第一章 高 校 時 代
プロローグ 思い出
「あのね、音が降ってくるんだ、空から」
あれは、たぶん五歳の頃。
夕暮れの海岸を母と二人で歩いた日、幼い僕が放った言葉に母は振り返り、優しく笑った。
「あら、なに。玲人はお空から音が聴こえるの? どんな音?」
「うん、えっと……ラリラ、ラリラ、ラリラ、ル~って……」
そのとき降ってきた複数の音を取りこぼさないよう注意して、僕は母に歌ってみせた。
「まあ、それアルペジオみたいね」
「あるぺじお?」
「うん、アルペジオ。今のはCマイナーかな。……そう、玲人にはそんなメロディーが聴こえるのね。すごいなぁ、素敵だわ。それって特別な才能ね!」
目を輝かせてしゃがみ込み、僕に視線を合わせながら母が笑う。才能という言葉の意味はよくわからなかったが、そのとき向けられた母の優しい笑顔は、その後何十年も僕の心の支えとなった。
空に桃色の雲がかかるまで、僕たちは手を繋ぎ波打ち際を歩いた。
「ほら、玲人。きれいね、一番星」
母が指差した先にきらりと光る白い星。
「うん」と答えると、母は僕を抱き上げ、今度は二人同じ目線で明るくまたたく星を眺めた。
「ねえ、玲人。こんなに美しい光景は、二度とないのかもしれないわね」
あのとき、母はどんな意味でそう言ったのだろう。
じっと空を眺める瞳はキラキラしていて、わけもなくただ嬉しかったのを覚えている。
僕は母が大好きだった。
1・出会い
相模湾沿いの三浦半島に位置する葉山町。いつもどこかしら潮風の香りが漂っている、風光明媚な地に僕は住んでいる。鉄道駅はない。公立の小中学校はあるが高校も存在しない。そのため学校は、藤沢市にある有名海岸地の名を冠した公立高校へ、毎日バスと電車を合わせ小一時間かけて通っている。
高校二年の始業式から数日経った日曜日。風に吹かれどこからともなく舞い落ちてくる桜の花弁が、道端や庭先に幾重にも重なり、町はおだやかな春色に染められていた。
弟たちの衣替えと掃除を済ませ、ふとソファーに腰掛けた。まだ昼前だというのに疲れのためか眠気に襲われる。目を閉じそうになったとき、卓上の携帯から振動音がして、慌てて手に取る。発信主は小中からの友人、藍沢好之だ。
「玲人、今から出られる? 待ちきれなくてさ。そろそろ出かけられないかな」
「あ、そっか、だよな。家事も終わったし……ちょっと待ってくれよ、今準備するから」
居眠りしている場合ではなかった。今日は、親友と高校のある街へ出かける約束をしていたのだ。
「お前、双子の世話で忙しいのに、悪りぃな」
「平気だよ」
今年十一歳になる双子の凛と凪々。僕には、血は繋がらないがかわいい五歳下の弟妹がいる。二人に出会ったのは、中学二年の冬だ。母が亡くなり、たった半年後に再婚した父の薄情さを責める暇もなかった。連れ子としてやってきた彼らは、最初ひどい人見知りで、挨拶で差し出した僕の手を取ろうともしなかった。けれど親が不在がちだったこの家庭で、僕たち三人は家族としての距離を少しずつ縮めていった。ほとんど夜食のような遅めの夕食を作ったり、宿題を手伝ったり、遊んだり。そんな他愛のない時間が積もり積もって、いつしか叔母や近所から「仲良しきょうだい」と言われるまでになっていた。
彼らの世話は決して容易くなかった。それでも、派手な外見と行動を好きになれなかった義理の母親とは違い、小さな弟妹の存在は、母を亡くした僕が唯一素直に愛しいと思える家族だった。
義母は一年も経たぬうち家を出ていった。以来、父も家に戻る頻度がいっそう少なくなった。かろうじて生活費を置いていくから何とか生活はできている。そんな状況だから、僕たちは両親がいないも同然だ。双子の世話は、実質上の保護者である鎌倉の叔母の助けを借りながら、もっぱら僕の日常業務となっている。
「今からでも間に合うよな」
「ああ、余裕だよ。好之が寄り道しなければだけど」
今朝、凛と凪々に遅めの朝ご飯を食べさせたあと、叔母に二人を横浜の水族館へと連れ出してもらったから、午後は時間がある。通学とほぼ同じくらいの道程なら、彼らの帰りまでになんとかなるだろう。
鴨居に引っかけていた薄い上着を羽織る。新年度の定期をまだ購入していないことを思い出し、仕方なくICカードと財布をズボンのポケットに入れた。今日行く店が休業でないか念のためネットで確かめる。
「しぶや楽器店……っと。おっけー、開いてる」
一応、叔母にも行き先を伝えてから出かけることにする。
『休みなのに、わざわざ高校のそばまで出かけるの? わかった、気をつけてね』
速攻で来た返事には、そう書いてあった。
弟たちの世話に明け暮れるなか、僕が適度な息抜きとして見つけたのがギターの弾き語りだ。家の物置にあった古びたアコースティックギター。それを見つけて取り出し、直し方を調べて店に持っていくまでに迷いはなかった。弦を張り替え、ネックの反りを直し、コンディションを整え、準備は万端。皆が眠ったあと、自分の部屋にこもってアルペジオを静かに爪弾いてみたり、音を出せる休日の昼間には、購入した弾き語り本を見て好きなバンドの曲や洋楽を歌ってみたりもした。バンドはかなり思い入れがある邦楽ロックで、洋楽はひと昔前の六十~八十年代辺りのもの。それは幼い頃に母が聴いたり口ずさんだりしていた曲たちだ。
春休み、親友が歌を聴きたいと言ったので家に招き、好きなバンドの曲を弾き語ってみせた。演奏が終わり、いたく感動したその目に奇妙な輝きを見たとき、予想はついた。
「俺もギターやりたい」
「やんのか、すぐ飽きるだろ」
「いいや、絶対俺も玲人みたいにかっこよく弾いてみせる」
そういうわけで、今日。親友をなじみの楽器店へ案内することになっていた。
その店は、普段僕たちが降車する藤沢駅の近くにあった。大きな看板が目立つ入口をくぐり店内に入ると、軽快なブルースハープの音色が耳に飛び込む。よく通るビリー・ジョエルの歌声がシャウト気味にピアノ音と絡み店内に響いている。母とよく聴いた『Piano Man』だ。これはたしか土曜日九時の歌だったな。今日は日曜日だけど。そういや、以前来たときもこの店には思い出の洋楽ばかりが流れていたっけ。
楽器店といっても売り場の半分をギターが占領している。一番目立つ場所にずらりと並んだドレッドノートタイプ。横の列にはギブソンやマーチンなど有名メーカーのコーナーがある。その脇にはフェンダーを始めエレキギターがひしめくように並んでいる。店の隅の加湿器が、もくもくと蒸気を噴き出していた。
「すげー……」
何にでも感激しがちな好之の瞳がきらめく。
僕のは見た目が若干くたびれたアコギなのに、彼は今から新品ピカピカのギターを買おうとしている。いいなぁ、と素直に思う。高校生だから自由になるお金も限度があるのに、軽く小躍りできるほどの額を親から渡された好之。僕に気遣って、少し遠慮がちにそのやりとりを話してくれたが、うらやましいという気持ちは拭えなかった。
試し弾きは照れがあったので店員にしてもらい、あれこれ散々悩んだあげく好之が選んだのは、テイラーのエレアコだった。まじか……。見ると案の定、かなりの額の値札が付いている。
「あのさ、最初からそれいくか? アンプとか欲しくなるだろ。普通のアコギから始めろよ」 「いいじゃん! これがいいんだ」
少したしなめてみたが無駄だった。これと決めたら引かない男だ。たしかにギターは見た目が大事。初心者ならかっこよさもモチベーションに繋がるしな……。
「ま、いっか」
会計をスムーズに済ませ、お礼を言って店を出た。新品キラキラの楽器ケースを背負ったニヤつき顔の友人に、ひとこと放ってやる。
「Fで挫折するなよ」
「は? なに、Fって」
好之はけろりとした顔で答えた。
「コードだよ、ちょっと難しいやつ。一緒にコード表載ってる本買ったろ? そこにあるから」 「へぇ~」
「ったく、大丈夫なのかよ、そんなんで」
「まあ、なんとかなるって」
やれやれ。先が思いやられてため息が出る。
「ま、いつでも弾き方教えるから言ってよ」
「ああ、サンキュ」
そう言いながらも、互いに目を合わせ呑気に笑う。なんだかんだ言って、新しいギター選びは興奮のイベントだった。そんなこんなで帰路に着き、だいぶ日が暮れかけた帰り道。駅の改札口で好之が突然大きな声を出した。
「あーーっ! 帰りの電車賃が……ないっ!!」
「えっ、なんで、定期は?」
「二年からの分まだ買ってねー。だから持ってない」
「お前も? どうすんだよ」
彼が有名メーカーのギターに手をかけたとき、少しの不安はよぎっていた。けれどまさか現実になるとは。立て替えてやろうにも、僕の財布の中には電車賃に届かない小銭が数枚。ICカードにも一人分の金額しか入っていない。
「あーあ……」
言葉もなくため息をつき、互いに途方に暮れる。結局、ひと駅分は歩き必至だなとの結論を出し、仕方なく、重いギターを抱えた友人と徒歩で進む選択をした。次の大船駅まで辿り着けたらこの小銭を使って電車に乗れるだろう。最寄りの逗子駅からはICカードでバスに乗ればいい。二人して、えっちらおっちら普段は通らない線路沿いの道を行く。
思ったより時間を食っていて、辺りは暗くなり始めていた。叔母と弟たちはもう帰宅しただろうか。それが気にかかる。
細くて不気味さのある薄暗がりの歩道を三百メートルほど歩いたところで、どちらからともなく足が止まる。ひと駅分とはいえ徒歩の行程を舐めていた。この分だと到着時刻は……と予測を始めたそのとき。曲がり角から二人の黒い影がすっと現れ、僕たちに声をかけた。
「あれ、藍沢じゃねーか」
聞き覚えのある声だ。僕と好之はぎょっとして顔を上げた。
中学のとき、一週間ほどだったが、好之は上級生の数人からしつこく絡まれたことがある。些細なことがきっかけだった。教師を始め周囲の人間は軽く扱ったが、僕から見るとそれは暴力をともなった立派なイジメで不快極まりないものだった。そのときの中心人物。細いつり目が特徴の相当に乱暴な人間だ。
「ひっさしぶりじゃん! あ、ここお前が通ってる高校の近くだっけ」
好之は彼を見るなり微動だにせず固まってしまった。唐突に嫌な記憶がよみがえったのか、当然の反応ではある。
「あの、何か用ですか?」僕が言うと、「なに、お前藍沢の友達? ってか、ああ、あのいつもくっついてた地味な奴か」思い出したのかそう言った。名前を覚えられてもいないことにむしろほっとしたが、すぐ後ろには、やけに背の高い、明らかにつり目よりもう二、三歳上のガタイのいい男がいる。悪友だろうか。嫌な予感しかしない。
「あれ、なになにこれ。なんかすげーもん持ってんじゃん」
つり目の手が好之のギターケースに触れた。じろじろと物欲しげに触り始める。
ああ、せっかく買ったテイラー、取られてしまうのだろうか。乱暴な相手には抵抗したところで到底敵わない。なんて不条理な話だろう。いや、物を取られるだけで済むならまだいい。この期に及んで本当に暴力を振るわれては目も当てられない。すっかり萎縮してしまっている好之。彼を庇いたいのに立ち往生するしかない自分。二人ともじんわりと差し迫るこの威圧的な空気に対処する術も自信もなかった。
「へえ、買ったばっかなんだ。俺たちがもらってやってもいいんだけど、どうする?」
僕がかろうじて「やめてください」と小さな声で拒絶を示すと、隣にいた長身男が、突然何を思ったのか、見下ろすように覆い被さってきた。
「お前さ、たしかに影薄いけど、なんかいい顔してんじゃん」
信じられないことに僕の顎を掴み、息がかかるほど間近で言った。
「なんだよ、先輩。そういう趣味あんの?」
「そんなんじゃねーけど、なんかいたぶりがいがありそうっていうか」
「たしかこいつ、いつも親がいないとか変な家だったよな。妙なガキ引き連れてて。まだ藍沢と連んでんのな。ケンカ弱そー」
好き勝手に言いながら、ガムでも食べているのかくちゃくちゃと口を動かしている。嫌な奴だ。あの頃のようにいつ手をあげてきてもおかしくない。ケンカなんてことになったら最悪だ。勘弁してくれ。早く消えてくれ。
そいつが先輩と呼んだ長身男は、いまだ僕を舐めるように見て何か言いたげだ。この男は僕に、つり目は好之に、それぞれ確実に威圧をかけてきているこの状況。どうしたらいい、気持ちばかりが焦る。
「藍沢のお友達くんさ、ちょっと俺たちに付き合えよ。面白いとこ連れてってやるから」
付き合えとか、死んでも嫌だ。恐怖しかない。おまけに異常に気持ちが悪い。今にも腕を振り払い唾をかけてやりたい気分だ。けれど悲しいかな、それを行動に移す度胸を僕は持ち合わせていない。身体が竦み、身動きすら取れない。好之に視線を向けると、彼はおもむろに背からギターを下ろし、喉から声を絞り出すように言った。
「あ、あの、これ、持ってっていいんで……放っておいてくれませんか」
「あんだとぉ? 藍沢っ、口答えすんのか」
つり目が握り拳を作り振り上げてみせた。
最悪だ。ますます険悪ムードになっていく。あの頃のようにまた執拗に絡んでくるのだろうか。好之には悪いが、さっさとギターを持って消えてくれればいい。そうしてくれ。
「先輩、そいつ好きにしていいっすよ。俺はこいつに用があるし。とにかく二人ともちょっとついて来いよ。久々にかわいがってやるから」
「ほら、来な」
僕の顔をじろじろ見る男に、掴んだ腕をぐいと強く引かれ、身体が引きずられそうになる。
「なあ、来いっつってんだろ」
男の腕が肩に回った。もう逃げられないという気持ちと、いっそ本当に唾をかければ隙を縫って駆け出せるかもしれない、そんな気持ちがぐるぐると頭の中を駆け巡る。でも好之がタイミングを上手く合わせられるかが問題だ。ちらりと彼のほうを見れば怯えて動けそうにないと直感的に感じた。だからといってこのままじゃ、何をされるか分かったもんじゃない。どうしたらいい、と必死に思考を巡らせていたそのとき。好之が唐突に、「先輩……っ」と小さく声を出した。意味が分からず彼の目線の先を見ると、通りの向こう側から人影が近づいてくる。人数は二人。先輩って、僕たちの高校の先輩か。二人はためらいもなくそばへ駆け寄ってきた。そして、えっ、と思った瞬間に、するりと僕の横に来て男を睨めつけたその人──。
「おい、あんた何やってんだ?」
明るめな髪色の人は、自分よりはるかに体格が勝る相手に向けて、低い凄みのある声を響かせた。
「なんだと? 急に割り込んでくんなよ。関係ねーだろっ」
「そうもいかないんでね、うちの後輩だし。おい、離せよその手」
制服姿でもないのに僕たちを後輩と言い切り、鋭い声で睨みを利かせる。
「はっ? なにを偉そうにっ」
「聞こえなかったのか? どけよカス」
さらに凄みを増したその声に息を飲む。体格的に見てどう考えても『先輩』のほうが不利なはずだ。ケンカに慣れている人にも見えない。なのに、こんな言い方をして大丈夫なのか。頭がくらくらする。あからさまに嘲られた男はカチンときたのか、本性を剥き出しにして目をカッと見開き怒鳴った。
「やんのかてめー! 痛い目にあうぞ、こらぁっっ!!」
その手が明らかな攻撃の意思を以って大きく振りかぶられた。
うそだ。ついに。ダメだ、やられる!
そう思ったのに──……
その後の出来事はいい意味で僕の予想を裏切った。
男を睨みつけていた僕たち側の先輩は、大柄な不良からの攻撃をみるみる封じ込めていく。勢いよくかかってきた身体を軽くいなしてよろめかせ、立ち上がった男が拳を振り上げれば、先輩の手が腕を難なく捉えて捻り上げた。唸り声を上げる相手に身体を斜めにかまえると、手先と脚を使って見たこともない素早い動きを繰り出し、相手をあっけなく地面に倒れ込ませてしまった。目にもとまらぬって言うんだろうか、動作があまりに鮮やかで、僕にはわけがわからなかった。
「おいっ、舐めんなよっ」
その様子を見て威勢よくも飛びかかってきたつり目。腕に自信があるのか躊躇いもなく先輩に殴りかかる。すると今度も、なんだ……信じられないけれど、先輩のキレのある手の動きが速やかに攻撃を吸収していく。担ぎ上げるような体勢をしたかと思えば、次の瞬間には二人の身体が反転し、つり目の身体はへなへなと力をなくし、一気に地面へ伏してしまった。
驚きだ。なんだこれ。強過ぎる。
何かの体術だろうか。あまりにも……見事だ。
その動作は素早過ぎて、僕と好之は完全に呆気に取られ、口をぽかーんと開けて見ていた。はたから見るとずいぶん情けない姿だったに違いない。
先輩に力を削がれてしまった二人はうずくまったまま、うーうー呻いている。ここまで劇的でなければ、ざまあみろ、とか言っていたかもしれないが、僕はとにかく驚いて余裕がなかった。彼らは二人してぶつぶつ何か言っていたが、
「なんだよ、クソ強えな。知るかよっ」
「おい、覚えてろよ」
ご丁寧に使い古された捨て台詞を吐き、よろけながら去っていった。
ああ、やっと解放された。
「あ……あ……」
好之は言葉を失っている。
僕も、腕っぷしを見せつけた『先輩』の迫力に圧倒されていた。気づくと身体が震えてしまっている。情けない、と我ながら思う。窮地を救われた安堵感で気が抜けてしまったのだ。でもそれだけじゃない。今目の前にいる先輩に対してもどこか恐怖に似た感覚がある。強過ぎて、本当に僕には理解ができない。
「俺が手を出すまでもなかったじゃん、サキ。合気道だっけ? 全然なまってないのな。今の応用パターンか?」
サキと呼ばれたその人は、膝の埃を手で叩き払いながら軽く笑っていた。
「ああ。緊急時に使えなきゃ習った意味ないだろ」
さらに意外にも落ち着いた声で言った。
「二人程度でよかったよ」
「三人いたらやばかったのか、それ」
「ああ、さすがに。ラッキーだったよ。助かった」
助かったのは、僕たちのほうだ。
「あいつら、もう絡んでこないかな」
先輩は心配気に目を細め向こう側を見る。
「そうそう会うもんでもないだろ。お前の強さにビビったんじゃないかな。もう来ないだろ、たぶん」
「だといいけど……」
決して穏やかではない場面のあとなのに、呼吸も乱さず淡々と会話を続ける二人。好之と僕はまだ唖然と眺めるだけだった。ふと、強過ぎる彼がこっちを振り向いた。そのまま瞳の焦点がまっすぐ僕に合う。
「大丈夫か、ケガなかった?」
その人が誰かは、もうわかっていた。
──咲野優一。
面識はなくても、うちの生徒なら誰しもよく知る名前だった。秀麗な顔立ち。男として理想的な上背。勉強も運動もできると聞く、いわゆる文武両道って言葉に当てはまる人物だ。
いつだったろう。テニス部の県大会で、ダブルスの要員にたまたま代打で彼が出たら、うちの高校が優勝してしまったらしく、その功績がずいぶん話題になっていた。それ以来、運動部の奴らが伝説の人物扱いで彼の話をすることがある。本人は部活に所属していないのか、運動部文化部を問わず色んな部からよくスカウトされているらしい。言わずもがな女子人気も高く、クラスの女子の口からも一番名前が聞こえてくる三年生であった。
教室で黙っていても向こうから噂が流れてくる。そのせいで、あまり他人に興味を持たない僕でもさすがに知っていた。後ろにいる人も知っている。眼鏡姿の生徒会長、早坂充だ。咲野先輩と並んで優秀な人物で、二人揃って校内の人気者だと認識されている。
咲野先輩は僕の前に来て表情をうかがうように顔を覗き込んだ。目が合い、どきりと心臓が脈打つ。何か言われる。とっさに身体が強ばり身がまえてしまう。
「お前たち、うちの二年だよな」
「あ、はい」
「こんなところで何してるんだ?」
「あ、それは……」
好之がぼそぼそと、帰りの電車代がなく自宅方面へ歩くしかなかった経緯を説明した。すると咲野先輩が軽く息を吐いてから言った。
「あのさ、この辺は暗くなると柄の悪い連中が出没するんだ。学生が狙われて物や金を取られたりしてる。今後はここ通らないほうがいいよ」
柄の悪い連中に成り下がってしまった同じ中学の先輩。こんな場所で出会したのは不運だった。
「はい。すみません」
反射的に謝ると、早坂先輩のほうが訊いてきた。
「君たち、名前は?」
「あ、あいざわです」
好之が緊張しながら答える。僕もつられて答えた。
「たかしろです」
「藍沢と高城、か。サキの言うとおり、もう暗くなってるし、この道歩くのやめたほうがいいな」
そう言われてもどうしようもなく、小さく「……はい」 と答えると、咲野先輩がおもむろにポケットから財布を取り出し、すっと千円札二枚を僕たちの前へ差し出した。
「これ使えよ。戻ってあっちの駅から電車乗ったほうがいい」
「え、これ」
思わず受け取ってしまった僕を、彼はじっと穏やかに見つめてくる。さっき派手なケンカをした人物とは思えないくらい、ひどく静かな眼差しで。
なん……だろう……。
ふと、先輩は小さな微笑みを見せ、僕の頭を手でくしゃっとした。
「ケガとかなくてよかったな。駅まで送ろうか?」
ぽかんとしてしまう。
「いえ……」
さすがにそこまでしてもらうのは……と躊躇っていると、早坂先輩が「まあ、大丈夫だろ。な、サキ」と軽く咲野先輩をなだめる感じでつぶやいた。
「そっか。ん。じゃあ、またな」
彼はもう一度僕を見てにこりと笑い、さっと踵を返すと、友人と二人、通りの向こうへ去っていった。
「……あ」
なんだか呆気に取られてばかりで、結局お礼もろくに言えなかったことに気づく。これほどケンカに強い人間を間近で見たのは初めてだ。思い出すと今さらに鳥肌が立ってくる。好之も今頃やっと肩の力を抜き、溜め込んでいた息を吐き出した。
「すげー……な」
彼は静かに感嘆の声を漏らし、消え去った影に目を細めた。
まだ日中の暖かな空気が残る、四月の夕暮れのことだった。
駅に向かう一歩を踏み出すのも忘れ、彼らが立ち去った街の影を眺めた数分間。
僕は音を聴いていた。それは自分の左胸からの鼓動だ。
──咲野優一。
まさか彼からあの〝音〟を聴く日がくるなんて、そのときは思いもしなかったんだ。
2・鎌倉にて
「れーいと、ほら、サンドイッチ。お前の分な」
「わっ! ありがとっ」
「もう俺、お腹ペコペコだよー。早く食べよう」
多少気弱なところがありつつも人づきあいが上手く明るい性格の好之は、毎日購買で僕の分まで争奪戦を担当してくれる。屋上で待っていた僕は、彼から戦利品を受取りのんびりと一緒に食べる、最近はそんな習慣がすっかり定着していた。
親友と二人でいるときは頭の中がいつも平和だ。普段たいていは取り止めもない会話をしている。けれどここ数週間は決まって同じ話題が上るから、またくるだろうとは思っていた。
「……すげかったよな、あの日の先輩」
「また、それか」
苦笑して、それでも止めることはせず耳を傾ける。
先月初旬の日曜日。暗がりの道で、乱暴な元上級生と出会し情けないほど窮地にあった僕たちを、いともさらりと助け出してくれた三年生。あの日からすっかり気持ちが囚われてしまった様子の好之は、ことあるごとに話題をふってきた。
「かっこよかったよな。なんかすげー技使ってたよな」
「ああ」
実際かっこいいどころの騒ぎではなかった。キレのあるあの動き。何なんだあれ。ぼんやり気味の自分には想像もつかない。彼が来なかったらどうなっていただろう。でも……。
「ほんとすげかったよな、咲野先輩」
「ああ」
強くて、見た目もよくて、人気者。なんだか嫌味なほど申し分のない存在だな、と思う。
本来なら僕なんかには縁遠い人だ。積極的に関わりたくはない。それでも、嫌な連中から救い出され、すっかり彼に心酔してしまった好之の気持ちは痛いほどにわかる。だから毎回同じ話題に乗っかってやるんだ。
「そういえばさ、お前先輩にお金返しに行ったとき、すげーあがってたよな」
「だってさぁ、下の学年まで噂聞こえてくる有名な先輩だし。わざわざ俺たちがクラスまで繰り出していいのかってけっこう悩んだよな、あんときは」
顔をぐしゃりとさせ嬉しげに語る。
「うん。ま、たしかに注目されたよな」
「ああ。だけどさ、玲人はああいうときでもクールってか、落ち着いてたよな。先輩といて少しは緊張したりとかしないの?」
「それは……まあ、それなりに」
緊張、か。正直なところ、あの日咲野先輩の迫力に圧倒され、恐怖に似た気持ちさえ感じていた僕は、あのあと思い出すたび心臓がドキドキして困っていた。だから教室へ自ら出向いていくことも気が向かなかったし、実際勇気もいった。けれど目の前に現れた先輩は、三年の教室までやって来た僕たちを気遣い、終始優しく対応してくれたんだ。そのことには感謝をしている。もっと適当に扱われてもよかったのに。
「わざわざいいのに。律儀だな、お前ら」
そう言って笑いかけられたあのとき、妙に居心地の悪い感覚がした。あれはなんだったのか。意外だったからか。その変な感覚のことは、いまだによくわからない。
三年生の廊下の隅で、お礼を述べ頭を下げた僕たちに、彼は静かに微笑んで言った。
「ありがとな。藍沢と、それから高城。あいつらもう来ないと思うけど、またなんかあったらいつでも声かけてくれよ」
──高城。名前を覚えられていた。彼が僕の名前を言ったそのときも、また妙な感覚がした。温かで、少しくすぐったい感触が。廊下の窓から吹き込む微風に彼の長い前髪が揺れていた。
「あー、お礼言えてよかったー」
好之が伸びをする。その後二人で教室に戻ってから、あの事件以来やっと本当の意味で安堵できた気がしたのだった。
咲野先輩。自然体っていうか、ごく普通の穏やかな感じだった。ケンカに強くても普段は温厚な人なんだろうか。廊下で見たあのとき、その周りには繊細な空気さえ満ちているように思えた。
親友と楽器を買いに行った日から、二週間ほど経過していた。
今日は朝から雨が降っている。天気予報によると一日続くようだが、僕は叔母に呼ばれて彼女の住む鎌倉市まで凛と凪々を連れて出かけた。
叔母は亡くなった母の妹だ。当然双子とは血のつながりがない。彼らの親権はまだ義母にある状況だというのに、文句ひとつ言わずこの現状を受け入れ気を回してくれている。そこには元来の面倒見のよさが大いに関係しているのだろう。名前は藤川みゆき。歳は僕より十個上だ。
彼女は同じ街に長年交際している人がいる。二人は間もなく結婚するのだが、式は出会った旅先の思い出の街で挙げる予定だという。たしかロンドンと言っていたっけ。同じ街に住んでいるのに、なんて遠い場所で出会ったのだろう。その後こちらでも披露宴をすると言っているが不思議と準備をしている気配がまったくない。今日などは、彼と会えないのだと言って、その時間たっぷり凛と凪々を見てくれるらしい。僕としてはありがたいが、本当に平気なのか不安になる。
「お兄ちゃんも、こっちで一緒にゲームやろうよ」
「玲人兄ちゃん、またぼやっとしてる。一緒に遊ぼうよ」
居間でゲームに興じている三人。誘われても気乗りがしない。二人を預けて帰るつもりが、止まない雨のせいでそのまま居座っていた。皆でお茶をしたり、テレビを見たり。のんびり時間は過ぎたが、僕はほぼ降りしきる雨を窓から眺めて過ごした。
午後三時が過ぎて、二人に帰宅するよう声をかけると、彼らはまだここにいたいとわがままを言う。とはいえ夕飯までやっかいになるのも気が引けて、あとでみゆきさんに車で送ってもらうお願いをした。
一人、駅までとぼとぼ歩き出す。住宅街を抜けて駅に近づいた辺りだ。通りがかった公園で、みぃみぃと小さな声が聞こえてきた。雨の中、よく耳を澄まさないと聞こえないそれは、本当にかすかな声だった。声の主はなんとなく予想がつく。どうしても現物を確認したくなり近づいてみると、びしょ濡れのベンチの後ろ、背の低い植栽の陰に、古ぼけたダンボールが置かれてあるのを発見した。箱は雨を吸ってしなしなと曲がり、中には淡い色の毛布が無造作に詰め込まれ、布の陰から複数の小さな顔が覗いていた。
あ……。
思わず傘を投げ出し駆け寄った。 この状況からして間違いなく捨てられたのだろう。子猫は全部で三匹だ。雨に濡れて哀れな姿をしている。僕は毛布に包まった小さな身体へおそるおそる手を伸ばし、そっと抱え上げてみた。
全身黒の子、白黒ブチ模様の子、白と灰の虎模様の子。名前をつけるとすれば、クロ、ブチ、トラ、といったところか。漫画とかドラマでよく見かけるけれど、こんな身近に捨てていく人が本当にいるんだな。
「すげー濡れてんじゃん。かわいそうに」
猫を飼ったことはない。むろん弟たちの世話に明け暮れる毎日にペットを飼う余裕などありはしなかった。でも嫌いではない。こんなに頼りない姿を放っておくのは気が引ける。なんとかしてやりたいが、かといって電車に乗せて連れ帰るわけにもいかないよな。どうしようか。
逡巡していたら、ふと背後に人の気配を感じた。誰かが僕の後ろに立って、雨に濡れた肩の上にすっと傘を差し出してくれたのだ。驚いて振り向くと、そこにいたのは咲野先輩だった。 「えっ、あ……」
驚きで言葉が出ない。こんな偶然ってあるのか。しかもこの前に引き続き、学校の近くでもない場所で。
「捨て猫かな? こいつら」
「あ、はい。たぶん」
彼は驚くふうでもなく、挨拶すら特になく、淡々とそう訊いた。
「高城が持って帰る? それとも病院連れてく?」
「えっと、あの、どうしよう……」
名前……やっぱり覚えられている。
傘に当たる雨音が一定のリズムを作り響いている。
この街に用事でもあったのだろうか。それともここから高校に通っているとか? 不思議に思いながらも、思わず彼を観察してしまう。
雨の日も相変わらず男前だった。容姿がいいとは得なことだよな。服は薄水色の上品な感じのシャツに、ジーンズと白いスニーカー。雨だから撥水性だろうか、とても安物には見えない。いつどこで買ったかも覚えていない、毎年着回す安物の服と適当な靴。そんないでたちの僕とはセンスも風格も大きな隔たりがある。実際、質も値段もいいものを身につけているのだろう。よく見ると立派なスニーカーにはブランドマークがついている。金銭感覚も僕とはまったく違うらしい。
眺め回してしまってから、慌てて顔を見る。すると彼も僕を見ていた。目が合うと、先輩はすぐさま脇へ目線を逸らした。そして軽く瞬きをしてから、落ち着いた声で言った。
「よければ俺が連れてくけど。知り合いにあてがあるんだ」
「え、本当に? あの、そうしてもらえると助かりますけど……」
「ほら、貸して」
布に包まれた小さな三匹を、差し出された咲野先輩の腕へ手渡す。彼はゆっくりと小さな塊を気遣うようにそれを抱きかかえた。そしてまた、僕を見た。
「高城」
「はい」
「猫、好きなのか?」
「あ、まあ、はい。……あの」
「家に連れて帰れなくて困ってたんだろ」
僕の目を覗き込み、小さく笑う。
「あ、そうですけど」
「すげー鳴いてるなこいつら。俺がなんとかするから、心配すんなよ」
「いいんですか、本当に?」
「ああ、ちゃんと助けるって約束する」
「あの、ありがとうございますっ」
「はい、傘」
差しかけてくれていた傘を引っ込め、足元に投げ出されていた僕の傘を拾ってそれを差し出してくれた。
「すみません」
「ちょっと濡れたな。大丈夫か?」
「はい。あ、えっと……」
ん? とこちらを見た咲野先輩に思い切って尋ねてみる。
「あの、先輩はこの辺の人なんですか?」
「あ、いや。家は学校の近くだよ。友人がこっちにいてたまに来るんだ。歳の離れた幼なじみっていうのかな……色々世話になってる人なんだけど、今そこへ行くところで」
この近くにお互い知り合いがいたのか。不思議な共通点があったらしい。ぼんやり思考を巡らせていると「突っ立ってても濡れるから、行くよ。じゃあな」と言って、彼は子猫を連れて立ち去った。
雨の中、バシャバシャと水溜りが跳ねる音がする。
子猫たちは先輩の腕に守られたまま、みぃみぃとか細い声を発しながら姿を消していった。 僕はまたいつかのように立ち竦み、しばらくその光景を眺めていた。
ラリラ……ラリラ……
え。
雨のリズムの中に澄んだ音色が聴こえた。時おり聴こえるあの音だ。あっと思い耳を澄ましてみたけれど、すぐさま雨音にかき消され聴こえなくなった。
まさか、先輩の後ろ姿から音が聴こえたなんてこと、ないよな。人からは聴こえないはずだ。気のせいだろうか。
雨は次の日まで降り続いた。
それから、さらに二週間近くが経過していた。
授業が終わり、いつもどおり帰路を共にする親友と教室を出た。二人で廊下をぼんやり歩いていると、下駄箱の前に咲野先輩が立っているのが見えて、あ、と思わず声を出してしまう。
「あれ、あそこにいるの咲野先輩じゃね?」
察知した好之が、僕を置き去りにしてすかさず先輩のほうへ駆けていく。緊張したとかいつかは言っていたのに、さすが屈託のない奴だよな。先輩にすっかり心酔している彼のフットワークは実に軽い。
他の生徒より頭一個分上背のある咲野先輩は、相変わらず目立っている。周囲に女子たちの固まりができているが気にした様子はない。好之が何か話しかけたのか、先輩はまた静かに笑っている。ゆっくり二人に近づいていくと、先輩はまっすぐな視線で僕のほうを向いた。
「あ、先輩……あれ、玲人に用事だったとか?」
先輩の目線に気づいた好之が、僕と彼を交互に見ながら言うと、
「ああ、ちょっと伝えたい用があって」
彼はおもむろにポケットから紙切れを取り出し、僕にそれを差し出した。
「あの……?」
「この前の子猫の件、遅くなって悪かった。あれから知り合いが二匹を保護してくれたんだ。病院にも連れていってくれたみたいで。これ、検査とかワクチンとかの証明書のコピーだって。見せてやって欲しいって言うから」
「あ、そうなんですか。どうも」
そのコピーとやらを先輩の手から受け取る。こんなものがあるのか。どうやら本当にしっかりした相手に託してくれたらしい。ちゃんと保護されていて、よかった。
「それと、残り一匹は、あのとき話した友人の家で引き受けることになったんで。伝えておこうと思って」
「あ、鎌倉の……」
たしか、幼馴染みがいるとか言っていた。
「ああ」
「あの……どうも、ありがとうございます」
そうだったんだ。あのとき先輩が向かった家で一匹はそのまま引き取られたんだな。
好之がきょとんとしている。
用件を果たしてほっとしたのか、先輩はまた表情を和らげて「よかったな、高城」と手をひらりと上げてから、踵を返し去っていった。
……本当に僕への用事のためだけに待っていたんだ、あの人。
くすぐったいような、変な感覚がまた胸をよぎった。
「なんだよ玲人、先輩となんかあったの?」
「ああ、うん。実はこの前、僕が見つけた子猫の保護を先輩に引き受けてもらったんだよ」
この件を好之に話しづらかったのは、あの日立ち去る先輩の後ろ姿に音が聴こえた気がしたからだ。それは僕にとって特別なことだった。聴こえるはずないんだ、人間からは。そっと心にしまっておきたい出来事だった。
先輩が去ったあと、受け取った紙を何気なく見たら、余白部分に簡単なメモが書かれてあった。
『クロ、ブチ、……』
名前か。誰しもイメージする名は同じらしい。猫の名前をメモしたんだとすぐわかる。ふと、その先を見る。
『……ピグモン』
え、ピ、ピグモン?
変な名前に意表をつかれた。ぷぷっと自然に笑みがこぼれる。これを考えついたのは咲野先輩なんだろうか。ふいに小さな走り書きが可愛く思えて、気づくと僕は指先でそっと文字をなぞっていた。
3・音が聴こえる
子供の頃、夕焼け空を見上げた。
青と桃色の織り混ざった空に一番星を見つけたとき、空からメロディーが降ってきた。あまりにきれいだったから、慌てて口の中で復唱し記憶に刻みつけたっけ……。
景色を見ると音が聴こえる。
美しいものを見ると旋律が空から降りてくる。
和音を構成する各音符が一つずつ順番に音を発し、光を反射して輝くようなイメージをともない、きれいなアルペジオを奏でていく。音程はいつも同じで、見る景色によって少しずつ音色や音の大きさが変わることもあった。ただ、僕にとってごく自然なこの現象が、他の人にはない感覚だと知ったのはかなりあとのことだ。
小学六年、図工の授業でクラスの皆と屋外で写生をしていたときのこと。生徒一人一人の絵を覗いて感想を述べていた先生が、僕の絵を見て、突然叫んだのだ。
「高城くん、なんですか、この絵は!」
近くにいたクラスメイトたちが一斉に僕のほうを見た。
「絵に描かれているこれはなんなの、君はふざけてるの?!」
最初何が何やらわからず戸惑っていたけれど、どうやら先生が指差したのはそこに描いた音符みたいだった。これの何がまずいのだろう? 意味がわからずしばらく悩んでいると先生は言った。
「私は写生をしなさいと言ったんですよ。空想の絵を描きなさいと言ったのではなく。見えていないものを、しかもこんな音楽記号を描き込むなんて、非常識でしょう高城くん。どうして真面目にやれないの」
目の前にある大きな池と周辺の樹々の絵。白の画用紙に、目に映ったとおりできるだけ正確に描き込むように、と先生には言われた。
池のそばの一際大きな樹木には貫禄があった。天気のよい初夏のその日、葉はさらさらと風を受けてそよぎ、枝葉の間から差し込む木漏れ日は輝いていた。だから、そこにはいつものように音楽があった。
先生は予想外の絵を見せられて困惑したらしく、顔を真っ赤にしている。やがて周りで覗き込んでいたクラスメイトたちも口々に言いだした。
「高城、まじめに描けよ。これ写生だろ?」
「完全に遊んでるな、お前」
「景色描き写してんのに音符とか描くやついるかよ」
樹木の周辺を取り巻くように流線形に描いた音符。
ふざけたわけじゃない。
その樹を凝視すればするほど馴染みの旋律が次々に流れてくるので、画面に描き留めておこうと音の記号を描いていたんだ。音を表すのに音符なんて、たしかに陳腐で単純な発想かもしれない。けれど皆がそれぞれ、なんらかの形でこの「音」を表現するのだろうと思っていた。ひょっとしたら、メロディーは人によって違っているかもしれないけれど。
しかし、景色とともに聴こえる「これ」を表現した者など、僕以外ただの一人もいなかった。クラスの絵の中で僕のものだけが奇妙に浮いてしまった。
「なんでこんな絵を描いたの?」
近くにいた女子が初めて理由を訊いてくれたとき、当たり前のように答えた。
「なんで、って。あの樹を見ると音が聴こえるから、それも目の前で見えてるものになると思って……」
「音楽なんてどこにも鳴ってないでしょう? 冗談はよしなさい」
先生は冷たく言い放った。
──高城は変なやつ。
その後、何度かクラスメイトにそう口にされた。結局最後まで僕の絵はふざけた産物だとみなされてしまった。僕は自分が変わっていることを自覚せざるを得なかった。今思うと、あの先生も少々過敏だったかもしれない。怒らずにゆっくり説明してくれてもよかったのにと思う。けれど、子供の頃母がくれたあの反応。素敵な才能ね、と微笑んでくれた……あれは、誰からも得られるものではなかったんだと痛感した。
『共感覚』という言葉を聞いたのは高校生になってからだ。この能力を持つ者にも様々なケースがあるらしいが、僕の場合は視覚で受け止めるものに音が聴こえる。いつも同じ音程の。ただ、現象の発端になるのは常に景色など自然界のものに限られていた。決して人工的なもの、ましてや人間そのものに対しては起こらないはずだった。それなのに……。
咲野先輩から、僕は聴こえないはずの音を聴いている。
最初それに気づいたのは猫の保護を助けてもらったあのときだ。彼が立ち去る雨の中、小さく響く音にまさかと思った。けれどそのあと校舎のあちこちで見かけるたび、やっぱり同じ現象が起きた。それからはもう疑いようもない。時々聴こえる気がしていた音は、今でははっきりと僕の耳に流れ込んでくるんだ。
生身の人間である彼から音を聴いている。
これは完全に初めてのことだった。
まだ知らない表情を見つけたときは、不思議と別の音色で聴こえたりもする。鈴を鳴らしたような音。雨粒のようなぽとぽとした音。いつも同じその旋律は、いつしか重なり合い、織り混ざり合い、気づくと唯一無二の立派な音楽になっていた。
なんで彼からだけ聴こえるのだろう。正直当惑している。
むろん理由については考えた。
景色や美しいものを見るときに近い感覚が、頭の中で起こっているのかもしれない。美の黄金律があるならば、きっとそれに沿った形をしているのだろう。皆が言うほど彼をもてはやしたりしたくないが、正直、今まで見てきたどんな人間よりきれいだとは思っている。きれいで、男らしい。鼻や頬や顎の研ぎ澄まされたラインとか。奥二重で切れのある眼元とか。あれに似ている。どっかの偉い芸術家が掘った彫刻像。どの角度から見ても癖がなく、有無を言わせない正統派の顔立ち。うん、でも……。
いつもそこで思考が止まる。同性なのにこんなに他人の顔について考えてしまう自分がわからない。けれど……少し色素の薄い艶のある髪。落ち着いた声色。リラックスした雰囲気と引き締まった体躯。男として憧れないかといえば、それは素直に肯定してしまう。
だから聴こえるのかもしれない。あくまでも見た目上の話だ。それ以上の何かがあるわけではない。咲野先輩のことを考えるたび鼓動がいつもより速く動くのは、きっと今までにない経験のせいなのだろう。
「なあ、玲人」
「ん?」
「なんかさ、最近は玲人のほうが俺より見てるよな、咲野先輩のこと」
梅雨のじめじめした空気が僕らの周りを取り囲んでいた六月の終わり。校庭を横切る帰り道の途中、好之が言った。十メートルほど先を、咲野先輩と早坂先輩がいつものように並んで歩いている。人混みに紛れ見え隠れするその姿を、つい目で追いかけてしまっていた。
「お前っていつも黙ってるし、隠してるつもりかもしれないけどさ、ちゃんとわかってるぜ。気になるの?」
「え、なにが」
「だから、咲野先輩のことだよ」
「は? んなわけないだろ」
とっさに否定したが、図星だ。
あれこれと心の中で理屈を捏ねてみても、無意識にいつも姿を追いかけている自分がいた。校舎の色々な場所で、校庭で、帰り道で。咲野先輩を見つけると、まるで新しい音楽を聴くような気持ちになる。
これほど心が踊るのは、あの音のせいだ。いや、もしかするとこの気持ちが元で音が生まれているのか、どっちが先なんだろう。最近はそれもわからなくなっていた。
「お前っていつも他人に興味なさそうなのに、 よりによってあんな人気者の先輩を見てればさ、そりゃわかるって」
「そ、そんなこと……別に」
たしかに、他の人よりは人に興味を持たないほうかもしれない。それは認めるけれど。
「だってさ、普段はお前、弟たちとギターのことしか頭にないじゃん?」
「それは、仕方ないだろ。そういう環境なんだし」
「凛くんと凪々ちゃんより、今は咲野先輩のこと一番考えてたりして」
にまっと笑う。
「は? なんだよそれ。そんなことないよっ、バカだな好之っ」
なんてことを言うんだ。急に妙なことを言われてあたふたと誤魔化すしかなかった。知らぬ間に自分の態度はそこまで言われるほどになっていたのかと思うと、なんだか恥ずかしい。
「あ」
「え?」
「ん」
「ん?」
「……お前、顔赤い」
ドキッと心臓が鳴った。
「わり、俺……」
変な勘違いをしてしおらしくなった好之に、いっそう慌ててしまう。
「違うよ好之っ。なに想像してんだよっ。やめろよな」
「いや、もしそうでも俺は別にかまわないけど」
「は? だから、違うって!!」
勝手に飛躍した結論へ持っていかないでくれよ。好之の思考は暴走しがちだ。他愛のない純粋な人間的興味だとわかって欲しくて、とっさに言葉を足した。
「あのさ、本当いうとさ。咲野先輩見ると、なんか……聴こえるんだよ、例の音が」
言ってしまった。この事実に関しては隠しておきたい気持ちがあった。でもまあ、この際仕方ないだろう。けれど好之はきょとんとして首をひねった。
「え、例の音って?」
「いや、だから……」
「お前ってさ。時々わけわかんないこと言い出すよな?」
彼は深く気にした様子もなく笑う。
「なんだ、覚えてないのか。ならいいよ。うん、なんでもない」
手を大げさに横に振り、僕も笑った。
「なんだよ? ……変なの。ま、いいけどさ」
好之には以前少しだけ話した記憶があったのに、どうやら覚えていなかったらしい。……考えてみれば、他の人からは聴こえない音が先輩からは聴こえるなんて、かえって好之の想像を強固にしてしまいかねない。しかもこんな現象、考えてみれば人としてかなり気持ちが悪いはずだよな。
僕たちがあれこれ語っている少しの間に、先輩たちの姿は見えなくなっていた。お楽しみが去ったあとのような寂しさが胸をよぎる。
「ところでさ、好之。お前、ギターの練習進んでる?」
話題を変えようと訊いてみれば、
「ん? え、あ……それがさ、実は……」
好之の言葉が淀んだ。
「まさか、お前」
気まずそうな表情から、なんとなく察しがついた。
「やめた。Fで挫折したっっ」
彼はがくんっと大げさに肩を落としてみせた。
ああ、やっぱり……。僕も同じく肩を落とした。
「だから言ったじゃん! コツとか教えてやるってさぁ。意地張って自分でできるとか、お前の助けはいらんとか言うからさぁ……」
「ん~悪りぃ。でもさ、俺やっぱ玲人みたいに弾けねーわ。本物手にしてみてそれがよくわかった」
不貞腐れたように頭をかきながら、好奇心旺盛だが超絶飽きっぽい男がこぼす。
「なんだよそれ。諦めんの早過ぎるだろ。上手くいけば一緒に演奏とかやりたいなって思ってたのに。……それで、ギターはどうしたの?」
訊いてみると好之は簡潔に答えた。
「売った」
「えっ、まじで。あのテイラー売っちゃったの?」
「ああ。行動力はあるほうだぜ?」
ぼやく僕へ向けてドヤ顔を見せている。……まったく。なんだかな。あれほど値の張るものをぽんっと買って売り払えてしまうなんて、うらやましい環境だ。
「そういう行動力に長けててどうすんだよ、お前」
「玲人みたいにさ、粘り強くがんばる性格じゃねーよ俺は。ま、俺は俺なりにやりたいこと見つけるから、な? ……なんかごめんな。一緒に楽器屋まで行ってもらったのに」
「そうだよ、ったく」
口でそう返しながらも別のことを考えていた。あの日あの店に好之と一緒に行っていなければ、咲野先輩と出会すこともなかったんだよな。猫を拾ったときも声をかけられたかどうかわからない。そうすれば……あの音を彼から聴くこともなかったんだろうか。
「玲人、また今度お前の歌、聴かせてくれよな。俺は今後ずっと聴き専門ってことで。ははっ」
僕の機嫌を取りたかったのか、親友は屈託のない顔で笑った。
景色を見ると音が聴こえる。
なぜだか、咲野先輩の姿からも同じ音が聴こえる。
幼い頃、潮風の浜辺で聞いてすっかり馴染んでしまったあのメロディー。ひそかに心の中で『潮風のアルペジオ』と呼んでいる音楽が。
それはこの胸の内だけの話。誰かに知られることもない。気づかれる必要もない。
ただこっそりと蓋を閉じしまっておけばいい。それでいいんだ。
じわじわと夏が近づいていた。
4・本を借りる
七月に入り梅雨明けが近づいてくると、晴れた日の陽射しと蒸し暑さは容赦なかった。少し動くだけで簡単に汗ばんでしまうこんな季節にも、夏雲の向こうには見えない音符が音を発して、青い空はいつものように新しい音色で歌を作っていた。
「行ってきまーす!!」
「待ってー、お兄ちゃん」
「二人ともっ、転んでケガすんなよっ」
凛と凪々が元気に家を飛び出していく。
いつものように、危なっかしいほど元気な彼らを玄関先で見送る。
彼らが小学高学年になってからは、登校までの時間も、帰宅してからの時間も、わりと自分のしたいことをするようになり、友達との付き合いも活発になった。お陰で以前よりは手がかからなくなり、自由な時間が徐々に増えてきた感じだ。……母も、僕がこれくらいの頃同じことを考えたりしたのだろうか。今はもう知る由もないけれど。
時々ふとよみがえる面影を、日常の色んな場面で見てしまう。
中学二年、夏の終わり。交通事故で突然逝ってしまった母。
冷たい病室で、もう動かないその塊に触れたとき、絶望の意味を知った。繰り返す時間がすべて終わったかに思えた。けれどそのあとも日常は容赦なく目の前に続いた。それは重苦しく耐え難い時間だった。
現実をどう受け止めればよいかわからず、心の虚無に苛まれているうち、気づくと僕には新しい母と小さな弟妹ができていた。
『あなたは雅史さんのお荷物なんだから、子供の世話くらいしてくれて当たり前でしょ。円満な家庭に貢献してくれなくっちゃ、いる意味ないじゃない』
義母が僕に放った言葉が、今も脳裏を掠める。お荷物。してくれて当たり前。ずいぶん勝手な言い分だと思った。でも反抗するほどの気力と関心を、僕は彼女に対して持てなかった。どうでもいいと思えた。
二人を送り出したあと、続いて家を出る。
今日も同じ空を見上げる。
こんな暑い夏の日だったっけ。義母が新しい相手を作り家を出ていったのも。
あのとき、実の母親に見捨てられたにもかかわらず気丈に耐えていた凛と凪々。小さな身体の底に潜んだ固く強い何かを、僕は彼らの中に見た気がした。二人がその後いっそう僕に甘えるようになったのは、彼らなりの精いっぱいの気持ちの切り替えと決意の表れだったに違いない。
父はいっそう家庭を顧みなくなり、出かけては何週間も帰ってこない、を繰り返すようになった。元々話しづらい父に居場所を聞いたところでよくわからなかった。このままだと子供は施設に行くことになるのでは、と学校や児童相談所の人たちが心配して動き始めると、何食わぬ顔をして戻ってくるけれど、問い詰められるのを避けるようにすぐまたいなくなる。いつのまにかこの家のまともな住人は、僕と凛と凪々の三人だけになっていた。事実上取り残された僕たちは、血が繋がらなくても代替えのない家族になったのだ。
その日はふらりと、下校途中によく立ち寄る本屋に入ってみた。
静かな店内はやたら照明が明るく、紙とインクの匂いが満ちていた。
音楽の雑誌コーナーにさっと目を走らせ、いつも追っかけているバンドの特集が載っていないか調べてみた。が、今月は何もなさそうだったので、そのまま当てもなく専門書棚辺りのタイトルを目でなぞっていた、そのとき。
「高城、かな」
急に声をかけられ振り向くと、そこにいたのは早坂先輩だった。
「やっぱりそうか。本屋よく来るのか?」
色素の薄い髪や瞳が印象的な咲野先輩と違い、襟足をきっちり刈り込んだ黒々とした髪の毛と、一重瞼で切長の目。かけている薄い眼鏡が似合っている、早坂充。いかにも秀才といったふうではあるけれど、どこか人を食うような鋭い目つきが印象的だ。
「あ、はい。音楽コーナーだけですけど」
「ふぅーん」
「あの、早坂先輩は?」
「ああ、俺? 今日はサキに薦められた本を探しに来たんだ」
「咲野先輩……に」
「ああ、あいつすごい本の虫でさ」
本を読むのが趣味とは、意外だ。彼ほど何でもできる人ならもっと奇抜なことを好んでいても納得したかもしれないのに、普通の人っぽいなと思った。
「学校の図書室じゃ足りなくて、経営心理学だのビジネス書だの、色々買い漁ってんだよ、あいつ」
「えっ、そんなにですか?」
量やジャンルは、まるで普通でなさげだ。
「そ。それでこの間ベストセラーらしいタイトルを薦められたんだけどさ。知らないって言ったら、ちゃんと買って熟読しろよって、煩くてさ」
「は、はあ……」
彼は頭をかきながら、音楽コーナーの隣のビジネス書が並んだ棚を眺めている。
「学校の図書室も貸出中だし、諦めて探しに来たんだよ。普段はあいつ全然お薦め本とか押しつけてこない奴だから、ま、いっかと思って見てんだけど……見つからないんだよな」
僕は素朴な疑問を投げかけてみる。
「あの……貸してくれないんですか?」
「ん?」
「咲野先輩からその本、借りられないんですか?」
「ああ、あいつ自分の本貸さない主義なんだ」
さらりと語られたそれは少し新鮮だった。相当な読書家で、難しい本ばかり読んでいて、人には本を貸さない。学校で見かける気さくな姿とは違う先輩の主義──。そもそも読書なんてほぼしない僕には、今ひとつどのような感覚なのか理解しかねる。
「あ、あった。やっと見つけたっ。ま、というわけで……じゃあな、高城」
早坂先輩は目当ての本に辿り着けたらしく、満足気にそれを手にしてレジへ向かった。表紙に七つの何とかと書いていたような気がするが、その分厚さにゾッとした。本当に高校生同士で薦め合う本なのだろうか。先輩たちの世界には気軽に入り込んではいけない気がする。
帰宅して、晩ご飯を作り、いつものように弟たちと一緒に食事をする。テレビがついていて二人は夢中になって会話をしていたが、なんだか僕の頭にはほぼ入ってこなかった。
数日後のお昼休み、いつものように屋上でサンドイッチを頬張っていた。ちょうど物影になっている箇所があり、そこは今日くらいの陽射しなら容易に暑さを凌げる場所だ。好之は熱があるとかで学校を休んだので今日は一人だった。帰りに様子を見に家に寄ってみようかな、とぼんやり考えていたら、人のまばらな屋上にまさかの人物がやって来た。
咲野先輩っ。
こんな所に一人で来たりするんだ。知らなかった。
ドアを開けてこちらへ歩いてきた彼に、どうも、と軽く頭を下げた。手には何やら小ぶりな本を持っている。
「ここ、ちょうどいい場所なんだよ」
読書するのに、という意味だろうか。影になっている一角にはまだまだ人が座る余裕がある。何しろ普段は好之と二人で使っているのだ。先輩もそれを確認して「かけてもいいか」と訊くので「あ、はい」と答える。もちろん、ダメなんて言えない。咲野先輩は、僕が腰掛けている場所へ二メートルほど距離を置いて座ると、長い脚を無造作に組んで本を読み始めた。
「今日は一人なのか。珍しいな」
「あ、藍沢は体調悪いみたいで……」
「そっか。早くよくなるといいな」
「はい」
「食事邪魔する気ないから、気にせず食えよ」
「あ……はい」
言われるままに、サンドイッチの残りにかぶりつく。とたんに喉に引っかかりを感じ、紙パックのジュースでそれを流し込むように嚥下した。こほこほっ……とむせ込んで胸を叩く。なんだか一々かっこ悪い自分。先輩のスマートさとはほど遠いなと思う。なぜか妙に意識してしまう。
「大丈夫か」
咲野先輩が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「あ、はいっ……なんでも……」
軽く呼吸を整えていると、そういえば、と彼が思い出したように言った。
「充がこの前、本屋で会ったって言ってたけど」
「あ、会いました。……早坂先輩、本を探してて」
「高城は本読むの?」
「あ、いえ僕は。図書室もあまり行かないし、普段は読まないです」
読まないっていうか、忙しくて読めないのもあるけど。もぞもぞと答えた。
「なんか、音楽の本見てたって聞いたけど」
「あ、あの、僕ギター弾くんで楽譜とか……」
先輩はふいに目を丸くした。
「へえ、ギターか。楽器演奏できるんだ。すごいな」
「そんなことないですっ。簡単なコードかき鳴らすだけで」
自嘲気味に言うと「でもいい趣味じゃん、すごいよ」とさらに言われる。……すごいって。僕がこの人に言われるのも変な感じだ。
「俺なんか、音楽全然ダメでさ」
「え」
「楽器どころか、歌うほうも不評ばっか買ってるよ」
へえ。意外にも苦手なことはあるんだ、ちゃんと。どこか照れたふうに笑いを浮かべたので、話題を本に戻してみた。
「あの、咲野先輩は、……小説とか読まないんですか?」
早坂先輩が言っていたようなビジネス書の話はよくわからない。けれどこれくらいなら。先輩はまたふっと笑いながら答えた。
「そういうのは、あんまり読まないな」
僕のほうから話を弾ませてみる、その試みはあっけなく幕を閉じた。
「そうなんですか」
「あ、高城、これ知ってる?」
先輩が、読んでいる新書サイズの本をすっと見せてきた。数字や漢字がたくさん並んでいて、まったく頓珍漢なタイトルにしか見えない、それ。
「いえ……」
「んっと、さ。人の心を操る的な心理学本なんだけど、引き合いに出される人物像が、なんだか高城と重なる部分があるかなって……ちょっと思って」
「はあ。……え?」
本を読んでいて勝手に思い出されるほど、咲野先輩に知られているとも思えないのに。助けてもらったことは二度あった。一度は尋常じゃないほどの救出で、もう一度は本当に親切にしてもらった。ただ、どちらもなりゆき上の関わりだったはず。なのに……なんだろう。少しの違和感を覚えていたところへ先輩が言った。さらりと。
「読んでみないか?」
「え……」
「高城に参考になること、色々書いてると思うんだけどな」
一瞬、唐突な現実に呆気にとられてしまう。
「高城、歳の離れた弟妹と三人で暮らしてるって……藍沢から聞いたから」
心なしか遠慮がちな口調だ。
「好之が? いつの間に……」
「いや、俺が訊いたんだ、高城のこと色々。そしたら話してくれただけで。すまない、気ぃ悪くした?」
「……いえ」
僕のことをわざわざ聞いたなんて……驚いた。
「よかったらこれ貸すけど読んでみないか。子供の心理を見抜くアイデアとかも載ってるし。全然押しつけがましくなくて、なんかこう、独特で斬新っていうか。面白いと思うんだけど」 本を貸してくれるという。咲野先輩が?
たしか『貸さない主義』なんじゃなかったっけ。それを、僕には貸してくれるということだろうか。なんで僕に? あれは早坂先輩限定の話だったのだろうか。
「高城になら、その辺伝わるんじゃないかって思って」
……なんだろうそれ。
「ま、無理しなくていいけど」
咲野先輩の中で、僕はいったいどんな人間として思い描かれているんだ。普段人に関心を向けられることなんてほとんどないのに。高城になら、ってどういう意味だろう。それは知りたい気がする。なんだか、とても知りたい。
「あの、借りますっ! いつまでに返せばいいですか」
「いつでもいいよ。読み終わったら連絡してくれるか? 昼休みにここで受け取るよ」
そう言って彼は胸のポケットからペンを取り出し、本の最後のページの白紙部分に、すらすらと電話番号を書きつけ僕に渡した。動作がいちいちスマートだ。早坂先輩から聞いたときは、相当に本を大事にしている気難しい一面を知った気がしたのに、聞いた話とはずいぶん違う気がする。
そもそも僕には、本を読む時間などどれほどあるかわからない。先輩の提案は独りよがりにも感じる。それでも……僕は咲野先輩の本を手にしてみたい。そう思った。
「ありがとうございます」
「こっちこそ、借りてくれて嬉しいよ」
ゆるやかに笑ったその顔に一瞬吸い込まれそうだった。先輩は、本を貸したことを心から喜んでいるように僕には見えた。
「いっただっきまーす!」
「あーっ、凛っ! 私も食べるんだからね、全部取らないでよぉー!!」
「わかってるよ、女のくせに食い意地張ってるよなぁ、凪々は」
「なによ、その言い方」
「いいじゃん、本当のことだろ」
「ひっどーい、凛こそガッつき過ぎるのやめてよね」
「お前ほどじゃないって!」
凛と凪々の食卓での会話は、少々荒れ気味に弾んでいるようだ。だが、僕には何も入ってこない。
『あいつ、自分の本貸さない主義なんだ』
『借りてくれて嬉しいよ』
矛盾した二つの意味の言葉が頭の中を交錯する。家庭事情を知られたり、連絡先を教えてもらったり、いろんなことが一気に起きた。借りた本には時間をかけて目を通した。百数ページ程度の本だったが、僕には何日もかかった。
たしかに僕の状況に似た場面が登場したり、なにやら新しい考えめいたことも書かれていた。けれどおおよそ意味が難解で、先輩がこれを見てなぜ僕のことを思い浮かべたのか、僕のことをどう思いながらこれを見たのか、結局その辺はわからずじまいだ。
気づくと言葉の意味などそっちのけで、ただひたすら表面をなぞり読破を目指していた。ページの先にある数字の羅列。読了したらそれを自分の携帯に堂々と登録できる。もはや目的はそこへすり替わっていた。
咲野先輩との小さな繋がり。久しぶりの読書。
胸の中が騒めく変な感触をともなって、僕は最後のページをめくった。
5・何者
おそるおそる電話番号をタップする。
昨日携帯に登録した新しい番号は、咲野先輩のもの。
読み終わったら返却のために連絡をすることは、本を受け取ったときに約束した。屋上でスムーズに受け渡しをするために。
プルルルル……。
呼び出し音が胸を騒つかせる。あれから二週間は経っているし、こちらの名前は表示されないはずだし、本当に出てくれるんだろうか?
「はい、咲野です」
やや畏まった歯切れのよいトーンが聞こえた。
「あの、高城です。先輩、借りていた本を返したいと思って……」
「ああ、高城か。ごめん、仕事の電話かと」
「仕事?」
「あ、いや、何でもない。そっか、読み終わったんだ。いつ持って来られる?」
「あ、明日持って行きます」
「わかった。じゃあ、また屋上で」
「……はい。じゃあ」
よかった。無事用件を果たせほっとしていると、先輩が会話を続けてきた。
「高城、あのさ。次の本のリクエストとかない? あれば受けられるけど」
「え、次の本ですか?」
やっと本を読み終わり返却する日がきたら、次の本か。これは予想していなかった。けれど嫌な気はしない。とはいえリクエストなどと言われても困ってしまう。
「いや、なんでもない」
「いえ、あのっ。よければ、また借りたいです」
先輩が話を閉じようとしたので思わずオーケーしてしまった。
「ただ、これといって思い浮かばなくて……」
「本当か、ああ、だよな。俺が選んでもいいなら何か適当に持っていくけど」
「それでお願いします」
「お前、気ぃ遣ってないか?」
電話口の向こうで、くすくすと先輩が笑っている。
「いえ、全然」
「そっか、ならいいけど」
そう言って、また小さく笑い声をたてた。 次の本なんて意外だったけれど、また先輩とやりとりできるんだと思うと、電話を切ったあと少しだけ口元がゆるんでしまった。
今日は好之も一緒だったので、先輩がここへ来ることを説明しておこうと思い事情を話した。
「へぇ、そうなんだ」
好之がそう納得したところへ、ちょうど咲野先輩がやって来た。一人だ。彼はこっちを見て手を上げた。僕も軽い会釈で挨拶する。
「これ、ありがとうございました。面白かったです」
先日の本を渡す。が、取り立てて感想などは考えていなかったので、それ以外は何も言えなかった。
「よかった」
先輩は本を受け取るとにこりと笑って、手に持っていた別の本を僕に手渡す。文庫本だった。一瞬小説かなと思ったけれど、タイトルを見て違うことはすぐにわかった。思考の整理に役立つような内容だろう。
「今年読んだものの中で今んとこ一番面白かったやつ持ってきたんだ。ま、適当に目通してみて」
「はい。ありがとうございますっ」
つい勢いこんで礼を言うと、ぷっ、と突然吹き出すように彼が笑った。
「あの……」
ひょっとして、からかわれているんじゃ……一瞬不安がよぎる。
「いや、ごめん。違うんだ高城」
先輩は一人でまだウケていて、楽しそうに言った。
「んっと、お前ってさ……こう、すげー真面目でいい奴なんだなと思って」
まだ表情が笑っている。
「……はぁ……」
間抜けな感じの声が出た。見ると好之も先輩の言葉を受けて笑っているようだ。生真面目だとは言われる。それは、いつの間にか人と距離を置くため自然と身につけてしまった話し方だった。やっぱり態度が硬かったのだろうか。
「また、連絡くれよな」
先輩はもう気にしていない。和やかに目を細めてそう言い、方向転換しそうになったところへ、先日電話をかけた際のちょっとした違和感を投げかけてみた。
「あのっ」
「ん?」
「ちょっと気になったんですけど、この前先輩、『仕事』って言ってませんでした?」
「ああ、あれか。えっとさ……俺、在宅でライターの仕事してるんだ。まあ、バイトみたいなもんだけど。たまに案件を電話でやり取りしてるもんだから、つい……」
「え、先輩、そんなことしてるんですかっ」
話に食いついたのは好之のほうだ。彼は僕の陰からひょこりと身を乗り出してきた。
「ああ、藍沢。読むのとか書くのが好きで。なに、興味ある?」
「あの、それってネットの……あ、ウェブニュースとか雑誌とかそういう記事書いてるってことですか。すごいな。……あの、そういうのってぶっちゃけいくらになるとか訊いてもいいっすか?」
思ったことをすぐ口にするのは、彼の良いところなのか悪いところなのか。僕には真似ができない。けれど、そこを訊きたい気持ちはよくわかる。
「すげー直球だな」
ははは、と先輩は軽快に笑って、別にいいけど、と口端を上げる。
「えっと……今のとこ全部まとめれば、……サラリーマンの初任給くらいか」 計算したのか、指を顎先に載せぼそりとそう答えた。
「え? ……っていうと」
「二十万程度?」
こちらへ訊き返すように語尾を上げて言う。
「はあああ……???!!!」
僕と好之の大合唱だった。
え、聞き間違いだろうか。とても高校生のバイトとは思えない額だ。優秀な人だとは知っていたけれど、この人……何者なんだろう。
「あのっ、い、今、二十万って言いました? 本当っすか、それ。月にですよね?」
好之は興奮気味で、僕も驚いてまだ心臓がドキドキしていた。先輩は特に気にするでもなく淡々と話し出す。
「ああ、でも年齢制限とかあってまだセーブしてるほうだよ。高一のときからやってるから実績だけはできて、今は知人に仕事紹介してもらったりしながらやってんだ」
その後も好之が目を輝かせながら色々問い尋ねていたが、仕事の内容について語る先輩の説明に僕はてんでついていけなかった。正直、あまりに別世界過ぎる気がした。
僕などは、パソコンどころか家ではテレビすらあまり見られない。バイトなんて普通は飲食店とか、せいぜいそんな所でせこせこ働いて月に数万円もらう程度のイメージだ。僕にはそれすら縁遠い。パソコン使って自宅で高額収入を得るとか、ましてそういう世界で実績を積むとか、そういう概念すらない。普通はそうだろ。
「咲野先輩って、なんか……何でもできる人なんですね」
ひとしきり話を聞いたあと、僕の気持ちまで代弁するように好之が言った。
「まさか、そんなことないよ」
先輩はいささか困り顔で、けれど穏やかな微笑をすぐ口元に浮かべた。そして、ふとこっちを見た。あ、まただ。一瞬その視線はまっすぐと僕に据えられ、ふいに逸れて目線は足元に落ちた。
「あ、先輩ってよく人に貸したりするんですか? 本」
好之が、僕が手にしているものに視線をやりそう訊いた。先輩は心なしか表情を硬くすると、同じく僕の手のほうを見やり言う。
「いや、あまりしないかな。そういうことは」
「………?」
どう、反応すればいいんだ、この場合。
好之も僕も答えられない。
手にしている本にぎゅっと力を込める。貸さない主義って……あれはやっぱり、聞き間違いではなかったんだ。
「ま、そういうことで。また連絡待ってるよ、いつでもいいから」
さらりと言って、彼は踵を返し立ち去った。
まだ傾きを知らない太陽が、僕たちと先輩の間に夏のきらめきを放ち、屋上にはじわりと暑い空気だけが残った。
夜、ぼんやりした頭でどうにかカレーライスを作り、テーブルにどんっ! と勢いをつけて出すと、双子の弟妹は目を輝かせ「やったー、今日はカレーだぁ!」と小学生らしさ全開の反応を見せる。そして大声でいつもの会話をしながら食事を始めた。ふうっとため息をついて、僕ももそもそ食べ始める。だが気持ちは完全に別のことに捉われていた。
今日の先輩のバイトの話。人に貸さないはずの彼の本が僕の手元にある件。色々考えてみたかった。
そして心の隅に生まれた小さな期待。これが一番不思議だった。借りた本の最後のページに今回も何か書いてあるんじゃないか、と考えてしまっている。あれは電話番号を教えるために書かれただけだ。別のメッセージがあればいいと思うなんて、どういうことだ。自分がよくわからなかった。
6・双子の怪我
ほぼ二週間が経ち、また本を返す日がやってきた。
電話をかけると、咲野先輩はすぐ出てくれて、前と同じ会話をする。
返却日は明日、屋上で。
「じゃあな」
「はい、じゃあ」
そんなやりとりをしたというのに、あいにく次の日は雨だった。これでは昼休みに屋上へ行くことができない。教室で窓の外の降りしきる雨を眺めながら、ぼんやりと考える。まさかまた直接教室まで行くわけにもいかない。やっぱり明日になるのだろうか。またあとで先輩に電話をしたほうがいいだろうか。
昨日、読み終わった本の最後のページをめくった。
勝手な期待はしたけれど、現実には何も書かれてなどいないと思っていた。なのに……そのページから、短い一文が目に飛び込んだのだ。
『何を弾くの?』
文字を見たとき、一瞬夢かと思った。でもそれは現実だった。期待は予感だったのか。自分でもおかしなほど顔がにやけてしまいどうにもならなかった。
それにしても、何かの暗号だろうか。意味がわからず戸惑ったが、ああ、ギターのことだ、とすぐに思い当たると、文字の横に設けられた空白まで見えた気がした。
ためらいながらも、普段よく演奏している一番好きなバンドの名前を書いた。昔の洋楽については、何と書けばいいかわからず触れなかった。
好きなバンドは邦楽の人気ロックバンドだ。コンスタントに楽曲制作を続けていて、僕は全アルバムと関連雑誌をすべて揃えて持っている。僕の唯一の贅沢だ。その歌詞の表現と歌声がとても好きで、作詞作曲しているボーカル担当にはかなり心酔していた。
先輩は、知っているだろうか。
先輩は、音楽を聴いたりするのだろうか。
苦手だとは言っていたけれど。
それにしても、人に貸すのも嫌がるほど大切にしている彼の本に、こんな適当なメモを加えていいんだろうか。しっかりとアルファベットの文字を書き込んだあとにそう気づいたが、もう遅い。
雨は下校時間を過ぎても止まず、むしろ勢いを増していた。
ざーざーと激しい水音しか聞こえない土砂降りの中、好之と二人大きな傘を差して、ほぼ無言で歩きながら校門の前まで来た。そこを横切ろうとしたとき、近くにいた誰かがすっと近づいてきて、伸ばされた腕から何かが僕の前に差し出された。
目を向けると咲野先輩だった。いつから待っていたんだろう。肩や足がかなり濡れている。僕から本を受け取るためだけにここまでするのか。はっと慌てて、鞄の中から本を取り彼に差し出した。そして素早く、先輩が手にしたその本を受け取る。彼は無言でいつもの静かな笑みを見せると、そのまま僕たちとは別方向へ立ち去った。この大降りの中、話しかけられても声など聞こえなかっただろう。
言葉もなくなされた僕と先輩のやりとりに、好之は驚いたのか、感心したのか、大きな傘の中でやりにくそうに両手を開き、軽く上に持ち上げる仕草をしてみせた。
雨のカーテンの一幕。
咲野先輩との二度目の本の受け渡しだった。
こうして、頼んでいないはずの次の本は、当然の顔をして僕の元へやって来た。
「あ、今日何か食べるもの買って帰ろ」
「え、どうして。晩飯作んないの?」
「うん。今日あの子たちさ、叔母の家へ行ってるんだ」
「凛と凪々? 叔母って、鎌倉まで?」
「ああ、そう。あれ、もう着いてるかな」
いつもどおり学校と駅を結ぶバスを降りて、改札へと向かう階段を親友と一緒に上がりながら、今日はいつもと予定が違うことを思い出した。
金曜日。小学校は特別授業で午前の終業だったので、お昼から二人は自力で鎌倉の叔母の家まで行き一泊、いやひょっとすると二泊することになっていた。こんなことは全員にとって初めての経験だが、叔母からその計画が振られたとき、初めてのお泊まり体験に二人がはしゃぎ始めたので答えはもう決まったようなものだった。叔母は間もなく結婚予定で、来月から二週間ほど海外へ行き留守になる。その前に、実質の保護者らしい責任感のようなものが高まったらしく、ぜひにと、双子の世話を申し出てきたのだ。それはこの週末、僕の完全なる自由時間の獲得を意味していた。
叔母から何か連絡が入っていないかと携帯を確認しようとしたそのときだった。
「あ、先輩」
「藍沢と、高城」
駅構内の小さな本屋の前で、例の二人が並んで立っていて、ちょうど見事に対面を果たしてしまった。
咲野先輩と、早坂先輩。本当に彼らはいつも連れ立っているし、僕と好之もそう、いつも連れ立っている。早坂先輩とは一度別の本屋で出会したことがあったが、こうして咲野先輩と一緒に会うのは、助けてもらったあの日以来だった。
「今から電車乗るのか?」
早坂先輩が好之のほうへ問いかけると、
「はい。先輩たち、家、市内ですよね。珍しいですね、駅なんて」
好之が臆せず語りだす。
「まあな」
早坂先輩はちらりと咲野先輩の顔を見て小さくにまりと微笑んだ。駅に来たのはこいつの用事だ、と示唆しているかのような顔だ。それから彼は「藍沢、ちょっといいか」と言って好之の腕を掴み、僕から引き離した。
「え、何ですか」
慌てる好之にそのまま口元を手で隠し、こそこそと何かを話し始めた。早坂先輩って、妙にわからないところがある人だ。咲野先輩の反応を見ようと彼を見ると、心なしか気まずそうな顔で僕を見ていた。
「あ、あの」
「ごめん、高城。今日急いでる?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど」
僕たちを置いて本屋前から離れ、改札口の方向へ歩いていく早坂先輩と好之。身振り手振りで何やら会話をし始めた二人にちらりと目線を送り、首を傾げてしまう。再び咲野先輩を見ると、彼は改まるように軽く咳払いをした。
「高城、十分くらいで済むんだけど、もし時間あるならこの先にさ、見せたいものが……」
そのとき、さっき確認しようと取り出し手に持ったままだった僕の携帯から、けたたましい音と振動がし始めた。みゆきさんからだ。とっさに、先輩に小さく頭を下げ電話に出る。
「えーーっ」
思わず出てしまった大きな声に、隣の先輩はおろか好之と早坂先輩まで驚いたようだった。しかし叔母の告げた内容は、周りを気にしているどころの騒ぎではなかった。
「凛と、凪々が……っ、び、病院に? 鎌倉のっ、うん、わかった。すぐ行くよ」
通話を切り、僕を凝視していた三人に説明をする。
「あの、ちょっと、弟たちが怪我をしたみたいでっ、急いで病院に行かなきゃいけなくなったんでっ」
「えっ、玲人、なに、大丈夫?」
「わりい、好之、明日話すよ。じゃあ」
急いで改札をくぐる。とにかく急がなきゃいけない。ホームに出て、ばくばくし始めた心臓に気を取られないよう冷静に乗る電車を探す。
今日お昼すぎ、凛と凪々は約束通り家を出たのだが、なんと彼らは自転車で鎌倉まで向かったという。その途中、交差点のある大きな道で通行人にぶつかり転倒してしまったのだと。二人揃って怪我をして病院へ運ばれ、そこへ駆けつけた叔母から僕へと連絡が入ったのだった。
電車に飛び乗り適当に空いた席へ着くと、続いて誰かが飛び込んできて、僕の隣の席へするりと腰掛けた。
「咲野、先輩」
驚いて名前を呼ぶと、先輩は固まったように笑った。
「ごめん、心配で来てしまった」
「え」
「鎌倉の病院って、場所わかるか?」
「あ……」
そういえば、名前は聞いたけれどそこへ駅からどうやって行くのかまったく知識がなく、考えてもいなかった。どこかと訊かれたので総合病院の名前を告げると、降車駅は鎌倉ではなく一つ前の大船になると言う。さらに、駅からの道順も知っているので案内してくれるとまで言う。すみません、助かりますと告げて、彼に道案内してもらうことになった。
二人の怪我がどれほどのものかわからない。訊く余裕もなかった。ひどい怪我だったらどうしよう。入院ということになるんだろうか。あの二人、今朝ちゃんとバスと電車で行く約束をして別れたのになんでまた……。そういえば、数週間前、叔母の婚約者からもらった誕生日プレゼントの自転車、あれだ。彼らはあれに乗りたくて、勝手な行動をとってしまったに違いない。どうせ言いだしたのは凛だろう。ああ……だけど、彼らを行かせてしまったのは僕の責任だ。僕のせいで凛と凪々は……。
「心配だな」
と静かに咲野先輩が言った。
「どうしよう。何も知らず行かせてしまった……」
頭の中に弟たちの痛々しく変わり果てた姿のイメージしか描けなくて、顔を覆いうつむくしかできなかった。そんな僕へ、咲野先輩がそっと肩に手を回してきた。そして、ぽんぽんっと、優しく宥めるように肩を叩く。
「お前のせいじゃないだろ」
「……」
先輩の言葉で少しだけ気持ちが落ち着いたが、自責の念は消えない。大船駅にはわずか五分ほどで着いた。
「こっちだ」
咲野先輩の手に引かれながら病院へ向かった。動揺のせいで少し足がふらふらしていた。病院名が大きく掲げられた玄関を入り、受付で名前を告げて尋ねる。ふと見ると、先輩が玄関から一緒に入ってきていないのに気づいたが、意に介さずそのまま弟たちの元へ急いだ。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
「乗りたかったんだ、自転車」
僕のイメージをいい方向へ裏切って、当の二人の怪我は軽かった。二人でわけ合ったかのように、右脚と左脚にそれぞれ捻挫と擦り傷を作り、さいわい骨折などはないようだ。ものすごく大きな深呼吸とともに、僕は胸を撫で下ろした。彼らは病院へ運ばれはしたが、軽い外傷以外は問題もなく、手当を受けたあと念のため空いたベッドで一時間ほど休ませてもらっていたらしい。
「玲人、心配かけたわね。この子たち私がこのままうちへ連れていくから、もう大丈夫よ」
叔母も笑っている。怪我をしたからといってお泊まりをやめにはしないようだ。
「お兄ちゃん、日曜日まで泊まってきていい?」
「いいよね、玲人兄ちゃんっ」
怪我をしたときは泣いたらしいが、痛みが引いたのか、二人はもういつもどおりの元気な表情で、目先のお楽しみのことしか頭にないようだった。
「いいけど、ちゃんと反省しろよ。それと、みゆきさんももうすぐ結婚式あって忙しいんだから、あまり迷惑かけんなよ」
「はーい」
そう言って、彼らのことは叔母に任せて病室を出た。安堵のため息を何度も吐きながら廊下を歩く。玄関を出て病院の門を曲がったら、そこに咲野先輩が立っていた。ああ、そうだ。今日はこの人に連れてきてもらったのだった。きっと僕一人だったら余計な行程を辿る羽目になったし、駅を降りても右往左往したことだろう。
「どうだった?」
心配げに眉が少し下がっていた。
「あ、全然、大丈夫でした。怪我も大したことなくて」
「ほんとか。よかったな。一緒に帰らないのか」
僕が一人で出てきたのを不思議に思ったようで、叔母のことやお泊り計画のことを簡単に説明すると、彼はさらに安心したように、そっか、よかった、と言って笑った。
「すみません、先輩。ずっと待っててくれたんですね」
「いや、別に。あ、高城、ついでだから家まで送ろうか」
「えっ」
僕が驚くと、先輩もつられたように驚き目を丸くした。
「あの、そんな、大丈夫です。家は逆方向だし……」
そう言うと、先輩はやおら下を向き、なぜか一、二秒足元を見つめたあと顔を上げ、
「そっか。じゃあ、駅まで」
と、少し躊躇いがちに口角を上げてみせた。
最寄り駅まで、さっき急いだのとは違う歩調で先輩と歩いた。大した話はしなかったけれど、この週末は双子の世話を離れて過ごせることを話すと「ギター弾くのか?」と訊かれた。
「はい、時間あるので弾き語りとか」
そう言いながら、ふと、先輩に借りている本も読みますと言えばよかった、と後悔した。
「聴きたいな。高城の歌」
「え」
一瞬、辺りから音が消えた気がした。どう返したらよいか分からず少しの間無言で歩みを進めると、ありがたいことにすぐに駅に到着する。その言葉を飲み込めないまま先輩と別れ、急ぎ足で帰路に就いた。
嵐のようにしゃべる双子のいない家の中は、水を打ったように静かだった。お風呂に入り、駅のそばのコンビニで適当に買ったおかずを冷飯と一緒に食べ、一息ついて小さなソファーに腰掛ける。窓を閉め切っているのに、夜の波の音がかすかに流れ込んでくるのが不思議だ。しかもひどく心地よい。
こうして静かな家の中で過ごすのは久しぶりだった。それほどに、毎日は騒がしく、忙しなく、笑い声と生活の様々な音にまみれ、ただ時間だけが目まぐるしく過ぎていたことを思い知らされる。それを嫌だと感じたことはなかった。ただ、今は……
静かだな……。
明かりを消すと家の中にはもう、ゆったりと打ち寄せる波の音しか存在していなかった。部屋の中で、いつまでもそのかすかな音に耳を傾け今日一日のことを思い返す。怪我をした弟妹、気前のいい叔母、今日聞いた誰かの声、物音、様々な場面と様々な表情。だけど暗闇の中、僕の心に浮かんだのはそのどれでもなかった。
『聴きたいな。高城の歌』
凛と響く先輩の声。徐々に重くなっていく瞼の裏で、僕は穏やかなその笑顔を見ていた。彼の隣で小さく鳴っていたアルペジオ。その音すら、今は夜の波の音に絡まりゆったりと耳に届いてくる。それがとても心地よかったから、眠りに落ちる瞬間まで、ただじっと耳を澄ましていた。
「ほら、お前また見てんじゃん」
「え、なに」
「咲野先輩、誰か待ってんのかな」
校門を出て、今日はバスに乗らず徒歩で駅まで親友と歩いていたら、好之が突然立ち止まり僕に言った。
病院まで送ってくれた日から三日、本を借りてからは十日ほどが経っていた。
校門前の道を折れて駅方面へ続く道。ひとブロックはまるまる高校の敷地なので校庭のフェンスがずっと続いている。そこにもたれ、咲野先輩が立っていた。
「見てなんかいないよ。今気づいた」
道を行く生徒たちが多かったので、僕たちは道路を挟んで反対側の歩道を歩いた。フェンスの後ろに広がる夕方五時半の空にはまだ色づく前の太陽が輝き、先輩の姿は逆光になっている。それでも彼だとすぐわかるほどずいぶん見慣れてしまった。
僕を……待っているのかな。だとしたら、急に貸出中の本が入り用にでもなったのだろうか。あ、でも本は持ってきていないや。どうしよう。そう思いながら歩き、やがて距離が縮まってくると鼓動が速度を増した。本のせいではなく、別の理由で。
「先輩が待ってんの、玲人だったりして」
その言葉でさらにどくんっと心臓が跳ねてしまった。
「声かけてみる?」
「う、……ん」
好之と二人、道を横断しようと立ち止まったそのとき。ふいに数人の生徒たちが咲野先輩に声をかけた。三年生だろう。彼はすぐに友人たちに取り囲まれ親しげに会話を始めた。なんだ……彼らと待ち合わせていたのか。明るく盛り上がった笑い声が数人の輪を包む。友だちも多いし誰とでも仲がよさそうな先輩。わざわざこんなところで僕のことを待っているなんて、あるわけなかった。足を踏み出さなくてよかった。この前の一件もあり、彼を近くに感じてしまっている自分の感情だけが、突然ぽっかり居場所を無くしてしまう。
好之がちらと一瞬僕の顔を見て、迷ったように口ごもってから「行こっか」と笑った。そのまま二人で何事もなく歩きだす。向こう側の会話はずっと弾んでいるようだ。快活な笑い声が響いてくる。こっちに気づいてなどいないだろう。
道幅一メートルほどの狭い歩道を、前から窮屈そうに一台の自転車がよろよろと近づいてきて、すれ違いざま僕の腕を擦った。その拍子に顔を上げると、咲野先輩が向こう側からこっちを見ているのに気づいた。あ、まただ。逆光と、周りを取り囲む友人の影で見えづらかったが、たしかに彼は僕を見ていて、そしてすっとその手を上げた。
「じゃあな、玲人。また明日」
「ああ、好之。明日な」
電車、バスと乗り継ぎ、自宅の最寄りの古びたバス停で親友と別れた。こぢんまりした住宅密集地のゆるい坂道を登るとき、立ち並ぶ家屋の隙間から、赤く染まった空と光る海が見えた。水面はしばらくキラキラと光を反射して、やがて音もなく夜の帳が降りてくる。
今日は帰り道、ほんの少しすれ違っただけだった。
本を返す用事もないのに、偶然目が合った。あまりに一瞬で、あの音が聴こえる暇はなかった。けれどずっと僕の鼓膜の奥に流れ込んでくる音があった。初めて先輩が助けてくれた日、あの日聴いたのよりもう少し速い鼓動の音が。
太陽を背に、柔らかな影に包まれた咲野先輩の顔。見間違いじゃない。たしかに彼は、僕の姿を捉えたあの瞬間、嬉しそうに微笑んだんだ──。
7・新居への誘い
時々夢を見る。まだ母が生きていた頃の夢を。がらがらと引戸の玄関を開けると「おかえり」と穏やかな声がする。悩む日も楽しい日も、同じ場所、同じ時間に笑顔はそこにあった。温かな光が満ちていた。ずっと続くはずだった、双子に出会うはずもなかったあの時間。あの頃、僕はどんなふうに笑っていたんだっけ。
最近、一段と食欲の増した凛と凪々のために、夜はいつもより料理のメニューを増やしてみる。予想どおり、彼らは食事中おしゃべりをしながらもしっかり口を動かし、勢いよくすべての皿を空にしていった。畑を荒らすイナゴの群れか、お前たちは。
凪々に手伝ってもらい後片づけを終わらせ、ソファーに腰掛け、本を手に取りページをめくる。咲野先輩に借りた本。それを読む時間はすっかり僕の日常ルーティンとなっていた。
ふと携帯が鳴った。着信相手は『渚沢みゆき』だ。
「玲人、元気?」
「うん。久しぶり、みゆきさん」
彼女の姓は、この夏、藤川から渚沢に変わった。旦那は資産家の家系で、自身はフリーランスのエンジニアをしている。先月二人は結婚式を挙げた。相手側は金持ちらしく、招いてもいないのに親戚一同集まり賑やかな式となったらしい。出席しなかったのは、海外まで行けなかったみゆきさん側の親戚数名、つまり僕たちくらいだ。それもあるのか、こちらで開く予定の披露宴はますます準備している気配もない。二人にはまだ子供がいないので、僕たちの生活へ念入りに気を回してくれている。親が不在でも何とかやっていけるのは彼女のお陰だと思っている。
「あの子たち、いつかの怪我はもう大丈夫?」
「ああ、うん。もう全然元気だよ。食欲もどんどん増して前より元気になったくらいで」
「そうなの、よかった。相変わらずよくやってるわね、玲人」
「うん、まあ」
「困ったこととかない?」
「ん、別にないよ。ありがとう」
「もう三年近くになるわね、あの子たちが来てから」
「うん」
「えらいわよね、あなたは本当に。姉さんも喜んでいると思うわよ」
ことあるごとに労いの言葉をかけてくる叔母が、今日は「姉さん」と、母のことを持ちだした。悪気がないのはわかっている。ただ、そのたった一言で懐かしい面影は容赦なく目の前によみがえってしまう。
母を亡くしてからの数年間、決して楽な生活ではなかった。いないも同然の父親に頼ることなどできなかった。がむしゃらに、ひたすらに、前を向きやってきた。悩む間もなく目の前の責任を果たしてきた。きっとこれが自分の運命なのだと受け入れて。
けれどふと考える。
道の途中に置き忘れてきた何か、心の端になおざりにした何かがあることを。それは直視したくない僕の感情なのだと思う。
ぼんやりと浮かび上がる懐かしい感触を、意識の奥へ閉じ込めようと足掻く。喉の奥に込み上げるものがあり、とっさに思いを遮断する。こうやって目を背けてやってきた。背けてさえいれば上手くいく。きっとすべてが上手くいくはずだと信じて。
「あれ、そういえばみゆきさん。今度引越しするんだったよね」
思いを逸らしたくて話を切りだした。近々、叔母夫婦は旦那の地元の街に移り住むと聞いていた。
「そうそう、それを話したくてかけたのよ」
彼女は明るい声で笑ってから、やっと今日の用件を語りだした。
「今度の引越し先、実はね、元々彼の姉夫婦が住んでいて、サーファー向けのお店と宿の提供をしていた場所なのよ」
そこは高校からすぐ西側に位置する茅ヶ崎市だ。海の向こうに烏帽子岩が見えるんだっけ。
「ほら、玲人覚えてる? お義姉さん夫婦のこと。四年前だっけ。結婚式の日に呼ばれて一緒に行ったわよね。海の家の」
「え……あ、うん、覚えてるよ。もちろん。二次会だったっけ」
「そう。式のあとのね」
貸切になった海の家、披露宴後の気どりのないパーティー。砂浜に設置された小さなステージで、母と僕と叔母は新郎新婦への歌を披露した。あの日のことは容易に脳裏によみがえる。
夕暮れの海岸は心地よく、おしゃべりと波の音が入り混じって耳に届き、ずっと安らかな音楽が流れていた。皆が笑っていた。松明の灯りがゆらめき、誰かが椅子にかけた夏のシャツが夕風にはためいていた。幸せな一日だった。……母が亡くなる少し前の、もう帰らない思い出だ。
話を聞くと、今度姉夫婦は沖縄に移住するらしく、家をみゆきさん夫婦に譲ってくれるということらしい。
「よかったじゃん、みゆきさん。また海沿いの街だね」
「うん、そうなの。それでね、その家なんだけど、大きな洋風造りの建物で部屋がいくつもあるの。隣には店舗があってね。だから今度そこをシェアハウスとカフェにそれぞれ改造して使おうかなと思ってるの」
「──シェアハウス?」
普段聞き慣れない単語に思わず訊き返してしまった。突拍子もない発想じゃないか。たとえ人が集まる場所が好きで世話焼きな性格だとしても、大変じゃないんだろうか。まだ新婚なのに、他人が同じ家にいるなんて大丈夫なんだろうか。
それを口にすると、しかし返ってきたのは期待とやる気しか感じられない明るい声だった。
「見てもらうとわかるけど、空間にゆとりがあって、プライベートなスペースは確保できるし、そこは気にならないと思うのよ。それより……」
叔母は一呼吸置いてから言った。
「玲人も、凛と凪々を連れてこっちに来ない?」
「──え」
「今どこにいるかわからないけど、雅史さんには私からちゃんと話すつもりよ。彼に玲人たちを引き止める権利はないと思うの。学校には今のところ私が保護者として連絡を取ってるけどね、あなた達をこれ以上放置してはおけないってことになってるわ。施設に入るなんて話になる前に、私の所へ来てくれたら問題なくなるじゃない。つまり、本格的にあなた達を引き取る流れにしたいの。どう?」
突然の提案に思えた。すぐに返事ができない。
たしかに言われるとおり、このまま父が戻らない場合、僕たちきょうだいの行く末はどうなるかしれない。
「本当はここまで放置せず、もっと早くあなたたちの面倒を見るべきだったのよ。甘えててごめんね」
散々お世話になってきたのに謝られてしまう。仕方ないのに。気まぐれに帰ってくる父は子育てこそ放棄しているけど、完全に姿を消したわけじゃない。金銭的には養ってくれているので、法律上、僕たち三人は片親家庭に違いなかった。みゆきさんに非があるわけじゃない。ただ僕としては、この家を出ることが簡単だと思えなかった。
「まあ、家族以外の人間も住むことになるから、ちょっと悩むかもしれないけど。でもその分、分担できることも増えると思うの。玲人の家事の負担はずっと軽くなるはずよ。それに慣れたら少しだけ私のお手伝いもしてもらえたらありがたいなって。……どうかな?」
結局、披露宴は取りやめ、今はすっかりそのシェアハウス計画に夢中ということらしい。今後の展望を意気揚々と語り始めた彼女に、新婚なのに大丈夫? なんていう僕の心配など入り込む余地はないみたいだ。彼女が想像する新しい生活の場。ここを離れて暮らす生活。しばし想いを馳せてみると、頭の中に絵が見えてきた。
海の見える街。
カフェと、大きな洋風の家。
いつも親切にしてくれる叔母夫婦と同じ住まいなら安心には違いない。近くの大学に通う学生たちが入居してくるらしい。食事のとき以外は各々の生活を勝手にやっていくスタイルだから特に問題もなさそうだった。一緒に住むことで家事の大半から解放されるというなら、それは素直にうれしい。何よりプライベートな自分の部屋が持てるのは魅力に思えた。今は襖続きの二つの部屋に、自分と弟たちの身の回り品が混在して置いてあり、自分だけのスペースなんてあってないようなものだからだ。
父にはみゆきさんが話をつけてくれるらしいし、それなら尚更新しい生活もありかな、と思う。ぼんやり思い巡らせていると、
「とりあえずちゃんとした返事はまた今度聞かせて。今後の大事なことだからしっかり考えておいて」
そう言い終えて、彼女は通話を切った。
実のところ、叔母は僕と凛と凪々の親代わりのようなものだった。ついに一緒に暮らすとなれば、今後の生活上の心配が消えることを意味していると思う。けれど、はっきり答えを出すには少々時間が必要だった。むろん父親への未練なんかじゃない。この家は、母と一緒に暮らした思い出の家だったから……。
8・暗号
叔母から新しい住まいへの誘いがあった数日後。
いつもの本屋で、再び早坂先輩に会ってしまった。この日は音楽本のコーナーでなく、夕食のレシピ探しに料理本を見ていたにもかかわらず。また同じ場所とは奇遇だな、と彼はこっちを見てかすかに笑った。
「高城、サキから本を借りてるだろ」
「はい」
ちらっと彼を見ると、何かもの言いたげな顔をしてじっと僕を見つめている。
彼と咲野先輩は、一個歳上のわりには大人びている印象がある。率直な物言いをするところがそう思わせるのかもしれない。
人目を気にしがちな自分とは違い、二人とも自信に満ちたオーラとスマートさを持っている気がする。どうしたらそういうふうになれるのだろう。冴えない僕には不釣合いな知人にも思える。それでも、会うたびに増す彼らへの好感が、僕を悪い気分にはさせなかった。
「高城はさ」
「はい」
「サキのこと、ひょっとして……」
溜めた言い方に一瞬どきりとした。何を言われるのかと身がまえる。
「かっこいい先輩だとか、尊敬に値する人物だとか、まさかとは思うけど、そんな類いの印象持っていないだろうな?」
「──はい?」
意表を突かれた質問に、思わず語尾が上がった。
それの何がおかしいんだろう。まさかとはどういう意味だ。
咲野先輩なら、たいていの人間はごく自然にそういう印象を持つだろう。強いけれど、こわい人ではない。むしろ優しい。僕はもう何度も彼に助けられている。人も羨むルックスと知的な趣味も持ち、勉強に加えて大人顔負けの稼ぎまである。特に関心のなかったこの僕でさえ、今は素直にそう感じているというのに。
それに……僕の中には別の不思議な感覚まである。
音が聴こえることと……少しだけ胸をくすぐる柔らかいあの感覚が。
「あの、なんかまずいんですか、そう思っていたら」
ん、と彼は数秒だけ言い淀み、そしてまっすぐこちらを見て言った。
「なあ、これは高城だから言うことであって、一度しか言わないから、心して聞いておいて欲しいんだ」
「はい」
「お前の知ってるあいつは、俺の知ってる咲野優一じゃない」
「え……?」
「あいつは、そんなんじゃないぞ」
「……っ」
それはどういう意味だ、と悩み始めた僕に、彼は言葉を足した。
「かっこいいどころか、どうしようもない臆病者だ」
即座に、窮地を救ってくれたあの日の姿が浮かぶ。自分より体格の勝る相手に、怯むどころか攻撃をものともせず交わし、あっけなく去らせてしまった鮮やかなあの勇姿が。どう考えても咲野先輩の姿と早坂先輩の言葉が一致しない。
「しかも、変態でストーカーだしな」
「──は?」
「ま、そういうことだ」
早坂先輩、何を言っているんだろう、この人。親友だから言える辛口評価なのか。しかしただの悪口のような言葉じゃないか。
返答に窮する僕を尻目に、彼は素知らぬ顔で立ち去った。今の衝撃的な台詞について、それ以上何の説明も加えぬまま……。
凛と凪々は、またいつものように大声でしゃべりながら夕飯を食べている。この二人が静かに何かをしているのを僕は見たことがない。彼らは今日もすこぶる元気で調子がよい。本日の話題は好きな動物についてらしかった。さっきから色んな動物の名前が飛び出している。叔母の新しい家へ行くことを二人に伝えたら、どんな反応をするだろう。
「ねぇ、じゃあペットにするなら犬と猫どっちがいい?」
「え? んー俺は猫かな」
「なんだ一緒、私も! 友達が飼っててすごく可愛いの。私も飼ってみたいなぁ」
「世話が増えるから無理だろ」
「わかってるわよ。でもいつか飼ってみたいなぁ」
……そういえば。
この前叔母が電話を切る前に、今度行く家に猫も一匹連れていくことになると言っていたな。旦那が春頃から飼っていて、結婚後は一緒に住んでいる、あだ名がモンという名前の猫だと。猫なのにあだ名ってなんだろう。正式名があるということだろうか。今の会話からして、その猫の存在を凛と凪々に話したら、きっと彼らはここを引っ越すことに大賛成となるだろう。
夏の日差しは毎日強烈だった。今年は猛暑と言えるほど気温の高い夏日が続くと、今朝ニュースで言っていた。
好之と昼休みに屋上へ上がることはなくなり、その代わり一階にある全校生徒が自由に使える休憩スペースに行くのが最近の定番だ。あと数日で夏休みに突入する今日も、ここには学年を問わず利用する生徒がたくさん来ていた。気づけばつい人混みの中に、あの人の気配を求め探している自分がいた。自販機で追加の飲み物を購入し、適当な席に着いて弁当を食べ始める。ふと、購買のパンを咀嚼しながら向かいの好之が話しかけてきた。
「なあ玲人、あれから先輩と本のやりとりまだしてんの?」
「あ、うん。してる」
「へえ、まだ続いてんだ。お前忙しいのによくやるよな。けっこうな読書量になってんじゃね? 勉強とかギター弾く暇とかあんの?」
「ん。まあちょっと減ったけど。読むのもっと速ければいいんだけどね」
「お前、ちゃんと真面目に読んでるってのがすごいよな。俺なんか、もし借りられても読まずに返しちゃいそうだけどな。ちなみにもう何冊借りてんの?」
「えっと……」
指折り数えてみる。たしか、今借りているのは五冊目だった。 好之に伝えると、彼は再び例の素朴な疑問に行き当たったようだ。どこへともなく目を向けて、ぽつりと言った。
「先輩ってさ、なんで玲人にだけ本貸してんだろな」
「さあ……」
僕もぼんやり声で答えた。
そのことを考えなかった日はない。
「先輩……玲人のこと好きなんだろな」
購入した紙パックのジュースを啜りながら、頬が赤くなってくるのを感じた。胸に何かが溜まったせいでゴホゴホとむせてしまう。大丈夫か、と好之に問われ、大げさに首を縦に振った。
「ほら、あんとき。玲人が病院行くって電車に駆け込んだときさ、先輩すごい勢いで玲人のあと追っかけてっただろ。それに、一度訊かれたことあるんだ、玲人のこと。高城とは家近いのか、とかから始まって家族構成とかさ、まあそんな感じのこと」
「あ、うん。そうなんだ。聞いたって言ってたよ」
そのことなら知っている。屋上でした会話を思い出す。先輩のほうから好之に声をかけ色々聞いたと言っていた。彼は僕が気を悪くしたんじゃないかとそのことも気にかけていた。
「その件、言い忘れててごめんな」
「別にいいよ、そんなこと。凛たちのことはもう話したし」
好之からの話に加え、病院に来てくれたとき伝えた話で、先輩にはもう家の生活の様子が伝わってしまっている。複雑な家庭であることは、担任はもちろんクラスメイトの数人にも知られていることだ。
中三の頃、一度友達になりかけた奴にやたら親切にしてもらったことがあった。あとからわかったのは、彼は僕の家庭をとても気の毒に思っていたらしく、かわいそうだという気持ちからかなり気を遣い優しくしてくれたのだという。
ショックだった。特殊な家庭──そんなレッテルを貼られ、特別扱いをされたことが悲しかった。そいつはやがてそばへ来なくなった。同情や憐憫、そんな動機で接してこられるのでない限り、家庭事情を知られること自体はかまわない。
「そっか? よかった」
「うん、別に」
「でも熱心だよな、咲野先輩って」
「え」
「本だよ。玲人に貸してる本」
「ああ」
屋上に行かなくなってからは、あまり人目につかないような場所と時間を先輩が指定してきたので(たぶん人気者で目立つし、僕にだけ貸しているから、先輩なりに周りを気にしてのことだろう)、そこで本の受け渡しをしていた。毎回頼んでもいないのに、彼が次の本を当然のように持ってくるから、特に断ることもなくそれを受け取って読んでいた。だからまだ続いているんだ。
本の最後のページには必ず何かひとこと書かれてあった。毎回短く答えを書いて返しているけれど、会うときにそれについて訊かれることは一度もない。お互い暗黙のうちになされる不思議なやり取りになっている。夏休みに入る直前に借りた今の本については、返すのは二学期という約束だ。
「先輩ってさ、やっぱ玲人のこと気になるんだろうな」
好之の視線がじっとこちらに向けられる。
「……さあ」
今胸の中にある気持ちを必死で否定しても、もう意味がないように思う。会うたびに、姿を見るたびに、膨れ上がった咲野先輩への好感が──これは尊敬や憧憬といった類いの感情だ、そう自分に言い聞かせている──頭と心のほとんどに居座ってしまっているからだ。
「先輩……そのうち玲人に告ってきたりして」
とたんに心臓が跳ねた。
「は? 何言ってんだ、お前」
これで何度目か。あたふたと慌てて声を出す。好之の最近の言動は、僕の心臓を萎縮させるのに充分な威力を持っている。
「だって可能性ゼロじゃないだろ。絶対何かあるよ、あれは」
「そ、そんな理由とはっ、限らないだろ」
「じゃあ、どんな理由だよ」
「……」
問い詰められて言葉に窮する僕に、親友はにまりと一瞬笑ったが、はっとしてこんな言葉をつぶやいた。
「早坂先輩に訊いてみよ」
「じょ、冗談だろ……」まさか、そんなおそろしいこと。
「って、それはまあ、冗談だけど」ははは、と笑う。
これほど深い安堵のため息を吐いたこと、あったっけ。勘弁してくれよ。
その後、借りていた本はいつものように二週間ほどで読み終わった。そして、もうすっかりお楽しみになってしまった最後のページをめくってみる。すると今回初めて、本当に意味のわからないことが書かれていた。
『YUNAGI Ⅵ』
「あ」
……これこそ、暗号だろうか。
9・理由
猛暑日が続く夏の間、凛と凪々は、友達の家へ遊びに行ったり連れてきたりして好きに過ごしている。宿題はスローペースだが一応ちゃんと取り組んでいるようなので、あまり口出しすることもなく楽だった。
三ヶ月ぶりに父親が戻ってきた。みゆきさんが電話で話をしてくれたのか、父は「好きにすればいい」と言った。叔母たちと暮らす件について異論はないらしい。それ以上何も言わない父に、僕も問いただすことはしなかった。数日後、また生活費を置いて出かけていったが、当面必要なものがあれば三人の生活は問題なかった。
叔母の新居への引越しは、九月下旬頃と聞いた。電話口で叔母が言う。雅史さんとは話をしたから、あとは玲人たちが望むときに来てほしい、と。僕はまだ引っ越すタイミングを決めあぐねていた。もしかするともっと先になるかもしれない、と伝えてみる。凛と凪々が小学校を、僕が高校を卒業する時がちょうどよいのかもしれない。僕の頭にはそんなイメージがあった。彼女はすぐにでも来て欲しいのに、とがっかりした様子を見せる。ありがたいけれど、今のところ生活は何とかなっているし、周りの大人も、経済事情や身辺監護上の問題をギリギリのラインとはいえ見過ごしてくれているので問題はない。
みゆきさんは、シェアハウスのほうは順調に進んでいることを話してくれた。写真や詳細情報を載せたウェブサイトを旦那が作ったらしく、住人募集もすでに連絡が入ってきているという。
「へえ、それはすごいね」
夫婦の連携も捗りいよいよ始動した計画。想像って形になっていくものなんだな、と感心してしまう。すると、
「あと、言いそびれてたけど、旦那の幼馴染みが一人同居人になるの。両親同士が付き合いが古くて、旦那とは歳の離れた兄弟みたいに仲がいい奴なの。旦那とそいつには、玲人のこと、春には来るって伝えちゃったんだけどねぇ」
新情報を交えながら、また残念そうに言った。奴とかそいつという呼び方が、その人との気の置けない関係を物語っている。
「へえ、そんな人がいるんだ」
「春から家族でヨーロッパへ越す予定だったのに、私が親戚を呼ぶって話をしたときかな。突然、自分はこっちに残り地元の大学へ通う、って言いだしてね。うちで暮らすことになったのよ」
「にぎやかになりそうだね、みゆきさんとこ」
「うん、まあね」
そこに行けば見知らぬ人たちと同居人になることは重々承知している。けれど、叔母夫婦がいるならさほど気にならないだろうと思えた。
夏の間、それきり彼女と話すことはなかった。引っ越すタイミングは、もう少し考えてからちゃんと伝えようと思う。それでも、新しい生活への期待感は胸の中で少しずつ膨らみ始めていた。
九月。
暑さを極めた夏休みの疲れを引きずったまま、日常がまわり始める。
そろそろ先輩に借りた本も返さなきゃならないな。いつもどおり電話をかけてみようか、そう考えながら時間だけが過ぎていた。
その日も残暑がきつい一日だった。
帰宅後、汗ばんだ身体をすっきりさせたくてシャワーを浴びる。暑さのせいで夕飯を作るのもかったるい。今日は作り置きのおかずだけでなんとかしよう。
窓の外にはこの季節の聞き慣れた音。盛夏に鳴くミンミン蝉がまだ騒がしい。冷蔵庫に入れてあるおかずの容器をたしかめ、グラスに飲み物を注ぐ。もうすぐ二人が戻ってくるな、と思いながら居間でのんびり麦茶を飲んだ。
そのとき、畳に転がっていた携帯が鳴った。
相手の名前は、
「あ……」
『咲野優一』だ。慌てて拾い上げる。
「高城、久しぶり」
電話に出ると、柔らかな低音が耳に届いた。優に一ヶ月は聞いていなかったその声。気のせいだろうか。電話口で少し遠のいて聞こえる。
「俺さ、一週間前から家族でイギリスに来てるんだけど、事情があってまだ日本に帰れないんだ。帰ったら俺のほうから電話するから。本の件は、それでいいかな?」
「え、イギリスですか」
二学期が始まっているというのに、先輩は外国の地にいると言う。まさかそんな場所から電話を受けるとは想像もしていなかった。
「あ、本は読み終わってるんで」
「そっか、よかった」
海の向こうで先輩が微笑んだ様子が伝わった。ちょうど電話をかけようかと迷っていた。海外からとは意外だったけれど、先輩の声が、またあのやりとりが始まることを告げてくれている。
「高城、元気か?」
「はい。僕は元気ですけど」
「そっか……」
先輩の声は静かだった。普通に、今浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「あの、イギリスって旅行とかですか?」
「いや、両親が近々こっちで住むことになってて、その関係で来てるんだ」
「え」 ──住む?
両親が住むということは、まさか先輩もイギリスに行ってしまうということだろうか。気にしていると先輩がさっと言葉を返す。
「まぁ、その辺についてはまた今度話すよ」
「はい」
「ところで、高城」
話を切り替えられ、はっとする。
「はい」
「あのさ……」
わずかな沈黙があった。
その声に、緊張のようなものが含まれていると感じるのは、僕が彼を意識し過ぎているせいだろうか。そう思いながらも、軽く唾を飲み込んだ。
「今度会うとき、少し時間もらえないかな」
「……時間?」
「ああ。実は話したいことがあって。あ、いや、ただ、ちょっと伝えたいことがあって……」
心なしか歯切れの悪い話し方が、今度は僕にはっきりとした緊張を与えた。左胸がかすかに鼓動を速めていく。
「何の……あ、次の本のことですか」
「いや、そんなことじゃなくて、もっと大事なことで……」
語尾を濁した、こんな言い方を先輩もすることがあるんだな。
大事なこと──。
何を期待しているのだろう。鼓動はさらに速まってしまった。
「とにかく、帰ったら電話するよ。待っていてくれるか」
「はい。もちろん」
「高城」
「はい」
「声、聞けてよかったよ。……じゃあな」
「はい。じゃあ……」
まもなく電話は切れた。
『話がある』
なんだろう。次の本を借りることより大事な話らしい。
『待っていてくれるか』
鼓膜に残る先輩の声を反芻した。
僕は気が抜けたように畳に座り、卓袱台に頬をくっつけて目を閉じた。さっき窓から忙しなく流れ込んでいた蝉の声がいつの間にか鳴り止んでいた。勝手に速まったこの鼓動だけがまだ鳴り止んでいなかった。ふと、最後のページのメモについて意味を訊きそびれてしまったと思ったけれど、そんなことはもうどうでもいいように思えた。
飲みかけの麦茶のグラスの中で、氷がカランと揺れた。
僕も、声が聞けてよかった……。
先輩が帰る日はいつだろう。
それから数日が過ぎても、待っていた電話は入らなかった。携帯を覗いてはそわそわしてしまう、そんな落ち着きのない毎日が続いたある放課後のこと。最近好之と連れ立って帰らない日が増えていて、今日も彼の姿が見えない。僕が先に帰ったと思ったのかもしれない。そっか今日は一人か、とぼんやり歩を進め、二年の下駄箱へ向かった。上手くいけばこの辺で好之が待っていて合流できることもあるだろう。彼の姿を探して周囲をウロウロしていると、別の列の下駄箱の物陰から誰かの話し声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声──好之と、早坂先輩だ。
ふと、いつかの好之の言葉が脳裏を掠めた。早坂先輩に訊いてみる──まさか、それはないだろうと思う。思うけれど、いつかの帰り道、駅前でばったり会ったあの日のように、二人は妙にこそこそと会話をしている気がする。声を、かけづらかった。 仕方なく様子を窺っていると、どうやら二人は僕の話をしているらしい。もっと言うなら僕と咲野先輩のことを。どうしよう、気持ちがざわざわする。よくないと思いつつ耳をそばたて聞いてしまう。
「……その、早坂先輩の意見として伺いたいんですけど」
「俺の?」
「はい」
「俺の意見を聞いてどうするんだ。お前、高城に話すだろ」
「いえ、話しませんよ。ただ、心配なんです」
「心配って、高城のことが?」
「はい。玲人って、こう……ちょっと繊細なとこがあって。もし咲野先輩に何か別の意図とかあるんなら、知っておきたいなって。さすがに本人には訊きづらいっていうか」
「別の意図って、お前。別じゃない意図って何だと思ってるんだ」
「それは、やっぱり、その……」
好之が気まずそうに言い淀む。そして軽くこほん、と咳をした。
「咲野先輩、玲人にだけ自分の本貸したりとか……あれって……どう見ても特別扱いですよね。でも、もしただの気まぐれとかだったら……玲人が、傷ついちゃうんじゃないかなって、思って……」
好之は、何を言っているんだろう。咲野先輩の意図──本当にそれを訊きだすというのか。親友が今ここで繰り広げている質問が、その行動が、まだ信じられなかった。ドキドキと無闇に鼓動が鳴る。
「だとしてもな、俺らが口出しする問題じゃないだろ」
「わかってますけど、やっぱ早坂先輩の考えだけ知っておきたくて」
「そっか。お前の気持ちはわかったよ」
早坂先輩は、妙に決まりが悪そうな声をしている。
これほどあからさまな話題を勝手に出され、僕は今何をすべきか、皆目見当がつかなかった。
「これは、俺からお前への意見だけどな、藍沢」
「はい」
「あれはな、ほら。んーと、兄貴心みたいな」
「兄貴……」
「そうそう。あいつは歳がずいぶん上の幼馴染みがいてさ。子供の頃から可愛がってもらってんだけど、どっちかっていうと、本来は自分が誰かの世話を焼きたい性分なんだよ。まあそれで、高城の家庭の事情とか知って、こいつは俺が助けてやらなきゃな、みたいな……? そういうことにしておこう」
──え。
鼓動が否応なく速まった。
今のはいったい……。
俺が助けてやらなきゃ……って……なに。
「え、そ、それって、……じゃあ、その気があるとかじゃなくて」
好之が釈然としない声で問うと、早坂先輩が慌てたふうに返す。
「そ、その気については俺からはなんともっ。ただ高城、両親いないも同然の家で血の繋がらない弟妹の世話をしているんだろ。そんなとこがちょっと不憫ていうか、気の毒っていうか、気になるんじゃないかな」
いつもの調子とは違い、妙に早口な先輩の口ぶりに、好之が不信そうな声で訊いた。
「あれ? 俺、血が繋がってないってとこまで話した覚えないんですけど、変だな」
僕も、そこまでは話していない。
「え? あ、そうだったか。なら誰かに聞いたんじゃないかな、はは」
先輩は明らかに何かを誤魔化している。
でも、そんなことはもうどうでもよかった。
今ここで話された言葉が、耳に入ったその言葉が、はっきりと僕の心を抉ったのだ。
不憫……助けてやりたい……。
哀れで、気の毒で、俺が関わってやらないとかわいそうってことか?
なんだよそれ。
咲野先輩にそんなふうにしか見られていなかったとしたら──。
いつの間にか強く拳を握り過ぎ、手のひらに食い込んだ指が痛かった。呼吸を整えようとしたけれど上手くできない。
先輩にとって、僕はその程度の存在だったのか。もう少しだけ近い存在にはなれなかったのか。
「まあ、俺の意見としてはそういうことにしておいてくれよ。なぁ藍沢、これ高城には絶対言うなよ」
「先輩、でも……」
ガタン……ッ!!
僕は無意識に、下駄箱を足で思いっ切り蹴飛ばしていた。身体が震えてしまっている。得体の知れない怒りにとりつかれた気分だった。
「えっ、れ、玲人……っ」
「高城……? おい、まじか」
──聞くんじゃなかった。こんなこと。
二人に顔を合わせることなく、そのまま玄関を飛び出し駆けた。
これほど力一杯走ったのは久しぶりだった。
電車に飛び乗り最寄り駅で降りると、家までまた駆けた。かなりの距離だったが一心不乱だった。ようやく自分の部屋に入ると、ベッドに身体を突っ伏して泣いた。
いったい何がどう心に作用したのか、本当のところは自分でもよくわからない。いつのまにか、咲野先輩に期待していたもの。家庭事情がどうだの、助けてやりたいだの、そんなことではなく、もっともっと単純で、まっすぐな。何でもできて、何をやってもスマートでかっこよくて、僕なんかには遠い人だとわかっている。だけどもう少しだけ彼のそばへ近づけたらと思っていた。そんなふうに思えたのは、咲野先輩が初めてだった。
涙がこんなにあふれたのは久しぶりだった。
彼を見かけるたび、胸に広がった感覚。話があると言われて、勝手にドキドキしてしまっていた。先輩からだけ……音楽が聴こえたんだ……なんでだろう。そんな疑問もすべて打ち砕かれてしまった。
悔し涙が止まらない。何に対する悔しさなのかもわからない。たしかめる気も起きない。もういいんだ。もう何も考えたくなかった。
10・止まった音楽
何週間も雨は降らず、毎日残暑の日照りが続いていた。駅へ向かうバスに乗り込もうとしたとき、海と反対側の山間からツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。夏が終わる……少しの物悲しさを感じながらバスに乗り込む。
今朝、凛たちを送り出したあと、先輩から借りていた本を机の引出しから取り出し、無造作に鞄に突っ込んだ。今まで大切に扱っていたその本を。いつもは好之と連れ立って登校するけれど、今朝は彼の家に寄らず一人でバスに乗り電車に揺られて学校へ来た。さすがに昨日の今日で、彼にいつもどおりの態度を取ることはできなそうだった。
咲野先輩からの電話はまだない。早坂先輩が話していたことが本当に咲野先輩の気持ちなのかどうか、あれから冷静になり少し考えてみたけれど、わからなかった。
本人に訊いてみる──そんな気持ちがないではなかった。でも、訊いてどうなる? もし、そうだ、と言われたら? もういいだろう、そんなこと。もともと僕には関わりのない人だったし、いつもの日常に戻る。ただそれだけのことだ。
三年生の下駄箱付近で待ち伏せをしていると、ほどなくして早坂先輩が姿を現した。僕が躊躇なくつかつかと歩み寄ると、先輩ははっと驚いたように顔を上げ、こっちを見た。先輩が口を開くより先に、僕は手だけまっすぐ伸ばし、本を差し出す。
「あの、これ、返します」
「え?」
瞠目した彼にかまわず告げる。
「咲野先輩に渡してください。それと、もう本は要らないんで、そう伝えてくれませんか?」
「高城……」
大きく目を見開いたまま、彼がゆっくりと本を受け取る。
「高城、あれは……」
「先輩が言ってたとおり、僕にはまともな親もいないし、血の繋がらない弟妹と暮らしてます。でもそれを……不憫だとか、他人なのに勝手に弟扱いされたりだとか、気分悪いです。もう僕にかまわないでもらえませんか? 咲野先輩に、そう伝えてください」
冷静にきちんと言えた。これでいい。
「……高城。あれは俺の意見で、別にサキがそう思ってるというわけじゃ……」
「もういいです。先輩は立派で何でもやれる人かもしれないですけど、僕は自分をかわいそうな人間だなんて思ってないんで……勝手に憐む対象なんかにされたくないんです」
「高城……」
「助けてくれたことは、感謝してます。それじゃあ……」
踵を返し、その場から駆け出した。
早坂先輩の顔も咲野先輩の顔ももう見たくなかった。見ないほうが、最初から近づけるなんて思わないほうが楽だったんだ。もう会えなくていい。人にこんなに関心を持ってしまった自分が愚かだった。実際のところよく理解できない本に毎回一生懸命目を通したり、ここまで入れ込んでしまった僕がバカだったんだ。人から聞いた生活事情など関係なしで、僕自身を見てくれていたらよかった。そしたら、どんなによかっただろう。
一日中、好之ともろくに口を聞かなかった。別に彼に対して怒りを覚えてはいない。むしろ逆だ。ずっと知りたかった理由──頑なに他人に本を渡さないはずの彼が、なぜ僕にだけあんな態度を取るのか。なぜあれほど関わってくるのか。先輩に切り込んでくれた好之のおかげでやっとわかったんだから。それでも、話すのは少し息苦しかった。
一人で帰路につき、ふらっといつかの楽器店へ向かった。大きな看板の入り口をくぐる。特に買いたいものがあったわけじゃない。このまままっすぐうちに帰るのはつまらなかったから。
両脇の壁にかかる弦楽器類で狭さを感じる入口通路を抜けると、ほぼ茶色い色彩しかないメインの売場に出る。あいかわらず、床と壁にはひしめきあうようにギターが設置されていた。ぼんやりと、ピックの入ったケースに手を入れ二、三手にしてみた。
店内にはまたレトロな洋楽が流れている。哀愁のある伸びやかなAメロ、これはなんだっけ。泣きそうなほど流麗なメロディーラインに乗せ、募る愛を歌っている曲。『Superstar』……カレン・カーペンターの深い歌声が、店内にしっとりと沁み渡る。
ああ、そうだ。先輩が助けてくれた日、彼はまさに僕のスーパースターだったな。
店を出てとぼとぼと電車に乗り、立ったまま揺られて最寄りの逗子駅に着いた。バスの乗り場に立っているとき、ふと見たら携帯に着信が入っていた。通知には『咲野優一』と表示されていた。
もう出ることはない。話すこともない。
借りていた本はちゃんと返したし、もう借りることもない。
先輩とは、もう何の関係もない。
元の関係に戻ったんだ。
思い切って、登録を削除した。
それから何度か、下駄箱の付近で遠慮がちに佇んでいる先輩の姿を見つけた。そのたび、僕は彼の前に姿を見せないよう注意した。好之には、もし訊かれたら僕は先に帰ったと伝えて、とお願いした。彼から伝え聞いたあと、まもなくして先輩はいなくなる。そうするうちに、待ち伏せされることもなくなっていった。普通に姿を見せて彼の話を聞いてみようか、もしかしたらもう一度……僕の胸にそんな甘い考えが瞬間的によぎることも、いつしかなくなっていった。
秋が過ぎた。いつの間にか長い冬が、繰り返す日々の前に冷たく分厚い壁を作り立ちはだかっていた。戻ってくるかどうかもわからない父がなけなしの親心で用意した生活用の口座。今日はそこから必要な時用のまとまった額を引き出す。毎年みるみる背が伸びていく凛と凪々のために、真冬に対応できるコートやセーターなど洋服の買い足しをするお金だ。
いそいそと三人で電車に乗った。今日は横浜方面へ向かうため、路線が切り替わる大船駅からいつもと反対方向へ電車が滑りだす。二人を席に座らせ、僕は立ったままガタガタと電車に揺られていた。 何気なく周囲を見渡した。すると、少し離れた車両の反対側にその姿を見つけた。おそらく同級生だろう。彼はまた数人で固まって、控えめな談笑をしていた。
久しぶりだな……。
厚めのシャツの上にカジュアルなコート。マフラーは適当な感じに巻きつけている。ずいぶん軽装だなと感じた。さらりとした長い前髪の奥に、いつも眺めていたあの瞳が覗いている。友人たちと何かをしゃべったあと、彼は窓のほうを向き外を見ていた。 僕は気づかれないように顔を背けた。さいわい停車駅で続々と人が乗り込んできて、すぐに彼と僕のいる場所は遮断される。
「お兄ちゃん、立ってて疲れない? 私替わろうか?」
「あ、それなら俺が替わるよ、玲人座って」
つり革を持ち向かい合って立つ僕に、弟たちが声をかけてくれる。優しい子たちだなと思う。なんでこんなに優しいのだろう。大丈夫だよ、と言うと二人はまた浮かせた腰を席に落ち着けた。
「お兄ちゃん、どうしたの? 具合悪い? やっぱり座る?」
凪々が心配そうな顔で僕の顔を見上げる。
「なんでもない。気にしないでちゃんと座ってなよ」
何ヶ月ぶりかに見た彼の姿が胸を圧迫した。
もう僕のことなど忘れているだろう。
あの声が僕の名を呼ぶことは二度とないのだろう。
春が来れば卒業してしまう人。学校だけでなくこうしてどこかで姿を見かけることすらなくなるかもしれない。気づくといつも気配を求めて探していた姿を、この目が映すことはもうないと思う。今年、それが咲野先輩を見た最後だった。
春が来て、高校最後の一年が始まる。
相変わらず笑ったりふざけたり、忙しくも平穏な日々が過ぎた。
三年生の年の暮れ、父から一通の手紙が届いた。そこには、新しい場所で生活を始めたことが書かれていた。それはもう戻ってこないという意思表示だった。叔母が学校や保護施設と話し合いをしてくれた。数週間にわたる相談の末、僕たち三人は、正式に未成年後見人となった叔母の元で世話を受けることとなった。みゆきさんに誘われていた新居での生活は、結局こんな成り行きで決まってしまった。
僕も、凛と凪々も、学年の残りはあと三ヶ月。引越しするタイミングが悪かったので手続きだけを滞りなく済ませ、実際の引越しは卒業する春に、と決められた。その間、みゆきさんが足繁く茅ヶ崎から葉山まで通ってくれたので、生活には困らなかった。もっとも、今更父が戻らない宣言をしたところで、生活はこれまでと何ひとつ変わらなかった。
親友と一緒に進路について真面目に悩んだり、話し合ったり、毎日はそれなりの忙しさの中にあった。凛と凪々は小学校最後の数ヶ月を溌剌と過ごし、すべてが滞りなく過ぎていった。ただ……。
高校二年、夏の終わり。あの時からなくなったものがある。
校舎のあちこちで見ていた姿。見かけるたび耳に届いた音。ただ一人の人から聴こえた唯一無二のあの音楽。あれはもう、どこにも存在していない。
こんなにも空虚な季節を、僕は知らなかった──。
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