NOTEを辞めて、思うこと

NOTEを辞めて、思うこと

辞めた理由

こんにちは、水那田ねこです。今年の春先から再びNOTEで記事を書きはじめ、自己分析から始まり精神の奥へ深く潜り込み、最終的に「原点の心」を見つけるに至った一年足らずの期間。日記なども書きましたが、最後には誰かに伝えたい明確なメッセージを魂を込めて投稿し続けていました。

突然こんな終わりが来るとも思わずに。様々な分野を渡り歩くマルチポテンシャライトなのでふいに消える宣言はしていましたが、これまでのパターンを覆してしまうほどにNOTEは永続的な私の居場所だと思うようになっていました。まだ書いておきたいことがありましたし、自分の歌をアップして利他的に生きる人への応援歌としたいなどと画策しておりました。

しかし残念ながら私が書いたメッセージの本意がまるで伝わらない人々がおり、ひどい誤解を招く羽目になってしまいました。書いたことを文字通り受け止めてくだされば伝わるはずなのですが色眼鏡で見られるのでしょうか、何をどうやっても曲解されてしまうのですね。私の投稿は多くの方々に不快な思いをさせているとの自覚を促され、記事を取り下げることを強く指示されたうえ、NOTEから身を引くことをやんわり勧められ。反論して波風を立てるのも嫌だったので辞めることにしました。正直いうと、私が書いてたテーマに関わる界隈において監視の目を光らされここまで「愛と調和」を強制されることは気持ち悪いものでしたし、これ以上居るにたえられなかった、というのが理由です。

読解力はとても大事

今後もずっと投稿を追い続けたいNOTEクリエイターさま方がいました。交流も楽しんでいました。平和な場に癒されていました。まさかこれほど多くの方々から反感を買い、攻撃者と見なされていたなんて思いもしなかったため本当に驚きました。

辞めてから気づいたのは、日本語をきちんと受け止めることができない人がいるのだ、ということ。

例えば、私は学校生活が短く勉強に身が入らない特殊な環境で育ったせいで、高い知性を表す呼称(ラベル)について妙にアレルギー反応のような引け目や縁遠さを感じてしまうのです──と表現すれば、「あなたはそのラベルを持つ人々に対して強い怒りや憎しみを抱いているのですね」と解釈されるのです。ほら、やっぱり彼らへの怒りを隠している人だったのですね、ついに正体があらわになりましたね、みんなあなたの正体は最初からわかっていましたよ──というわけなのですね。

ドンブロフスキ博士の理論は特殊なものですよと示せば、やれ、あなたは周りの皆を見下げる人だ、自分が特別な人間だと自慢したいのだ、とこうくるのです。

そういう意味ではないです、日本語をちゃんと読んでくださいとは伝えましたが、反論したところで何になるというのでしょう。実際に私の存在にもやもやして苦しんでいた人がいたというのですから、これ以上居座り続ける理由はなくなりました。

誰か個人を対象に攻撃し傷つけるつもりなど毛頭なかったし、そんなことを書く気はさらさらなかったのですが。大切な私の原点の心(痛みを忘れない)を私と同じように持っている孤独な誰かのために「あなたは一人じゃない」とのメッセージを書いていた──ある程度誤解されることは覚悟して──のですけどね。このメッセージも、無理をして素晴らしい人になろうとしているとか、嘘をつかず肩の荷を降ろすべきだとか、こう受け止められるのです。これは私の幼い頃からの原点の心だと書いたはずなのですが、一向にそこが伝わらないのですね。

以前私のNOTEで、読解力のない人は人の心が読めない、という記事を書いたことがあります。あれだな、と思いましたね。

日本語をきちんと読めない、またきちんと扱えない人は、相手の「心」をも読み取れないのだと思うのです。そもそも「大洋感情」を『太陽』だと思い込んでいたことが、私の記事をきちんと読んでくれていない証拠のように感じます。また、記事を読んで『これは私のことを言ってるに違いない』と被害妄想に入っていく、『これの動機は他者への攻撃心に違いない』と受け止める、──人はみな自己投影をして誰かの文章を読むのだろうと思います。自分が持っている価値観の尺度を使って言葉を勝手に解釈して受け取ってしまうのだと思います。まさかこの世の中に、書いた言葉どおりの心が存在しているなんて夢にも思わなかったのでしょうね。何らかの不穏さを感じる言葉の裏には、必ず激しい葛藤や他者への恨みの感情があるに違いない、としか思えないのでしょう。みんな自分の思考や心持ちを相手の言葉に投影して意味を受け止めるのです。その証拠に、きちんと伝わる人にはいともたやすく伝わります。大洋感情のことを知り本当に良かったと反応してくれた方は確実にいました。予測どおり誤解されてしまった一方で、書いた目的そのものはきちんと果たせたと思います。

学び続ける姿勢と謙虚な心

またある意味、知性的なラベルを自称する人々のなかにも様々なタイプの人がいるという勉強にもなりました。愛と調和を他者に押し付けるやり方や、自分は誰かを救っている立場だとの自負、サポートしてきた経歴を公開する行為などが、どれほど己の見知らぬところで人を傷つけたり誰かに息苦しさを与えたりしているか。──誰しもそれを認識する必要がある、ということです。人生勉強になりました。私自身そうはなりたくないです。人間は一生勉強、一生謙虚な姿勢で何かを学び続け、相手の「心」を感じ続け、自分に至らぬところがありはしまいかと深い内省を繰り返し精進してゆかねばならないと思うのです。ガンジーさんの言葉にあるように、明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学ぶ。これこそが一番望ましい生き方だと思います。

今回、言葉の真意を読み取れない人の存在を目の当たりにしたことで、それを我が身の課題として思いみることにしました。私も子を持つ身なので、導くべき者に対し、過干渉になったり押し付けになったりしていないかと常に自問を忘れず行動を省みて生きていかねばと思います。反省を忘れてしまうと人は終わりです。自分の言動のせいで不本意な選択を取ることになった相手に対し満面の笑みでさようなら〜と手を振れる厚顔無恥な人間にはなりたくない。親は子供に対しよくそんな真似をする場合がありますが、私は親の立場として、取るべきではない行動の例を知る機会となりました。

何事も勉強なのですよね。誤解されて大々的に批判されることは決して心地よいものではありませんでしたが、これもまた一つの乙な経験に思います。

笑われることなく

恨まれることなく

輝く命などない

BUMP OF CHICKEN
『オンリーロンリーグローリー』

数少ない誰かの心に届くメッセージを書くことは、多くの人に笑われたり恨まれたりすることを避けられないということなのかもしれません。

今後も、私自身のサイトで誰かの心の闇を照らす灯りとなれるメッセージを書き続けていけたらと思います。しかしながら今現時点の心境としては、しばらく休みたい、が正直なところです。尊敬する人が居る界隈でとんでもない経験をし、少し人疲れしました。しばらくは何もかも忘れて過ごして気分転換する期間も必要だと思っています。

実存的痛みについて書くこと

痛みを感じる心を私は忘れない──。
みながみな愛と調和ばかり前面に押し出して平和を謳おうと、今苦しんでいる最中の誰かの心に響く文章を書く人が、一人はいないといけない。痛みや苦しみについて掘り下げて書く人がどこかに存在すべきだ、と私は考えてしまいます。なぜなら人は本当に苦しんでいるとき明るいだけのメッセージを見るのは辛いのです。孤独の渦中にある人には同じ孤独を感じている誰かの存在を感じることと、深いレベルでの共感者が必要であり、拠り所となる『痛みを忘れない場所』がどこかに必ず在るべきだと私は思うのです。

ここでは真剣なメッセージも気ままな雑記も自由に発信していけたらと思っていますが、心の闇を深掘りするような内容は今後避けて通れない気がしています。ひと休みしてからまた何かを書くと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

『農民芸術概論綱要』宮澤賢治

読んでくださりありがとうございました。

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汐森暮子

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