏日のこと、わたしはたまひとさんの書斎の抽斗を開けて、とあるものを発見しましてね。これですわ、見てくださいな。
 雪江さんは意気込んで言うと、くるりと後ろを向き小机から何かを取り出してみせた。それは小ぶりなノートだった。帳面と言ったほうがしっくりくるかな。年月を経て端がめくり上がり、手垢がこびりついた薄いノートは、雪江さんの細くて長い指によりさらっと捲られる。僕に向けて見開かれたそこには、言葉が順番に縦の列になって並んでいた。
「これは──?」
「夫が毎年付けていたクロスワードパズルの答えです」
 慈しむように、整列した文字たちを雪江さんは指先でなぞった。
「答え、ということはつまり……」
「ええ。九つ言葉が書いてあるでしょう。これは毎年届いたパズルを解くと出てくる答えですから、最後の答えを列の終わりに足せば、ある一文が見えてくるのです」
 僕は身を乗り出して覗き込み、きれいに記された文字列に目を走らせた。一段ごとに書かれてある〝言葉〟は、こうだった。
 
 君の
 雪江を
 幸せの
 誰よりも
 私は
 ため
 だった
 すべては
 している
 
 なんて……ああ、なんて思わせぶりなんだ。
 これほど短い言葉を、来る年も来る年も、わざわざパズルの答えとして出るように仕掛けていたすぐるさんのことが、またそれを根気強く待って興味津々で解いていたらしきたまひとさんのことが、僕はただただまどろっこしく感じられた。でも、そもそもすぐるさんという人は肝心な言葉を発することのない人に思えてたから、僕に真意が掴めないのも当然だけれど。ここに続く一つの言葉で意味のある一文が出来上がる。十年もかけて、たまひとさんがした質問の答えを本人に返す。
 ──何のために? 
 ──なぜそれほど時間をかけて? 
 僕は頭が混乱しそうだった。困惑しかけた僕の耳元へ雪江さんが囁くように言った。
「玲人さん、夫はこうして答えを書き連ねていたことを、わたしに伝えることもなく抽斗の奥に仕舞っていたなんて、どう思います?」
「えっ」どう、って。
 そこを訊かれるとは思わなかった。えっと、まず整理してみよう。すぐるさんからパズルの入った手紙が毎年たまひとさんに届くことは雪江さんも知っていた。たまひとさんがパズルの答えを一つ一つ書き留めておくのはごく自然なことに思える。ただ、なぜ雪江さんの目を憚るように仕舞っていたのか。とはいえ隠し場所からして見つかることも想定していた。それは雪江さんを強く意識した行動だ。そこには、境界線の曖昧な二つの感情が絡んでいるように思える。それでも、僕は彼女に返す言葉をついぞ思いつかなかった。雪江さんははにかむように微笑んでみせた。
「あのひとったら。几帳面でしょう。そしてどこか秘密主義。こんなノートをつけているのなら見せてくれてもよかったのに。それほどに──」
 それほどに……。
 彼がすぐるさんにした問いは深い意味を持っていた──ということだ。
 そうだ、そこなんだ。
 目を細めて雪江さんは窓のほうを見た。吹き荒れる風にまるで「なぜ」と大声で問いかけているかのように。彼女は口角を少しだけ上げまた目を伏せる。頬に形容しがたい色が滲む。僕は……僕は、いま心の奥底でなんとなく感じ取っていることがある。けれどそれは明確な形となって浮かび上がってこない。優一にある日言われたことがあった。あれは一緒に何かの問題に向き合ってたときだ。俺はロジカルシンキングしかできないけど、お前は論理に縛られず自由に想像の翼を広げてみろよ、全身全霊で感じ取れ、と。そんなことを言われても、今回ばかりは筋道立てて考えないと何も見えてこないはず。……もう一度整理してみよう。質問に雪江さんが絡んでいることは明白だ。根拠は、すぐるさんが述べた幼い日の約束。西園寺さんの含みのある物言い。加えて、言葉の羅列にはっきりとあるじゃないか。「雪江を」という言葉が。あまりに直接的で憚られたが、僕はもう一度こう問いかけずにはいられなかった。
「──雪江さんは、質問って何だと思っていたのですか?」
 彼女は目を閉じて首をひねり、物憂げに言葉を発した。
「……さあ。ほんとうにわからなかったのですよ、玲人さん。ただ……」
 一瞬の間を置いてから遠い目をする。
「……誰かが、誰かを、愛していた。そのことだけはわかりますの」
 もう何度目かの稲妻が強烈な光を放ち、電灯の明かりがかすかに揺らいだ。
 ──誰かが、誰かを、愛していた。
 その言葉は、僕の中にあったイメージと一寸も違わず添いあって湖面に落ち、波紋をひろげた。
 卓の上の料理はもうすっかり冷めていて、僕は黙って最後のひとくちを飲み下した。

 その夜、嵐は勢いを増すばかりで一向に鎮まる気配がなかった。僕が寝床を広げた和室の頑丈な雨戸も終始カタカタ鳴り続け、夜が更けた頃は不気味な気配すら覚えてしまった。畳の上に敷かれた布団にごろんと寝そべったままスマホの番号をタップする。優一に一刻でも早く、今日雪江さんから聞いた話を何もかも話してしまいたかった。そこには僕の心では背負いきれない重みがある。雪江さんには友だちにも話を聞かせることを断っている。雪江さんたち三人の話を。彼女は嫌がるどころかゆったりと優しく頷いて「ありがとう」とまで言ってくれた。それはそのまま、彼女の中にある夫と兄への愛情に違いないのだろう。
 就寝前けたたましく鳴ったであろう呼び出し音に、優一はすぐに反応してくれた。電話口で、へえ、うん、そっか、ああ、なんてほどよく相槌を打ちながら、話を隅々まで聞きとってくれる。雪江さん夫婦の間にあった、あたたかくも微妙な何かはそのままのニュアンスで伝わったと確信できる。ここが、僕と優一の関係ならではと感じて会話中頬が綻んだ。優一は鋭いから何もかも把握してくれたと思うし、僕がどこで何を感じて何を思ったか、かなり細かいところまで伝わったに違いない。ただひとつ、西園寺さんの話をしたときに優一のトーンが下がった。西園寺はやたら服装の話を詳しくしたんだな、と。
「え、ああ、たしかに」
「へえ……」
「なに?」
「いや」
 たしかに西園寺さんは服の話をよくしていたようだ。定番の着流しから洋服生活になったすぐるさんの姿は印象深かっただろう。
「食わせ者とか、許してやらないうちに、なんて口走ったんだな」
「ああ、そう。どういう意味だろう?」
「なあ、玲人。ひとつだけ雪江さんに訊いてほしいことがあるんだ」
「なに?」
「その西園寺という男さ、亡くなったのはごく最近のことじゃないか?」
「それを訊けばいいの? それが手紙とどう関係してくる?」
「いや、わからないけど訊けたら訊いといてくれよ」
 優一の推理が、直接話を聞いた僕より上をいってたとしても僕は驚かない。何を考えてるのか聞きたいけど、僕も自分の頭で考えてみたかった。
「わかった。訊いておくよ」
「明日、昼頃にはそっちへ着きたいな。朝には嵐も収まるらしいからさ」
 最新の天気予報を交えながら明るく喋ってくれる優一の声が、暗がりを含んだ和室の空気を和ませてくれた。
「ほんと、よかった」
「ああ。それにしても、謎はいよいよ解けていきそうだな」
「そうだね。ここへ来てよかったよ」
 封筒ごと消えた洋服。ノートに綴られた九つの言葉。十年目に届く手紙で浮かび上がる「最後の一文」と、昔なされた問いかけ。問いの中身を知っているようで知らないような、何かを暗示させる雰囲気を持つ雪江さん。僕は、手紙に入っていたパズルをすでに解いている。普段使わない言葉も多くかなり苦心したけど、そこは現代人の強み、最先端の文明利器でさっくり解決させてもらった。だから最後のパズルの解答には迷いがない。あとはそれをノートの言葉たちに合わせて一文を導き出すんだ。優一もパズルを見たから答えは解けているはず。続けて訊いたら、
「ああ、もちろん答えは出ている。お前と雪江さんが出した答えと同じものが、な」
 そう。それはとても簡単な一語なのだ。僕は頭の中にその一語を書き加えている。雪江さんも今夜、渡した手紙からパズルを解き、ちゃんと答えを出せるはず。明日答えの話をしてみるよ、と優一に言ったら「そうだな。……なあ、玲人は言葉に振り回されず感じたことを大切にしろよ、それがお前の本分だからな」と意味ありげなことを言った。「う……ん?」現場にいる本領を発揮しろ、ってことかな。「僕が優位になっても構わない発言、ありがとう」と余裕顔で返してみれば、ははは、と毎度のごとく笑って流された。そして名残惜しそうな「おやすみ」の声を聞いてから通話を終えた。これで、僕の聞いた三人の話は滞りなく優一と共有できたわけだ。
 布団に寝そべり、飴色に変色した白木の天井を見つめながら大きなため息を吐いた。僕たちは、核心となる最後の謎に迫りつつあるようだ。パズルの答えを合わせたら浮かび上がる〝最後の一文〟──に。


九、最後の一文

 ゆったりした口調の柔らかな声がする。これはたまひとさん。凛とした冬の空気のように品のある声がする。これは雪江さん。掠れ気味の低い声、すべてを包み込む大地のような温かみがある。これは、すぐるさんの声だ。湖の辺り、芝生の庭には初夏に咲いた花が甘い香りを放っている。それは次々に高い枝から落ちて庭を白く埋め尽くしていた。笑い声は幸せそうだ。来る日も来る日もそこにあった三人の時間だ。心置きなく語り合う声を聞きながら、僕はその奥に潜んでいる言葉も聞き取っていた。──お前のために、必ず何かを犠牲にするよ──妹を思う、いや思いすぎる人の吐いた重たい言葉だ。すぐるさんは何を犠牲にしたのだろう。何かを諦めたに違いない。雪江さんの想い人をはっきり耳にしたとき、その決意は定まったのではないだろうか。雪江さんが愛した人は、夕凪荘にやってきた真面目で清廉な若者。彼が来るまでの月日、血のつながらない兄と妹はどれほどの絆を深めていたのか。まるで進んで背負ったかのような妹への負い目。それは単なる罪滅ぼしを願う感情だったのか、それとも秘めやかな深い想いだったか。雪江さんは兄の想いを知りながらまるで避けるように、目の前に現れた若者に惹かれていった……? たまひとさんは考えたのだろうか。雪江さんの伴侶に相応しい男は、本当は……本当は……。まさかそんなこと口にできるはずもない。だからこそ確かめたい願いは消せなかったのだろうか。たまひとさんにとって、雪江さんにとって、すぐるさんという人はとても大きな存在だったのだから。十年の月日が流れる間、たまひとさんは約束どおり雪江さんを幸せにして二人の間にはもう断ちようのない絆が生まれたに違いない。それを狙って、途方もない年月をかけたというのか。それはすぐるさんから妹への深い愛情だった。身を引く愛……か。
『血がつながっていないんだもんなぁ』
 そう、きっとすぐるさんは……
 
 
 小鳥の声がする。布団から飛び起きて窓を開けた。澄んだ陽射しが昨夜の湿り気を何もかも吹き飛ばしていた。明るい冬の朝、空は青く晴れ渡り、庭木の枝からぽたぽた雫が滴り落ちている。淀んだ空気も暗がりもすっかり消えたみたいだ。僕は夢の中に現れた人たちの本心をはっきり掴めたような気がしていた。
 朝の膳を頂いたあと雪江さんと一緒に庭を歩いてみた。雨を吸い取りひたひたに湿った芝生は靴をすぐに濡らした。中央にある木を見上げ、僕たちは黙って春の訪れと夏へ移りゆく日の風景を幹や枝の向こうに思い描いた。この木は、昔流行歌で歌われたアカシアのことだとか、アカシア蜂蜜の蜜源であることとか、和名を針槐というのだとか、僕が知らない知識も語ってくれた。宿に戻り談話を続けていると、聞き慣れた低いエンジン音がして、駐車場に黄色い車が滑り込んで停まった。
「お待たせ」
「優一っ」
 弾んだ声で出迎えると優一は嬉しげに手を僕の肩にまわして引き寄せた。やっと会えたな、って言いたげだった。たった一晩外泊して離れてただけなのに、遠い場所へ旅をしてきたような懐かしさを覚えてしまった。
「どうぞ、こちらに上がってお茶でも」
 雪江さんに促され、すみません、では少しだけお邪魔させていただきます、と優一が頭を下げる。台所を見渡せる茶の間に案内され、改めて突然の訪問を詫びながら、さりげなく家屋の造りや歴史的価値なんかを問いかけて情報を引き出していた。ライターとして実績も教養も積み重ねている優一にとって新しく目にするものはすべて興味の対象みたいだ。ひとしきり話が弾んだあと、雪江さんは立ち上がり、一冊のノートを手にして戻ってきた。僕と優一と雪江さんの前で開かれたページ、そこには折り目正しく整列した言葉たち。雪江さんは少しだけ微笑み、僕の方を向いた。
「玲人さん、この言葉の最後に、パズルの答えを書き込んでくださいませんか」
「えっ」書き込む?
「夫はここに、最後の言葉を書き足したかった。でもそれは叶わず逝ってしまったのですわ。そして、手紙を受け取った同じ名前のあなたがここにやって来た。夫は思っているはずですの。さあ、あなたの手で、最後の一語を書き加えておくれ、と。それでこのノートは完成するのですから」
 最後の一語。雪江さんもすでに出したであろう答え。ここで遠慮や躊躇をしてしまれば雪江さんだけでなく、たまひとさんに対しても失礼になるような、そんな気がして僕はノートの横に置かれたペンを手に取る。
 ちらっと優一の顔を見ると無言のまま「大丈夫だ。さあ、書いてみろよ」と言われた気がした。ごくりと唾を飲み込んで、最後の段に、とても簡単なその一語を僕は記した。並んだ言葉たちが意味のある語であるのと同様に、それをひとつの漢字にしてあらわした。
 
 ──愛。
 
 君の
 雪江を
 幸せの
 誰よりも
 私は
 ため
 だった
 すべては
 している

 
 僕たちはしばし黙ってその言葉の並びを見ていた。むろんそれは優一も雪江さんも同じ言葉を導き出したことを告げていた。誰かが、誰かを、愛していた──それだけは、わかる。そして誰が誰を愛していたのか。愛するために、何を選択して、何を犠牲にしたのか。……それももう、文面を見つめる僕たちの心の中に鮮やかに浮かび上がっていた。ただそれを口にしてしまうことはひどく不躾で野暮に思えるのだ。
 僕は、それでもやっぱりこのことだけは訊きたかった。どうしても直接の表情を見て確認したかった。
「雪江さんは、この言葉から浮かび上がる最後の一文に、納得したのですか?」
 静かに、力強く、雪江さんは頷いた。
「ええ、心の底から納得しましたわ。玲人さん、これでようやくわたしは、溜飲を下ろすことができました」
 目を瞑り、自らの言葉を噛みしめる。ここにいる者たちの思いのスクリーンに浮かんでいる最終的な答え、最後の一文。僕は頭の中でそれを読み上げていた。すると、頭の中の声に優一の声が被さった。濁したところでどうしようもない、そう言いだけにはっきりとした口調だった。
 
「私は誰よりも雪江を愛している すべては君の幸せのためだった」
 
 雪江さんは黙っていた。言葉の意味を噛みしめているようだ。ただ、優一がいま放った一文は僕のと若干違っている。少し迷いが生じてもやもやしていると、もうひとつの可能性もある、こっちの方が妥当だろう、と前置きしてから優一はこう付け加えた。
 
「私は誰よりも君の雪江を愛している すべては幸せのためだった」
 
 そう、僕はそれだと思ったのだ。彼が犠牲を払いたいほど思い続けた雪江さんはたまひとさんの妻になった。『君の雪江』という表現にはどこかもの寂しい響きがある。『愛している』という言葉は、『申し訳ないことだが』というニュアンスを背負っている。でもそれは、すべてすべて、彼が何より大切にしたかった『幸せ』のためだったのだ。すぐるさんの奥ゆかしい愛情がこの一文に凝縮されている。夫婦が決して切れない絆を築き上げるまで根気よく時間をかけて紡いだ、この一文は彼の愛の物語なのだろう。
「二つの可能性、玲人はどっちかを思い浮かべただろ?」
 優一は僕を見て問いかけた。なんだか言い方が少し引っかかる。 
「うん。あとの方だと思ったよ、僕は」
 雪江さんをもう一度見ると、もはや何の異存もないと言わんばかりに静かにうなずいた。薄い笑みを口元に浮かべながら。さっき彼女は言った。これでようやく溜飲を下ろせた、と。細かくいえば可能性は二つとしても、いずれにせよ、僕と雪江さんの思い浮かべた文が示す内容はただひとつの意味を指し示している。それは狂おしいほどの想いであり、静かな焔のように沈黙を保つ感情であり、簡単に口にできるはずもない密やかな心だった。
 たまひとさんは離れに赴いたあの日、結婚の決意をしたあとすぐるさんに質問をした。自分の妻となる女性に対する、すぐるさんの本心を確かめたかったのだ。この結婚は、すぐるの犠牲により成り立ったのか。取り計らいは、素直な祝福ゆえか、身を引く愛によりなされたのか、そこをどうしても確かめたかった。無論すぐるさんはその場で軽く返せるはずもなく、たまひとさんも答えを知るのに何年も辛抱する必要を認めたし、雪江さんも兄の秘めた想いを知るのは怖かった。……そういう背景が、この周りくどい「答えを知るための長い年月」を作りあげてしまったのだ。雪江さんと同じく、僕もようやく腑に落ちた。
 雪江さんは再び静かに微笑んでこう言い添えた。
「夫が待ち侘びていた答えをこうして書いてもらい、ほんとうに、これで何十年分の胸の支えが下りましたわ。ありがとう、玲人さん。手紙が届くのがあと一年早ければ、夫ももっと安らかに逝けたことでしょう……」和室の奥に立て掛けてある、昨年亡くなった大切な人の写真を眺めやる。一筋の涙がゆっくり頬を伝い落ちるのを、僕は胸の痛みとともに見つめた。

十、宿をあとに

 エンジンを吹かせば、静かな佇まいを見せる湖畔の宿はゆっくり、ゆっくり遠ざかっていった。いつまでも手を振る雪江さんの姿を目に焼き付けた。ここへ来ることはもうないかもしれない。嵐とともに僕の前に紡がれていった遠い日の物語が、ふたたび手の届かぬ場所へと過ぎ去ってゆくようだった。
 帰りの道々、優一と二人で手紙の謎の総まとめを行ってみた。
「これで全部わかったね。手紙は優(すぐる)さんが玲人(たまひと)さんに宛てたものだった。それは優さんが亡くなる前日ジャケットの内ポケットに入れたけど、心ない誰かの手で盗まれて長い年月行方不明になっていた。……それが、誰かの手によって僕の元へ届いた……あれ」
 気づくと同時に優一に盛大に吹き出された。
「誰か、誰か、って、玲人、それは一体〝だれ〟なんだ?」
「楽しんでる?」
 不平顔を決めてみたが、運転中の優一は前方から注意を逸らさず平坦な声で僕の言を補足した。
「つまりだ。ジャケットを盗んだのは通行人や現地に居合わせた誰かというより、高価な洋服に興味を示していた西園寺と考えるのが妥当だろう。雪江さんが現地に行ったとき既になかったのは彼女が来る前に事に及んだからさ。彼は親切だけど優や玲人のように真面目で誠実な人物とは言い難い。それと玲人、彼が亡くなったのは最近のことか雪江さんに訊いてみたか?」
「うん、それは優一が察したとおり最近のことらしいよ。ただ、それとこれがどう繋がるわけ?」訊いてみたものの、少し自分で考えてみたくなって、「待って」とジェスチャーで阻止してみる。頭をフル回転で回す。
 ──つまり、つまり、だ。西園寺さんが盗ったのだとしたら、ジャケットの中から出てきた手紙の存在を知りながら彼は雪江さんたちに届け出なかった。彼なりに、これが夫婦仲を壊す可能性について思い巡らし、二人を慮っての隠匿だったのかもしれない。……そこまでの推察を一旦優一に受け渡した。すると優一は軽く笑ってみせて、「いい線いってる」と返す。「十中八九、西園寺が意図的に手紙を隠したんだろう。度々優の元を訪ねていた彼は約束の手紙の真の意図を知ってしまったのさ。ただ、一波乱起きると踏んで夫婦を守ろうと隠したんじゃなく、悪意をもって隠蔽した可能性がある。そのまま月日が流れ、西園寺はごく最近亡くなったんだ。つまり?」
 振られて焦って言葉を返す。
「つまり、それは……えっと……遺品整理かなんかで、手紙が家族によって発見された……とか?」きっとそうだ。家族か、ごく身近な人物が手紙を見つけた。西園寺さんの意志が及ばなくなった今手紙を見つけた人物は、本来届けられるべき宛名の人物にこれを届けようと考えた。「だから最近になって、僕を見当違いで探り当てたその人がわざわざやって来て手紙をポストにそっと忍ばせた。……なぜ声をかけてくれなかったんだろう?」そう問えば、「それも自分で想像してみろよ」とそっけなく返される。うーん。つまり、その身近な誰かは、西園寺さんが他人宛の手紙を隠し持っていたらしき状況を相当後ろめたく思った。もしくは曰くありげな古い手紙を前に、背景にある事情を受け止める勇気はとても出なかった。でも何としても届けられるべき人物に届けることだけはしなければ、と考えたんだ。そう伝えると、優一は頷いてから、軽い口調で言った。
「ほら、あれだよ。最近智彦がリニューアルしたうちのホームページにシェアハウスのお料理担当の名前が掲載されただろ。高城玲人と探れば、検索で名前が上がるんだ。なんといっても夕凪なんたらに住む同姓同名さんだからな。勘違いされたのも無理はない」それを聞いて、納得感は倍増しになる。ごく最近、管理栄養士の資格を取ったお祝いと称されて、僕はシェアハウスの公式ページで上手い具合に名前を宣伝効果に使われてしまっているのだ。
「だから時を越えて、僕の元に届いたってわけだね。西園寺さんの家族による償いのような行動と、僕が資格を取ったことが重なったわけだ。そっか」
 優一は僕の納得顔がいかにも面白いと言いたげに、いつもの軽快な笑いで答えてくれた。
「あれ、西園寺さんが悪意で、って言ったけどそれはどういう意味?」
「優の本意を知ったことで西園寺は気を害した可能性がある。それが不穏な言葉を口にした原因じゃないのか?」
「それは、つまり。雪江さんへの秘めた想いを今更明らかにしようとする優さんの態度に見損なったと感じたとか? それとも結局告白するのならなぜ友人に愛するひとを譲ったりしたのかと腹が立ったとか……? いずれにしても西園寺さんは随分感情を揺さぶられたようだね」
 僕の滑らかな推察を耳にして優一は黙り込んでしまった。気をよくして更に深掘りしてみる。
「こうしてみると、西園寺さんも雪江さんの結婚に対し拘りが強かったことが見えてくるね。彼はもしかして雪江さんを……」
 ──誰もが、誰かを愛していた。頭の中にそんな言葉がこだました。優一が反論しないのは僕の推論は、当たらずといえども遠からず、だからだろう。
 いつのまにか宿からずいぶん離れて、深い山間の道は徐々に街並みへと変化していた。今日の空は昨日とは打って変わった様相を呈している。高い空には雲ひとつ見当たらない。僕たちを乗せた黄色い車は、二つの「夕凪」を結ぶ道筋を優雅に走り抜けていく。
「……玲人さんだけじゃなく雪江さんも、口にできない想いをパズルの答えを通し言葉として確認できる日を心から待ち侘びていたと思うよ、僕は。夫の心残りを思うと同時に自分自身も手紙に終止符を打ってもらいたい感情があったと思うんだ」
「……だな。で、続きは?」
 え、続き。まとめの続きか。僕は自分の中で色々謎だった事柄を目の前に並べていった。「えっと、まずは肝腎要のあれだよね。玲人さんが優さんにした質問。最後の一文から想像すると、それはつまり、『優さんは妹である雪江のことを本当はどう思っているのか?』だった。その問いに対し十年もかけて優さんは答えを返していったんだ。大好きなクロスワードに一つ一つ思いを秘めて。随分回りくどいけれど、時間をかけたのも夫婦を見守る意味があったんだと思う。いちおう僕はそう解釈したんだけど」
「……」
 優一はなぜか黙っている。でもそのまま話を進めた。
「優さんが雪江さんのために犠牲にしたのは、自らの愛、だったのかな。玲人さんを愛する雪江さんとその夫のために、優さんは潔く身を引いたんだ。そして二人の元を去って暮らした。自分の意志に対してどこまでも誠実な人だった」
 ため息がこぼれた。優一は曲がり角を颯爽と曲がってから僕をちらっと見た。慈しむような視線を感じて、胸が温かく、そして切なくなる。胸のうちはすべて優一と共有したいと思い言葉を重ねた。
「遠い異国の地で人助けをして亡くなってしまうなんて。それほど捨て身になれたのも、自分を犠牲にできるほど深い懐を持つ人物だったからだろうか。助けたのは女の子らしいけど、幼い日の雪江さんに姿を重ねたのかもしれないな、とも思った……」
 優一も隣で切なげな表情を隠さなかった。
 何もかもが途方もないほど犠牲的な愛の上に成り立ったこと。そうするしか人生の道を選べなかった魂。……幸せってなんだろう。誰かが誰かを愛する想いって、いったいなんだろう。
 車はもう広い車道に出て、ぐんぐん僕たちを海辺の家へと運んでいく。鬱蒼と茂る山道や静かな湖、古い温泉宿の面影は灰色の街並みに取って代わっていった。少し言葉を挟む程度で、さっきから見守るように僕の言葉を聞いているだけの優一。物思いに耽るのも必然な謎解きの旅だったから仕方ない。ただ、沈黙が長い気がしないでもない。空気を打ち破るために思い切って言ってみる。
「……ところで、勝負の件だけどさ。やっぱり僕は優一の鋭さには敵わないって思ってるよ。だけど僕もなかなか健闘したと思う。直接当人から話を聞けたから色々考えてみたんだ」
「甘いな、玲人。いや、お前はなーんにもわかっちゃいない。それどころか、お前は本分を尽くしていない。俺はそう断言するぞ」
「えっ?」
 意外な反応をされて僕は身体を引いた。いよいよ優一が語り始める?
「どういうこと」
「なあ、玲人。お前は本当のほんとーに最後の一文があれでいいと納得しているのか?」
「えっ、そこ?」
 ずいぶん前に引き戻された気がする。
「どう考えても変だと思わないか?」
 しばらく思案した。優一だって可能性として妥当だと堂々と認めていたくせに。
「雪江さんの前で一文を口にしたのは優一じゃないか。どうして今さら? 僕は変だと思わない。他の可能性ってあるのかな」
「雪江さんの前で言えるわけないだろ。いいか、二つの文をおさらいしてみるぞ。まず前の文は、『君の幸せのため』ってとこに違和感がある。『君』はたまひとを指すわけだが、すぐるが妹を愛していたのなら、『雪江のため』と書く方が自然じゃないか。なのに身を引いたのは『君の』つまりたまひとのためって、妙だろ。
 ──??
 いや、たしかに。言われてみれば。
「もう一つ、二番目の文、玲人がこれだと思った文。こっちは『幸せのため』ってとこが妙だ。『誰の?』が抜けている。目的語がないなら曖昧過ぎて意味をなさないだろう。そんなぼやけた表現を十年もかけて炙り出すなんておかしいと思わないか?」
 ここにきて、優一は僕の比ではないくらい言葉に敏感なのだと思い知る。彼の頭に残ってたらしき謎を次々と畳み掛けられた僕は戸惑うしかなかった。
「でも、でもさ。雪江さんはこれで納得したってはっきり言ったよ」
「ん、それはそう言うだろうな」
「え? どういうこと」
 待ってくれよ。優一の頭の中と僕の頭の中のズレはどこにあるんだ? 
「なあ玲人、もう一度よおく手紙の文面を思い出してみろよ。これまでのパズルの答え、つまりヒントのことをすぐるは、『言葉』ではなく『文字』を全部合わせると一文がわかると書いていなかったか? つまり、言葉なんて最初から関係ないのさ。これは本来バラバラの〝文字〟として考えるべきなんだ」
「えっ、文字? じゃあどうしてたまひとさんはノートに言葉を書いたんだろ? パズルの答えはそれぞれ意味を持つ〝言葉〟だと思ったからだよね」
「まあ確かにおおよその意味は合ってるわけだが、あれには小さな細工がしてあるよ。助詞のすり替えに違いない」
「助詞? 『が』とか『を』とか『の』とかのこと?」
「そうさ。まさに今出た『を』と『の』だよ。漢字を使って意味を持たせたら助詞は尚更そこにしかつかないように見えるからな」
「たまひとさんがわざと仕組んで書いたってこと?」
 優一はちらっと僕を見てから妙に重々しく頷いた。「たまひとは途中から、最後にどんな一文が出てくるか察していたんだ。それは彼の心を大きく揺さぶる一文だった。つまりそれは、湖の底に沈めた秘密そのものだった。だからこそ、カモフラージュのために漢字を使って表し、一方向の意味に傾く『言葉』として並べたんじゃないか? 隠したようで隠しきれない場所にノートはあった」
 頭が混乱した。湖の底に沈めた秘密──ああ、たしかにそこにも謎が潜んでたっけ。喫茶店で二人がした暗黙の誓い。それにしても……
「カモフラージュ?」
「ああ、本当の意味を覆い隠すためのな。元々はすぐるが仕掛けた細工をたまひとはすぐに理解し、承知のうえであれを書いた。まるで通じる者にしか通じない暗号みたいなものさ。だけど功を奏したとは思えないな。そんな小細工に何の意味がある」
「……」
 優一は車窓の向こうへ視線を投げかけ、つらそうに目を細めた。
「お前はまだ、この手紙の核心に気づいてないのか」
「核心」
「ああ、それとも無意識でわざと避けて結論付けようとしてるのか。俺は雪江さんの前では言えなかった。言う必要もないと思った。玲人も素直になれよ。お前のもとに手紙が届いたのは、気づいてほしかったからじゃないのか、彼が。だから本分を果たせと言ってるんだ」
 ぞわぞわと鳥肌が立ち始める。なんだか胸が苦しい。手紙を離れて、もうなくなったはずの変な感覚が最後に何かを訴えている。
「待って! もう一度ちゃんと考えてみる。えっと……核心にたどり着くためには……パズルの答えとなるワードを一旦バラバラの文字として捉えて、意味の通じる文になるよう組み立て直せばいいってことだよね」
「そういうことだ」
 僕はそれをした。言葉をバラして文字にしてもう一度いちから文を作る。先入観を払い除け、今度はとてもフラットな気持ちで。ああ、たしかにそうだ、別の文が出来上がりそうだ。頭の中で字が踊り、それらは整然と一文の枠の中へ収まっていく。誰かが言っている。『を』と『の』はそこには付かない。意味が通じる最適な言葉が他にあるだろう? 徐々に浮かび上がってきたその文は……。次第に鼓動が速くなっていった。
「これって……まさか」
「そうだよ」
 いつのまにか道路の先に水平線が見えていた。晴れた空を吹き抜ける乾燥した風が、僕の頬を強くなぶった気がした。ごくり、と唾を飲み込んでいた。僕はとんでもない勘違いをしていたのだ。いや、気づいていたのに気づかないふりをしていた。感じたまま素直に導き出したら辿り着けた、もう一つの可能性であるその一文は──
 
『私は誰よりも君を愛している 
 すべては雪江の幸せのためだった』
 
「すぐるが愛していたのは、雪江さんじゃなくて……」
「ああ。これこそ、どこもおかしくない筋の通った文だと思わないか?」
 僕の鼓動は暴れていた。悲しい気持ちに飲み込まれそうだった。
「じゃあ、あの日たまひとさんがした質問って……」
 離れを飛び出してきたたまひとさんの表情。駆け出すしかないほど、答えてくれないことにもどかしさと苦しさを覚えた彼の問いかけ。
「雪江さんはわかっていたろうさ。西園寺の思わせぶりな言葉をわざわざお前に伝えることでいくらか意識操作をした可能性もある。西園寺が一杯食わされたと言ったのは、優の秘密はてっきり義妹に対する恋情と思っていたのに違ってたから、騙されたように感じたんじゃないのか。しかも彼は同性同士の恋愛を好ましく思えなかった、むしろ嫌悪を覚えた、だから許せないという表現になる。手紙を隠匿したのはつまり〝ふざけた恋愛を成敗した〟つもりだったんだろう。雪江に対し恋心があったとしたら尚更玲人と優のやりとりが許せなかったろうな。奴は玲人のした質問に虫唾が走ったのかもしれない」
 ずいぶん冷静に語る優一が不思議に思えた。それほどに僕たちと彼らの間には時の隔たりがある。西園寺さんが事実を知って嫌悪した玲人さんの問いとは、『優さんは僕のことをどう思ってるのか』だった……。
「告白をした上に答えを何年も待ち侘びていたんだよ、玲人は。言葉ではっきり告げられる経験をしたかったんだよ。湖の底に沈めた秘密というのは、玲人が雪江と一緒になる前から存在した強い感情のことに違いないだろ。それはつまり……」
「──優さんへの愛だった」
「ああ、そうさ」
「二人は、お互いの気持ちを察しながら、雪江さんのために、彼女のためだけに、思いを遂げる道を諦めた……ってこと?」
 胸が締め付けられる。あの手紙を初めて手にしたとき感じた苦しさが今確かに僕の胸を覆った。優一は神妙な声音を深めた。
「そうだろう。ただ、雪江さんがいなかったら共になってたとも言い切れないけどな。報われないことは最初から覚悟の上で思い合ったと考えるのが自然かもな」
「プラトニックな恋ってこと」
「ああ。男同士だから無理だと自然に納得していたからこそ、雪江を思う優のために、玲人を想う雪江のために、二人には身を引く選択しかできなかった。雪江は、兄の犠牲的な愛情を感じ取りながら感謝と敬意をもって結婚生活という贈り物を慎ましく受け取った。玲人の秘密を感じ取りながら彼の真心を信じ続けた。それぞれが、誰かを愛し、一つの道を選び、一つの希みを犠牲にした」
 みながみな、誰かを愛するゆえに犠牲という実を刈り取りそれを胸に抱えて生きた。
「優さんの十年かけた渾身の愛の言葉が、玲人さんに伝わらなかったなんて……悲しすぎる」
「ああ。言葉なんてある意味ただの記号なのにさ。それを喉から手が出るほど恋焦がれていた。プラトニックを貫く決意をした者にとって、言葉こそがただ一つのわがままだったんだからな。彼らはいつも言葉で互いの思いを確かめ合っていた。直接ではない、時には暗号のように交わされた遊び言葉で。彼にとって最後の一文の言葉は、優の魂そのものだったんだ」
 たった数個の文字の塊が、彼の愛のすべてだった──。そんなことってあるのだろうか。奥ゆかしすぎて想像もつかない。自分の幸福を追い求めるのが当たり前の世の中で、消え入るほどの灯火で密かな愛を温め続けた二人。奥さんに忠節を尽くしながら、ささやかな希みだけを拠り所にしていた玲人さんの愛。同じ男同士だというのに、僕なんか毎日優一から甘ったるい言葉を伝えられている。時代や価値観が違うだけでなく、人として根源的な差が存在する気がする。存分に幸せを享受してる自分がひどく薄っぺらに思えてくる。実在した彼に対し、僕はなんだか申し訳が立たないよ。だけど……
「優一。愛の形って結ばれるだけがすべてじゃないんだろうね」
「……ああ」
 港町の歩道に飛び交った笑顔。言葉を交わし合った青い芝生の上。肉体的に触れ合わなくても二人の心は常に寄り添い、敬い合い、自分じゃなく相手の幸せを願うことで強固に結び合っていた。そうやって育まれた形にならない繋がりは、やがて遣り場のない重さに達したとき、黙って湖の底へ沈められたんだ。二人はそれをよしとした。この上なく純粋なる愛のゆえに。パズルの最後の答えを手にするとき、それはきっと湖の底に沈めたものを一瞬だけ引き揚げられる機会だった。そんな些細な幸せの瞬間を彼は生涯待ち続けたのだろうか。
 フロントガラス越し目前に広がってきた海原、水面の煌めきがどこか切ない旋律を僕の耳に届けてくる。それは温かくももの悲しい調ベ。湖の底、心の奥深い場所で密やかに育まれた、愛の調べだ。見慣れた街並みの車道を滑らかに車は走り抜けていく。背後には遠い日の残像が僕の背を優しく照らしているようだった。
「……玲人さんは、幸せに生きたんだろうか」
「きっと、幸せに生きたさ」
 優さんとは言葉に閉じ込めた愛を、雪江さんとは共にオールを漕いでいく温かい絆を、彼は日々感じながら幸せに生きていた、そう信じたい。そして優さんも、遠い地で悔いのない日々を送っていたと、信じたい。
 茅ヶ崎の海岸線まで来ると、風向きが変わった気がした。僕の胸の中にはもう重苦しさが生じる気配はなかった。手紙が導いてくれた旅は、終わったんだ。
 ところで、すべての答えが出て謎は完全に解決した、優一はそう思っていることだろう。さっきの一文を修正するやりとりからして、優一は完璧な推理を僕に披露したと考えてるはずだ。あの約束がなあなあになるよう手を打っておくべきかな。
「これでぜんぶ終わったと優一は思ってる?」
「ん?」なんだその言い方、と言いたげに眉根を寄せた。
「言ってなかったけど、実はまだ最大の謎があるんだ」
「それはなんだ?」
 想定どおり目を丸めてくれた優一に静かに打ち明ける。
「あのさ、実は僕が初めてあの手紙を手にしたとき、突然胸が苦しくなったんだ。手紙を読んだときも。それに、夕凪荘を訪れるより前に、見たこともないニセアカシアの木や白い花房や着流しを着た男性が僕の見た夢に出てきたんだよ。不思議だと思わない? 信じてくれるかわからないけど」
「信じるよ」
 迷いのない返事。
「それは、なぜなんだろう」
「それは……」
 しばらくの間何も言わずに待ってみる。さしもの優一も、この奇妙な現象の説明までは解き明かせないはず。さりとて自分も明確な答えを出せるわけではない。意外にも、優一はゆったり構えて振り向き、こともなくこう言い放った。まるで確信を込めて。
「それは……玲人、だからだ」
「僕だから……?」
「つまりお前の持つ……」
「──ほんぶん?」
 もう言いたいことがわかった。
 それが、手紙の受け取り人と同じ名や多くの共通点を持つ僕だからという意味なのか、たまひとの心残りを理屈ではなく〝感じとれる〟という意味なのかはわからないけど。問いかけようとしたけど、そこは言葉にせずともよいのだと思い直し口を閉じた。──僕は、本分を果たせただろうか。さっき胸の中から完全に消え去っていったものが、答えを告げてくれていた。
 窓を少しだけ開けると、外から生温い風が吹き込んできた。目を閉じれば瞼の裏に浮かび上がる光景がある。初夏の暖かな日差し、輝く湖面。それはひどく静かで愛おしい情景だ。芝生の上に花弁が舞い落ちては積もっていく。揺れているのはまっしろな花房。三人の笑い声がこだまする。遠い昔、心通わす若者たちの幸せな時間を包み込んだ、それは美しいニセアカシアの庭だった。
 

 終わり