ニーチェについて今の私が思うこと。

ニーチェについて今の私が思うこと。

その昔カントの本を熱心に読んだ。哲学というものは学問として学ぶのは大切だけど結局自分自身で生きる意味を探り、世界の構造を読み解こうとする行為なので、興味があるなら私のように無学な人間でも自然に探ってしまっているもの。例え学問として先人の哲学を学ぼうと、専門家になろうと、結局は自分の頭で考えなければ本当の哲学を体現できない。そして真剣に考えてきた人はやはりどうやってもニーチェを避けて通れないだろうと思う。私の感想としては、数ある哲学の中でもニーチェの哲学ほど真理を生々しく表現したものはないのではと。

ただ、私は思うのである。ニーチェは「考えることができた人」であって、そもそも「考えることができない人」がニーチェの辿り着いた思想を読んだところで真に言わんとする意味を知ることはないのではないか、と。そういう人たち(ニーチェを語る様々な人、解説者、哲学者という肩書きを持つ人たち)はそもそも人間はみな同じように考えることができるという前提で話し出す。そこが間違いだ。

そもそも人間には遺伝的にそれに「気付ける人」と「気付けない人」がいる。「気付けない人」の方が圧倒的に多い。世界はほとんど気付けない人が牛耳っていて、大多数の気付けない人たちを支配している仕組みになっている。気付けない人に「考えなさい」といったところで無理なのだ。違うだろうか?

例えば、『他者への妬みや嫉みに絡め取られることなく、自分の力で生きる意味を創造すること』これは恵まれた環境にあり生気に溢れている人なら可能だが、劣悪な家庭に生まれ虐められ幸福とは無縁の人生を生きる人には酷なことである──と、多くの人は考えるだろう。ルサンチマンに塗れず生きるのは素晴らしいことだと知りつつも苦しい立場に置かれた人には無理なのではないか? と。ニーチェの哲学にはその視点が足りない、と。そう感じるはずだ。実際とある哲学者がそのように語っていた。

でも違うのだ。自分が恵まれていようと劣悪な条件にあろうと関係ないのである。人間の善が絶対的な神により「是」とされないならその時点で人間はあまりに無力であり、つまり人生には生きる価値がない、という結論になる。人は考えれば考えるほど絶対的無力感に行き着く。それでも、そこに生きる道を創り出すという奇跡のようなパワーを出せる人間もいる。それこそが本物の創造性なのだ。これはとてつもないこの無力感と絶望感の苦しみを味わい知った人にしか見えない新たな道であり、素晴らしい精神の飛躍である。ニーチェは結局そのとんでもない力のことを言ってるのであって、すべての人間がルサンチマンを捨てて創造性を発揮できるとはさすがに思っていなかったはず。

世間の多くの人間は、民主主義や資本主義など社会的イデオロギーに守られて、それを意識的あるいは無意識的に受け入れて生きている。その社会の中で地位や名誉を得ようと成功を求める人もいるし、善良な市民、有能な社員として充実した人生を送ろうと努力する者もいる。あるいは安心、安定した暮らしを望み、それを追い求め守り抜こうと朗らかに生きている人もいる。またまたあるいは、世間のすべてに嫌気がさし、ニヒリズムを体現するかのように生きる人もいる。──どの人たちも決して「考えない」。

死が自分の人生のゴールであることの真の意味を。善良な人が意味もなく殺されてしまう現実社会を。敵のみならず仲間をも殺し続けてきた人間の歴史に何が見えるかを。親に殺された子供の命の価値を。無実の罪で死刑に処された人の叫びを。卑劣な人間を守るために命を投げ打った聡明な人間がいること、彼らが持っていた覚悟のことを。残酷無比な人間が隣に座っているかもしれない日常の恐怖や、子供を搾取する大人が尽きないこの世界の実態を。一瞬だけ考えて、眉を顰め、「例外」「非日常」「自分とは無関係」と片付けてまた日常に戻るのだ。なぜなら、自分(及び自分の家族)が幸せになることが人生の目標だから。他者のために何かができると考えるなんて、自分の非力さを認めない傲慢さだと言う。偽善だ、自己欺瞞だと考える。とてもじゃないけど、それらの真実に向き合い「苦しむ」のは短い人生の中で割に合わない、と無意識で感じているのだ。そもそも私は非力な人間であって全能ではない、私の力などあまりに限られている、そう自分に言い聞かせて、自分を守る快適な暮らしへと戻る。これは、私自身苦しい頃そういうふうにしてきたからよくわかることでもある。

また、共感力が強い人はこの苦しみの存在を否定しないかもしれない。彼らは意識的にそれに向き合い、既存のルールに自分を当てはめることで安寧を得ようとする。そういう人は弱い人たちのメンターとなり人々を導いたり沢山の情報を発信して心優しい人たちに居場所を提供している。例えばそれは何らかの信仰だったりするし、スピリチュアルな思想だったりする。先人の知恵や箴言を拠り所にすることだったりする。それは完全なる「守りの体勢」に入ることであり、新たな道を切り拓く創造性とは違う方向だが、精神の安定は得られるのだ。これも私は経験済みである。既存の教えや思想に「従う」ことは、誠実で利他精神の強い人たちを酷な現実から守ってくれる。報われない他者に思いを馳せすぎる人はこうでないと生きられない時期が確かにある。私自身がそうだった。でも一生そのようでは、結局そこに創造性など見出せない。自分の頭で考えることの放棄だ。そりゃあ楽だろう。痛みと対峙しなくて済むのだから。

けれども、彼らは仕方ないのではないか。まず、自分や家族の幸せしか考えられない恵まれた人たちについては、強い利他精神に突き動かされることがそもそもない。ないのに、どうやって利己の道以上の道を発見できるのか。あるいは博愛心を持ちながらも愛情不足のために苦しむ人たちが、自分のリソースを利他に使おうとすると自滅する。自分自身が困窮しているのに。

末人から抜け出し超人として生きることができるのは元々一部の人の話だと思う。リソースのある人たち、リスクを受容できる心に生まれついた人たちだ。いや百パーセントが生得的な理由とはもちろん限らない。ありったけのリソースを活かして弱さや痛みと真っ向から闘い強くなってしまう人だって確かにいる。

ニーチェの哲学は、結局そんな人たち(元から超人になり得る人たち)の存在を炙り出した哲学なのではないかな。彼らにはニーチェのいうことの意味が痛いほどわかるのだ。少数派ではあるが、人類の中に確かにいるのだ。

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このブログを読んだ人がもしいたら、これは学のないただの中年女が、身の程も弁えずニーチェ哲学への直感を認めた身勝手な文章であることを了承いただきたい。私は勉強不足のため、今後新たな感想が加わるかもしれない。