敏感性と複数の選択肢

敏感性と複数の選択肢

今日は、最近の私の内面に起きている状況について説明しておこうと思います。つまりは近況報告ですね。なぜこれを書くかというと、no+eを離れた私のことを気遣ってくださる方、ありがたいことにこんな私の存在をひとつの気持ちの拠り所としてくださる同じく苦しい内面環境を持っている方など誰かとの繋がりができ、no+eを離れたとはいえその大切さを否定できないからです。もし私の内面にある状況を正確にお伝えすることで、皆さま自身の何らかの参考や情報としていただけたらよいなと考えます。

敏感性による苦痛

今わたしは抗不安薬のお世話になって生活しています。no+eで記事を書いてた頃より量が増えました。身体と精神は繋がっていますよね。内面が複雑で敏感なタイプは身体も敏感であることは普通に多いはずです。過剰な興奮性を持っていると敏感性から逃れられないかと思います。栄養や健康問題には多く気を使うほうなのですが、昔から日常で閉塞感に苦しみ、閉所恐怖症でもあり、いわゆるパニック障害でもあります。また寂しさや孤独感や恐怖の感情と非常に「なかよし」です。平均の人間を遥かに超えてそうなようです。

朝や昼過ぎまで太陽の光を受けられる時間帯は活動的に過ごせますが、夕方から夜にかけては気持ちが憂鬱になり、真夜中には恐怖の感情と真っ向から闘うことになります。恐怖とは文字どおり死の恐怖です。目まぐるしい思考と共に激しい情動が内奥から湧き起こり生と死の境目がわからなくなるのです。狭い所も本当に怖いです。通勤電車で一度パニック症状が起きてしまうと命がちぢまった感覚を数日間引きずることになってしまい心身ともにダメージがなかなか拭えません。

このように、元々持ってる日々の閉塞感や閉所恐怖症など身体が関わってくるメンタルの状況はかなり惨憺たる状態ではあります。また、おそらく読者となってくださる方々のほとんどがご存知のように私がno+eを離れる際に起きた某方との衝突により、心の中にちょっとした動揺が起きた事実もあります。

とはいえ、その衝突問題が私の「すべて」を支配しているか、というとそうでは決してないのですよね。大昔のわたしならこの出来事だけでかなり感情的ダメージを受けて、「落ち込む」← →「立ち直る」の二極しか道がなかったと思います。でも今はあの頃とは内面の状況がかなり違っています。全然平気、などそういうひとつの答えに留まっているわけでもありません。それを今日ここに文章にしておこうと思います。

複数の選択肢

まずわたしには、色んな感覚や感情が複数存在しており(時々自分のことを《マルチポテンシャライト》ではなく《複数人間》と表現するのが最適なように思うことがあります。)、それらをどう扱うかも自由に自分の意思で選択でき、この中のどれを行動の最終決定として選ぶか、自在に操れる方法が理解できていて、それぞれの道が目の前に在ります。立ち止まるのは、最善を慎重に選びたいためです。

特定の方から嫌な対応をされてしまったことについては、おおむね「平気」であり「まあこんな経験はあるよな」「これもひとつの勉強だな」という感覚なのですが、身体的な問題や家族からの対応という環境的要因などがこれに絡んできてしまい、そのせいで毎日の気分がダウンしてしまう時間帯はたしかに起きてしまいます。そういう時はこの問題も含めあらゆる生きるための問題について「色々なことを忘れてもう休むしかできない」と感じ、何もかもがいっぱいいっぱいに感じます。かといってやはりそれが私の「すべて」ではないのです。

つい先日そういう凹む時間帯が訪れた夕方ふと、「そうだ、たまに不平や愚痴みたいなことをあえて表現してみるのはどうだろう? それは意外にも良いことかもしれない」と思いたち、今使っているThreadsで不満めいた口調でつぶやいたりもしてみました。今は恐怖感情とも繋がりやすいことが主な苦しみなので、もしかするとこれが一つの薬になるのでは、と不意に思ったからです。でも一瞬で終わりましたね。効果はあったのかなかったのか。次の朝にはもう別人のような気持ちになって、愚痴みたいなことを言う自分はやはり「遠く」に霞んでしまっていました。たぶんそれは一番自分らしい態度じゃなかったからだと思います。

こんなことを書くと、本当は心に怒りを溜め込んでるくせにまた無理してるんじゃないのか、いい人ぶろうとしているんじゃないか、と言われそうですね。わかってます。人は大抵、こっちの方向? さもなくばあっちの方向? というふうに二極を向いて生きているものなので。私もそうであった頃を体験してるので言いたいことの理屈はよくわかります。ほとんどの場合、葛藤は黒か白かの問題と捉えられますね。

それでもあえて正直に書くと、こんなに感情は敏感なのにもかかわらず、私には誰かを批判したい意欲もなく、自分の評判を回復したいみたいな欲もないんですね。時々、当の問題について「あの出来事はひどいな、看過できないな、対策のために何か意見を発信するべきかな」という気持ちにならないでもないのですが、本当にそれが私の本心だったらこの場を借りてとうの昔に散々書き散らかしていると思います。

笑われようが蔑まれようがどうでもいい、と以前no+eで書きましたが、基本的にはそれが私らしい姿です。理由は私という人間は在って無いようなものだから。自我、我欲、と捉えてもらうといいでしょうか。自分のために、という欲があまり起きないのです。

今あるのは、パニック症状が出る大変さ。年齢や環境からくる(もう人生何度目かに味わっている、そして解決したにもかかわらず新たな形で浮かび上がってくる)「オキシトシン不足」からくる孤独感、子供の頃からある実存的うつ──これは逃れられない原点の心。自分より苦しむ誰かのことが忘れられず無力感や罪悪感(自分が幸せであることへの申し訳なさ)や命そのものへのどうしようもない哀しみを感じてしまう──、朝の自分と真夜中の自分が解離する不安定さ、……これらです。

no+eでは、一年足らずではあったものの長い期間、魂を込めてメッセージ性のある記事を書いていたので、辞めたことの反動からくる虚無感も無きにしも非ずではあるのですが「書く」ことそのものはこのサイトでいくらでもできますし、実際このサイトまで訪れてコンタクトを取ってくださる方がいるので見ていただけることもわかりました。それについては大変嬉しく思っています。その方々にこの場を借りて改めてお礼を申し上げます。本当にありがたいことです。そしてno+eで私の記事を読んでくださっていたことに改めて心からありがとうございます。

変幻自在──と、自分のことを表現することがありますが、これから為すべき行動についていえばまさにこうなのです。どうにでも自分を「為らせる」ことができます。つまり、あっちかこっちかだけしかない世界にある葛藤みたいなものは私には存在していないのです。色々ある選択肢の意味がよくわかっています。どれがどう自分らしく、どれがどう自分を善くしたり駄目にしたりするかもよくわかっています。

ただ、ひとつだけ難しいと思うことがあります。それがこの敏感気質、敏感体質であるゆえに起こる問題です。これに阻まれてしまうのですね。このパニック症状と、朝と夜の自分が解離する問題、これらの違和感と苦しさへの対処方法が当面向き合うべき問題ですね。善い道をとるにしてもこれらがあるゆえに今自分を能動的にそっちへ動かせずにいます。

とはいえこの問題について、欠かせない対処方法ももうわかっています。先日ハッと気づくことができました。(その時は驚きすぎて号泣しました。)私はこの敏感性ゆえに、長い人生のなかで「白昼夢に浸る」ことで精神のバランスを保ってきたようなのです。こんなこと普通の人にはきっとないことですよね。自分がどれだけ普通じゃなかったかを思い知りました。気づいた時は自分の変人度に打ちのめされました。

つまり私は実存的うつへの対処として16歳から二十年間は主に信仰という形でこれに対処してきて、それ以降は対処法をなくし、代わりに、より多くの時間想像の世界に浸り切る──白昼夢を見ながら過ごす──ことで苦しみから逃れて生きていたのです。が、今年自分自身への精神分析的なことを始めてしまい、自分の中にある実存的うつの大きさを「直視」したことでこの白昼夢癖を頭から追いやってしまい、死にかけました。文字どおり。非常に情けないことではありますが、これは私の弱さでしょうね。空想と妄想の世界を「生きる」時間が私には本当に本当に必要で、これなしでは現実でさえ生きていけないのです。それほどに創り上げた想像世界が私にとって大切な現実であり私を支えているものなのだという事実を痛いほど知りました。これを頭から追い出すと私は死にます。笑えない問題です。知らずに追い出してしまっていた今年、これのせいで現実の自分と自分が解離してしまい、こんな余計な問題を抱える羽目になってしまいました。

結論

──で、結局何が言いたいのかというと。

私にある「葛藤」とは、出来事による辛い感情や苦しい感情に翻弄されること、それを治めることが解決になる。……このようなものではないということです。それについてはどうにでもなるのです。私にある葛藤とは、つまり、出来事から起こる感情はどうにでも制御でき、進むべき道は色々あり、自由に自分が最善と思える道へと舵をとれるのですが、この身体問題が絡む敏感性からくる身動きの取れなさ(さて、一時的で治るのか、持続するのか)による苦しみ、なのです。わかっていただけるでしょうか。

今後どのように行動して生きていくべきか。その可能性が様々に見えます。一つにはno+eの時と変わらず、私と同じこの心の痛み(大洋感情からくる共感的情動性の激しさ)を抱える誰かにメッセージを届け、お互いが救いとなる何かを見い出し新しい善きものを創り上げていくこと。このためには大人が抱える実存的うつの問題をサポートできる何かを見つけることが関係するように思えています。また、その道にとりくむのは苦し過ぎる敏感な私もいて、こちらを重視し、過去の自分に戻ってしまう道もあります。つまり添削サービスや小説を書くことに没頭して創作世界に完全に意識を潜り込ませて生きていく方法ですね。またあるいは、これらのふたつをバランスよく行いながら心身の調整を上手くとりつつ生きていく道。細かいことをいえばまだ複数やり方があります。主にはこのような三つの方法が見えています。どれも選択できて、どれも可能だと思っています。

ただ、願いはひとつ。自分にとっても誰かにとっても(誰かとは、私の家族を含み、関わる友人や知人、また読者となってくださる方々など)、最善の道が選べたら善いなということ。

自分は何者になりたいのか──?

真実から目を背けず、痛みを持つ誰かの心に明かりを灯せる何かをしたい。

春の痛みを経験したのちこの願いがいつも浮かび上がってきます。幸せの押し売りはしたくない。全体の調和なんて図りたくない。本当に苦しいひとりの人をその人そのものを確実に救える本物の何かを作りたい。

したくても身体が死んでしまうとできません。今身体が切迫詰まってるのでこの弱い身体をなんとか生かす方向に向かわせつつ、そうしていきたいです。

現状、色々道は見えようとも、今は身体が絡む障害により行き詰まっている状況ですね。私の人生には、「空想や妄想の創作世界入り浸り生活」もたしかに必要なのですが、同時にやはり、「OEやTPDについて真剣に学び考えていくこと」も必要であり、生来の資質からしてそこからは結局逃れられないと感じています。たとえ今無視しても実存的うつがある限り必ずどこかでこの問題に激突しますから。この、様々な選択肢と敏感性による問題、これをどう処理するかの頭と心の整理にお付き合いいただける方がいましたら助けてもらいたいです。

単にHSS型HSPだ、ギフテッドだ、と呼称や定義にこだわる話などにはまったく興味がありません。私に影響を与えた方のように「これが正しい答えだからコレを信じるだけでいいんですよ。もう苦しまなくて大丈夫ですよ。」なんて、外側から正しさを押し付けるやり方や苦しみを排除しようとする言い分は私には何の役にも立ちません。むしろ大洋感情、これが私にとっての本質であり原点であり今後の生き方の理想とも繋がっている本物の心なので、そこを理解して共感してくださる方を必要としています。(いま私がこうして誰かを必要としているように、私も回復したら私みたいな誰かを助けられたらいい、と思います。)

この敏感過ぎてダウンする現状と、目の前に見えている取れるはずの善き道(様々な選択肢)についての意味がわかり、実際に私と会って話をしてくださる方がもしいましたらコメント欄やコンタクトフォームより連絡をくださると嬉しく思います。よろしくお願いいたします。また、あなた自身がそのような経験をお持ちならそれを聞かせてくださるだけでもありがたいです。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

余談

様々な選択肢が見えるようになるには、世界と、自分の生活に関わる物事の因果を、細かく隅々まで認識できるところまでこないと駄目なのですよね。外側の環境だけでなく、内面の環境もそうです。その仕組みがわかり、因果や法則がわかり(単に言葉上の理屈ではなく体験的に実感としてわかるという意味)、何が道徳的に善きことで、何が道徳的に劣ることか、それを認知し深く認識し行動でも示せる、ということです。それを認識するために共感性を伴うこの過剰な興奮性を用いてきた、働かせてきたのだと思います。これを用いるということはそれだけ苦しみが起きたことを意味します。経験して獲得する長い期間が実際必要なのです。痛みなくしては、人は本物を知ることができないからです。生まれつきこの興奮性により敏感に世界を感じ取ってしまう人、特に共感的情動性(EOE)を持って生まれてくると、平均よりずっと多く人に起こる痛みの真実を知ってしまい、それが人にどういう感情を引き起こし、人にどういう行動を取らせるか、またその結末がどうなるか、を体感的に知ることになります。この認識の積み重ねにより、ついにこの複数の選択肢が見えるという世界が見え始めますね。そこは自由さもありますが、ある意味、周りに勘違いされ理解してもらえない場所でもあります。苦しみが起きてもそれは、両面感情からくる葛藤だとしか受け止めてもらえません。どんなにこれを言葉にしても、こっちかあっちかの道しかない世界での感情的葛藤のことだと受け止められますので、本物のコミュニケーションはなかなか体験できません。

苦しみの話をすれば体験上の苦しみの話にされてしまい、感情の話をすれば両面的な葛藤の感情のことだと信じ込まれてしまいます。

それでも、自分の為すべきことや成り行きの可能性が正確に掴み取れる自由と開放感はあるので、そういう意味では「苦しみ」という言葉だけでは言い切れないものがあります。またどこまで行っても敏感さからくる身体問題と無縁になれないことはとても残念に思います。興奮性が高まると恐怖の実感も高まります。成長の可能性を秘めていた数々の歴史上の人々もこの興奮性により命を縮め、孤独を感じ、無力感に苛まれて泣き腫らした夜が多くあったことでしょう。そんなことをよく思います。

だからこそ、「書く」「表現する」ことが理解と共感に繋がる薬になるのではと感じますね。

お返事

Q
マシュマロへの回答

G様へ

コメント欄がなぜか消えており失礼しました。お読みいただきコメントまで下さりありがとうございます!
敏感性を持つ人間の一経験を教えて下さりありがとうございます。やはり子供の頃から白昼夢を見る性質をお待ちなのですね。パニック発作も大変な心身への負荷と苦痛を経験されてこられたのですね。これのみならずGさまが様々な問題を抱えつつも負けじと踏ん張り尋常ならぬ努力を積み重ねてこられたことを、これまで表現された言葉の端々から度々感じとっております。苦労も意欲も並々ならぬものがあったと思います。こうして更に情報を頂けて一層考えさせられています。やはりアウトプットして表現することは欠かせませんよね。諦めずに続けることの強さを私も学ばねばならないと思っています。
先ほどnoteの記事も拝読し、色々考えさせられました。いつも貴重な発信をありがとうございます。