シニカルマン
頬に当たる風が冷たい。陽が落ち切り静けさが増した波間を、鳥たちがゆるやかに飛んでいく。
学校に通う前までは、伸ばしてくれる手をしっかり掴んで歩いた。ランドセルが小さくなってからは少しだけ距離を置き、ときどき駆け寄ってはくっつきながら家の前の浜辺を歩く。どうしていつも海に来るときはこんな時間なの、と疑問を口にして見上げれば、それはね、と立ち止まる。
「夜が来る前のこの瞬間が大好きなの。朝も昼も夜も好きだけど、星が瞬き始めるこのひとときが特別な時なのよ。玲人にだって特別なものはあるでしょう? 特別だから大切に扱いたい。とびきりなものはとびきりな人と分けあいたい。……って、こんなこと言っても難しいかな」
「うん、まあわかるけど」
「あっという間に過ぎてしまうから、特別なのかもしれないわね」
瞳の奥に光りを乗せて、答えを求めているのかどうかわからない目で母は言った。──特別。思えばこの散歩の時間が僕の特別だった。食事の前にちょっと歩こう、と連れられ玄関を飛び出し、前の車道を横切って小さな階段を駆け降りる。狭い砂浜だけど、丸くなったガラスの破片やおかしな形の木片がそこかしこに落ちていて、歩きながらそれを見つけるのも好きだった。気づきもしなかった。適当に突っかけたサンダルで歩いた砂浜。夕闇が迫る水平線を眺めていた何気ない時間が、これほどあっという間に過ぎてしまうことに。
夢の中の映像はいつも鮮やかで、今にも手を伸ばせば母の腕に届きそうだった。風に当たり冷えていた、でも掴んでいると温もりが伝わってきた、あの優しい腕に届きそうだった。
「もーーっ、優一さんって最低っ!」
日曜の朝。リビングに降りてみると妹の叫び声が耳に飛び込んだ。凪々と凛、このシェアハウスのオーナーである叔母夫婦、そして優一といういつものメンバーが揃っている。時計を見れば十時近い。当然みな朝食を終えていた。各々気ままに部屋でくつろいでいると思っていたのに、突然のこの剣幕はなんだ?
優一はドライバーを手にしてテレビ画面の裏を覗いている。何かの修理をしているらしい。その脇に智彦さんが腕を組んで立ち作業を覗き込む。みゆきさんは凪々と並んで、リビングに鎮座するキャメル色のソファーにゆったりと腰掛けていた。
「夢見る女子の前でそんなこと平気で言うかなー。ほんと考えられない、優一さんって」
えらくご立腹の凪々が顔をしかめる。
「まあまあ、そんなに気にしないの。真に受けないほうがいいわよ、凪々」
叔母に宥められている凪々だが、そんな二人と対立するかのようにテレビ側にいる男二人。
「こいつはちょっとひねくれてるからなぁ。軽く聞き流す程度でいいんだよ、凪々」
智彦さんはいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。どうやら実際の構図は、優一対他の三人みたいだ。顔をくしゃりと歪めた凪々は、「ひねくれ過ぎよぉ」と鼻の上の皺を増やした。
「どうしたの?」
僕が口を開くと、皆はやっとリビングの入り口に立つ僕に振り向き「おはよう、玲人」と声をかける。
「はい、朝のお飲み物」
みゆきさんが早速キッチンからグラスを持ってきて、ソファーに腰かけた僕の前に置いてくれる。レモネードだ。リビングの窓から五月の爽快な風が入り込み、部屋をゆっくりと吹き抜けていく。グラスの氷がカランと音を立て、ヒートアップ気味の空気に冷たい音を添えた。
「お兄ちゃん、聞いて」
「ん」
グラスに口をつけたところで凪々が僕に説明を始めた。興奮気味の声は上擦っている。彼女が言うには、昨日の夜、友達と一緒に観てきた映画がことの発端らしい。今朝リビングに降りるなり、みゆきさんを捕まえて開口一番言ったそうだ。「昨日観たラブストーリー、最高に素敵だったよ。すごく感動する話だったんだ。永遠の愛がテーマよ。ああ、いつか私も永遠の愛を誓ってくれる人を見つけたいなぁ……絶対見つける!」と興奮冷めやらない様子で。──いかにも女子らしい感想だけど相変わらず子供っぽい照れのなさだな。そこへ、修理箇所を弄りながら優一が放った言葉が、「幻想だな」だったと。
「え、どういう意味?」
「永遠の愛とか、そんなもの軽々しく誓える薄っぺら男より、もっと現実的な目標を持った人間を選ぶべきじゃないのか」
「はあ――? 何それ。永遠の愛のどこが薄っぺらいのよ」
「ただの美辞麗句だろ。聞こえだけよくて、真実味がない」
「サイテー。夢がないっていうか、愛が無さすぎる」
……という成り行きだったらしい。けっこう強烈な言葉の応酬に思えた。僕にとっては。お兄ちゃん、どう思う? という顔をされたけれど、事情を聞いたところで僕が述べられることは何もなかった。
「優一さんの恋人になる人がかわいそう……」
まだ腹の虫を治められない凪々が刺々しい声で小さくこぼし、抱えたクッションに顔を埋める。
優一の恋人――。それって、僕であるはずなんだけど。凪々はわかって言ったのか、無意識で言ったのか。この家での僕と優一の関係は、公認というほどには公言していないし、かといって何もないと嘘をついているわけでもない。僕たちの立ち位置と皆の理解に関しては常に微妙な状態である。みゆきさんには完全に気づかれたと思っていたけど、家族団らんの雰囲気の中で、僕と優一だけを『恋人扱い』するなんてやりづらいと思うから、これが一番いい状態なのかもしれない。複雑な気持ちでみゆきさんと智彦さんの様子を窺えば、二人は素知らぬ顔を決め込んでいた。
日常の中の小さなすれ違い。こんなふうに凪々と優一は時々衝突を起こしている。どれも些細なものだし、腹蔵なく語れる仲といえばそれまでだと思う。気にしたわけではないけど、ただ今日は何となく、気持ちの奥に蟠りが残った。
先週まで春の雨が続いていたけれど、この週末は天気に恵まれた。週末の、特に土曜日。僕と優一は時々適当な理由をつけ外出している。それをデートと見なされているか、たまたま二人揃って出かけている、と見られているか。突っ込まれないのをいいことに僕たちは答えもしない。曖昧な状況のなかこっそりささやかな「週末デート」をしている。ただ、昨日はお互いに野暮用が続いたためタイミングが計れず、日曜日の今日やっと、時間を作れそうな状況になった。
『少しドライブでもしよっか』
自室に戻り部屋の片付けをしていた僕に、優一からメッセージが届いた。スマホの画面を見て頬がゆるむ。同じ家の中にいるのに、込み入った会話となればほとんどコレだ。
『うん、いいよ。どこ行く?』
『葉山のほうはどうだ? 玲人の実家付近、見てみたくて』
どきりとした。そういえば何度か「お前が育った町をちゃんと見てみたい」って言われたことがあった。まだ時計の針は午後の一時を指していない。今から出かければ夕飯時まで三時間ほどは二人きりで過ごせる計算になる。……昨夜、久しぶりの夢を見た。懐かしい海辺の町の夢を。できるならもう少し計画的に出かけたかったけど、近いようで遠いあの町を訪れる機会はそうないかもしれない。まして優一のほうから行きたいと言われたら──。
『いいよ』
『よし、決まりだ。駐車場、先に行って待ってるよ』
意味があるかないかはわからないけど時間差をつけて玄関を出る。靴を履いていると、みゆきさんに行き先を訊かれた。葉山のほうへ、と答えると、ちょうどよかった、と顔を明るくしたみゆきさんから用事を仰せつかってしまった。半島にある、とある農家を訪れて、野菜を受け取ってきてほしいとのことだ。連絡つけているから行けばすぐわかると思う、と簡単な地図も渡された。特に深く考えることもなく引き受けた。
車の窓を開けると、生ぬるい五月の風が音を立て入り込んできた。前髪が巻き上がり、反射的に目を細める。建物の切れ間から水平線が覗き見え、絶え間なく水面が乱反射する。海面と空との境目辺りで、遠慮がちに微かなアルペジオが鳴っている。
気持ちのよい天気とは裏腹に、朝から胸にある引っ掛かり。それを無視して会話をする気になれず、運転中の優一に、軽く話の水を向けてみる。
「さっきのさ、凪々との話だけど」
「ん」
「女の子には、やっぱ気を使ったほうが……いいかも」
「……」
優一は前を向いたまま答えない。少し焦ってしまう。
「ごめん、こんなこと。でも……」
「ああ、そうだな」
わざと笑顔を作るように唇の端を持ち上げた優一。責めるつもりはない。いや、本当はこんなことを言いたいわけではない。僕が気になっているのはそこじゃないんだ。でもなぜだろう。本心はいつも簡単に喉元まで出てきてくれない。
「お前はずっと、あの子に気を回して丁寧に接してしてきたっていうのに、手荒いよな、俺は」
苦笑いをして、「悪かったよ」と目配せしつつ言った。「うん」とだけ返して、お互いまた前を向く。形だけは収まったけど、どこか釈然としない。
「ところで、お前みゆきに何頼まれた?」
「あ、農家で大根を箱で受け取ってきてほしいって。前から約束していたんだって。美味しい地元ブランドの春大根らしいよ。場所はここに書いてる」
ポケットに突っ込んでいたメモを取り、運転中の優一に形だけ見せる。優一は「大根かよ……」と笑ったあと、なぜか口元を大げさに歪めた。苦虫を噛み潰したような顔って言うんだっけ。
「断る選択肢はなかったのか?」
「えっ、なんで」
「みゆきが自分で来るべきだろ」
「でも……」
不満があるときの優一の顔は、怖い。前を見てるけど、目が座っている。軽くオッケーと言ってもらえる気がしていたのに。せっかくのドライブの時間を所用に割かれるのが嫌なのだろうか。でも家族なんだしこれくらい、と思う。自分の選択がどう拙かったのかいまいち掴めず、今朝から胸に渦巻いてるものが更に大きくなった。
「お前はお人好しがすぎるんだ。それに……」
言いかけて、その顔にどこか寂しげな影が落ちた。なんだろう。なんでそんな顔をするんだろう。何? と問いかける目をしてみたが優一はこちらを見もせず沈黙してしまった。
ミニの低いエンジン音だけが車内を満たしていた。
時々、優一がわからなくなる。僕にしてみれば辛辣にも思える言葉を平気で吐いたり、かと思えばとびきり優しかったり、いつもご機嫌なくせに急に不満顔を見せたり。何よりこうして並んで座っているのに、どこか寂しそうな表情すら見せる。だいたいいつも何か考え事をしているのは知っている。優一の頭は僕の数十倍の速さで回転しているのだと思う。……優一は、僕とこうして過ごしていてつまらなくないんだろうか。僕なんかに話しても相手にならないと感じてないだろうか。話し相手として釣り合っていない気がする。そもそも付き合っているなんて、それは僕の勝手な思い込み、思い上がりなのでは。不安は尽きない。心の空に暗雲が立ち込めてくる。暗がりに飲み込まれそうになる。
さりげなく伸ばされた優一の手が、素早くデッキを操作すると、車内に音楽が流れ始めた。優一がドライブ用に作ってくれたディーブレのプレイリストだ。力強い裏拍が刻まれるイントロ。
「あ、これ」
「──シニカルマン、だっけ?」
「そう。これも入れてくれたんだ」
「好きなのか? この曲」
ちろ、となんだか小さな笑みを含んで僕を見る。
「もちろん。明るいけどなんかちょっと面白いし」
相変わらず貧相な語彙力で返してしまう。
「たしかに。凝った歌詞だよな」
ある皮肉屋な男の生涯を歌った、スケール感のある曲だ。シニカル……冷笑的という意味だろうか。実をいうと、突如冷たい言葉をぽんっと吐いたりできる優一のイメージがどこか被ってしまっていた。優一は気遣い屋だし優しいけど、ひねくれた目線からものを言うことも多くて、そんなところがやっぱり……なんて、本人にはとても言えないけど。曲の後半はほとんど英語なので、全体の意味がよくわからない。
僕が自然に口づさんでいると、いつのまにか優一も口を開けずに鼻歌でメロディーをなぞっていた。ん、と思わずその音程に注意を向ける。これは……。今、頭の中にミミズ文字みたいなのが浮かんだ。聴いてはいけないものを聴いてしまったかもしれない。何をやってもスマートにこなす優一は、たしか音楽だけは苦手だと言っていて、その片鱗を見てしまった。いや、ここは聴いていないふりをするに限る。
「どうした?」
「ん、なんでもない。あ、この曲もいいね」
笑って突っ込むような気になれず、話を逸らす。
「だよな。玲人の好み、ちゃんと押さえてあるだろ」
やや得意げな笑みを見せるから、無難に「ありがとう」と答えた。まあ、ディーブレの曲なら全部好きなわけだけど。
いつのまにか、馴染みのある風景の中を進んでいた。緑が眩しい。黄色いミニはゆるい坂道を唸りながら走っていく。徐々に僕が生まれ育った町に入っていった。
「今後半月くらいは大根メニュー確定だな」
決して軽いとは言えないダンボール箱を、後部座席にどすんっと置いた。むわんっと、青臭さと土の香りが鼻をつく。デートに似つかわしいとは言いがたい匂いが車内を満たした。優一はやや不満顔だ。
「あんなにおしゃべりなのか、農家の人間というのは」
みゆきさんが気に入ったという野菜の栽培主は、日焼けした顔の壮年男性だった。僕たちが代理で受け取りに来たことを告げると、伝票を切りながら、やたら饒舌に大根のアピールポイントを語ってくれた。春大根と冬大根の違いから始まって、無農薬栽培へのこだわり、今年の出来がよいことや、ホームページを作ったおかげで個人的に購入する客が増えたことなどを。僕は通常の野菜と栄養素がどれほど違うか興味深くて熱心に耳を傾けたけど、優一はつまらなかったみたいだ。終始そわそわしていた。やっと切り上げて座席に乗り込んだ頃、彼は大きなため息を吐いた。
「遅くなってごめん。えっと、時間……」
腕時計を見る。ここへ来るまでの時間と今の用事を含めると、思いのほか時間が過ぎていた。
「もう三時過ぎちゃった、ね」
夕飯に間に合うように帰るなら、あと一時間を切っている。やっぱり半日程度で来るのは無理があったかな。今日は上手くいかないことだらけな気がする。自然と眉根が寄ってしまった。
「観光地とかはいいからさ。お前の実家近くを通って帰ろう。ほら、馴染みのバス停があるとか言ってただろ、そこへ行ってみよう」
効率重視で合理主義な優一は、無駄な小言を言わない。野暮用を請け負った僕に、きっと文句たらたらなはずなのに。
「なんかごめん。大根なんかに時間食っちゃって」
ちろ、とハンドルを握る優一を見やると、口端を少し上げて「別にいいよ」と返した。
甘いラブソングが流れ始めたけれど、なんだか気持ちが沈んでいた。窓から水平線の向こうを眺める。胸の支えがピークに達しそうだった。古今東西使い古された愛の告白文句が英語で連呼されている。他のアーティストなら陳腐に聞こえそうだけど、デイーブレが歌うと純粋で美しく響いてくる。
「こんな曲、優一は好きじゃなさそうだね」
口に出す気はなかったのに、図らずもこぼしていた。嫌味に聞こえたらどうしようと焦る。案の定、優一は渋い顔をして返した。
「どうして?」
「え、いや……」
「今朝、凪々にあんなこと言ったから、か」
「……」
一人納得顔をして、優一は低く言った。朝から感じている胸の中の澱み。一番の理由はこれだった。仮にも恋人がいる前で、愛を誓う人間のことを浅はかだと嘲笑った優一。「愛している」と初めてはっきり言葉で伝えられたのは、まだ半年ほど前のことだ。僕にとってそれは奇跡みたいな出来事で、それから言葉以上の親密な関係になった。優一はストレートな気持ちを何度も伝えてくれる。こうして二人でいるときも、秘密のおうちメールでも。充分なほどに。なのに、それ以上の誓いの言葉がほしいと言ったらどう思うだろう……これって贅沢な望みだろうか。今だけじゃなく、もっともっと先の未来まで優一が同じ気持ちでいてくれる、そんなたしかな約束がほしいと願うのは現実的じゃないのだろうか。優一は馬鹿にしていたけれど、正直僕は凪々の気持ちのほうに賛同している。だって、恋人って……そういうものなんじゃないのかな。
そんなことを考えていると、優一と僕の間に大きな溝があるように思えてきた。いつも最先端の知識を持って意識が高い優一は、なんというか、僕には想像もできない難しいことを考えている。生まれつき知性のレベルが違うのだと思う。僕はときたら、悲しいかな絵に描いたような凡人だ。凡人相手に誓える言葉なんてあるわけないのかも……。どんどん思考が沈んでいく。
「何考えてる? あ、玲人、この辺じゃなかったか」
海沿いに走っていた僕らの前に、見慣れた風景が現れた。
「あ、そうだよ。ここで停めて」
猫の額ほどの駐車場に黄色いミニを停める。青々とした山とこぢんまりした住宅地を背後に降り立てば、目の前には懐かしい浜辺が広がっていた。駐車場の横には、小さな白壁に囲まれたひなびたバス停。古いけど、レトロで外国風に見える雰囲気のためか、アーティストがジャケット撮影に来たり、時々バスから降り立った人がカメラを向けていたりする。バス停と合わせてこの浜辺は、知る人ぞ知る撮影スポットなのだ。
「夕陽の名所なんだよな、ここ。これが玲人が毎日通ってたバス停? 入ってみよう」
優一は少し浮かれたふうに中を覗いた。待合室と呼ぶにはあまりに開放的すぎる、ベンチが備わった空間に入ってみる。大きな窓から海が見えて、眩しい茜色の陽が注ぎ込んでいた。壁面には掠れた文字の時刻表、色褪せたポスターが数枚。高校三年間、このベンチで親友とバスを待ちながら他愛ない話をしていたっけ。いつも使っていた空間に優一がいることが不思議だった。
「すげーな。玲人の地元についに来てしまった」
相好を崩した優一の背に、夕陽が当たる。
「海岸にも降りてみよう」
砂でほぼ埋まっている数段の石段を降りて、浜辺に出た。眼前の海だけでなく、ゆるやかに湾曲した場所にあるせいで、取り囲む山々や道路まで広々と見渡せる。夕暮れどきは、時々通り過ぎる車以外人けがなかった。ゆっくりと、大きな太陽が赤みを帯びていく。今にも水平線に接しそうだ。
「玲人」
手を伸ばされ、反射的に僕も差し出せば、強い力で握られた。見晴らしのよい場所だから、誰かに気づかれたらどうするんだろう。僕の不安をよそに優一はくいと手を引っ張って、「少し歩こう」と笑った。
シェアハウスの前の浜辺を歩くことは時々ある。でもここを並んで歩くのは本当に変な気分だ。有名な観光地でもなければ、取り立てて人気スポットというわけでもない。かろうじて詳しい地図に載っているような地元チックな場所だし、友達とすら来たことがない。
「優一、手……」
僕が躊躇うと、
「いいじゃないか。誰も見てないよ」
軽く返されて離してもらえない。体温が伝わってくる。さっきまで胸に渦巻いていたモヤモヤがなんだか馬鹿らしくも思えてくる。同居人ではなく、普通に付き合っている恋人同士なら、こうやって触れ合う時間がちゃんとあって、不安に駆られることなどないのかもしれない。毎日会ってるのに二人きりの時間は少ないから、余計なことを考えてしまうのかもしれない。
「玲人、俺とここに来るの嫌だった?」
「え、……どうして」
意外なことを訊かれどきりとした。
「ん、なんとなく。今朝から元気ない気がしてさ。俺ばっか楽しみにしてるみたいで」
伏目がちな顔で覗き込まれ、さらに胸がざわめく。
「高校んときさ。お前を鎌倉の病院に案内したことあっただろ?」
「あ、うん」
「あんとき、家まで送ってこうか? って言ったらやんわり断られて、がっかりしたんだよな」
そう言って微苦笑を見せる。あの頃は『咲野先輩』と呼んでいたな、と少し懐かしい感覚を思い出した。
「がっかりしたなんて、本当? 知らなかった」
「玲人は俺のこと、どんだけ知ってくれてんだろ」
「え」
丸めた目で見返すと、優一は一瞬遠い目をしてから視線を落とした。
「……なんて思うことがある」
握られた手は解けそうで解けない。頼りない些細な力が僕たちを繋いでいる。
「お前とずっとこの先も一緒にいたいし、俺はそのつもりでいるんだけど、玲人はどうなのかなって……不安になることがあるよ」
優一が足を止めた。立ち止まって僕を見つめる瞳の奥に、かすかに揺れる光があった。不安って言った? そんなことを感じるのは優一じゃなくて僕のほうだと思うのに。腑に落ちず、僕もその目を覗き込む。数羽の鴎が鳴きながら僕たちのすぐそばを横切り飛んでいった。ザクッと砂浜を踏みしめる音がして、優一の手が僕の手を離した。
「どうしてそんなこと」不安なのはむしろ僕のほうだ、と言いかけると優一が言った。
「いつも家で周りの目気にしてるだろ。だから俺にとってこういう時間はさ、特別なんだよ。一分一秒だって無駄にしたくない。家族のお使いは別にいいさ、それだって大事なのはわかる。でも、玲人は少しも躊躇わなかったのかなって……俺との気持ちの温度差を感じてしまったんだ」
みゆきさんからの頼まれごと。
「優一……」
「俺ばかりが浮かれてるみたいだよ。二人でいられることに」
あ──。せっかくのドライブなのに、僕は朝から浮かない気持ちを抱えていた。顔に出てしまっていたんだと今更ながら気づいた。ここに掛けよう、といって防波堤の前に放置された古びたボートに優一が腰掛ける。隣に並んで僕も座った。打ち寄せる波が、白い飛沫をあげてはすーっとまた引いていく。ふと手に触れて問いかけるように覗き込まれた。
「楽しくなかったか?」
「まさか。そんなことないよ、ごめん」
息を吸い込み吐き出してから、胸の支えを言葉に換えた。
「ただ、ちょっとだけ気になってて。ほら、ずっと先のことを約束するのとか現実的じゃないって言ってたこと。優一は、僕とは違うんだなって……」
──そんなの美辞麗句さ、真実味がない。
今朝聞いた言葉がよみがえり再び胸に小さな波紋を残す。口にしてから途端に恥ずかしさに襲われた。頬が赤くなるのを感じる。これじゃ、愛の言葉を言ってほしい、っておねだりしてるも同然じゃないか。
「そのことか」
優一が目を丸めた。おもむろに右足で小さく砂を蹴る。
「俺はさ。特別な言葉は特別なときにとっておきたいだけなんだ。玲人にはちゃんと伝えたいと思ってるよ」
「え……」
「永遠なんて、簡単に言える言葉じゃない。俺がもっと幅も深さもある大人になって、綺麗事じゃなくて本当にその言葉を扱えるだけの自信ができたら使いたい。適当な相手にならいくらでも言えるけど、玲人には……」
優一の口から、自信ができたら、なんて言葉を聞くとは思わなかった。寂しそうな顔やそっけない言葉の陰にこんな感情が隠れていたなんて知らなかった。言葉を扱う仕事をしている優一にとって、言葉に感じる重みは僕よりずっと大きいのかもしれない。凪々にあんな反応をしたのは、特別な言葉を軽く口にできる人間には気をつけろ、っていう優一なりの親心的な気遣いだったのだろうか。……にしても、もっと言い方があると思うけど。ただ、優一は捻くれているんじゃなくて、考えていることの深さが違うのかもしれない。目の前に広がるこの大きな海のように、それは僕にとってどこか掴み難いものでもある。けど、嫌いじゃない。
「この海ってさ。玲人の思い出の場所なんだろ」
さっきとはまるで違って明るく笑ってくれた。
「うん、家から近かったから、こんな時間によく散歩したりしたよ」夕飯前に母親に引っ張られて来て、と出かかった言葉は飲み込んだ。特別な思い出は軽く口から飛び出してくれない。
「俺にとって一番特別な言葉は、玲人にとって一番特別な場所で伝えたいから」
「とくべつ……?」
思わせぶりな言い方におのずと鼓動が早まる。
「ああ。だからまた一緒に来ていいか? ここへ」
夕陽は水平線に溶けて、暖かな空気を抱えたまま海の向こうへ落ちようとしている。夜が来る前のひとときが特別好きだ、と微笑んだ懐かしい声が鼓膜を掠めた気がした。静かに頷いたら、そっと顔を近づけられて、頬に乾いたものが触れた。驚き見返せば、優一の瞳に映る光はもう真剣みを帯びていて、僕は思わず唾を飲み込む。口づけられる──そう感じて目を閉じる。肩を引き寄せられると、望んだ温もりが唇に降ってきた。潮風の味がするこんなキスを何度されたろう。合わせた皮膚の湿り気具合で心の温度まで感じ取れるのはなぜだろう。いつか伝えてくれるその言葉がどんなものかはわからないけれど、この上なく幸せな気持ちをくれる言葉に違いない。その日はきっと、僕の特別な日になるのだと思う。
食むような優しい口づけが激しくなる。強く吸いつかれて戸惑った。ここは紛れもない屋外で、人けがないとはいえどこから見られてしまうか分からない。一瞬離した唇で、優一がささやく。
「好きだよ、玲人」
吐息のような声に甘くくすぐられて、答える間もなくまた欲張りな唇に捉えられた。指が僕の耳にかかる髪の中に滑り込み、頭を抱え込まれる。強く迫ってくる湿った熱を精一杯受け止める。やがて割り込んできた舌に口内を弄られて水音が響く。こんなに激しく求められるキスは久しぶりで、心臓がバクバク音を立て始めた。焦って突き放すように僕から唇を離した。
「……っ、そ、外だから」
赤くなった頬を感じながら言えば、優一はまだ足りないと言いたげな熱い眼差しで僕を見てるから、心臓が小さく跳ねてしまった。
「わかってるけど、いつも我慢してるから。今日くらい」
ぎゅっと握られた手から熱が伝わってくる。
「なあ、玲人」
「なに」
「少し帰り遅れるって連絡入れるのはどうだ」
「え、どうして」
「……実家の鍵、持ってきてるんだ」
ここは僕の実家のそばだけど、この場合実家とは優一の藤沢の家のことで。同居宅ではそんな雰囲気になるのすら避けているから、当然密な時間を過ごすのは誰にも知られない場所、初めて連れていかれたあの家だけだ。言葉の意味を察した僕の頬はますます上気してしまった。
「だめ?」
いくぶん空気を含んだ熱のある声に訊かれた。僕だってこれ以上の恋人らしい時間は欲しい。けれどすぐに現実的な生活のリズムに思考を絡みとられてしまい、口からこぼれたのは……
「──大根」
「え?」
「大根、待ってるから。みんなが。今日は帰らなきゃ」
色気の欠片もないワードが出たらもうダメだった。あの匂いが充満した車で藤沢へ向かうのはなんか違う気がする。優一も同じだったみたいだ。
「──だいこん、か。そうだな」一瞬忌々しい顔をしてみせて、優一が立ち上がる。
「また来週までお預けか」
「ごめん」
軽く引き受けてしまったことを後悔しても遅い。優一が不服そうにしていたのにはこういう意味もあったのか知らないけれど、シェアハウス生活とは、かくも生活感にまみれているものだと今更思い知る。
車のドアを開けたら、例の匂いは暖められていっそう濃くなっていた。僕たちは顔を見合わせて苦笑する。優一の手がイグニッションキーを回してミニが唸り声を上げると、フロントガラスの向こうに見える空はもう、夕闇色に染まっていた。
「短いドライブだったけど、俺は楽しかったよ」
「うん、僕も」
「今度は大根抜きで来ような」
ぷっと吹き出してから頷いた。シートベルトを締め、最後にもう一度浜辺の方を見れば、今にも夜の帷に包まれそうな海が、ゆったりと波音だけを繰り返している。
「玲人って、こんないいところで育ったんだな」
「……」
優一の目が、思い出の海を映している。
「さ、行こうか」
……もし、もう一度あのときのように問いかけられたら、僕はなんて言うだろう。
――玲人にだって、特別なものはあるでしょう?
あるよ。ううん、できたんだ。たった今。
いつか再びここへ来たとき優一が僕に伝えてくれる言葉、それがきっとこれからの僕の特別になると思う。ああ、そう僕が答えれば、きっとこう返されるだろう。
――その日を待つまでの時間だって、きっととっても特別だわね。
プレイリストからさっきのシニカルマンが流れたとき、優一が言った。
「この曲の最大の皮肉は何かわかるか?」
「最大の、皮肉?」
「ああ。散々世間を嘲笑って皮肉ばかり吐いてきた男が、最後に口にした言葉は、何か」
語尾にもったいをつけて言った。
「後半英語だからよくわからないんだ。なんて言ってるの?」
「そっか、知らずに聴いてたのか。最後のこの英語部分はさ、彼が恋人に作った歌の歌詞だよ」
「えっ、そうなんだ。なんて言ってんの? 単語の意味しかわからないから」
「大意はこうだよ。君と出会って灰色の世界は終わり世界は薔薇色になった。僕は惜しげもなく永遠の愛の言葉を君に捧げよう、この純粋なる愛の言葉を──だってさ。つまり、厭世的で皮肉屋として知られた男の最期は、捻りも何もないストレートな甘い愛の言葉で締めくくられた、っていう最大の皮肉さ」
気持ちだけ軽く飛び上がった。そんな意味だなんて今の今まで知らなかった僕は、これでも本当にディーブレのファンだと言えるのだろうか。
「ひょっとしたら玲人気付いてないんじゃないかと思ってた。お前、この歌の主人公と俺を重ねて見てただろ?」
じろりと見られ、
「えっ」
さっきよりも驚いた。まさか気づかれていた?
「この歌がかかるたび、妙に俺の顔をちろちろ見てるもんな。お前自分では気付いてないんだろうけど」
くくっと喉を鳴らす。僕はそんなにわかりやすい人間だったのか。返す言葉がない。
「ごめん、正直いうとちょっと優一のイメージと重なっていたんだ」
「謝らなくても。いや、当を得ているのかもな。俺だっていつか恋人に同じ類いの言葉を贈りたいわけだから」
照れ隠しのように口端を思い切り上げて歪めた顔が、思わず笑いを誘う。嬉しくて、こそばゆくて、もったいぶって先送りされて、なおもどかしくてたまらない。こんな気持ちをなんていうんだろう。きっとこれが特別っていう感情なのかもしれない。
目の前に広がる薄紫の空に小さな星が光っている。短いドライブだったけど、僕にはかけがえのない時間になった。隣の席で、僕のシニカルマンが笑う。その微笑みは冷たくも乾いてもいなく、ただ潮騒のようにあたたかかった。
了
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