
先日も書きましたが、自分の中の「創造の泉」に二つの路線がある場合、賢明な判断をする人なら、どちらを優先させるのでしょう?
(賢明な、というのは、利他心を軸にした上で人として有用で価値ある生き方を選ぶという意味)
私には、
1・自分の生き方に真剣に向き合うことで生まれてくる言葉、自己の内に革新を起こしたいという願いからくる言葉がたくさんあり、それをnoteに書いていきたい。
2・自分の中に強固に創り上げたパラレルワールド(幾つかの空想世界。これは私にとって現実の実生活の世界と同等と言えるほどの価値を持つ)からこぼれてくる──ダウンロードするような形で作ることになる──音楽や物語などの創作作品を作る活動。主には小説。
この二つの軸があります。
そしてここからが大事な点なのですが、もがき苦しみながら前を目指して生きようとする誰かにとって、この一番目の文章、『これはこうで、私はこういう体験をして、これにはこういう意味があり……』という説明的な発信や個人体験的なエッセイも、二番目の、『ああ、このように生きたい! ああ、こうすればいいんだ! ああ、私にもやれる!』こんな、閃きのように得られる感動や新たな感情の芽生えや気づきや生きる力の後押しとなる物語や音楽も、どちらも人にとってかけがえのないものだと感じられるのです。
例えば音楽。
たった一つの短いフレーズが、これまでの人生の歩みを全肯定してくれたように思い涙を流したことないですか? 災害であらゆるものを失くし生きる希望を失いかけていたときに、ある音楽の力強いリズムと優しい歌声を聴いた瞬間意味もなく生きる勇気が湧いてきた……こんな話をどこかで聞いたことないですか?
小説も。
たまたま読んでた本のたった一行の文に、世界の真理を垣間見た思いになったことはないですか? 人生を省みるきっかけが得られたことないですか?
私は、小説や音楽などの芸術作品(商業体制に上手く乗っかって完全に『商品化』した大量生産型の商品表現物ではなく、美と真理の追求を見えないテーマとした、作者の魂が込められた味わい深い表現物のこと)には、人の心を深く癒し、勇気を生み出す巨大な力があると心から信じています。
それらを創作する道にとても惹かれますし、幾らかはそれをなすためのポテンシャルが自分の中にあるとも思っています。(過去、読者から感動の声を頂いた時、もっともっと人を感動させられる、人間的に幅と奥行きのある物語を創ってみたいと感じたことがあります。それを夢にするのは素敵なことで私に合った生き方だと感じました。遠回りしたせいで年齢的には心許ないですがまだ遅くないと。商業的な意味の評価には興味がないのですが、死ぬまでに誰か一人の心に強く届くといいなと。)
ストレートに公にメッセージを込めた文章を書き表すことよりも、創作作品作りに没頭する活動は、利己的で劣るのでしょうか。
私自身は物語や音楽から、生きる力をもらってここまで生きてこられたという背景があり、それはとても大きな意味を持つので、こうした創作活動をする人を尊いと感じてしまいます。尊敬する作家やアーティストがいます。世界に対して、自分を閉じているように見えるかもしれませんが、過去それらの閉じこもって書かれた物語や没頭して作られた音楽にどれほど癒されてきたか、その経緯を思うとやはり利己的な行動とは思えない……。
私の中に行いたい二つの方向があり(文芸ジャンルで書きたい物語の構想が一年前からある。それには私の人生から得た教訓的メッセージを込めている。せっかく小説を書く底力をつけたのでそれをいつか形にしたい気持ちがある。)ちょっと、その辺で価値の比較をしてしまうことがあるのでした。答えは自分で決めるものに違いなく良心に従うだけのことだけど、ただぼんやりそんなことを思った、という誰にともなく訊きたくなった今日の気持ちでした。
終わり。
HSPの続きを書いていて、筆休め(箸休め?)に書きました。
(あれ、昨日決めた順番はどこへ行ったのか? 笑)
