ニュースでは梅雨入り宣言なんて言っていたけど、雨の降る気配は全くなかった。
それから十日程経ってやっとぽつぽつ降る日が来始めたな、なんて思っていたら、それから数日間はずっと雨模様だった。
「洗濯物が乾かないわね」とみゆきさんはため息をつくが、僕は結構この時期が好きだ。
春が来て温まった大気が冷気でひんやりと落ち着く感じや、雨露で濡れる満開の紫陽花。
凛と凪々が履いているお揃いの黄色い長靴が水たまりを踏む音も、迎えにきてくれた優一の傘が雨を弾く音も、この時期にしか聞けない音だ。
雨は緩急をつけて降り続き、7月になると晴れ間が覗くようになった。
さすがに気温が高くなってきた朝。僕とみゆきさんが朝食の用意をしていると、凪々があくびをしながらダイニングにやってきた。
毎朝の日課である占いを見るためにテレビをつけると、丁度お天気コーナーの時間だった。
『本日梅雨明けの発表があったのは鎌倉市、藤沢市、茅ケ崎市──』
『例年より数日早い梅雨明けですね』
『はい。これから暑くなりますので、熱中症には充分に気を付けて──』
「あら、やっと梅雨が明けたわね」
みゆきさんはヨーグルトと自家製ブルーベリージャムをテーブルに置く。僕はコップにオレンジジュースを注ぎ、凪々の前に出す。
「夏になれば観光客も増えるし、稼ぎ時だわ。さあ、気合入れなくちゃ」
梅雨の間は何となく元気がなかったみゆきさんが、むん、と腕まくりしてみせた。みゆきさんは完全に『晴れ女』のようだ。イベント時は必ず晴れる女性という意味ではなく、晴れると元気が出る、という意味の『晴れ女』。
なんだかおかしくて、心の中で微笑んでしまう。するとみゆきさんは「んん?」とこちらをのぞき込んでくる。
「玲人も夏が来て嬉しいわよね? 青い空、白い雲、輝く太陽……梅雨なんかより断然いいわよね?」
「そ、そうかな……?」
僕は梅雨も好きだから、語尾が思わず疑問形になる。だけどみゆきさんは「そうだね」と聞き間違えたらしく「うんうん!」と一人で納得してしまった。
「これからの季節、夕凪ハウスの皆で存分に楽しむわよー!」
みゆきさんの声と同時に、凛があくびをしながら起きてきた。凪々は「おそーい!」と文句をいいつつ、凛のためにコップを用意する。
──今年の夏も暑くなりそうだ。穏やかで賑やかな日常に、僕は目を細めた。
*** 海と蜂蜜 ***
「自由研究?」
「そう。今年は凛と一緒のテーマにしたの」
「凪々は俺に色々押し付けてくるんだ……おかげで寝不足だよ」
ふわぁ、と欠伸をする凛。昨日は遅くまで部屋に灯りがついていたが、調べものしていたのか。
七月も後半になり、二人の通っている学校は夏休みに入った。課題を早めに済ませることは良いことだけど、そのせいで夜更かしするのは感心しない。
「自由研究なんて懐かしいな。何をテーマにしているんだ?」
早朝のジョギングを終え、シャワーを浴びた優一が顔を出した。タオルで髪を軽く乾かしながら、僕が持っていた果物カゴから、リンゴを一つ掴む。
「これー」
凪々がポケットから何かを取り出すと、コロンとテーブルの上に乗せた。
それは丸みを帯びた、乳白色の塊だった。石のようだが、それにしては形がおかしい。自然界では中々お目にかかれない形状だが、これは一体何なのだろうか。それに、なぜ凪々はこんなものを持っているのだろうか。
「あら。それって、イルカのアレよね?」
みゆきさんが言うと、凪々は「そう!さすがみゆきさん」と勢いよく返事をした。
「イルカの、アレ……?」
興味を持った優一が近づく。僕も横からのぞき込んだ。
この白いものが、なぜイルカと関係しているんだろう?
「これはイルカの耳骨でーす! とっても貴重なんだよ!」
じゃーん! と効果音を自分で言いながら、手のひらに乗せて見せてくる凪々。
まじまじと見ると、つややかな乳白色は確かに骨っぽい。ただ、この形状はなんと例えたらいいだろうか。
中心は丸いけど、下部は半月型に曲がっている。ちょっと水餃子にも似ている。
中には穴が空いていて、紐を通してネックレスにもできそうだ。
水餃子のネックレス……ダメだ、イルカの耳骨って、なんでこんな形をしているんだろう?
「……っく、」
「ん? 玲人、どうした?」
「くく、っあはは、これ、骨なの? くっ……! ごめん、アハハ」
「ありゃー ツボっちゃったか」
「お兄ちゃん、こうなると長いもんねー」
凛や凪々が呆れたように呟くが、お察しの通り、止めることはできなかった。
僕は昔から不思議な形やおかしな物体がツボに入るクセがあるみたいで、笑いが抑えきれなくなることがたまにある。
凛と凪々と一緒に住んでいた時、スーパーで見かけた不思議な形の醤油さしを見て、笑いが止まらなかった事を覚えている。
涙を流して震える僕を見た凛と凪々は、その時はさすがに心配してくれたが、一緒に暮らしているうちに「そういうものなんだ」と納得され、心配してくれなくなった。
「あはは、ごめん、だって……ふふ、」
「玲人、大丈夫か?」
「ごめん、すぐ直るから、アハハ……!」
足元がおぼつかないので、優一の肩にもたれながら笑い続ける僕。心配そうに僕の背中をさする優一には申し訳ないが、むせて涙が滲んでしまう。
不思議なことに、優一は満更でもないみたいだ。背中をさする手が優しい。
僕の息が落ち着くまでたっぷり3分はかかり、優一は名残惜しげに手を離した。
「確か幸運のお守りなのよね、コレ。2人はどこで手に入れたの?」
みゆきさんが耳骨をまじまじと観察しながら言った。凛はトーストを齧りながら説明する。
「ビーチコーミングって知ってる? 凪々が最近カメラにハマってるからさ、珍しい貝殻や石を撮影したいって話になって。そこでたまたま見つけたんだ」
「あら、すごいじゃない。中々見つけられないのに」
「すごいでしょー」
凪々が自慢げに胸を張るが「ちょっと、見つけたのは俺なんだけど」と凛がツッコミを入れた。
「それで変わった形に興味を持って、自由研究のテーマにしようと思ったのね」
「そう! 研究材料用にもうちょっと耳骨が欲しいんだけど、中々見つからないんだよねー。凛はもうビーチコーミングに付き合ってくれないし」
「凪々は拘束時間が長いんだよ……カメラを持って走りまわるし。俺はもうこりごり」
「何よその言い方。写真も自由研究の材料に使えるかもしれないでしょ!」
二人はきゃいきゃいと騒いでいる。いつものことだが、本当に仲がいいなと思う。
今までの話を黙って聞いていた優一は、ここで一つの提案をした。
「その耳骨……俺と玲人で探しにいこうか?」
「え?」
「いいの?」
二人の顔には(やった)という表情が透けてみえる。優一は僕を見ながら言った。
「ああ。ビーチコーミングは前から興味があったし、良さそうな海岸も知ってる。玲人もたまには遠出したいだろう? 俺と一緒に行こう」
優一が笑うと、さらりとした髪が揺れる。僕は返事に困ってしまった。
「せっかくだけど、それはちょっと……」
「なんだよ、俺と一緒は嫌なのか?」
優一は悲しそうな、ちょっとむっとした表情を浮かべる。僕は慌てて訂正した。
「そうじゃなくて、僕がイルカの耳骨を見かけたら……きっとまた、すごく笑うと思うけど、いいの?」
優一はぷっと吹き出した。
「確かに! けど安心しろよ。その時は俺がちゃんと介護してやるから」
「なんだよ、その言い方……老人じゃないんだから」
凛と凪々もつられて笑う。
「それなら助かる! お兄ちゃんと一緒に絶対見つけてきてね。見つからなかったら私のカメラのモデルになってもらうから、覚悟してね?」
「げっ、それは勘弁しろって……」
「約束ねー」
「おいおい……!」
優一が更に弁解しようとしていると、奥から夕凪ハウスのオーナーがやってきた。こんな時間に住人がたくさん集まるのは珍しい。
智彦さんも「なんだ、今日は賑やかだなあ」と驚いた様子だった。
「優一、例の件で話があるんだけど、ちょっと来てくれないか?」
智彦さんは冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。どうやら自室で飲むらしい。
「あー、はいはい。じゃあ俺は行くよ。玲人、あとで行き先と候補日のライン送るから、見ておいて」
「あ、うん」
「よろしくお願いしまーす!」
凪々がぶんぶんと手を振ると、優一は軽く手を振り、智彦さんと一緒にゲストルームの方へ消えていった。
「さあさあ、私たちも食べ終えたら、各々の作業に移りましょう。玲人はこの後料理教室の下準備を手伝ってくれる? 野菜がたくさん届いたんだけど、一人じゃさばき切れなくて」
「もちろん」
食べ終えた食器を片付けながら、僕は笑顔で答えた。
──今日もいつもと同じように、平凡で幸せな一日が始まった。
***
料理教室の準備は結局夕方までかかってしまった。野菜をただ洗って切ればいいのではなく、参加者の人数分に均等に切り分けて、ラップでくるんで保存しておく必要がある。
これが結構神経を使う。途中でついでに常備食も作っておこうという話になり、トマトのマリネやキュウリのピクルス、ラタトゥイユやハンバーグの種、ミートソースの作り置きまで用意してしまった。
疲労感はあるが、これで一週間は調理に困らないだろう。冷蔵庫と冷凍庫にきちんと並んだ常備食を見ると、なんだか達成感に包まれた。
常備食を使った簡単な夕食を食べ終え、浴室に入る。ぬるめのシャワーが気持ちいい。今日もいい日だったな、なんて思っていると、自然に鼻歌を口ずさんでいた。
曲はディーブレの「Sunny」だ。夏が来ると、いつも思い出す。
青い海と白い雲を想起させるのに、なぜか寂しい感じがする。空っぽの世界で共鳴者を探しているような、そんな感じ。
そういえば、それって……。
「イルカの、耳骨か……」
僕は前髪をつたい流れる雫を見ながら、なんとなく呟いた。
イルカは目が退化した代わりに、聴覚が発達したらしい。独特の波長音を出して周りとコミュニケーションを取ると、どこかの本で読んだことがある。
僕も昔から、景色を見ると音が聴こえることがある。以前はそのことでよく悩まされたけど、優一に出会って、不安は徐々にほぐれていった。
イルカはどんな景色を見ているんだろう。目の前に広がる青い海を見ながら、その想いを歌にしたりするのだろうか。
その景色を僕も見ることができたなら、どんな音が聴こえるんだろう。
(……イルカセラピーって言葉もあるくらいだし、素敵な音なんだろうな……)
僕はシャワーの蛇口を閉め、髪の水気を軽くはらった。
自閉症やうつ病の子どもがイルカに触れたり、一緒に泳いだりすると、症状が改善される効果があるらしい。
根拠はまだわかってはいないが、イルカが発する、人間には聞き取れない超音波が関係しているようだ。
……凪々が持っていた耳骨を思い出す。
もしも僕が深い水の底で、そのイルカと対面していたら、イルカはどんな歌を教えてくれるのだろうか。
──僕の耳骨は、どんな音を拾うのだろうか。
僕は浴室の扉を開けて、バスケットに置いてあるタオルを取った。
「…………」
優一と一緒に、見つけられるといいな。
そんなことを思いながら、窓から流れる涼しい潮風を、胸いっぱいに吸い込んだ。
***
その日の夜十時頃。入浴を終えた僕は水を飲むためダイニングに寄ると、キッチン近くに二人の影を見かけた。
「やあ、玲人くん。ちょうどいい所に来たね」
「智彦さん、それに優一も」
優一は軽く手を上げ、挨拶する。お決まりの挨拶なのに、僕は不覚にもドキッとしてしまった。
同じ家に住んでいるのに、ちょっとした仕草にもときめいてしまう。優一もなんとなく頬が緩んでいるのは気のせいだろうか。
優一はちょいちょいと手招きし、隣の椅子を引いた。
「ようこそ、『Bar智彦』へ。ご注文をどうぞ」
僕は思わず吹き出してしまう。優一もくっくと笑っていた。
「だから、そのネーミングはやめろって。それにTシャツと半ズボンで恰好つけるのもやめろ」
優一がつっこむと、智彦さんは「練習、練習」と笑った。
智彦さんはカクテル作りが趣味だ。シンクの一角は材料となるボトルで埋め尽くされている。
ゆくゆくはキッチンを改造して、小さなバーカウンターを作る計画だと聞いたことがある。昼はみゆきさんの料理教室、夜は智彦さんのBarというわけだ。
智彦さんは月に一度夕凪ハウスでライブを開催したいと言っていた。どちらも成功すれば、このシェアハウスはより活気づくだろう。
「聞いてくれよ玲人、コイツこの間の屋根の修理ですっかり味をしめたみたいで、バーカウンターも作ってくれないか、なんて言うんだぜ?」
「そうなの? あ、もしかして、今朝智彦さんが優一に話してた『相談』って……」
「そうそう。業者に頼むより優一にお願いしたほうがはるかに安上がりだし、確実に綺麗に作ってくれるからね」
──屋根の修理。確かにあの時の優一は素人とは思えないほど手際よく、鮮やかに木板をつなぎ合わせていた。
僕はその日のことを思い出すと、頬がぼっと熱くなってしまう。
あの日は屋根の上で、二人きりの共同作業をした。色々な話をしたのも覚えている。今でもあの時の胸を締め付けられる感覚は、鮮明に記憶に残っている。
僕は内心の動揺を悟られないように、智彦さんの会話に集中した。
「相談料としてカクテルをごちそうしているんだ。悪くないだろ?」
「智彦のつくるカクテルは美味いけど、原価と効率を考えてないんだよ。客単価を上げないと商売として成り立たないぞ」
「出た、優一の夢のない発言。お客さんと語り合いながら、時間をかけて美味しいカクテルを提供する。それが良いBarの極意だろ」
「はぁ……ダメだな、こりゃ。なあ、玲人からも言ってやってくれよ。智彦のやつ、昔からこんな感じで、自分の信じたことは意地でも変えないんだよ」
優一はいつの間にか僕の肩に腕を回し、もうこりごりと言った具合にため息をついた。僕はなんだかおかしくて、くすくす笑ってしまった。
優一と智彦さんの間には、大小さまざまボトルとグラス、それにレモンやナッツ、チョコレートなどが置かれていた。
2人はすでに数杯試飲しているらしく、上機嫌に会話している。
僕はアルコールが苦手だから、話のほとんどについていけなかった。けれどボトルのパッケージや形を見るだけで、なんだか楽しい。
並べておくだけでインテリアになりそうだ。優一と智彦さんが一緒に内装すれば、きっとオシャレなBarになるだろう。
「──さて、玲人くんは何を作ってほしい?」
智彦さんが腕まくりをする。ぼんやりしていた僕は、少し慌てた。
「ありがとうございます。でも……何て答えていいかわからなくて」
僕は無意識に肩をすくめる。お酒の知識が全くない僕がリクエストしたところで、的外れなことしか言えないだろう。
お酒が好きの人の迷惑になるかもしれない。
Barに通えるくらい素敵な大人になりたいな、という夢はなんとなく持っている。
僕の好きな曲の歌詞にお酒が出てくることは多いから、気分が酩酊する、っていう感覚をいつかは味わってみたい。
けれど現実の僕はアルコールが苦手だ。飲めば味の意見を言う前に倒れてしまうだろう。だから「何がほしい?」と問われても、スマートな注文の仕方がわからない。
そんな不安を察したのか、智彦さんは優しく対応してくれた。
「気にすることないよ。イメージでいいから言ってごらん」
「イメージ……?」
「甘口がいいか、辛口がいいか。フルーツ系かクリーム系か。好きな色でもいいんだ。心に浮かんだことをそのまま伝えてくれたらいいんだよ」
智彦さんの言葉に、僕はぱちくりと瞳を瞬かせた。
──好きな、色? そんなにあやふやなリクエストで、カクテルは作れるのだろうか。
食べたい料理を選ぶ時はもっと具体的じゃないといけないし、お酒もそうだと思っていた。
「……カクテルってすごく自由なんですね、知らなかった。何だか素敵だな」
僕は微笑むと、優一と智彦さんはほう、と呟いた。
「カクテルが自由か……いいね、その発想。長い間忘れていた感情を思い出させてもらったよ」
「そ、そんな」
智彦さんがうんうんと頷く。僕はなんだか恥ずかしくなってしまった。
優一に至っては、なんだか熱っぽい視線で僕を見ている。
「…………かわいい……」
「……うん?」
優一がすごく小さな声で呟いた声が聞き取れず、僕は思わず耳を近づける。
優一はいきなり僕の肩に回していた手を離したかと思うと「なんでもない」と囁いて、目の前にあるグラスを飲み干した。
「そうそう。なんでもないことなんだよ、カクテル選びっていうのは。例えばボトルの好き嫌いで選んでみるのもいいかもしれない。玲人くん、この中で気になるお酒はあるかい? 戸棚の奥にもあるから、もう少し持ってくるよ」
「あ、ありがとうございます。えーっと……」
智彦さんの言葉を無下にしないために、僕はボトルに目を走らせる。綺麗な色の瓶がたくさんあって悩んでしまう。
青色も綺麗だし、ヨーグルトっぽい白いボトルも可愛らしい。
「難しいなあ。ちなみに優一は何を飲んでいるの?」
「俺はウィスキー。Barの定番メニューを三銘柄くらいチョイスしておきたいから、飲み比べしてバランスを見てるところ」
「そうなんだ。すごいね」
だからさっきも一気にグラスの中身を飲み干したのか。ウィスキーのような度数の高いアルコールを飲んでも顔色が変わらないのは、本当にすごい。
僕なら一口でひっくり返ってしまうだろう。
「玲人くんにはもう少し飲みやすくて、さわやかなお酒がいいと思う。君のイメージだと、そうだなあ……ブルーリキュールかな。優一がさあ、今度、海に落ちた葉山の夕日をイメージしたカクテルを、玲人くんにって……」
「おい、それはまだ秘密に……!」
優一が慌てて話を遮るが、僕はボトル選びに一生懸命で、あまり話を聞いていなかった。
「──あ、」
そんなやりとりの最中、僕は棚の奥にある、ランプの光に控えめに照らされたボトルを目にした。
黄金色のとろりとした液体がたっぷりと入った、まるで琥珀のようなきらめきだった。
「これが気になるのかい?」
智彦さんが言う。僕は頷いた。
「うん。なんだか……優一に似てるなって」
「俺?」
優一が驚く。僕は思わず笑った。
「いや、本当に直感なんだけどね。光の当たり具合で色が変わるところとか、優一の髪や瞳っぽいなと思って」
「そっ……か」
優一が言葉を詰まらせる。珍しいこともあるものだ。智彦さんはなんだか嬉しそうだった。
「さっすが玲人くん、お目が高い! このお酒に興味があるなんて嬉しいなあ。これはミードといって、世界最古のお酒なんだよ。さあ、何が原材料だかわかるかい?」
世界最古? 僕は驚いてしまった。外見はとても綺麗だが、すごくクセのある味なのかもしれない。
どうしよう、僕が飲んでも大丈夫だろうか……。
「これはね、なんとほぼ100%蜂蜜で出来ている、蜂蜜酒なんだ! しかもちょっとやそっとの代物ではない逸品だよ。スタクリシュケスと言って、エリザベス一世も愛飲したお酒なんだ。知人がリトアニア旅行に行くと聞いて、絶対に買ってきて! と依頼した代物なんだよ」
「……蜂蜜?」
まさか、世界最古のお酒は蜂蜜からできていたなんて。てっきり麦やブドウが最初だと思っていたので、本当に驚いてしまった。
智彦さんは戸棚からグラスを取り出し綺麗に拭いたあと、琥珀色の液体をとろりと注いだ。
「これはストレートが美味しいから、まずはそのまま飲んでみて。度数が高いから少しだけね」
僕はグラスをそっと持つと、まずは鼻先を近づけた。本当だ、蜂蜜の香りがする。
その中に、薬草の匂いも少し。とても華やかで、お酒とは思えなかった。
グラスをゆっくりと傾けると、液体がとろりと流れてくる。
──おいしい。これが、お酒?
上質な蜂蜜の奥から、ハーブの後味がやってくる。それが甘いだけじゃなく、さわやかさも醸し出しているのだろう。
度数が高いなんて本当だろうか? アルコールが苦手な僕でも、するすると飲めてしまう。これには本当に驚いた。
「うまいか?」
優一が頬杖をつきながら、幸せそうな顔で僕を見ている。僕はこくりと頷いた。
「おいしい。初めてこんなに強いお酒を飲んだけど、すごく飲みやすい」
「そうだろう? カクテルにするならサイダーで割って、レモンを絞るといい。大人のハニーレモンソーダだな。リキュールとしてアイスにかけるのもオススメだよ」
凛か凪々
が見たら、自分も食べたいって大騒ぎするだろうな。僕はもう一口蜂蜜酒を飲む。うん、やっぱりおいしい。なんだか体もぽかぽかしてきた。
「しかしこのお酒が優一っぽいとはねー」
智彦さんはニヤニヤしながら優一を見る。優一は「なんだよ」と居心地が悪そうにウィスキーを飲んだ。
「いや? ただ蜂蜜酒はハネムーンの語源にもなったアルコールなんだよ。新婚直後の一カ月、いわゆるハニームーンがなまってハネムーンになったと言われている。そんなことを思い出しただけさ」
「「なっ……!」」
これには僕も優一も同時に声が出た。僕は頭のてっぺんまで一気に熱が上がる。慌てて手を振り、訂正した。
「優一、僕はそんなつもりじゃ……!」
「お、おう。いや……全然、」
手で口元を抑えて隠しているようだが、優一の顔は赤くなっていた。僕はますます慌てる。
優一のことをそんな風に思っていると誤解されたくなかった。たまたま雰囲気が似ていると感じただけで、そんな、えっちな……
「おやおや? なんだか熱いねえ、お二人さん」
智彦さんは僕らの事情を知らないはずなのに、イタズラ半分で茶化してくる。
「あ、あつくなんかないです!」と僕が訂正すると、智彦さんはにっこり笑った。
「玲人くんが蜂蜜酒を気に入ってくれたのも何かの縁だ。その歴史を味わうもよし、自分の気持ちと重ねるのもよし、酔いに任せて楽しむのもよし……自由に選択するといい。それがお酒の醍醐味だと思うよ」
智彦さんはそれだけ言うと、ムーンリバーを口ずさみながらキッチンの奥へと消えていった。
いつのまにか赤面してぐったりとテーブルに突っ伏している優一が「あいつも相当試飲して酔っぱらっているから、気にしなくていいぞ……」と横目で呟いた。
「う、うん」と返事をする僕。そこから先は優一とふたりきりだった。
とても幸せな時間だったのに、残念ながら記憶がおぼろげで、ふわふわとした感覚しか覚えていない。
──けれど、こんな時間が味わえるなら、たまにはお酒もいいなと思った。
***
「──玲人、大丈夫か?」
ぺしぺしと頬を叩かれる感覚で目を開ける僕。大きくて冷たい手がきもちいいな、と感じていると、だんだんあたりの様子が見えてきた。
……ここは、僕の部屋だ。そして、ベッドの上。目の前には優一がいる。よし、状況は把握できた。
「やっぱり飲み過ぎたみたいだな。運んできて正解だった。今日はもう寝たほうがいい……ほら、水飲むか?」
「ん……」
優一が心配そうにのぞき込む。優一も酔っぱらっていたはずなのに、いつのまに復活したのだろう。ちょっとずるい。
「……ゆういちぃ……」
僕がするりと優一の肩に手を伸ばすと、優一の身体がびくりと跳ねた。
「っつ……!」
「ゆういちはすごい……いつもカッコよくて……」
「玲人……」
「これいじょう、ぼくをドキドキさせないでよ……」
優一をゆっくりと抱きしめると、右胸が大きく鼓動している音が聴こえた。ほら、こんな時でも僕をドキドキさせちゃうんだから。なんだか不公平だ。
「っ玲人……」
優一はまるで壊れ物を扱うかのように、僕の後頭部に腕を回し、真綿のように包み込んだ。さらり、と髪の流れる音がする。優一の手が、僕の耳をなぞる。
「お前……ほんと反則……」
「…………?」
僕は優一の香りと、トクントクンとなる鼓動に耳を委ねる。とても心地よくて、もっと抱きしめたくなる。
そういえば、この鼓動、どこかで聞いたことがある。
かつて優一が歌っていた曲。そして僕が優一を想うたび浮かんでくるメロディーだ。
……ということは、この鼓動は、もしかして。
僕のものじゃなくて、優一の……?
「玲人……」
熱っぽくて苦しそうな瞳が近づくと、熱いため息が僕の耳にかかる。
あ、という声を上げる間もなく、優一の手のひらが僕の腰に回り、強く抱き寄せられた。
ゴリ、という音とともに、優一の熱が僕の腰にあたる。ふ、という獣の吐息が首筋を撫でた。
僕は身体を震わせる。その様子にますます興奮したのか、優一は右手で僕の手首を強く握り、お預けをくらった虎のように息を詰まらせた。
「毎日お前に誘惑されっぱなしで……我慢している俺の身になってくれよ……」
僕に覆いかぶさる優一が、乾いた唇で苦しそうに呟く。
Tシャツから覗く、汗が滲む鎖骨。細身ながら逞しい二の腕。いつも以上の魅力に、僕はクラクラしっぱなしだ。
蜂蜜酒を飲んだ夫婦はこんな気持ちなんだろうか。ハネムーンの語源を体験したような、そんな感じ。
僕は嬉しくて、ふふ、と目を細めた。
「……イルカのみみって……」
「…………ん?」
雰囲気に合わない素っ頓狂な声をあげる優一。僕は少しおかしくて、優一の下で身をよじった。
「……どんな形なんだろう……僕のはこんなのだけど…………優一は、どうおもう?」
優一を横目で見ながら、黒髪をかきあげ、耳を露わにする。
Tシャツが布で擦れて、うなじから鎖骨も無防備になる。
優一の喉が、ごくりとなった。不敵に笑いながら「まったく……そういうの、どこで覚えてくるんだ?」と呟く。
意味はよくわからなかったけど、優一が嬉しそうだから、僕も嬉しかった。
優一が僕の耳からうなじにかけて、壊れ物に触れるようになぞる。くすぐったくて、思わず笑ってしまった。
「イルカって……どんな歌をきくのかな……ぼくもきいてみたい……」
「…………そうだな」
突然話が変わっても、優しく受け答えしてくれる優一。やっぱり優一のことが大好きだ。
急に目の前が暗くなり、僕は瞳を上げる。すると優一の唇がゆっくりと僕に重なった。
「…………あっま……」
熱っぽい瞳で呟く優一。僕は思わず吐息を漏らす。
僕と優一の体温が混ざり合い、溶けていく。
まるで、二人の境界線がなくなったようだ。
──僕はゆっくりと瞳をとじ、心の奥に響く歌に、耳を傾けた。
***
──窓から光が差し込み、カーテンが風で揺れる。
僕はさわやかな風に前髪を撫でられ、ぱちぱちと瞬きをした。
視界には、色素の薄い綺麗な髪がなびいている。その人物は自分に背中を向け、何やら画面をいじっているようだ。
……玲人に会いたい。会って話がしたい。
……ずっとお前を待っている。
……弱気な俺を許してくれ。
なんて文章が目に入った。不思議だった。
僕と優一はもうとっくに出会っているし、追いかけているのも僕のほうだ。勇気を持たなきゃないけないのも僕だ。
なのに、この文章はなんだろう──。
「……玲人?」
寝ぼけた頭で考えていたら、優一が心配そうに僕の顔をのぞきこんだ。
あ、と声を上げると、優一は僕の額に手を当て「よかった、熱はなさそうだな」と安堵する。
「目が覚めてよかった。こんなに寝ていたの初めてだから、心配した」
「こんなにって……いま、何時?」
「午後一時」
「えぇ?!」
僕はがばりと飛び起きる。壁にかかっている時計を見ると、本当だ、時刻は午後一時四分だった。
「嘘だ……。確か昨日は、智彦さんと優一と一緒に飲んで、そのまま……」
「……俺が部屋に運んできた。そこまでは覚えてるか?」
「なんとなく……」
「……その後のことは……?」
「そのあと……?」
僕は首をかしげ、記憶を辿る。けれどふわふわした、なんとなく楽しかった記憶しか思い出せない。
うんうん唸っていると、優一はなんだかがっかりしたような、少し安心したような表情を浮かべた。
「そっか。少し残念だけど、ああいうのは酔ってない時にちゃんとしたいしな」
「?」
「……内緒」
優一が微笑んでみせる。その表情がカッコよくて、やっぱりズルい。
どうやら優一は、僕も知らない僕の秘密を握ったようだ。ちょっとニヤニヤしてる。それも何だか不公平だな、と思った。
「……そういえば、優一、さっきスマホの画面を見てた?」
「ん? ああ」
「僕のことが書いてあった気がしたんだけど。どうしたの? 話があるなら今聞くけど」
優一は「げ」と声を出すと、スマホを開き、さっき見ていた画面を確認したようだ。
慌てて画面を閉じ「なんでもない」と首を振った。
あやしいなぁ、と僕は近づく。優一が僕の秘密を握ったなら、僕も優一の秘密を知りたい。
ベッドの上でゆっくりとにじり寄ると、優一は「わかったから」と顔を赤くした。
「……これは俺がイギリスにいた時、書き溜めていたメールの下書きだよ。本当は毎日でも玲人にメールしたかった。けど……できなかったんだ。俺が臆病者だから」
優一はまるで罪を告白するように呟く。僕は予想外の答えに、驚いてしまった。
「けれどこの時の気持ちを忘れたくなくて、たまに見返してる。今は玲人と一緒に生活できて本当に幸せだ。この幸せも、こんな時期があったから掴み取れたのかなって、時々振り返るんだ」
──優一が海外にいるとき、優一がどんな気持ちでいるか、知ることはできなかった。
もしかしたら僕のことなんて忘れちゃったんじゃないかって、不安になる時もあった。
……けれど実際には、こんなに想ってくれていたなんて。
「……格好悪いだろ。俺って」
僕は何度も首をふる。そして優一の掌をゆっくりと握った。
「ありがとう」
僕は何だか泣きそうになるのを我慢しながら、くすくすと微笑んでみせる。
優一は僕の表情を見て「礼を言うのは俺の方だ」と笑った。
「ねえ、優一」
「ん?」
「イルカの耳骨、いつ探しにいこうか」
「そうだな。来週の――」
僕らの約束は、これからも続いていく。
二人の旅は永遠だ。
END
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