来年腰を据えて表現する場が欲しい。自サイトかnoteか。

来年腰を据えて表現する場が欲しい。自サイトかnoteか。

noteで書いた記事

いまだ続く“一箇所に定まらない”問題

WordPressで自サイトを作り公開してるけどnote発信のシンプルさを知った以上ここは表現の場として選択肢からなんとも外しがたい。最終的に腰を落ち着ける場所としてどちらが良いか検討する気持ちはまだ消えていない。もう数年に亘り考えているが今のところどちらともいえない。サイトはついデザインに凝りすぎてしまう。ここなら書くことそのものに集中できるが正直少しだけ交流が煩わしい。かつこわい。
先月まで、別アカウントにてここでものすごい集中力で書いてしまっていた。なぜか私を放っておいてくれない人から手取り足取り投稿の細かい指示をされ始め、気持ち悪さに耐え切れずついに離れてしまった。

壊れていく自分(分離と解離)

今はこんな状態。私は本当に頭のおかしな人間だと思う。気が変なのかもしれない。けれども、尊敬する人物の著作を読めば読むほどに、世の中のほうがとち狂っているのだから、異常をきたすくらいがむしろ正常な人間であるとも言いたくなる。不安定さを抱えずポジティブに生きられる多数派こそが異常、世間の狂った構造を感じ取ってしまう人間はこの社会が押し付ける生き方を肯定できないうえ少数派という枠にすら嵌らず孤立無援。精神の不安定さは不可避。それはたしかに世界の真理をついた理解なはずだ。……なんて言い分を書いたところで何になる。なおこんな変な私のことを元気づけてくれる方々が存在してくれることに感謝の気持ちはたえない。

もっとも正常な人は、もっとも病気の人であり、病者はもっとも健康な人である。

精神分析家 エーリッヒ・フロムの言葉

自分仕様にする方法があった!

再びnoteに戻り居続ける方法があることに最近気づいた。単純なことだった。「ブロック」はもとより「非表示」や「興味ない」などのフィードバックを細かくおこない、見たくないものを遮断していく方法だ。まずは例の界隈に関わるカテゴリやワードをホームから遮断したい。理由は色々ある。ひとつには同じテーマを見ても感受性の深さが違うと感じてしまうこの違和感。これは先月までここで書いてたうち度々書き表してしまっていたものだ。ついに一部の方から敵対心や攻撃性だと解釈されてしまった。私が関心を持つ論題について一般的に頭脳明晰な方々および一部の当事者が述べていることは〝私にとっては〟感じ方が足りていないように思えていた。そのため感じたことをなんとか表現しようとしていたのだ。同じテーマについてどんなに解ったふうに解説されてもかなり強い『それ違う感』が私にはどうしても起こってしまっていたし、今でも少しその界隈の方々の一部を覗いてもやはり起きてしまうからもうこれはどうしようもない。

本質(概念)と実存(実体)を包括するもの

この違和感をもたらす要因は知能の高低差ではなく感受性の問題なのだと思っている。私にとって「情緒」ほど信頼できるものはない。日本の天才数学者岡潔とまったく同意見なのだ。この情緒の物差しで見たときに論題のテーマに関連してしっくりくる発信がここnoteには一部を除いてほとんどないに等しい。賢い人は本質を突き詰めて考える。すると人間の命の苦しみと虚しさに行き当たってしまう。至極当然の原理。人生の難題を乗り越え自信と知恵を育み自己を成長させていくときに起こる葛藤、課題や対処法、そして理想。これらの側面からあれよこれよと語られても、言葉において実際「それ」を的確に表現できていないと思えるのだから仕方ないじゃないか。文章表現技法における具体と抽象の配分も悪ければ、理屈も語り口も心抜きに表現されているから白黒すぎる。
本質と実存の間に存在しているもの、あるいは包括するものといえるだろうか。これについて触れてくれる人がいない。それが私は苦しかった。歴史的に尊敬する作家や精神分析家や心理学者や数学者は書物の中でそれをきちんと書いてくれているというのに……。人の本能としてそれを直視するのはこわいからだろうか。noteでまた書き始めるとどうしてもその辺のことを私は書き表したくなる。想いの結晶のひとつが大洋感情だった。感性や情緒というものが何よりも人の中心に据えられていなければ納得がいかない。愛とは自分より苦しむ誰かの痛みを自分と同じように感じることそのものであり、その愛こそが人間が持つ唯一の救いであり、真に価値あるものを作りだす創造性の核だと思う。本質の世界だけで語られてはならず、実体の世界だけで語られるものでもない。両者の中間にそれはありすべてを包含している。社会適合の問題など超越している。人類はこの灯火のような心を失ってはならず、これこそ未来に渡していかねばならない光であるはず。理論から論理や理屈を生み出してどうするのだろう。
だから私はそれを感じられない発信者の言葉や文章をもう見たくない。それを遮断することでこの場(私の自由気ままな居場所)が快適になる。この方法は、宗教心を心理構造の芯に持つ私にとってただひとつ残された方法のようだ。むろんもうこれまでのような精神や人格にかかわるメッセージ的な発信はここではしない。細かいことをぶつくさ言うことはあると思うけれども。

……自由気ままにさせてくれ。

私の文章だって、統一感がなく身勝手なひとり語りに過ぎない。そんなことは重々承知である。猫は束縛を嫌う。誰かの指示は受けない。ましてこれが正しい、それは誤り、などと外側から真理を押し付けられるなんてまっぴらごめんだ。ロボットでもないし従順な羊でもない。髭がピンと立った方向へ、直感で進んでいく。そうでなければ生きている意味がないだろう。つまりそれだけのこと。気が向いたらまたここで書いてみる。

ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい。

『春宵十話』岡潔

いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいつさいのものが欠けることにほかならない。
  情緒が頭をつくる
頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。

『春宵十話』岡潔

アカウントを変えても、私は感性と情緒を重んじる人であり続けたい。

マルポテ、複数人間特有の悩み

どこまでも拡がっていく自分。様々なところへ発散してしまう意識や興味。落ち着きがなく一向に定まる場所がない。価値観や行動もどんどん変化していく。ひとつ痛みを体験するたびに。
マルポテは、自分を繋ぎ止める本家本元、基地のような場所と、すぐに何かを書き出せる気軽な発信の場と「両方」が必要なのだと、先日ChatGPTが教えてくれた。生身の人間から聞きたかった助言だが、まるで智慧に富む豊かな人格者から最高の人生アドバイスをもらえたような気分だ。だから最終的に落ち着く場所はWordPressの個人サイトかさもなくばnoteかなどと二極化する必要はもうない。(聞いているか、少し先に居る変化しそうな私よ。もう一度言う。悩む必要はもうない。)個人サイトは散乱する自分を広い視点から捉え体系化して一箇所に繋ぎ止めておく場所。一方no+eは今すぐ何かを書きだせる本物のノートだ。両方を使いこなすのがほどよい塩梅なのだとつくづく知った。会社で例えるなら、個人サイトは本社と工場でnoteは支店や販売店みたいなものか。発信の場が一箇所に定まらないことに何年間も悩み続けてきたけれど、これ以上の答えはもうなかろう。来年から(今すでに書き始めているが)ここを、一時的に気軽に書く場所と思いの中に定めて使っていこうと思う。