目次
第二章 同 居 生 活 と 片 想 い
11・再会
うららかな陽射しを受け、薄桃色の花弁が揺れる。
この町で幾度となく見た景色ともしばらくお別れだ。
これから行く先には、何があるのだろう。
僕は上手く渡っていけるだろうか。
不安を吹き飛ばすように強い風が吹き、桜木を揺らした。はらはらと空から降り注ぐ花弁は、ここで聴く最後の音を流れるように奏でていた。僕の頭の中にしか存在しない音、小さなアルペジオを。
三月最後の週、ついに引越しの日がやってきた。
叔母が手配してくれた引越し業者により、荷造りと配送は昨日のうちに完了していたので、僕たちの荷物は多くなかった。大きめのショルダーバッグを一つ肩からかけ、高校に通ったのと同じ路線の電車に弟たちと乗り込む。電車の椅子に三人揃って腰掛け、レールと車輪の摩擦が生み出す振動に身を委ねる。半開きの窓から入り込む風が日向の匂いを運んでくる。
今年中学一年になる双子の凛と凪々。
父の手紙が届いて引越しが決まったとき、二人は動揺を見せなかった。むしろ新しい生活に意欲的だった。変わり映えのない日常からの変化。家族以外の人間がいて、大好きな動物もいる。好奇心の強い二人には、それらが刺激的に思えたのかもしれない。今か今かとこの時を待ち侘びていた。……ところで、これから一緒に生活する人たちってどんな感じだろうね。目的地が近づいてくるにつれ、僕たちはそんな話をした。
やがて電車が目的の駅のホームへと滑り込む。高校に通った駅の二つ先、茅ヶ崎駅だ。改札を出て階段を降りると、叔母とその旦那さんが一緒に車で迎えにきてくれていた。
「お久しぶりです、智彦さん。これからお世話になります」
「玲人くん、よく来たね。それと凛くんに凪々ちゃん、久しぶりだな! さ、車に乗って。今日からよろしくなぁ」
叔母の旦那さん、渚沢智彦。今年三十二歳になる彼は、春風のような笑顔で僕たちを歓迎した。気さくで柔らかい声色に緊張がほぐれる。僕は久々に会う叔母のみゆきさんと無言のまま笑顔を交わし、凛と凪々に挟まれながら後部座席へ乗り込んだ。智彦さんの運転で、五、六分ほど海方向へ進んでいく。
防風林が続く海沿いの国道。道に面した林の切れ目、周囲が広々と開けた一角に、その建物はあった。外壁は真っ白く、堂々とした二階建ての洋風の家。堅牢とまではいかないが、どっしりかまえた佇まいには安定感がある。青い空と藍色の海を背景に、その姿は一段と映えていた。隣には、同じスタイルで統一されたお洒落な雰囲気の店舗があった。
「さあ、どうぞ。部屋へ案内するよ」
「玲人、今日は他のみんな出かけてるから、ゆっくり色んな所を観察してみてね」
「あ、うん。ありがとう」
「君たちの荷物はちゃんと部屋に運んで入れているから」
「すいません、助かります」
「さ、入って!」
玄関扉は、西洋風の装飾が施された真っ白な両開き扉だ。正面には看板プレートがかかっていて『YUNAGI HOUSE』と書かれてある。夕凪……ハウス。このシェアハウスの名前だ。ただ、そのアルファベットの文字に見覚えがある気がして首をかしげた。
広い玄関は吹き抜けになっていた。「うわ……」と思わず声が漏れる。格子模様のタイルを敷き詰めた玄関スペースで靴を脱ぎ、家の中へ一歩を踏み入れた。話には聞いていたが、想像以上に明るくきれいな空間だ。これは学生たちに受けるんじゃないかな。リフォームしてから時間が経つのに、建築材のほのかな匂いが辺りに漂っていた。
外国映画を連想させる真っ白な壁。腰壁、手すり、窓枠、ドアはすべてマホガニー色の木材でできていて重厚感があった。廊下を進んでまず目に飛び込んだリビングには、明るい陽射しが注ぎ込み、高い天井には、大きな羽根のついたシャンデリアがかかっている。完全に白と茶色で統一されたインテリアは、シックで垢抜けた空間を演出していた。
「すげ……」
感嘆のため息を漏らしまくっている僕。それ以上に声を張り上げ、驚きを隠せないでいる双子たち。そんな僕たちを見てみゆきさんは、「どう、なかなか素敵でしょ」と片目をつぶる。
三人連れ立って智彦さんに家の中の案内をしてもらう。二階には各自の個室が並んでいた。扉には、小鳥、獅子の頭、蛙など、それぞれデザインが異なる真鍮製の取手が付いているという凝りようだ。そして扉の上方には、ローマ数字の番号プレートがあった。ドアを開けて部屋の中を見ると、腰壁が、木材ではなく薄紫色をした小花柄の壁紙だった。部屋には大きな腰高窓があり、採光は充分過ぎるほど取られている。天井から吊り下がったライトには繊細なカッティングが施された磨りガラスのシェードが付いていた。
僕たちは案内を受けながら、生活上の大まかなルールを聞いた。主には夕食時に関するものだったが、まだ他にもあるからあとでホームページもチェックしといてよ、と智彦さんが言い添える。
夕食は二手に分かれて行っているという。一つは、三人の大学生たちが好きな時間に利用できる小ぶりなダイニング。もう一つは、廊下を挟んで向かい側の、キッチン続きのダイニング。こちらでは、叔母夫婦と僕たち三人、そして智彦さんの友人を加えた六人で同じ時間に食卓につく。
白い壁面の明るさと重厚な木材の色。ランプの温かみある灯り。鈍い光を放つ真鍮の金属部品。このダイニングを始め建物内は、生活感や雑多感などがことごとく排除されていた。そしてどの部屋も空間にかなりのゆとりがあった。狭さと暗さとは無縁の家。同じ海沿いの家なのに、葉山の家とは大きな違いだ。このダイニングルームも天井が高いせいか広々としていて、六人が揃って食卓についても余裕を感じられることは想像に難くなかった。
「玲人どう、この家。気に入った?」
満足げな笑みを浮かべ、みゆきさんが訊いてきた。
「どうって……ここまできれいな家だって思わなかったよ。びっくりした」
「でしょ、だから言ったじゃない!」
彼女はここぞとばかりに弾んだ声で笑った。
ひととおり家の中を見学し終えた僕たちは、リビングルームに通され各々ソファーに腰掛ける。智彦さんが冷たい飲み物を皆の前に置いてくれた。彼は、さあ改めて、とぱんっと両手を合わせる。表情を引き締めはしたものの、すぐに崩して優しく言った。
「よし! とにかく皆気楽にやってくれよな。玲人くんに凛くんに凪々ちゃん。僕たちが運営する海沿いのシェアハウスへようこそ! 仲良くやろう」
海沿いのシェアハウス。『YUNAGI HOUSE』。
さっき見た看板の文字が頭をかすめた。
今日初めて名前を知ったのに、その響きには聞き覚えがある。いや聞き覚えではなく、その綴りに見覚えがあったのだ。はっとして顔を上げた。
「あの、智彦さん。さっき二階の部屋の扉にローマ数字みたいなの付いてたけど、あれ部屋番号ですよね」
「ん、ああ、そうだよ。IからⅩまであるんだ。玲人くんたちの部屋はⅢからⅤ号室。Ⅵ号室が僕の友人の学生の部屋で、あとは全部近くの大学に通う学生たちだよ。元々ここは食事と部屋を提供している宿だったから、その名残りなんだ」
そうか、あの暗号。いつかの本の最後のページに書かれていた意味不明だったあの文字、『YUNAGI Ⅵ』。あれが意味していたものは、つまり……。
とたんに全身を電流のような衝撃が駆け巡り、僕はすっとソファーから立ち上がった。額にじんわり汗が滲むのを感じる。皆が吃驚して僕を見た。
「と、突然どうしたの、玲人?」
よほど変な顔をしていたのか、みゆきさんが慌てた様子で言った。
「智彦さんの友人の学生って……Ⅵ号室なんだっけ」
「うん、そうよ。今ちょっと出てるけど、もうすぐ戻ってくると思う」
声が震えた。
「なま……え……何ていうの」
「名前? 咲野よ。智くんの歳下の幼馴染みで、咲野優一っていうの」
──!
夕凪ハウスのⅥ号室。今、完全に暗号が解けてしまった。もう疑いようがない。ここに咲野先輩が住んでいるんだ。よりによって、ここに、あの人が。つまり彼は僕の同居人──
こんなことって……あるのだろうか。
「そういえば、優一とは同じ高校だったんだよね。あいつ玲人と知り合いだとか何も言わなかったけど」
「あのっ、本当に……ここに住んでるの?」
無駄とわかっているのに、悪足掻きのように訊いてしまう。
「もちろん、去年の春から。両親が海外に行って彼だけ大学に通うためにここで暮らしてるのよ。前にも伝えなかったかしら?」
「まじ……か」
額にどんどん汗が滲んでいく。言葉をなくし突っ立っている僕に凪々が声をかける。
「お兄ちゃんどうしたの、知ってる人なの?」
そのとき、玄関のほうからガチャリと扉が開く音がした。長い廊下を歩いてくる足音が聞こえる。
「あ、ちょうど戻ってきたみたいよ。ゆういちーっ、皆来てるわよ」
みゆきさんが足音の主に声をかけた。そして智彦さんが、リビングに顔を出した人を紹介する。
「ああほら、こいつが僕の古い友人、ていうか幼馴染みでね。Ⅵ号室の、咲野優一って言うんだ」
凛と凪々は、即座に立ち上がり頭を下げた。
「あ、高城凛って言います。よろしく」
「凪々です。よろしくお願いします」
凛はいつになくしおらしく名乗り、凪々もつられるように挨拶をした。
「凛くんと凪々ちゃん、もう来てたんだな。こちらこそよろしく。俺のことは優一でいいから」
ゆるりと二人に微笑みかけた人物は紛れもなく咲野先輩、その人だった。……変わっていない、何ひとつ。すらりとした長身、はっとする端正な顔。少し色素の薄い髪と同じ色の瞳。一際目を引くその姿を、幾度目で追ったか知れない。明るく洒落た外国風の部屋に、彼の存在はオーナー夫婦よりも馴染んでいる。
彼はちらりとこちらを向き、僕に視線を止めた。驚きと懐かしさで凝視している僕に破顔して声をかけた。
「久しぶり、高城」
「お久し、ぶりです。……先輩」
高校時代、彼に抱いていた憧れのような感情、そして淡い胸の痛みがよみがえる。
名前を呼ばれるのは最後に受けた電話以来だ。帰国したら俺から連絡するから、と言われた。そして今度会うとき話があるとも言われた。ああ、そうだった。……あれは何だったのだろう。あれからかかってきた電話を幾度も無視し、待ち伏せも無視し、意図的に連絡を絶ったのは僕だ。当然ながら、二人で会って話をする機会などその後一度も訪れはしなかった。
「なに、二人が顔見知りだったとは知らなかったわ。なんで隠していたの、優一」
みゆきさんが何気なく尋ねると、
「別に隠していたわけじゃ……」と曖昧に咲野先輩は答えた。
そうしていると、突然、緊張感の抜けた甘い声が会話に割り込んできた。んにゃーっ、と鳴く声。はっとその方向を見る。僕の足元でくねくねと体を捩らせて顔をこすりつけている毛むくじゃらの生き物。白と灰の虎模様を持っている。もしかして、これが──
「あーーっ」
大声を出し、待ってましたとばかりに双子が駆け寄ってくる。凛の手がさっとそれを抱き抱えた。ペットと縁のない生活だったわりには妙に慣れた手つきで。んんーーぐるるる……。なかなかいい体格をしている毛むくじゃらは喉を鳴らしているらしく、リズミカルな音が辺りに響き始めた。凛と凪々が浮かれながら交互に、その毛並みを忙しく撫でつける。みゆきさんが言った。
「モンも喜んでいるわ。この子人間が大好きですごく人懐っこいの。仲良くしてやってね、三人とも」
「うんっ! もちろん」
「おーうっ! モン、モン、よろしくな」
こんなに興奮して楽しそうな二人を見るのは最近ではそうなかったような気がする。つられて思わず顔が綻んでしまった。モンと呼ばれる同居猫は、クリクリの丸い目を周囲の人物へと動かしては盛大に喉を鳴らし、大きな髭袋を自慢げに膨らませ、立派な体格にも似合わず、蕩けるような甘えん坊ぶりを見せつけている。
「二人が気に入ったようだな」
咲野先輩がその様子を見てつぶやくと、みゆきさんが和やかな顔を僕に向けて言った。
「あのね、モンの本当の名前はね……」
僕が続けた。
「ピグモン」
えっ、と驚いた顔が二つ。みゆきさんと咲野先輩が僕を見た。
「なんでわかったの? 教えてないのに」
……教えてくれなかった。そうなんだ。もし教えてくれていたらもっと早くこの事実に気づいたかもしれないのに。今さらながら、やっと明確に理解してしまった。今まで思い当たらなかった僕が間抜けだったんだ。
「覚えてたのか」
くすりと小さく音を立てた咲野先輩の、その笑い方を見るのも久しぶりだった。
「こんなに大きくなってるなんて、びっくりしました」
「立派な体格してるだろ、あんとき鳴いてた子猫がさ。驚きだよな」
ラフに腕を組み、双子にかまわれている猫へ視線をやりながら、彼は目を細めた。
「……あのときは、助かりました」
僕が言うと、急にくくっと咲野先輩が喉を鳴らす。
「……?」
「変わってないな、高城。その生真面目な感じ」
いつかと同じだ。面白そうに喉に笑いを溜めたまま彼が僕を見る。
「……待ってたよ。お前のこと」
そう言って、彼は笑顔とも困惑とも取れるような複雑な表情を作った。
僕がここに来ることを先輩は知っていたんだ。ずっと前から。多分あの文字をページに書きつけた日から。同居人になるのだから、当然その意味も伝わると思ったんだろうか。あれは『ここにいる、待っている』という意味だったんだろうか。
複雑な表情に見えたそれは、でも気のせいだったようで、彼はありきたりな言葉を僕にかけた。
「これから、よろしくな」
「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
どれだけ当惑していようが時間は勝手に動き出す。
もう会うことなどないと思っていた人。本当にもう会えないと思っていた。会いたくないとも思っていた。それなのに突然こんな形で再会して、彼は今日から僕の同居人だという。満を持して新しい土地にやって来たら、とんでもないビックリ箱を開けてしまった気分だ。
その夜、みゆきさんと二人になったとき、僕は彼女にここ数年、いや彼女との仲で初めてかもしれない勢いで不平をぶつけてしまった。
「みゆきさん、ひどいよ、どうしてちゃんと話してくれなかったんだよ。ここの名前とか、猫の本名とかさ、それに……」
「え?」
彼女は僕が何を言い出したのかと不思議そうな目でこっちを見る。
「……咲野、先輩がいることとか。智彦さんの友人の名前ちゃんと言ってくれなかったじゃん」
「玲人……」
そんなこと言われてもって顔だ。
「だってね、優一ったら、私散々ここに来る甥っ子たちのこと話してきたのに、個人的に知り合ってるなんて一言も話してくれなかったのよ。玲人からだって聞いたことなかったし。なぁに、玲人ひょっとして優一とは……いい関係の知り合いじゃなかった?」
え……。
「いや、そういうわけじゃ、ないけど……」
「そう? 困ってるわけではないの?」
先輩がここにいることを事前に知っていたなら、僕はどうしただろう。ここへ来ることを躊躇ったり、もっと先延ばししたりしただろうか。
「うん。別に、困ってるってほどじゃ」
「うーん。まあ、先輩後輩って少しはやりづらいかもしれないけどね。高校で何があったか知らないけど、同居人としてはいい奴だと思うわよ。あいつ、ああ見えて歳下可愛がるの得意だし。凛と凪々だって早速懐いちゃってるし」
たしかに、猫の存在をきっかけに彼らがあっという間に馴染んでしまったのには驚いた。さすが高校時代、人気者だっただけはある。二人は早速彼のことを「優一さん」と名前で呼んでいるし。自分には到底できない芸当だ。
ふふふ、とみゆきさんは優しく笑って「玲人、あまり考え過ぎないで」と小さく言った。
なんとなく軽くあしらわれた感がある。けれどもう、それ以上彼女を問い詰めるのは諦めた。解決策があるわけではない。そもそもこの状況がそれほど嫌なものなのかと問われると、それは……よくわからない。
充てがわれた自分の部屋に入り、ベッドに突っ伏して息を吐いた。長い一日に思えた。ここに来るまでは色々なことを考えていたはずなのに、咲野先輩の存在ですべて吹き飛んでしまった。明日からどうするんだろう。
目をつぶり、ゆっくりと自分に語りかけてみる。咲野先輩が同じ家にいる。朝起きたら同じ家に先輩がいて、これから毎日毎日顔を合わすことになるんだな。あの顔、あの声、いつも聴こえたあの小さな旋律。……あれはまた、あの人から聴こえるのだろうか。
じわじわと確実に何かが心に広がっていく。胸の奥にしまわれていた、もうとっくに無くなったと思いこんでいたもの。消えてなどいなかった。それは今、ふつふつと湧き上がり懐かしい感覚を連れて戻ってきた。
困ってなどいない。
咲野先輩と同じ家で住めるなんて、そんなこと──
「……夢みたいだ」
気持ちが言葉になってこぼれた。
12・口実
朝日が窓から差し込むのを感じて目が覚めた。
自分だけのベッドで静かに身体を休められたなんて久しぶりだ。新生活への期待におのずと胸が膨らむ朝。とうとう始まったんだな、ここでの生活が。昨夜、凛と凪々はちゃんと眠れただろうか。
四月から僕は、東京の栄養専門学校の栄養士科へ通うことが決まっている。最初は調理師免許を取ることを考え調理師科を調べていたら、いっそ栄養士の資格を取れば、と叔母に勧められ決めた進路だった。
平日昼間はカリキュラムどおり日程をこなし、夕方には帰宅する。みゆきさんには、その時間でもよければ少しは夕飯作りを手伝えると言ってある。日曜日の午前は隣接するカフェの手伝いもする。こちらは短時間ながらバイトとして扱ってもらえることになっている。
今日はまだ三月の終わりなので、予定が何もない一日を迎えた。のんびりと着替えをして、一番広いメインダイニングへと降りていく。レースのカーテンがかかる出窓から、清々しい朝の光が差しこんでいた。
「おはよう、朝食作ってあるから好きなときに食べて」
みゆきさんが用意してくれた食事がテーブルにきれいに置かれていた。誰かに朝食を用意してもらえるなんて新鮮だ。凛と凪々は早起きしてすでに食事を済ませているらしく、広いリビングで猫を触ったり、携帯を弄ったりしてくつろいでいた。二人ともどうやら問題なくここでの生活をスタートさせたようだ。
食事を始めると、ダイニングに咲野先輩が入ってきた。ラフな綿シャツとジーンズ姿。欠伸をして、寝癖? までついている。こんな姿は初めてで、どきっとしてしまった。今まさに寝起きということだ。彼は僕の目の前の椅子を引き、腰掛けた。
「おはよ、高城。眠れたか」
「あ、先輩。おはようございます。おかげさまで」
「それはよかった」
昨日ここへ来たときには、もう誰がどの席に座るかまできちんと決められていた。僕は彼と向かい合わせの席だ。僕の隣には凪々とみゆきさん。咲野先輩の隣には凛と智彦さんが並んで座る。
なんとなく落ち着かなくて、用意されたトーストとサラダと紅茶を適当に喉に流し込み、そそくさと席を立つ。皿を流しに運んでささっと洗い食器立てに入れた。すると、広々としたシステムキッチンに先輩もやって来て、なにやら黙々と作業を始めた。なんとなく気になり、ちらっとそこへ注意を向けてみる。
「珈琲淹れるけど、飲むか?」
「え、珈琲ですか」
手にした透明なキャニスターに、艶のよい焦茶色の豆がたくさん入っていた。
「自分で買った豆挽いて飲んでんだ。高城は珈琲好き?」
「あ、えっと……はい。ミルク入りなら」
「今淹れるから、かけてろよ」
彼は、棚から小さなハンドルのついた機械を取り出し、ガリガリと豆を挽き出した。
……珈琲が好きなんだ。
挽き終わった豆をフィルターに手慣れた動作で入れ、隣で沸かしていたポットを取り、円を描くように回しながら点て始めた。寝起きの気の抜けた格好なのに、この行き届いた繊細な手つき。彼の器用さを物語っているようだ。ふわりと香ばしい匂いが辺りに広がり、またたく間に部屋中に立ち込めた。
「……先輩、じゃなくていいから」
ふと彼が言った。
「え」
「俺のこと先輩じゃなくていいから。普通に呼べよ」
ちらりと僕を見ると、口角がゆるやかに上がった。
「あ、はい」
テーブルで向かい合ってそれを飲む。
彼が淹れてくれた珈琲の味は、すっきりとして──雑味がないっていうんだろうか、これまであまり味わったことのないものだった。といっても、珈琲通でもない自分には比較対象は少ないが。きっと多分、ものすごくいい味なんだろう。
「美味いか?」
「はい、すごく」
嘘ではないけれど、飲み慣れない珈琲は、口に運ぶたび苦みが強く感じられる。先輩が気にしているようだったので、なんとか口の端を引っ張り上げてみた。それを見て満足したのかどうなのか、顔を綻ばせた咲野先輩は、僕に視線を送ったままカップからコーヒーを啜る。カチコチと時計の音がしてふと気になり時刻を見ると、まだ朝の九時にもなっていない。
伝えなければいけない。ちゃんと謝らなければならないと思った。あのときのことを。
「あの、先輩……っじゃなくて、咲野さん」
「優一でいいよ」
「あ、でも」
「なに?」
「すみませんでした。以前は、あの、失礼なことしちゃって」
「失礼?」
「借りた本のことです。えっと、お礼も言わず早坂先輩伝てに突っ返しちゃったし、電話にも出なかったり」
「…………」
今までどう思っていたんだろう、彼は。
理由はどうあれ親切にしてもらったのに、真意を確かめることもせず一方的に連絡を絶ってしまった。先輩の気持ちを深く考えることもなかった。突然連絡を断ち切られて、怒っていたり僕を嫌っていたりしても変じゃない。そんなふうに思ったこと、あっただろうか。
「あれは、俺が悪いんだ。謝るのは俺のほうだよ。ごめんな、高城」
「え」
カップに手をかけたまま、うつむき加減になった先輩が静かに言った。
「一方的に押しつけてしまってたし。勝手に探りを入れたりして、怒って当然だよ。俺が悪かった」
「いえ、そんな」
「お前人がいいからぎりぎりまで辛抱したんだろ、困らせるつもりはなかったんだ。……許してくれるか?」
謝るつもりが、逆に許しを乞われてしまう。先輩は、僕にしつこくしてしまったと、そんなふうに考えているようだった。
「許すとか……そんな。僕は怒ってないんで」
九時を知らせる歌を、機械仕掛けの鳩が飛び出してきて歌い始めた。時報とともに繰り出されるアニーローリーのメロディーが、朝の光に溶けていく。
リビングから凛と凪々が入ってきた。智彦さんもダイニングの席に着いた。僕と先輩が向かい合うテーブルの一角は、急にわいわいとした空気に飲み込まれてしまった。
咲野先輩が立ち上がり、去り際に僕の頭にぽんっと手を載せた。そして、心ばかり顔を近づけて言った。
「玲人が来てくれたから、それでいいよ。俺は」
どきり、と胸が鳴った。
先輩はこともなく去っていく。
「あ、お兄ちゃん珈琲飲んでるの? いいな、私も欲しいな」
「お前はまだ早いだろ、凪々」
「なによ、凛ーっ。あんただってまだ飲めないくせに」
二人の会話を聞きながら、重厚感のある木目のテーブルにゆっくりと頭を落とした。こつん、と額が冷たいマホガニーの肌に当たる。
今、『玲人』って言った。
短いけれど、低く優しい声だった。ただ下の名前を呼ばれただけだ。なのに、なんだろう。どこか懐かしい、くすぐったい感覚が一気に胸を駆け巡った。
シェアハウスとカフェの目の前には海が広がっている。
夏になれば尋常でない賑わいを見せるはずの海岸も、今の季節は人もまばらだ。僕は今日初めて、前の道を辿り砂浜まで降りてみた。空が広い。ほどよく遠い波打ち際までの距離。沖のほうに烏帽子岩が見える。……この風景、どこか既視感がある。ああ、たぶんここからそう遠くない場所だったんだ、だからか。
うっすらと日暮れていく空にたくさんの星が輝いていたあの日。僕と母は叔母に誘われ、彼女の恋人智彦さんの姉夫婦、その結婚式の二次会で出し物をすることになっていた。当日は気取らない雰囲気のなか、砂浜のステージで、三線の音色に合わせて沖縄の歌を歌った。何度も練習を重ねた歌をようやく人前で披露した夕暮れのひととき。そよぐ夕風。ひたすら胸が躍り楽しかったっけ。
砂山が盛り上がっている箇所に腰掛け、何気なく水平線を眺めていたら、後ろから凛と凪々が近づいてくるのがわかった。彼らは一目散に波打ち際まで駆けていき、声を立ててはしゃぎ始める。気づくと、みゆきさんたちも散歩に出てきたようだ。彼女は無邪気な双子たちを眺め、智彦さんと会話しながら笑っている。智彦さんが僕に声をかけた。
「いい所だろ、玲人くん」
「はい。海岸まですごく近いんですね、ここ」
「そうなんだよ。ほぼ目の前って感じだろ。そこの歩道をさ、毎日散歩してるんだよ」
砂浜の脇に続く長い遊歩道。思い思い散歩やジョギングコースにして楽しむ地元の人の姿がある。
水平線の左前方に見えるのは江ノ島。さらに向こう側に見えるのは、僕が住んでいた町だ。あちらの海岸からいつも眺めていた景色の中に今いるんだな……。叔母夫婦とはずっとこの海で繋がっていた。そして咲野先輩も、実家が隣の藤沢市だとすると、こちら側から同じ海を見ていたんだろうか。
そんなことを思っていると、今度は当の本人がやって来て、僕の隣へゆっくりと腰を下ろした。智彦さんとみゆきさんは入れ替わるように双子のほうへ歩いていく。
「仲がいいよな、あの子ら」
凛と凪々を眺めて言う。
「あ、はい。いつもあんな感じなんです」
「双子はめちゃくちゃ元気だって聞いてたけど、ほんと絶え間なくしゃべってんな」
楽しそうに笑いながら二人を見るので、ついつられて笑ってしまった。今なら、なんとなく気になっていることを訊いてもいいだろうか。
「先輩、僕がここに来ること知ってたんですよね」
「ん、ああ」
「僕に本を貸してくれたとき、智彦さんの親戚だって知ってたんですか?」
「………」
珍しく彼は黙った。
そして「知ってたら、変か?」と訊いてくる。
「色々わからないことがあって。藍沢から聞いたって言ってたのに、本当はここの二人から聞いて僕のこと知ってたってことですよね? それに……」
「まあいいじゃないか、そんなこと。どのタイミングで知ったとか、その辺は曖昧なとこもあるし。ただ、玲人が双子を可愛がってることはよく知ってたよ」
ごまかされたような、納得できたような、変な感じだ。でもたしかにどうでもいいのかもしれない。ただ、先輩は僕の家庭の事情を勝手にわかった気になり、同情から親切を押しつけてきたわけじゃないと思う。変わった生徒の話として聞く前に、叔母たちから親しい存在の話として聞いて知っていた。僕が思っていた以上に、彼は僕のことをよく知っていたんだ。
「名前で呼んでいいか? 玲人って」
すでに呼ばれていたと思うけど、改まって訊かれた。
「はい、それは」
そのとき、すっと手が伸びてきて、指先が僕の髪にわずかに触れた。一瞬どきりとしたけれど、何事もなかったように手は元の場所に戻っていった。
「あのさ、俺。智彦とみゆきがいつも言う玲人のイメージが……あんまり好きじゃないんだよ。レッテル貼られてるみたいっていうか」
「え」
指が残したかすかな温度に囚われていた注意が引き戻される。それはいったいどういう意味で……そう言いかけたとき、先輩が言葉を続けた。
「玲人は理想のお兄ちゃんだとか、頑張り屋だとか、双子にとって親以上の存在だとか……」
遠くにある何かを見るような、そんな目で彼が僕を見る。
「それはそうなんだろうけどさ。でもそれって型の押しつけだろって思って。本当は、お前はもっと自由なんだって気づかせたくて、それで読ませたんだよ」
「貸してくれた本?」
「ああ。だけどわかんないよな、そんな遠回しにメッセージ渡されても。少なくとも俺ならわかんないかな」
自分で言っておいて、ははっと自嘲の笑みをこぼす。
あの頃、咲野先輩がそんなことを考えていたなんて、これっぽっちも知らなかった。そこまで気にしてくれていたなんて。思いもしなかったことを言われて、正直不思議な感じがした。
「……なんて」
ふっと笑いながら、彼は立ち上がった。
「これも口実だけどな」
ぽつりとそんな言葉を置いて、彼は凛たちがいる波打ち際へと歩いていった。後ろ姿をぽかんと眺める。
口実……って言った。何の口実? 僕に本を貸すための?
一瞬、頭の中を色んな思いが巡ったが、彼の真意はわからない。でもやはり先輩は、僕が考えているよりずっと色んなことに気を回してくれていたようだ。そのことはよくわかる。彼は僕自身をちゃんと見てくれていた。それは紛れもなく、せめてそうであってくれたら、とあの頃望んでいたものだった。カッとなって極端な行動をとってしまった自分の浅はかさに、今さらながらため息が出た。
波打ち際で波と遊ぶ双子に交ざり、先輩が笑っている。それを見ながら、くすり、と思わず笑みがこぼれたとき、あの音がした。ゆらめく波のような小さな音色で。
穏やかな気持ち、温かな気持ち。
ざわめく心の水面が凪いだ、そんなとき。
この音は、僕のそんな感情と共にあるような気がする。
何気なく彼の指が触れたところを触ってみると、さっきした懐かしい感覚が胸に広がった。波の音が皆の笑い声を包んでいる。春の海は穏やかに、鮮やかに、僕の新たな生活の場を彩っていた。この小さな旋律と共に。
13・真夜中の謎
朝リビングに下りると、床に散乱したガラスの破片を眺め、みゆきさんが困惑した表情で立っていた。隣には凛と咲野先輩もいた。
「あれ、どうしたの?」
僕の言葉に、彼女は苦い顔を向けて返した。
「戸棚の上に置いてあった花瓶、花は挿してなかったんだけどね、今朝見たら割れてるのよ。泥棒かしら……」
「え」
戸棚というのは、ドアのすぐ隣に置いてある人の胸の高さほどのキャビネットのこと。その上には、シンプルな陶器製の白い時計と、薄緑色の花瓶が飾られていた。どうやら床に散乱している破片はその花瓶のものらしい。
みゆきさんの言葉を受けて、僕の脳裏にはすぐさまある映像が浮かんだ。
「あの、それひょっとして、モンの仕業とか? 猫がいる家は花瓶とか置かないもんだって聞いたことあるけど」
猫が尻尾を心持ち左右に振ったのち、ひょいと棚の上へ飛び上がる光景を頭に浮かべながら言ってみたが……
「違うのよ玲人。モンはね、この高い戸棚に上がることが出来ないの。あの子体重が増えてからテーブルはおろかソファーにすらまったく上がれなくなってね……」
僕の意見はすぐに却下された。
「そうなんだ……」
あれこれ話している間に、智彦さんが箒と塵取りを持ってやって来て、黙々と花瓶の破片を片づけ始めた。
咲野先輩は腕を組み、犯人の心当たりを思案しているようだ。なぜか凛が、僕のほうを物言いだけな表情でじっと見ている。
「泥棒なんて、入ってこられる場所あるの?」
みゆきさんに訊く。
「まさか。戸締りはちゃんとしてるつもりよ。誰かが侵入した形跡なんてどこにもないから。だから変なのよ。私が夜中の一時だったかな、お水飲みに入ってきたらそのときは何もなかったから、それから朝の間に起きたことだけはわかるの。地震だってなかったし。……何があったのかしら」
彼女は眉間に皺を寄せ、ただ床を見つめている。
「今朝ここの住人全員には智彦が訊いて回ったんだよ。皆知らないってさ。どっかに原因はあるはずなんだけどな」
咲野先輩が説明を加えてくれた。彼も訝しげな表情をしている。二人して相当悩んでいるようだ。
たしかに不思議だと思う。仮にここに住む誰かだとしても、片づけぐらいはするんじゃないだろうか。花瓶は取り立てて高価な物でもないし、隠すほどのことでもないから名乗り出ないなんて逆に不自然だ。
「あの……」
そのとき、凛がゆっくりと僕たちのほうに歩み寄って口を開いた。
「俺、これ誰がやったか、知っているかもしんない」
「えっ?!」
一斉に皆の視線を浴びる凛。
「どういうこと?」
みゆきさんが凛に説明を促す。
僕も咲野先輩も固唾を飲んで彼に注目した。
「ただ、ここでは言いづらいっていうか……いや、どうかな。いいのかな言っても」
「凛?」
「えっとさ、もう言っちゃうけど。ここの花瓶割れたの、犯人は玲人兄ちゃんだと思う」
「はああぁぁ……?」
完全に意表を突かれた答えに、喉から思い切り頓狂な声が出た。なんで僕が──?
凛の一言で、みゆきさんも咲野先輩も、片づけをしていた智彦さんも、皆が一斉に僕のほうを向きびっくり顔だ。
「どういうことなんだ? 凛」
咲野先輩の問いに、バツが悪そうに、でもすぐさま開き直った様子で凛は答えた。
「玲人兄ちゃん、さ。前に夜中ふらふら歩いてるの見たことあるんだよね、俺。凪々も一緒に見たから知ってるけど。あのあと、朝訊いても知らないって言ってたし」
「……僕が?」
弟から聞いた自分の様子には驚きしかない。いったいいつのことを言っているんだ。だけど、考えているうちにぼんやりと思い当たる節があった。ある日二人に「昨夜何してたの?」と、身に覚えのない質問をされたことがあったような……。
「それにさ、この際言っちゃうけど、玲人って変なこと言うときあって。ほら、いつかみゆきさんに何とか湖にドライブで連れてってもらったとき。あそこすんごい静かな場所だったのにさ、 玲人だけ、なんかずっと音楽が聴こえてたな……とか言っててさ」
ああ、それは。あのときは思わず感想を声に出してしまっていたんだ。でも、それとこれとは……。
「玲人って、ひょっとして……なんか不思議な力とかある人なんじゃないかって、凪々と話したことあるんだ、実は」
やや神妙な口調になって凛が言う。みゆきさんは、すべてに意表を突かれた様子だったが、やけに表情が真剣だった。「凛、それ本当?」なんてまともに返している。不思議な力とかそんな子供じみた感想を真に受けたのだろうか。まいったな、と思い、反論しようと口を開いたそのとき、「ちょっと待てよ」と先輩が口を挟んだ。
「今の話だと、夜中に歩いてたのと音楽がどうのってのは、別のものだろ。とりあえず、そこを一緒にするのは違うと思うんだよな」
「でも……」
「凛の話が本当なら、玲人が夜中に歩いてたってのは、いわゆる夢遊病ってやつかもな。小さい男の子に出るとかいう」
「夢遊病……」
僕も加えて皆が同時につぶやいた。
「景色を見てたのに音楽が聴こえたってのは、なんだろな……ひょっとしたらだけどさ、共感覚とかいう可能性もある。同時に二つの感覚が起こるってやつ。つまり、この二つはまったくの別物だし、どっちも不思議な力とは関係のない話だ」
自分で弁明するべきだった内容を、咲野先輩が理路整然と説明してくれたので思わず他人事のように感心をしてしまった。
「玲人、どうなの? あなた本当に夜中に無意識で歩いたりしたことあるの?」
当然ながらみゆきさんは心配顔だ。
「あの、えっと……うん。よくわからないんだけど……凛たちに何してたのって訊かれたことはある、かな」
「あ、そっか。記憶はないのよね。ねぇ、それって病院とか行ったほうが……」
彼女が言いかけたとき、右手を誰かに引っ張られた。振り向くと、先輩が僕の腕を掴み、なにやら不機嫌そうな表情をみゆきさんへと向けていた。
「待ってくれよ、みゆき。その前に……玲人、ちょっと俺の部屋に来てくれ」
「えっ」
驚く僕をよそに、その手は強く腕を捉えたままぐいと強い力で引っ張っていく。階段を上り、あっという間に咲野先輩の部屋に着いた。入るなり、彼はバタンっと後ろ手にドアを閉めて、僕をデスク前の自分の椅子に座らせる。
初めて入る先輩の部屋は、うっすらと書店で感じる紙の匂いがした。先輩はデスクに寄りかかって腕を組み、訝しげな顔で僕を見据える。
「あの……っ」
「手の甲」
「え?」
言われてふと見ると、僕の手の甲に鋭利な物で切り付けたような小さな赤い傷痕がある。昨夜眠る前にはなかったものだ。これは……。もう疑いようがなかった。これ、花瓶を割ったのが自分だという証拠以外の何物でもないよな。
「あのさ、玲人。昨夜どんな夢見てたか覚えてるか?」
「夢? えっと……うん。たぶん」
「覚えてんのか?」
彼は軽く驚いた表情を見せる。どんな夢と訊かれ、僕は記憶を辿ってみた。
「なんか、探し物してて。えっと……前住んでた家だったんだけど、携帯がなくてリビングとかキッチンとかを探してたんだ……台の上に置いてある物を退かしたりして……あ、そういえば花瓶とかも……」
「そっか」
咲野先輩は沈黙しうつむいてしまう。僕の言葉から何かをひねり出そうと考えているみたいだ。
「さっき俺、夢遊病とか言ったけどさ、ひょっとしたら違うかもなそれ」
「え、そうなの?」
「レム睡眠何とか障害……みたいなやつかも。夢で見たとおりの行動をしてしまうっていう。どちらにしても、原因はたぶん心因性のものだと思うんだよな。引越しのストレスとか、もっと心ん中に抱え込んでる別の何かか……」
神妙な面持ちで先輩は床に視線を落としたまま言った。ストレスと言われても、ここに来てから快適さばかり感じている僕にはピンとくるものがない。ただ、心の中に──という言葉が、わずかに気持ちをざわつかせた。先輩は顔を上げて心配気に僕の目を覗き込む。ぞわぞわと身体をなぞる痺れのような感覚がしてくる。思わず自分の腕を摩ってしまう。すると、じっと僕を見ていた先輩が、なにやら深いため息を吐き肩を落とした。どこか呆れたふうな言い方だった。
「お前さ。色々溜め込んでんだよ、きっと」
「え」
溜め込んでいる?
「自分では気づいてないんだろな」
と言われても、何と答えればよいのかわからない。
「みゆきに任せてたらさ、こういう展開になると思うんだ。これからお前を病院に連れてくだろ。んで、これで様子をみましょう、とか医者に言われて抗不安薬とか処方されてさ、通院に服薬繰り返して原因究明どころか意味もなく腫れ物扱いされて玲人玲人って大事にされて、あげくにこれからますます口答えしない良い子ちゃん扱いされてくんだ、お前は」
「──え」
畳み掛けるような言い方に面食らった。みゆきさんと僕の関係をどこか嘲けるような感じで言われたのも初めてだ。
「……ってのはま、言い過ぎかもしんないけど。頻繁に起きるなら病院行くのも正解かもな。ただ、原因取り除かないと意味ないからさ、その辺が心配で」
眉間に皺を寄せて、瞳には鋭い光があった。咲野先輩の頭の中では、僕のことがめいっぱい分析されているようだ。変な感じだな。唇を噛み、胸の中で波立つものをぐっと堪えた。
「玲人、自覚したほうがいいよ。もっと」
「自覚?」
「ああ」
自分のことをもっと知れってことだろうか。
「ところでさ。音楽が聴こえるってやつ、本当なのか?」
色々思考を巡らせ始めたところへ、咲野先輩が話を切り替えた。
「あ、それは……」
さっきすでに共感覚の名前を出されている。今さら否定する必要はないかもしれない。けれど、めったに人に打ち明けたことがないし言葉に詰まる。
「脳科学と歴史上の人物について書かれた本があってさ。そこに出てきたんだよ、共感覚者のことが。書評を書いたときに調べたんだけど、たしか、色字とかいう、文字を見ると色が見えるやつとか、音に色を感じる色聴ってのが多いらしくて。でも逆に色を見て音が聴こえるって現象もあったから、それかな。音視っていうんだけど。いずれにしても相当レアな感覚らしんだ。もしかして玲人もそれなのか?」
読書家でライターでもある先輩の口からは、特殊な知覚現象についての概要がすらすらと出てきた。僕の場合、色というよりは景色なんだけど、その辺をよく知っているのなら詳しく聞いてみたい気もする。でもやっぱり変な人って思われるのが怖い。知識として知っているのと、すぐそばにいる人間がそうなのとはわけが違うと思う。ましてや彼自身に対して当の現象が起きてしまうなんて。その事実も知られたくない気持ちに拍車をかけていた。
「……その件はあまり、話したくないんですけど」
素直に言うしかなかった。
「そっか、ならいいよ」
拍子抜けするほどあっさり諦めて、彼は僕の頭にぽんと手を載せた。
気遣ってもらっている。でもこんな反応しかできないんだ、僕は。……すみません、と、喉まで出た言葉を口に出さず、ただ黙った。そのとき、低い位置にある僕のほうへ彼の顔がすっと近づいた。間近で僕の目を覗き込み先輩が言う。
「名前で呼べよ」
「え……」
「俺のこと、名前で呼べって」
わずかに語調を強められ、とっさに声を出してみる。
「咲野、さん」
彼は苦笑して「違うだろ」と僕をやんわり叱る。
「下の名前。呼び捨てにしてみろよ、ほら」
また促される。お願いをされているはずなのに、まるで上から目線の命令口調だ。ここへ連れてこられたこともそうだけど、先輩の強引さになんだか乗せられている気がする。そう思いながらも意を決して口を開いた。
「優一、さん」
「さんはやめろ」
……って言われても。
「聞こえてんのか? 優一って呼べって言ってるんだけど」
もはや横暴ともいえる物言いだ。それなのにさわやかな外見で得をしていると思う、この人は。まるで子供が駄々をこねているようにも見えてしまう。やけにじっと僕を見るから言葉が詰まる。すると、頬に何かが触れた。それは冷たい彼の指先で、向けられた視線にはさっきより真摯な光がこもっていた。どきりと何かに弾かれて僕は声を出す。
「ゆういち……」
こぼした言葉をなぞるかのように、指がほんの一瞬唇に触れた。あ、と思う間もなく即座に顔を背け、先輩はドアのほうへ立ち退いてしまった。
「一応、みゆきに謝ったほうがいいかもな」
背を向けたまま、ポツリと言った。
僕は椅子から立ち上がり、そのまま彼の部屋をあとにした。
みゆきさんに、花瓶を割った証拠を潔く見せ改めて謝ると、彼女は「いいのよ、そんなこと」と、もう気にしていない様子だった。病院に……と切り出されるかと思ったが、彼女はその場では何も言わなかった。咲野先輩が──今僕に下の名前を呼ばせたその人が、さっき予想した展開にはならないようだ。
そのうち、僕の真夜中徘徊事件は、皆の関心も下火になったのか、いつの間にか取り沙汰されることもなくなっていった。レム何とか障害については、大抵は一時的なものらしい、大方もっと年配の人間に起きる現象らしいが、まれに若者にも起きるんだってさ、と、そのあと色々調べてくれた先輩に言われた。ただ、あれから僕の身には一度も起きていないと信じたい。
『お前さ、色々溜め込んでんだよ……』
そう言われた言葉がずっと心に響いていた。
一瞬だけ唇に触れた冷たい指先の感触も。
14・涙の行方
運営者兼管理人も同居しているこのシェアハウスでは、食事に限っては少々独特な仕様になっている。空いた部屋が多いせいか、住人の食事はわざわざ二手にわかれて行われているのだ。親類が揃って食事を行う大きなダイニングと、自由に食事時間を決められる小ぶりなダイニング。
今日、後者を利用している学生たちの紹介をされた。普段なかなか会うことがない人たちと、僕はやっと正式に顔を合わせることができた。
紹介されたのは、若い男性一人に女性二人だった。男性は黒縁眼鏡が目立つ気のよさそうな感じの人で、僕を見てにこりと笑い「田中です。よろしく」と名乗った。女性たちも気さくな雰囲気が漂っていて、「私も田中くんと風原さんと同じ大学なの。よろしくね」と、落ち着いた笑みを見せてくれたのが河野さん。二人とも元から地元の人らしい。そして風原さんは、東京の青梅市出身。機械好きであることと海沿いの街への憧れから、近くの工科大学に通うためここへ引越してきたのだという。セミロングの黒髪が艶やかで、知的な空気を纏った女性だ。
女性二人はすでに仲良くなっているようで、自己紹介のあと互いに名前をちゃん付けで呼び合っていた。三人ともそれぞれ自転車で通学しているという。同じ大学にはあの早坂先輩もいて、風原さんと早坂先輩、そして大学は違うが同学年である咲野先輩の三人は、ひょんなことで繋がりができ、意気投合してとても仲がよいのだそうだ。もっとも早坂先輩と咲野先輩の仲のよさ──というか息の合った感じは周知であったけれど。
そういうわけで、同居人に関する認識もしっかり定まり、僕はみゆきさんの仕事であるここの夕飯作りの手伝いを頼まれた。本日のメニューはほぼすべてが和食だ。みゆきさんは味付けと盛り付けを僕に任せ、空いた時間で別の仕事に手をつけていた。こんなふうに少しでも役に立てるなら、と僕は張り切り、出来栄えにも満足したのだった。
しかし今日、咲野先輩──まだ名前で呼びづらい。しかも呼び捨てなんて──は仕事があるとかで夕飯時に姿を見せず、初めて僕が調理した夕飯は食べてもらえなかった。みゆきさんに一人前のお夜食セットを手渡され、二階の彼の部屋に届けてくるよう頼まれて階段を上る。
この部屋へ来るのは二度目だ。この前急に連れてこられたとき、先輩は僕のことを気にかけて色々と真剣に話し込んでくれた。僕の知らない難しいことを言う。かと思えば唐突に触れてきたりする。咲野先輩──優一、のことは……よくわからない。
こほん、と空咳をして彼の部屋のドアをノックした。
すぐさまガチャリと扉が開いて先輩が顔を出す。
「玲人」
「あ、これ。みゆきさんが届けてくれって」
「そっか、サンキュ」
おにぎりとマグカップに入れた味噌汁。食べやすくトレイに載せられたそれを僕が手渡すと、入ってけよ、と声をかけられた。
「え、いや僕は」
遠慮していたのに、ぐいぐいと強めに腕を引っ張られ、僕の身体はすんなり彼の部屋へと招き入れられてしまった。
この強引さ。まただ。
彼は背の低いテーブルの上にトレイを置くと、ここにかけろよと言って、僕の体をそっと誘導しベッドの端に座らせた。
先日ここに来たときは、じっくりと眺めることもなかった部屋の様子が、改めて目に飛び込む。壁一面に設けられた本棚。スペースは僕の部屋と同じはずだから狭さを感じてもおかしくないのに、整頓が行き届いているせいだろうか、不思議と広い空間が保たれている。本棚にびっしり並べられた書籍類に加え、机の上には、何かの資料らしきページを開いたままの本が数冊、横には無造作に積み上げられた辞書のようなものが数冊。咲野先輩の部屋はとにかく本ばかりが目立つ空間だった。
「今日中に仕上げなきゃいけないのがあってさ。今ちょうど一区切りついたとこだったんだ」
「大学の勉強に加えて仕事なんて、大変ですね」
「ま、好きでやってることだから」
にこりと笑う。
いつか月に二十万ほど稼いでいる話を聞いたことがあるけれど、こんなふうに根詰めて仕事しているときもあるんだ。やはり簡単に稼いでいるわけではないのだろう。
「お前のほうこそ、大変じゃないか」
「え? ああ、あれは……」
唐突に水を向けられたそれは、夕方ひと騒動あった凪々のことだ。今日学校から帰ってきたきり、ずっと黙り込んでいた凪々。心配で声をかけるととたんに大声で泣き出して、僕はそのあとずっと彼女の部屋にこもり真剣に話を聞いてあげていたのだった。
「凪々も難しい年頃になるかもな、これから」
咲野先輩はもう双子のことを凛や凪々と呼び捨てにしていた。気づくとこの一週間ほどで、彼らの距離は想像以上に縮まっている。
「あ、はい……まあ」
女の子なせいもあるのか、凪々は感情が高まり過ぎると手に負えないところがあり、正直宥めるのは骨が折れる。学校で起きた友達同士のいざこざが原因らしかった。それくらい、と思うことでも、多感な時期の彼女にとっては大問題なのだ。そこはちゃんと考慮してあげて、本来親だったらこんなときどうしてあげるんだろうなんて、時々イメージを作っては注意深く声をかけてみる。凪々が小学六年生になった頃から数ヶ月に一度はこんなことが起こっていた。
「声、聞こえてました?」
「ああ、盛大にな」
「すみません……」
そう言うと、彼もゆっくりと隣に腰を下ろし、さりげなく僕の肩に手が回された。心持ち、身体がその方向に引き寄せられた気がする。胸がわずかにざわめいた。
「頑張り過ぎじゃないのか。少し手をゆるめろよ」
どこか神妙な口調だった。僕の肩に置かれた手は離れる気配がなく、じっとそこに据えられている。
「今日のことも、またみゆきにさ。玲人はよくやっているって散々言われるんだろな。お前あの子らにしてやってばっかだよな」
「それは……」だって、それが僕の務めだから、とぼんやり心の中で言葉が響く。
「また夜中に無意識の行動とっちまうんじゃないのか。こんなこと続けてると」
あの夜中の一件を言われるのは痛かった。
だからといって、僕があの子たちに応えてあげなければ、誰があの子たちを支えてあげるんだ。それは双子の弟妹に出会ったときから僕に降りかかってきた試練でもあり運命でもある。そう思って、そう信じて、一生懸命ここまでやってきたんだ。
「『ヒーロー』っていう話を思い出すよ」
「……小説、ですか?」
「ん、ああ」
そういうのも読むのか、咲野先輩。
「不思議な能力を持ってる主人公がいてさ。自分を犠牲にして皆を助けていく話で……まあ、その辺はありきたりなんだけど。彼は周りの期待に応えようと頑張るばかりでどんどん自分を擦り減らしていって……ついには羽をもがれたようにその能力を失ってしまうんだ」
肩に置かれた手にわずかに力がこもった気がした。そして話は続けられる。
「それでも皆は、彼から何か得てやろうと日々周りを取り囲んで、一片もこぼさず恩恵を得ようとするんだよ。彼の本当の苦悩を知る者なんて一人もいやしなくて……。結局主人公は力を取り戻し人を助ける本分を全うして死んでいくんだ。本当の姿を知ろうともしなかった皆に讃えられながら、さ」
「…………」
「ただそれだけの話。ヒーローという称号と引き換えに、孤独を手に入れた幸福な男の話だ」
「皮肉……ですね」
僕がぽつりと言うと、先輩の表情から苦い笑みが消え、彼は遠くを眺めるような目をして言った。
「お前も、あの二人にとってヒーローなんだよ。周りもそれを強いてるし期待もしてる。お前自身それをよしとしてる」
凛と凪々にとっての僕が。
「だけどさ……お前は、どうしてるんだ?」
「え? 何が、ですか」
「凛や凪々がつらいとき、いつも全力で助けてやってるお前は、お前自身は、つらいときや落ち込むときってないのか? 泣きたくなること、ないのか」
「…………」
誰かから、そんなことを気にしてもらうのは初めてだ。僕自身がどうかなんて問題ではないとずっと思ってきた。だって、もし僕が苦しいと叫んだらすべてが壊れてしまうじゃないか。この生活を、僕と二人を支えているものが駄目になってしまう。自分がどうかを考えるなんて、そんなことはとてもできない。
「母親が亡くなってから、ちゃんと心の整理つけたのか」
──!!
その言葉に衝撃を受ける。
先輩は、僕の足元に視線を落とした。
「双子のために、がむしゃらにやってきたんだろうけど。知らずに溜まったものが、ああやって出てしまうんじゃないのかな」
知らずに溜まったもの。それは……それが何なのか、見当がついていないわけではない。僕が目を背けてきたもの。心の中にある、自分自身にすら容易に触れられるのを拒む場所。そこを直視するのは怖かった。だから見て見ぬふりをしてやってきた。そうしていれば強くいられる気がしたからだ。
「玲人は、自分のためにちゃんと泣いたのか?」
「自分のために……?」
「ああ、そうだよ。……異常だろ、お前もみゆきも。なにが頑張り屋だよ。もっと自分を大事にしろよ玲人。頑張る前にさ、自分の心にあるものを溜め込まずにちゃんと吐き出してみろよ」
彼が言うのはとてつもない話だ。
それはあまりにとてつもない……。
怖くなり、とっさに彼の腕を払い突き離した。
「そんな必要……っないです、僕は、大丈夫です」
立ち上がり、部屋を去ろうとドアノブに手をかけた。すると僕の肩に先輩の腕がすっと伸びてきて、反転させられたかと思うとそのまま引き寄せられてしまった。え、と思う間もなく僕の身体はしっかりと彼の胸に抱え込まれてしまう。慌てた僕におかまいもなく、先輩は強く抱きしめてきた。
「わかってる、怖いよな。……いいんだ。脅かしてごめん」
そう言って、背中に回した片方の手で僕の髪を梳くようにゆっくり撫で始める。
「でもお前を……壊れてしまうヒーローにしたくないんだよ」
「…………」
「誰もいなかったんじゃないのか。本当の気持ちを吐き出せる相手が。俺がお前の立場だったら、キツいなって思うよ」
何も答えられない。どくどくと心臓が脈打った。
「玲人にとって、もしそういう場所がなかっただけならさ、……俺がなってやりたいよ」
──先輩、が?
「…………」
これほど無条件の優しさをもらえるのはなぜだろう。
漠然とした、不安にも似た熱が身体中に駆け巡る。どうすればいいのかわからない。目頭が痺れ始め、喉の奥から何かが込み上げてきそうだ。
「泣けよ、今ここで。受け止めてやるから」
ぎゅっと力を込めて抱きしめられた。
それが合図だった。
目を背け、なおざりにしてきたもの。
突如失った大事な人にさよならをきちんと告げる間もなく、目の前に敷かれてしまった騒々しい毎日。夢中で楽しかったけれど、逃げ場がなかった。支える脚がもげそうに感じたときもあった。こんなはずじゃなかった。本当は叫びたかった。逃げ出したかった。帰りたくても帰れなかった。誰にも言えなかった本当の気持ち。それはもう叶わない夢だったけれど、僕が本当に欲しかったのは新しい家族ではなく──……
「玲人……」
何年ぶりかに嗚咽が漏れた。
手が届かない日々の残像が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。欲しかったのに、まだまだもっとそこにいて欲しかったのに、得られなかった。叶わなかった。堰を切ってあふれ出した感情は留まることを知らず、次々と声にならない叫びを作り上げていく。
どうしよう。胸の奥に溜まっていたものがすべて流れ出てしまいそうだ。そんなのっていいのか。誰かの前でそれをさらけ出してしまうのって赦されるのか。胸に不安が渦巻いた。けれどどうにもならなかった。
咲野先輩は、ただ黙って僕の背中を撫でる。
「玲人……」
低く柔らかな声が鼓膜を通して心の奥深くまで染み込んできた。あふれてくる。身体の中にこんなにも存在していた水分が。目が見えなくなるほどそれは次々に僕の目を覆っていった。
母を失った悲しみ。ぽっかりと心に空いた空洞。果てしない空虚さと絶望。自分のことで精一杯だった周りの大人には何も言えなかった。あの日、冷たくなった塊に触れ慟哭の声を上げたあと、僕は痛みを抱えたまま殻にこもった。あれから誰もそれを見ていない。本当は隠れていただけで……ここに、こんなにあったのに。
行き場を知らずにいた涙がやっと、あるべき場所へ帰っていく。
受け止めてくれた先輩のシャツがぐしゃぐしゃに濡れてしまうまで、僕は彼の胸に顔を埋め泣いた。
智彦さんの親戚だから。
一番近くにいる弟みたいな存在だから。
過剰に努力しているのを放っておけないから。
先輩が僕に優しくする理由を考える。親でもない誰かからここまで気にかけてもらえるなんて希有なことだと思う。けれど、僕の胸に生まれた感情はそんなきれいごとで語れはしなかった。
洒落にならないほどぐっしょり濡れてしまった薄水色のシャツ。僕が小さく謝ると、「いつでもいいよ。俺の前では泣いてもいいからな」と、濡れた頬をそっと指で拭われた。
その優しさを勘違いしてしまいそうな自分がいる。わかっている。その行為に深い意味などないことは。だけど僕にとってはすべてが特別だった。多分こんな気持ちは、もう二度と誰にも起きないと思う。
優一が好きだ……。
どうしようもないくらい。
15・交際禁止ルール
こんなに強く誰かのことを想う日がくるなんて、思いもしなかった。
憧れのような感情を持っていた時期もあった。目で追いかけたり、彼のことばかり考えていた時期が。近づくだけでどきどきしたり、聴こえないはずの音まで聴こえたり。温かくくすぐったい感覚もあった。それは全部、彼が理想の存在であること、憧れや尊敬する気持ちからくるのだと、ずっとそう思い込もうとしていた。
でも、できないんだ、もう。
今ここにあるのは、もっと生々しく烈しい感情だ。
「今日の肉じゃがと味噌汁、やたら美味いな」
夕食を黙々と食べていた優一が、ふと箸を置き真顔で言った。
「あら、そう。ふふん」
みゆきさんがにやりと笑う。
「なんだよ」
「今日は夕飯、玲人が担当してくれたのよ」
ね、と彼女が僕へにっこり笑顔を向けた。
「うん、まあ」
「まじか、どおりで。すげー、お前天才だな」
ここに来てから度々夕飯作りの手伝いをしているけれど、誰かから味の感想を聞くのは初めてだ。ほっこりとゆるんだ表情を見ると、それだけで胸がいっぱいになってしまう。自分はこんなに単純な人間だったっけ。
「あ、ありがと、……優一」
遠慮がちに名前を言った僕を、そのままじっと見つめてくる。名前は呼び捨てにしろ、と強引なまでに促されていた。実行するのに数日間四苦八苦したけれど、それも嘘みたいにやっと自然と呼べるようになっていた。ただ、僕が名前を呼ぶたび、彼がいちいち嬉しそうな反応をすると感じるのは、僕の過剰な意識のせいだろうか。……なんだろうな、たぶん。
優一はお世辞ではなく、本当に今日の味付けが気に入ってくれたみたいで、
「毎日、玲人が俺のメシ担当でいいんだけどな」
真面目な表情でそんなことをさらりと言った。
「なんだか、ねー。玲人が優一の胃袋すっかり掴んじゃったわね。もう私の出る幕ないのかしら」
みゆきさんが、あははと笑い出し、つられて皆が笑い出す。凛と凪々は、こんなの僕たちはずっと知ってたから! とまだまだ子供じみた自慢をする。この五年間ほぼ毎日二人のためにご飯を作ってきたのだから、それくらいは認めてくれていないと逆に悲しい。
「僕はみゆきの味も好きだけどな。好みってのはあるよなぁ」と、智彦さんは微笑ましくも奥さんのフォローに回った。
「あの、……優一は、料理とかしないの?」
照れ隠しに訊いてみた。
するとみゆきさんが吹き出しながら、
「玲人、聞いて。こいつってば料理のりょの字も知らないのよ。そのくせ、味には人一倍うるさいときてるからもう最悪なんだって!」とわざとらしくしかめ面をする。
「なんだよ、みゆきの味に文句言ったことなんてないだろ」
優一は夕飯の皿に箸を伸ばしながら、彼女を睨んで言った。そして、
「玲人の味付けが好みなだけだ」と小さくつけ加える。
「あ、あのっ……珈琲は自分で淹れるのに、料理はダメなんだ」
僕が慌てて言うと「まあな」と笑い、
「これからはお前の料理食べられるし、俺が何か作る理由はますます無くなったな」
そう言って、淡々と食事を続けた。
……こんな時間を一緒に過ごせるだけでいい。
これは叶わない恋だと、ちゃんとわかっている。彼の目に僕だけが映る日などきっとこないことは。優一はとことん親切にしてくれるけれど、それを勘違いするほど愚かではない。この気持ちはずっと誰にも知られない深い場所にしまって鍵をかけるんだ。決して開けてはいけない。ただ、そばにいたい。そう願うだけならかまわないと、自分に言い聞かせながら。
「これ、見た? お兄ちゃん」
朝から凪々が、食いつくように見ているものがあった。シャツの裾を引っ張られ、仕方なく僕は示されたものに目をやる。凪々が今パソコン画面で開いているのは、ここ夕凪ハウスのホームページだ。そういえばここに来た日、智彦さんがあとでホームページのほうも見といてよ、とつぶやいたことを思い出す。
「え、なにこれ」
「ね、ちょっとびっくりでしょ?」
凪々が照準を合わせているせいもあり、僕の目に留まったのは、大きな文字で書かれてあるここの居住ルールだった。特にその一番最後に書かれてある一文。
『五・恋人お断り。住人同士の恋愛関係、及び交際については禁止とさせていただきます。発覚した場合は速やかに退居願います。』
驚きだった。いくら運営者からのお願いとはいえ、こういったプライベートな部分にまで踏み込んで規則としているなんて。
「私、これ本当なのか今日みゆきさんたちに訊いてみる!」
「訊いてどうするんだよ」
「だってこういうのってさ、本来自由なはずじゃない? なのに禁止なんて言っちゃうの、変じゃない」
「別に変じゃないと思うよ。ここは色んな人で住まう場所だし、みんなの生活に一番責任を持つ人がルールを設けてたっておかしなことじゃないよ」
「そっかな……。でも訊いてみるよ、気になるし」
こういう類の話、中学生辺りには気を引かずにはいられないのだろうか。
湯船に浸かりながら、ぼんやり考える。
恋愛関係……か。
たしかにここは若い男女が同居する環境ではあるけれど、ルールとして禁止するなんてなんだかあからさまだな。ずいぶん強気な押し付けにも感じる。
ただ当面、僕自身には関係のないことだ。
──好きな人がいる。この同じ家の中に。
でも男同士である時点で救いようのないほど発展しない恋だ。誰かに知らせるつもりも当然ないし、僕の心の中だけで起きている出来事なんだ。
顔を思い浮かべると、胸の奥がきゅうっと激しくしめつけられた。何かを求めたりなんて絶対できない相手だ。そばにいて、あの微笑みを眺めていられるだけでいい。それ以上は望むべくもない。
夕飯時、凪々から事情を説明され興奮気味なのが見え見えの凛が、彼女を出し抜いた。紅潮した顔で突然、「はいっ!」と片手を高く挙げたのだ。僕は吃驚して持っていた茶碗を落としそうになった。
「凛、なあに?」
「どうした? 凛」
一斉に注目を浴びる、元気有り余る中学一年生。
「俺、訊きたいことがあるんです、みゆきさん。それと、智彦さんにっ」
二人は突然の指名に目を丸くした。
「なあに、凛。何かあった?」
「あの、みゆきさん。ここのホームページに書かれてる交際禁止ってあれなんですか、訊いてもいい?」
……訊いてもいい? ってもう訊いちゃってるじゃないか。向かいの凪々が「私が言おうと思ったのに!」と頬を膨らませて凛に不平をこぼす。
「やだー、凛。君は中学生なんだから別に気にしなくていいのよ、そんなこと。あれは大人の嗜みみたいなもんだから」
みゆきさんが答えると、
「たしなみってどういう意味?」
凪々まで手を挙げて問いかける始末だ。
プッと目の前で優一が吹き出している。
「嗜みってのは、心がけってことさ、凪々」
彼は楽しげに彼女に教示した。
すると、智彦さんが突然こほんっと咳払いをして、皆が一斉にテーブルの端の席にいる彼のほうを向いた。彼は居住まいを正し語り始める。
「あのね、凛くんと凪々ちゃん」
二人は浮かしていた腰を再び席に落ち着け、しおらしく耳を傾け始めた。
「あれはね、ほら、ここは大学生たちがいるから、主に彼らに向けたルールなんだよ。家の中でイチャイチャされるのは落ち着かなくて困るし、君たち未成年もいるからさ。慎んでもらうために一応規則として決めてあるんだよ」
そう言ったあと、声のトーンが少し気の抜けた感じになる。
「まあ、この際だから言うんだけど、ここを始めて、最初に入ってくれた人たちがそういう関係になってしまって……一時期色々面倒なことが起きてしまってさ。三角関係っていうのかな」
「あ、それ知ってます」
凪々が小さく手を挙げ反応したが、みゆきさんは、子供に話す話じゃないと慌てて智彦さんに注意している。まあいいじゃないか、と智彦さん。
「そういうわけで、ここで住む限りは、住人同士での恋愛とか交際は抜きにして欲しいんだ。そういうのは別の場所でやってください、もう懲り懲りですってわけで」
凛は箸の先を口にくっつけたままぐるりと目を回して、うーん……と唸る。たぶん今の言葉を消化しようとしているのだろう。凪々は頬を両手で覆い、うんうんと激しくうなずく仕草をする。かわいいけれど本当に笑える奴らだ。
「ふーん。そうなんだあ」
少しして凛が言うと、「そういうこと」と、智彦さんは納得してもらって満足といった様子で笑った。笑っていたのに……。
「しかし、ここで一つ問題が発生しているのは事実だな。よし、この際、疑惑がある問題をはっきりさせておこう」
急に襟を正し、なにやら問題提起を始めた。
な、何事だろう。皆がざわつく。
「やだ、それこそ今じゃなくていいじゃない」
みゆきさんが焦ったように制したが、智彦さんは揺るぎなく、真面目な面がまえを崩さない。
「なになにー?」
続けて興味津々の双子に彼は言った。
「実は、約一名。この中に交際疑惑をかけられている人物がいるんだよ」
「えーーーっ」
二人は驚きのユニゾンを発し、僕も思わず喉から「えっ」と声がこぼれた。まっすぐ睨みを利かせた智彦さんの視線の先を見ると、ちょうど彼の席から一番見えづらい端に座っている人物、つまり僕の目の前の人間を指している。
「なんだよ……」
さっきから一人だけ平然とした顔で食事を続けていた優一が、ふと箸を止めて智彦さんを見返した。
「誰のことを言ってるかは、わかってると思うけどな、優一」
「は、それってマジメな話? 中学生の前でこういう話題始めていいのか」
「彼らが振ってきたんだ。仕方がない」
智彦さんの言葉に、凪々がすかさず賛同する。
「いいのよ、私たちなら。これも大人になる勉強だもん、全然気にしないで! ……優一さん、誰と交際してるの?」
──優一が誰かと交際している。
付き合っている人がいるんだ。知らなかった。
胸にすっ、と薄いナイフを差し込まれたような感触がした。
別にそんな相手がいたって不思議じゃない。ないけれど……。
凛と凪々の、好奇心にきらりと輝いた目の先で、優一は仏頂面を作り箸をテーブルに置いた。
「瞳子のことだろ、だから前にも言ったじゃないか。付き合ってなんかないって」
あからさまにむっとした声で答える。
瞳子、と言った。たしかこの前、河野さんが風原さんを『とうこちゃん』と呼んでいた。いつも向かいの部屋で食事をしている大学生の風原さん。彼女が……そうなんだ。
ばくばくと心臓が鳴った。優一のそばにいたい。その笑顔を眺めていたい。僕の願いはたったそれだけなのに。それすら許さないと、強い力がこの気持ちを握り潰そうとする。現実という圧倒的な力が、想いの存在すら否定してくる。
智彦さんが畳み掛けて言う。
「じゃあ、なんでお前が一日車を出している日に限って、彼女は彼女で一日田舎へ帰ってんだ? ……いつだったかな、ちょうど帰ってきたタイミングが同じ時間だったこともあっただろ。一緒に出かけてる疑惑が僕たちの間に存在してるんだけどな」
「偶然というほかないね。たまたま足並みが揃ってしまっただけさ、それがなんだよ。俺か彼女を追い出す気か?」
彼女を庇うような表現が、ちくりと胸に刺さる。
「別に追い出す気もないし、二人がそういう仲なら引き裂くつもりも毛頭ないさ。いやむしろ応援したい以外にないしな。ただ、もし付き合ってるんなら規則は規則なんで遵守してもらわないと……」
智彦さんが述べた言葉に、意外にも凪々が意見を被せてきた。
「そういえば、私この前、優一さんと瞳子さんを見かけたんだけどぉ……」
言いかけて突然口を噤む凪々に、凛の反応は過敏だった。
「なっ、なんだよ凪々っ! そこで止めんな! 続きちゃんと言えよ。何してたの?」
凛は待ちきれない様子でけしかける。
「あ、ううん。こっから先は言えない」
「はあー? んだよ、それ」
優一が瞳子さんと……何をしていたのかなんて、そんなこと。二人の仲がこれ以上肯定されたら……僕は……。
「凪々、余計なこと言うなよ」
優一はあくまで冷静な表情を崩さず彼女を見つめて言った。見つめられた彼女は、なぜかさっきまでの勢いをするりと削がれ肩を落とした。
「どうしたの? 凪々」
みゆきさんの問いかけに、優一が遮って言った。
「よせよ。付き合ってなんかないって言ってるだろ」
彼女を睨めつけ、箸をテーブルに強く叩きつけて置いた。
「まあ、そうはっきり否定するなら、それでいい」
「そうね、別に恋路を邪魔するのが目的じゃないんだし」
智彦さんとみゆきさんは、それ以上問い詰めるふうでもなく、納得したのかはわからないが表情を和らげ結論づける。二人はまあいいからお食事しましょ、と気持ちをあっさり切り替えたようだ。
納得がいかないのは凛だ。今、凪々が何かを隠していると踏んだ彼が何を考えているかは想像がつく。あとで問い詰めてやろうというのだろう。でもそれは彼だけではない。僕もあとで彼女に尋ねてしまいそうだ。たぶんそうせずにはいられないと思う。知ってどうするつもりなのか、自分で自分がよくわからない。
「食えよ」
「え」
僕に視線を向けて、優一が言った。
「そんな話いいから。ちゃんとメシ食えよ玲人。凛と凪々も。うるさいぞお前ら」
優一は、動揺ひとつしていなかった。
16・黄色い車
シェアハウスの隣には、小さな駐車スペースがある。
優一と瞳子さんが親密そうな雰囲気で話し合っていたというのは、駐車場に停めてある彼の車の脇だったらしい。くっきりした黄色のボディーに、黒ルーフと黒ラインのミニクーパー。その陰で、二人はかなり親しげな距離で何かを真剣に話し合っていたと、凪々が証言している。
優一には『あれは込み入った事情があって話し込んでいただけだ』と説明を受けたらしいが、どのみち恋人には違いないんじゃない? と凪々。凛も、皆には隠しているけれど恐らく二人はそういう仲なんだよ、と納得しているようだった。
信じたくないけれど、それを否定する理由と根拠はどこにも見当たらなかった。
夕方六時頃、都内の学校から帰宅したとき。ふと駐車場のほうを見ると、優一がタイヤの辺りを気にして愛車をいじっているところだった。僕はすぐ横の駐輪スペースに自転車を停める。そのまま気づかれないうちに玄関へ廻ろうとしたとき、声をかけられた。
「おかえり」
「あ、ただいま」
軽く応えて歩き出したけれど、
「玲人、凪々からなんて聞いたんだ?」と呼び止められてしまった。
「え、なんのこと」
「この前ここであの子が見たっていう、あれ」
優一と瞳子さんのこと。僕はなかば焦りながらも平静を装って話す。
「あのっ、なんか、二人がここで仲良く話してたって。凪々は、本当は付き合ってるんだろうって言ってるけど……」
優一の恋人。彼が誰よりも好きな人。
そのポジションに僕は永遠に届かないとわかっている。けれど、せめてそこに誰かの姿を見たくなかった。勝手だと思うけれど、その人の存在を聞かされることは……胸に硬い石を投げ込まれたような重みと息苦しさを感じ、たまらなかった。
「お前はどう思ってんだ?」
彼はそう言ってからふと目を逸らし、なぜか視線を足元に落とした。
「わ、わかんないけど。もしそうでも言わないから、みゆきさんたちには。だから安心してよ」
わずかに震える声を隠して答えた。優一は、ふう、とため息を吐いて立ち上がり、そばにある水道の蛇口で手を洗いだす。もう車を気にするのはやめたらしく、そのまま車のボディーにもたれかかり、腕を組み僕を見据えた。
「あのさ、玲人にだけは、本当のこと言うよ」
「え、本当のこと?」
どきっと胸がなる。
「俺、瞳子とさ、彼女の実家がある青梅へ月一くらいで一緒に帰ってるんだ。智彦に指摘されたとおり、バレないように打合せて、時間合わせて、こいつで行ってる」
こいつ、と言って親指で指したのは、優一の黄色いミニクーパー。
「そ、そうなんだ……」
声がさらに震えたが、極力抑えて答えた。
本当は瞳子とはそんな仲じゃないんだ──そんな言葉を、どこかで期待してしまった僕の気持ちは行き場を失った。
「どうしてこう度々出かけてるかっていうと、実は彼女、両親から勝手に決められた相手との縁談を迫られていてさ。親とその許婚も、瞳子が毎回彼氏を連れてきていたら、さすがに諦めてくれんじゃないかって」
彼氏……ああ、やっぱり彼氏なんだな。今はっきりそう言った。
「そう、なんだ」
優一と瞳子さんは実家に連れ立って帰り、親に会うほどの仲だった。きっとこのままいけば、やがて結婚する流れへ進むだろうことは誰でも想像がつくわけで……。
「相手はそこそこいい歳で、土地柄もあって、周囲の圧力とかすごいんだよ。でも諦めたくなくて粘ってる。本当は春までに終止符が打てたらよかったんだけど、上手くいかなくてさ。続行中ってわけなんだ」
終止符が打てたら、二人は晴れて実家から公認の仲というわけだ。
「智彦たちに付き合ってると知られたらまずいんで、特に訊かれない限り黙っていて欲しいんだけど、いいかな?」
足下を見ていた僕がはっとして顔を上げると、優一は唇の端を少し噛んで、表情をうかがうように僕の返答を待っていた。
「あ、うん。もちろん」
激しく波立つ気持ちが外にあふれ出ないよう堪えて言うと、唇が震えてしまった。
「本当いうとさ。実はこれにはもっと複雑な事情があるんだけど、今は言えないんだ。いずれ玲人にはちゃんと話したいと思ってるから。とりあえずその件だけ協力してほしくて。悪いな」
すまなげな顔をして僕を見る。一瞬、事情って何だろうと思い訊きかけたが、これ以上ショックを受けるのが怖くて思いとどまった。
「別に、それくらい」
小さく答えると、ぽんっと頭に手を載せられる。
「それとさ、明日もしよかったら、ショップにこれ持ってくんで玲人も一緒に来ないか?」
「え」
話を切り替えられたようだが、上手く頭に入ってこない。
「明日土曜だろ、予定とかある?」
明日……。
「ないけど……」
「だったら、ドライブも兼ねて、どう?」
ドライブに誘われたのかな。なんで僕なんだろ。実家に帰る日以外は瞳子さんと表立って出かけたりしないのか。本当は付き合っていてもバレたらまずいから。でも、ひそかにどこかで会ってたりするんだろうな。それともここで、僕が気づかない隙に優一は彼女を抱きしめたり、それ以上のことだってしているのかもしれない。僕が知らないだけで……。
「玲人?」
用事があるわけでもない土曜日、誘われて断る理由などどこにもなく。僕が静かに首を縦に振ると、優一は微笑み、「楽しみにしてる」と言った。
シャワーの水量を最大にして、全身に打ち付ける湯を受けながら、目を見開き排水口への流れをじっと眺めた。明日彼と出かけられることより前に、重い事実が胸にのしかかっていた。優一に好きな女性がいること。ここのルールに反してまでその関係を守りたいと思う、それほど大切な人がいるということ。
痺れる目頭からあふれてくるものが、激しい水流に紛れ消えていくから都合がよかった。声は水音に容易にかき消された。痛いほど強く目をつぶり、不穏に脈打つ胸を押さえる。
優一に好きだと思ってもらえる。
それって、どんな気持ちがするんだろう。
僕の手には届かない甘い望み。それを当然のように持っていられるなんて。
心の柔らかな箇所を何かにじわりと拗られていくようだ。激しいシャワー音の中、得られないものに焦がれるこの気持ちだけが、僕の左胸で孤独な悲鳴を上げていた。
あくる朝。カーテンを開けて外を見ると、空は都合よくも晴れていた。心の天気とは裏腹に。二階の洗面所で顔を洗っていると、誰かが廊下の隅で電話をしているのに気づいた。優一だ。まだ朝早いのに、こんな変な時間に電話だなんて。
「……で、……太郎の動きはどうなんですか? 彼女のこと、なんて言ってます?」
知らない人を相手に話しているようだ。「彼女」という言葉が聞こえてなんとなく前を通りづらかった。
「……そろそろ、終わりにできたらって思ってるんですけど。もともと春までの約束だったし。俺にも事情があって」
しばらく間を置いて、また優一の声。
「……ええ。いますよここに。毎日顔見て一緒にメシ食ってるし。まあ俺のほうはゆっくり近づきたいって考えもあるし……それに、この件を終わらせてからちゃんと伝えたくて……」
立ち聞きなんてやめるべきだとわかっているのに、つい耳をそば立ててしまう。
「ここへ来る? そっか。その可能性も──ああ、ええ。ちゃんとそれなりの体裁は保っておきますから」
誰の何の話だろう。考えている間もなく話は続いている。
「とにかく、瞳子の件は俺が顔見せることで刺激になってんの確実なんですね。……わかってますよ。乗りかかった船だし、勝手に投げ出したりなんて絶対しませんから」
どうやら瞳子さんと実家へ帰っている件らしい。けれど具体的なことがわかる会話ではない。大体、誰と話しているんだろう。
「じゃあ、また」
通話を切った優一がふり向きざま僕に気づいて、一瞬目を瞠った。ふいに目線を足元へ逸らし咳払いをする。
「聞いてたのか」
「あ、ごめん。ここ通りたかったから」
僕があたふた謝ると、顔を上げて「そっか、悪りぃ」と小さく笑い、「おはよ、玲人」と改まって挨拶をしてきた。そして、僕が訊いてもいないのに「瞳子の兄貴だよ」と電話の相手だけ明かしてくれた。
ブオォンンン……と重低音をふかして、車は駐車スペースをゆるやかに滑り出た。みるみる僕たちの住まいから離れていく。
助手席に乗せてもらい、快適な優一の運転で小一時間ほど一般道を進んだ。この席にはいつも瞳子さんが座っているのか……。もやもやしながらも、気づくと目的地に到着していた。
車を買った販売店で店員と話し込む優一を見ながら、僕はテーブルでぼんやりジュースを飲み雑誌をめくっていた。長くなるのかと思った用件はトントンと運んだようだ。三、四十分が経過した頃、終わったよ、と声をかけられ一緒に店を出た。
予想より早めに帰路に着くことになる。このまま帰ってしまうのだろうか。わからないけれど、優一は終始僕を気遣っている様子で、時々僕の顔色をうかがっていた。
「つまんなかったか、悪いな。こんなことに付き合わせて」
「え、全然っ。つまんなくなんてないけど」
「そっか? 玲人、今日は一段と無口だから」
「…………」
無口なのは、単純に言葉が出ないからだ。僕の頭の中には答えを知りたくない質問が渦巻いていた。瞳子さんとはいつから付き合っているの、とか、やっぱり結婚とか考えているの、とか。横顔を見るたび声に出してしまいそうで、でも自爆するだけだとわかっているからそんなことはできなくて、結局黙るの繰り返しだったから。つまらないのは優一のほうだろう。
気持ちを自覚して間もないうち確定した失恋。もとより、始まった瞬間から望みなんて一ミリもありはしなかった。そばにいられるだけで幸せだなんて……あれは嘘じゃないのに、こんなに苦しくなるのはなぜだろう。
ハンドルに手をかけたまま優一が話しかけてくる。
「この黄色さ、扱ってる期間短くて希少なんだよ。これが欲しくて中古狙って、今の店で買ったんだ。ずっとこの車が好きでさ」
唐突だけど何のことかはわかる。ミニの話だ。初めて見せてもらったときも言っていたっけ。この色はメローイエローって言うんだと。
「あ、僕も好きだよこの色。カッコいいし。最初新車かと思ったけど」
「だろ?」
優一はにこっと笑って、運転の合間に一瞬僕を見た。
「お前のこと、乗せてみたかった」
「……?」
「本当はその席に……」
さらに何かを言いかけたとき、かなりの音量で携帯が鳴った。彼のスマートフォンから聞き慣れた音と振動がしている。
「玲人、出てくれないかっ、すまん」
「えっ、僕がっ?!」
焦ったけれど素直に従った。ちょうど何車線もある大きな交差点で信号が変わり、優一がハンドルを切って右折をし始めたところだったので、注意を逸らさせるわけにもいかず。
「もしもし、え? あ、はい、いえ。咲野の携帯ですこれ。あの、優一は今運転中で……」
相手は男性で、僕が出たことに戸惑って間違いかと言いかけたから、慌てて状況を説明した。
『なんだ、そうか。友達か誰かかな。俺、この前連絡入れた神崎だけど。あ、じゃあ、このまま聞いて伝えてくれる? 今横浜に出てきてるんだけど、もし近くにいたら会えないかなと思って』
「神崎さん。あ、こっちも横浜付近ですけど」
『そっか、じゃあ君も一緒にそのまま来てくれないかな、場所は……』
電話の彼から場所を聞く。本人に確認も取らないまま用件を進めてしまっているけれどいいのだろうか。指定された地区と店の名前を僕が口で復唱すると、右折を終えスピードを上げていた優一がこっちを向き、首を縦に二回忙しく振って肯定してくれた。すぐさまスピードをゆるめ、テカテカとウィンカーを点滅させ車を左端の車線に寄せる。そのまま脇に続く道路へ入っていき、大きく迂回してミニを方向転換させた。二十分ほどで、僕たちは指定された場所へとスムーズに到着した。
それが、神崎透との出会いだった。
17・天涯孤独の男
手で軽く触れるとドアが開き、優一と二人店内に入った。落ち着いた色調の広い喫茶店だ。すぐ右側の四人がけの席に、こちらを見て手を振る人物がいたのでその人だとわかった。
「神崎」
「咲野。悪いな、急に呼び出して」
歳は智彦さんと同じくらいだろうか。真ん中で分けられた長い前髪がはらりと目に覆い被さっている。黒々とした大きな目と若干ハの字に下がった眉。座っているからわからないけれど優一より背が高いのかもしれない。体格は比較的がっちりとした男前な人だ。彼はすぐに煙草を揉み消して、僕たちに席に座るよう促した。
「何か頼むか?」
昼食を摂り損ねていた僕たちにメニューを渡し、自分は冷めた様子のブラック珈琲を啜っている。優一はやって来た店員に、手っ取り早くランチセットを指差した。僕と優一の注文が終わると、一息ついたように二人が会話を始めた。
「連絡もらったときは驚いたよ」
「ああ、まじで久しぶりだったからな」
優一は僕の肩に手をかけて彼に僕を紹介した。
「あ、俺と同じとこに住んでる高城。世話になってる知人の親戚で、高校の後輩なんだ」
続けて、僕のほうへ向き彼を紹介する。
「こっちは、神崎透って人で。俺の中学んときの担任なんだよ。ネットで俺が書いた記事を見て突然連絡入れてきてさ、六年ぶりに会話してるってわけ」
担任……。どおりで歳上らしいとは思ったけれど、元担任を呼び捨てにするんだな優一って。
「こいつ、中学んときからこんな調子でさ。俺のこと先生とかまともに呼んだことないんだぜ。ま、若い教師は生徒に舐められるもんだけどな」
少しおどけたふうに口を歪める神崎さんを、優一は取り立てて相手にせず「で、今日の用件は?」と先を促した。二人は顔を引きしめ、ビジネスライクな雰囲気で話を始めた。僕は店員が運んできたランチセットに手をつけながら話に耳を傾ける。
どうやら、優一が書いた医療関係の記事が話の起点になっているようだった。記事で取り上げたのが、彼の父親を長年治療していた主治医だったらしく、神崎さんは記事を書いたライターの名前を見て懐かしさもあり連絡してきた、という経緯らしい。
「で、これが、親父さんが残した手記か」
「ああ」
彼の手元にある一冊の本を優一は手に取り眺めた。ハードカバーで淡い色の表紙。彼の父親が闘病生活について綴った手記だという。父親は遺伝性の難病だったせいで、周囲の人間になかなか状況を理解してもらえず、この病気のことをもっと世に広めたくて自費出版までして手記を残したのだという。コスト削減のため取次を介さず、ネット中心に宣伝をし直販するという形を採用したらしいが、結局大して売れもせず、そのまま父親は他界したということだった。
今日の話の主旨は、優一が関わる出版社運営の書籍紹介サイト、その中の自費出版特集で取り上げてもらうことは可能か、というものだ。加えて優一が個人でやっている書評ブログでも可能ならレビューして欲しいというものだった。まだ在庫が残っており、本の劣化が進まないうち早めに片づけられたらと考えているそうだ。理屈は僕にも理解できた。ただ、サイトやブログなどといったワードで頭がどん詰まりになり、詳細についてはまったく想像ができなかった。
「……親父さん、残念だったな」
低い声で優一が呟くと、さらりと答える。
「ああ、たった一人の肉親だったからな。これで俺は、晴れて天涯孤独の身ってわけだ。親兄弟はおろか親戚づきあいも皆無だしな」
「自分で家庭を作れるだろ、これから」
「それは、ない」
神崎さんの言い様がずいぶんきっぱりとしたものだったからか、優一が一瞬訝しげな顔を見せた。
「ま、そういうわけでだ、咲野。検討してみてくれないか?」
彼はすぐさま話題を本題に戻し優一に尋ねた。
「ああ。出版社関連のほうは俺が直接どうこうできる話じゃないから、運営側に知り合いのいる友人に掛け合ってもらうよう頼んでみるけど、それでいいかな。あと、ブログのほうなんだけど、最近やっとアクセス数が伸び始めたところで……それでもいいなら全然書けるし。他にもよく利用する文章投稿サービスがあるから、そっちにも記事なり何なり投稿して、まぁ、色々やってみるよ」
「そうか、ありがと。頼んでいいか。俺そんなに詳しくないから助かるな。お前に相談できてよかったよ」
「いいよ、これくらい」
どうやら話がまとまったようで、話を聞くうち神崎さんを応援したくなっていた僕もほっとした。一息つくと、僕たちは食後の珈琲やドリンクを飲みながらいつの間にか談笑ムードになっていた。
広い店内の奥からはBGMが聴こえ、智彦さんの大好きなブリットポップ全盛期の曲が流れていた。良くも悪くも大味なオアシスのメロディーが、落ち着いた店内にカジュアルな空気を生み出している。
「ライターの名前を見たときは驚いたよ。学生やりながらやってるのか?」
「ああ、卒業したら一応就職しようとは思ってるけど、最終的にはフリーでやりたいって思ってるんだ」
「そうか。その自分で切り開いていく感じ、お前らしいな」
神崎さんのほうは、父親の病気をきっかけに辞めた教職をそのまま諦め、今は毎日バイトで繋いでいる、と包み隠さず言った。そして、ふと何かを思い出したように笑いながら語り始める。
「まあ咲野は、文章に関しては小学生の頃からカリスマだったからな」
「言うなよ、それは」
優一には何のことかすぐ思い当たったようだが、僕にはさっぱりだ。半端に口を開けてぽかんとしていた僕に、神崎さんが説明をしてくれた。
「高城くん、こいつさ」
「はい」
「小学校の卒業文集ってあるだろ? あれで一人だけとんでもない文章書いててさ」
そう言った時点で、くくくっと喉を鳴らし笑いをこらえている。
「中学になってからもその文集がずいぶん話題でさ。『あれ書いた咲野ってどの人?』って、知らない奴がわざわざクラスへ見に来る始末だったんだ」
「とんでもない、文章?」
「そ。奇抜っていうか、反抗的っていうか、そういう感じの。俺もあとで読ませてもらって、噂になる意味がわかったよ。みんなが『先生ありがとう』なんて感謝やら想い出やらを書き綴ってるのにさ、こいつ一人だけ、担任がいかに使えない能無しかってのを論理立ててこんこんと説明してたからな」
「えっ、そんな内容だったんですか」
「文集の題が『さらばポンコツ』だってさ。相当ひねくれてるだろこいつ」
「……っ!」
吹き出しそうになるのを堪えた。反抗的な小学生の付けた題のインパクトは凄まじい。不名誉なタイトルにされてしまった教師が実に気の毒だと思う。
「まったく、お前はあの頃尖ってたよなぁ」
「若気の至り……ってか、ただのガキのお遊びだって。やめろよ」
黒歴史をからかわれた優一は、すっかり顔をしかめている。
僕は当然そんなエピソードを聞くのは初めてで、小学から中学の頃の『尖った』優一のキャラが頭の中で勝手にイメージ化された。顔はいいけれどいつもポーズを斜にかまえていて目つきが鋭い、そんな感じの。だけど僕が知らない彼の一面は、意外というよりは納得のほうに近いのかもしれない。優一のことなら何でも知りたい。知りたいけれど、過去に遡ってまですべてに惹きつけられてしまいそうで……少しだけ怖かった。
「クラスのいかにも優等生って奴が正論を言うだろ。そしたら、こいつが逆説唱えて論破していくっていう、クラスで定番の光景があってさ。まったく、あの頃のお前は周りの奴らがバカに見えてたんだろな。担任の俺もいつ攻撃されるかとひやひやしたもんだよ。はははっ」
「だから、そんな話やめろって」
相変わらずバツが悪そうな顔で、優一は彼の話を阻止したげだ。
「お前、まさか高城くんに聞かれるのはマズいのか?」
神崎さんは少し意地悪げに、またくっくっと笑う。
そしてふと、「お前、ずいぶん雰囲気が丸くなったじゃないか。大人になったってことか。まあ、六年も経てば当然か」と感心めいた顔をする。
「俺は変わってないよ、別に」
店員が運んできた追加注文の飲み物を啜りながら、ぼそっと優一がつぶやく。すると神崎さんは何を思ったのか「高城くんは、咲野のことどう思う?」と僕に矛先を向けてきた。
「え、どうって言われても」
焦った。一瞬、客観的な印象などとはほど遠いこの邪な感情を見透かされたらどうしようと、怖くて適当に言葉を探した。けれど無難な言葉しか出てこない。
「よくわからないけど……あの、いい人ですよ?」
そう答えると、隣の席の優一が「へえ、俺っていい人なんだ?」とくすくす笑いながら手を伸ばし、僕の髪にそっと触れた。どきんと心臓が飛び跳ねる。おそるおそる見ると、こちらへ笑いかけたまま視線を固定している優一にさらに困惑してしまう。おのずと火照ってしまった頬を隠すように、慌てて目を逸らしたが気づかれてしまったに違いない。
「高城くんってさ、……色白だね」
急に神崎さんがじっと視線を刺してきた。見た目のことを言われることはあまりないので面食らったが、ふと、頬の色が目立っているのだと察知する。
「咲野は小三までアメリカに住んでたからかな。あっちってほら、スキンシップとかすごいじゃん。そのせいかは知らないが、態度が遠慮ないっていうか、そういうとこあるだろ?」
「えっ、アメリカ?」
「そ。知らなかったのか? こいつ両親があちこち移動するせいで振り回されてて、尖ってたのはそのせいもあるんだろうな」
……そうなんだ。その両親は今はイギリスというわけか。優一の家庭も僕とは違った意味で落ち着かないものだったのかな。態度が遠慮ないっていうのもすごく言えてると思う。昔からそうなんだ。なんだか、彼の子供の頃の情報を今日はたくさん得てしまった。
「中学の二年間担任だっただけなのに、ずいぶんわかったような口聞くじゃないか、神崎」
「お前は、気に入った奴にはすぐそうやって絡むよな」
神崎さんが、優一の無遠慮な手の在り処をじっと眺めながらわざとらしいため息を吐いた。その言い方からわかった。……こういうの、別に僕に対してだけじゃないんだ。変だと思っていた。ちくりと小さな棘が胸に刺さる。
「相手が女の子だったら完全に誤解されるぞ」
もはや呆れたように笑っている。笑いながら、彼は僕をじっと観察するように見始め、そのうちふとこぼした。
「君みたいな、なんていうか……どっか儚げで純朴そうな男の子見るとさ。うちのバンドのカメラマンがモデルにしたいとか言いそうだな」
僕は興味のあるワードに食指が動き、パッと顔を上げ反射的に質問していた。
「バンドって……っ、なんですか?」
神崎さんがおっ! と反応をする。さすがに優一の手は元の場所に収まっていた。
「実は今、バイトしながらバンド活動やってるんだよ。ずっと音楽がやりたくて。社会人バンドなんてダサいって言われるけど、まあ楽しくやっててさ」
明るく笑う神崎さんを、僕は羨望の顔丸出しで見てしまう。
「えっ、すごい……っ、いいですね! ギターとか?」
「そ、ギターやってるよ。まぁバンドは試行錯誤なとこあるんだけどさ。せっかくだから今メンバーの演奏風景とかを写真に納めてもらってるんだ」
「へえ……すごいですね。どんな音楽を……?」
「DEAL BREAKER って知ってるか? オリジナルもやるんだけど今んとこメインはそっちのコピーやってんだ。細々とだけどライブもやってるよ」
「えっっ!!」
声と同時に、ガラス製のテーブルを派手に鳴らしてしまった。その名前に衝撃を受けないはずはない。僕が「大好きです、ディーブレ!」と前のめりになって反応すると、彼も「ホントか?」と興奮顔になった。
「意外なところに同志だな。ライブ行ったことある?」
ああ、行きたい。行ってみたい。だけどまだ……。
「……行ったことないです」
「そうなんだ。んじゃ、今度うちのライブ観に来てよ」
「行きますっ!!」
さっきまでの赤面も忘れて、僕はたぶん彼以上に興奮状態だった。初対面の人とここまで盛り上がれたのは初めてな気がする。
神崎さんは大人で、天涯孤独と言ったそれも感じさせない前向きな感じの人だった。好きなことを追いかけているせいだろうか。明るい笑顔の奥に情熱を秘めているような、そんな印象だった。このときはまだ、気づかなかった。気づくはずもなかった。この人と身も心も深く関わる日がこようとは……。
帰りの車の中、優一は寡黙だった。
それに対して、僕はすっかり饒舌になっていた。
「神崎さんって、リードギターやっててボーカルじゃないみたいだね。今月末にライブがあるって言ってた。咲野と来いよって言われて……」
さっき神崎さんと会った最後のほう、優一に電話がかかってきて少し席を離れた間に、僕はバンド活動の話を彼から詳しく聞かせてもらっていた。週末にはスタジオを借りて個人で練習していること、バンド仲間は四人で、皆歳も近く仲がよいこと。DEAL BREAKERのファンだということでライブに来れば高城くんも彼らとすぐ打ち解けられるよ、などと言われたこと。最初、彼の父親の手記の話で僕は蚊帳の外だった。けれど同じ音楽を好きでバンド活動までやっているという奇跡みたいな巡り合わせで、僕は純粋に神崎さんと知り合えたことを喜んだ。
「連絡先、交換したのか?」
無表情で優一が訊いてきた。
「あ、うん。スタジオでやってる練習のほうも見に来いよって言ってくれて。今度行ってみることになったんだ」
「……そうか」
優一は前を見つめたまま、微動だにせず低く言った。
「うん」
「お前を口説くのに 『DEAL BREAKER』が必須だってのは知ってたけど、ふいにしてやられた感じだな」
「え?」
口説くって……。言い方にどきりとした。
「本に書いてたじゃないか。普段ギターで弾いてる音楽のこと」
あ。
──何を弾くの?
高校のとき、借りた本の最後に書かれてあった質問。あのやり取りは一度も話題にせず過ぎてきたけれど、優一の中に記憶としてちゃんとあったんだ。忘れられてると思っていた。あんなちっぽけなこと。
「あれからアルバムも揃えて、好きな曲だってできたんだ。まだ話してなかったけど」
「えっ、本当に?」
僕に合わせて、というより、あれがきっかけで興味を持って音楽を聴いてみてくれたということ? 優一がそんなことをしていたなんて、夢にも思っていなかった。
「『我慢ならない』っていうわりには、優しい曲が多いよな」
運転しながら優一は、グローブボックスを開けてCDを一枚取り出し、プレーヤーに差し込んだ。流れてきたのは、いつか好之に弾き語りで聴かせもした曲だった。曲の最初から最後まで独白で埋め尽くされた、ゆるいテンポのアコースティックな楽曲。多分このバンドで一番僕が聴いている曲だ。
優一は何も言わなかった。いつになく無愛想な彼の心の中にどんな感情が行き巡っているのか僕には見当もつかない。けれど彼と離れていた間、お互い同じ曲を聴いていたのだと思うと無性に嬉しくなってしまい、僕はそっと窓を向き目を閉じた。
僕と優一を結ぶ見えない何かがあるような、たとえそれが幻に過ぎなくても、そんなものがあることを信じたくなるような嬉しさだった。
18・弱点
日曜日の朝は、隣接するカフェの店番を任されている。シェアハウスと同じくここも白と茶色で統一されたインテリアで、広さはシェアハウスのリビングとキッチンを合わせたくらいだ。大きなガラス窓からは明るい陽射しが差し込み、一面に海が見えて解放感がある。真っ白な壁には色あせた色彩のポップな絵柄が額に入れられ飾ってあり、床とテーブルと椅子は深みのあるウォールナットの天然木でできている。そこかしこにユニオンジャックやタータンチェックのキルト、ビーフィーターを描いたコースターなど英国風のアイテムが置かれ、音楽はUKロックやブリットポップを中心に流すこの店の特色を醸し出していた。
そう多くはない客を眺めながら、僕はカウンターでのんびりと作業をしていた。みゆきさんは午前の一時間だけこのカフェの一角を利用して、スイーツ教室なるものを開催している。今日は地元の主婦や若い女性が数人集まってきていた。
そこに、シェアハウスの住人風原瞳子さんも参加している。瞳子さんは他の女性たちと談笑しながら、みゆきさんの講習を楽しんでいるようだった。僕はカウンターの内側でグラスを磨きながら、気になってつい彼女を見てしまっていた。
鼻筋が通った細面。笑顔が明るくて、話し声は比較的はっきりと芯の通ったものだ。ふんわりというよりは知的でシャープな雰囲気を纏っている。彼女を見ると、あの人に大切に思われている──そんなことを考えてしまい、僕の左寄りの胸には度々悲鳴のような軋みが生まれた。
店のドアにかかる昔ながらのベルの音がして、誰かが入ってきた。お客かと思い見ると優一だった。彼はゆっくりカウンターのほうへ歩いてきて僕の前にすっと腰掛けた。
「アイス珈琲、注文していいかな」
「あ、うん」
朝から自分が挽いた豆で珈琲を入れて飲んでいたのにまた珈琲なんて……。みゆきさんに教わった手順で、氷の入った背の高いグラスに飲み物を注ぎ、彼の前に差し出した。
「サンキュ」
そう言ったきり飲み物には手をつけず、手にしていたノートほどの大きさの本をめくり眺め始める。何かの資料みたいで、ページには写真がたくさん掲載されていた。
「この時間のバイト代出るのか?」
「うん、出してくれるって言われた」
「そっか。ならいいんだ」
僕たちが会話している様子に気づいたのか、瞳子さんがエプロンを外しながらこちらへ歩いてきた。
「ここ、いい?」
彼女はごく自然に優一の隣の席に着き、ふーっ、と一段落ついたとばかりに息を吐く。
「あっち、抜けたりしていいのか?」
「私は正式参加じゃないのよ。今日はもうお勉強しちゃったから大丈夫」
顔を綻ばせ優一に答えると、彼女は僕のほうを見て「サキくんと同じものをちょうだい」と注文を告げた。サキくん……。早坂先輩が優一をサキと呼んでいる影響なのかな。さっきに続けてアイス珈琲を入れ、彼女の前に「どうぞ」と差し出す。
僕の目の前に、交際疑惑の二人が並んでしまった。もっとも、僕はすでにその真相を知っているけれど。
こうして揃っているのを見ると改めて思う。きっと二人は誰からもお似合いのカップルと言われるだろう。どう見てもやはり絵になっていて、おのずと美男美女という言葉が頭をかすめる。人知れず息づく胸の中の想いがなぜかとても醜いもののように思えた。思わず後ろを向き、二人に気づかれないように溜め込んでいた息を吐き出した。
「クマから写メが来たのよ」
「またか? ぷっ……懲りない奴だな」
二人はそう言い出したのを機に、クマという人物の話を始めた。自然と耳に入るから、僕も話を聞きながら話題になっている人を思い浮かべてみる。彼は瞳子さんの親が何年も前に決めた歳の離れた許婚で、時々本名が飛び交うので、隈太郎という名前だとわかった。響きからしてなかなかインパクトのある古風な名前だ。どんな顔をしているのだろう。
いいかげん身を固めろと周りはうるさいらしいが、瞳子さんのほうはまだ学生で若いということもあり、彼にはきっぱり諦めてもらいたいと願っている。ただ、許婚の彼はそれらしいアピールをしてくるものの、決定的な求婚に乗り出してくるわけでもなく、態度が曖昧過ぎてきちんと断る機会すら得られないらしい。彼女も、両家の親も、彼の煮え切らない態度にヤキモキしているようだった。が、先日優一から聞いたとおり、二人は定期的に実家に顔を出して、彼からきっぱり諦め宣言を引き出すつもりでいるらしい。『諦めなくない』と言っていた優一の声が、耳の奥に強く残っている。
「ところで、サキくん」
「ん?」
「あなた、うちの兄とこそこそ何話してるの?」
優一の顔にわずかな緊張が走ったように見えた。ふと、先日の朝から行われていた電話のことを思い出す。
「いや、別に。お前の兄貴も心配してんだよ」
「まさかとは思うんだけど、あなた、私との約束を差し置いて、兄と裏で結託していないわよね?」
「というと?」
「あの人と私のことよ。兄はさ、子供の頃から私たちが一緒になるのを待ち望んでいたのよ。あの兄が、今は本当にサキくんと私のこと応援してくれてるのか時々不安になるの。充くんが冗談で言ってた。大金を叩けばサキはいつでも買収できるぜって。あなた兄と連んであの人と私の仲をどうにかしようとしてない?」
瞳子さんが、ぬぬっと顔を優一に近づけた。優一は何も動じていない。
「人を金の亡者みたいに言うなよ。人聞きが悪過ぎるだろ。どこの世界に恋敵に恋人を差し出す男がいるんだ。冗談きついな、瞳子は」
優一はやや眉を顰め、彼女を横目で見た。その視線を受けて瞳子さんがさらに疑惑の目でじっと見つめ返す。一瞬互いに強く視線を交わし合った二人から僕は慌てて顔を背けたが、動揺で手からグラスが滑り落ちてしまい、派手な音を立ててしまった。
「大丈夫っ? 玲人くん」
瞳子さんに心配されて顔を上げる。
「あ、大丈夫です」かえって慌てた声が伝わってしまう。
すると彼女は人差し指を口に当て、「今の会話は黙っててね」と茶目っ気のある顔で僕にささやいた。
夕食後の団欒はいつもあるわけではない。だがこの日は別部屋で食事をしている大学生の三人まで含め、一同が絶妙なタイミングでリビングに揃ってしまった。今朝みゆきさんが教室で作ったスイーツが振る舞われ、夜はメインリビングに和やかな輪ができていた。優一が大人の人数分だけ珈琲を淹れてきた。その中には僕の分も含まれている。カップの中にはちゃんとミルクが入っていた。
智彦さんが、リビングの脇に掛けていた自分のギターを出してきて、僕に得意なのを弾くよう促したので、少し躊躇ったけれど弾いてみることにした。智彦さんは自分の部屋からもう一つのギターを出してくる(何台持ってるんだ?)。彼はソファーに掛けている僕と向かい合わせで床に座り、ポロポロとギターの弦を爪弾き始めた。
「玲人くん、あれやれる? ほら、僕が一番好きなバンドの一番有名なあれ」
なんだその言い方……と呆れながらも、目を上にキョロキョロやりながら考える。「……ドンルクですか?」と言うと「ははっ、それそれ」と略したタイトルに受けながら彼は満足顔を見せる。得意なのを、と言っておきながら、結局智彦さんは自分の好きな音楽をやりたいようだ。
「凛と凪々もサビのとこ歌えるんですよ」
「本当か? 君たちやるねー」
英語の歌詞だけれど本を見ないでも歌うことができる、数少ない曲の一つだ。チューニングを済ませ智彦さんとキーを合わせると、僕がメインで智彦さんは所々でソロやリフを入れながら一緒に歌った。当然ながら大学生三人には注目されたが、皆気に入ってノリながら聴いてくれた。
優一は僕がかけている斜め向かいのソファーから、こちらへ視線を向けていた。音楽が醸す雰囲気に飲まれてだろうか、隣にいる瞳子さんと今にも身体が触れそうな距離に座っている。そんなに近づいていたらみゆきさんたちにバレちゃうのに……。心配とも嫉妬ともつかないもやもやが胸に渦巻き、痛みも容赦なくそこを刺してくる。瞳子さんが優一に何かを耳打ちすると、一瞬、優一の表情が照れたような変化を見せた。あんな顔見たの初めてだ。僕は顔を逸らした。
ただコード進行に沿ってストロークを繰り出している僕とは違い、智彦さんのソロはアコギアレンジとはいえめちゃくちゃカッコよくて鳥肌が立った。凛と凪々も加わったサビを皆で歌い上げて、曲を静かなアウトロで閉じる。最後の一音が消えると、自然と拍手が起こった。
田中さんと河野さんには口々に「高城くん、歌もギターも上手っ!!」ともてはやされてしまった。瞳子さんは笑いを堪えるような表情だったから、気遣われたのかもしれないけれど。智彦さんも満面の笑顔で僕を見た。
「玲人くんって、いい声してるよなぁ。こう……密度が高くて芯に響きがあるっていうか。きれいなミックスボイスだね。最高に楽しかったよ、また一緒にやろう」
大好きな曲を演奏できて、彼はすこぶる上機嫌だ。
優一を見たら、なぜか身体を仰向けに反らせ、朝から手にしていた本で顔を覆い表情を隠していた。……気に入らなかったんだろうか。音楽にあまり反応していない姿が少し寂しい。
「玲人くん、よかったよ」
瞳子さんがそばにやって来て、口元に両手を合わせて僕に笑いかけた。彼女は僕の耳元にこっそりささやく。
「サキくんの弱点なの、あなたの歌声。しばらく起動できないみたい」
そう言って、意味深にくすくすと笑った。
弱……点? 優一の前で歌ったのはこれが初めてなのに……?
天をつんざくような雷鳴が轟き、真夜中頃は辺りから一切の静寂が消えていた。あのあと、テンションが上がった智彦さんにお酒の入ったグラスを渡されて、知らずにグビリと飲んでしまった僕は、気づくと自分のベッドに寝かされていたのだった。目が覚めると外は嵐になっていて、窓を叩きつける強風が、再び眠りに落ちることを妨げた。
部屋のドアを開けて廊下を見ると、当然こんな夜中に出てくる者などいるはずはなく。皆、嵐だろうとかまわず深い眠りの中なんだ……。
夢を見ていた。さっきまで。
優一と瞳子さんが腕を組んで、二人で冗談を言い合いながら会話をしていた。彼らは僕を見ると、大事な話があると言って呼び寄せた。予感で鼓動が速くなったが、そんなことにおかまいもなくその言葉は放たれた。
「許婚の彼がついに諦めてくれてさ。俺たち、親公認で付き合えるようになったんだ。智彦たちにも交際のことちゃんと報告したし、まだまだ先だけど、いずれは結婚すると思うから。お前にも伝えておきたくて……」
幸せそうに二人は目を合わせて笑い合い、優一は「心配かけたな、玲人」と言って僕の頭を撫でた。目が覚めたとき、頬が冷たく、左胸が痛かった。
二階にある洗面所に行き顔を洗う。
ピカ……ッ。ゴロゴロ……ッ。
容赦なく暴れる稲妻と雷鳴。さっきより激しさが増したようだ。顔を濡らしてもまだ酔いが覚めていないのか頭がボーッとしている。靄の中を歩くように廊下を進んだ。交互に繰り出される右足と左足がなぜか自分のものではないような、ふわりと浮いた感触があった。
気づくと、僕は優一の部屋のドアをノックしている。かなり激しく叩いたのかもしれない。けれど音は吹きぶる雨音にかき消され気にならなかった。しばらくすると優一が眠たげな目を擦ってドアの隙間から顔を出した。
「ん、れいと?」
驚いた様子の彼が「眠れないのか?」と心配気に問いかける。僕は彼をまっすぐに見て言った。
「……して」
なかなか思うように声が出ず、喉の奥から絞り出すように言葉を出した。
「……え?」
「あのときみたいに……してください……」
もしかすると、それは口に出してはいけない言葉だったかもしれない。けれど夢の中のような空気に包まれているせいか、何も気にならなかった。
「どうしたんだ、玲人」
戸惑う優一にさらに言った。
「抱きしめて……欲しいんだ……あのときみたいに」
一瞬、辺りが昼間のように明るく照らされ、彼の顔が白く浮かび上がった。次の瞬間にはもう腕の中に包まれて、僕の身体はあの日のように強い抱擁を受けている。聞こえるのは、激しい雷鳴と窓を叩きつける雨風の音。理由も何も訊かず、優一の手がただ僕の髪や背中を優しく撫でる。
「もっと、つよく……」
つぶやくと、身体が胸に強く押しつけられた。薄いTシャツ生地の下の肌。うっすらと香水のような優しい香りがする。どくどくと耳に届く鼓動の音は、彼のものなのか僕のものなのかもわからない。大好きな人に抱きしめられる感触を、僕は心の奥で噛みしめた。
このままずっと、この腕の中にいたい。いられたら、いいのに。
小さく「ごめんなさい」と口にすると、優一は僕を抱きしめたままさらに腕に力を込め、「いつでもいいって言ったろ」と言って僕の頭を根気よく撫でた。
行き場のない感情を慰めるため、僕は彼の優しさを利用した。
ずるいよな。こんなの卑怯なやり方だとわかっている。
でも問題はないだろう、これくらい。
……どうせこれは夢なんだ。
19・親友の誤解
桜の季節も青葉の季節も、毎年僕は小さな旋律を聴きながら過ごしていた。なのに今年はあまり音を聴いていない。そういえば一昨年、夏の終わりとともに聴こえなくなってからは、ごくたまに小さな旋律を耳にするだけだった。でも今年の春、夕凪ハウスへ引っ越してきてから、またきれいな旋律が聴こえ始めた。青空の下で海を見たとき。夕焼けが美しい日に浜辺を歩くとき。そして、そばにいるだけで体温が上がってしまうその人をふと見るとき。しばらくはたしかに聴こえていたんだ。
けれどいつの間にかまた「音」は遠のいていた。思えば母を亡くしたあとは完全に止まっていたっけ。あの頃はそんなことに気づく余裕もなかったけれど。
もしこの音が、僕の平穏な心、幸せな気持ちと共にあるのだとすれば、聴こえないのは近頃気持ちが乱れることが多くなったせいだろうか。だとしたら仕方ないのかもしれない。叶うはずもない望みを、僕は抱いてしまったのだから──。
梅雨入り宣言からしばらく経った頃。雨は降らないが蒸し暑い六月末日の夜、珍しい客が夕凪ハウスを訪れた。
夕飯時、テーブルの脇に置いていた携帯がけたたましく鳴り、僕は慌てて立ち上がって場所を移した。電話に出ると、相手は藍沢好之。子供の頃から高校までずっと一緒だった気の置けない親友だ。
『玲人、久しぶりっ。あのさっ、突然だけど、今からそっち寄るから!』
「え、どういうこと?」
『お前がいるシェアハウスだよ! 俺近くまで来てんだ。ちょっと会って話したいことがあってさ。あと五分くらいで着くから! 待ってて』
「えーっ、急だな。……わかった、待ってる」
彼はきっかり五分後に夕凪ハウスのベルを鳴らした。
玄関で待ちかまえていた僕は、久々の親友との対面に自然と笑みがこぼれた。
「好之、久しぶり!」
「玲人ーっ、すげーじゃんここ! 映画とかに出てくる建物みたいだな! なんだこの吹き抜け、ゴージャスだなぁ……」
彼は会うなり建物の造りへ驚嘆を隠しもせず、目を輝かせてそんな反応をした。ここに越してからは一度も連絡を取っていなかったが、今度行く家はとても大きな洋館だと以前から伝えてあった。
「そんなにすごいか?」
「ああ。話には聞いてたけど……って、それより、ちょっと話があってさ」
こほん、と畏った咳をする。
「うん、まあ上がれよ」
好之を広い玄関から上げて、リビングへ連れてきた。皆はまだ食事中なのか、部屋にいたのは凛と凪々だけだった。どうせこの子らは好奇心から顔を出さずにいられなかったのだろう。
「おーっ。双子っ! 久しぶり」
「よしゆきーっ! なんでもっと早く来ないんだよっ」と凛。
「突然どうしたの?」あははっと笑う凪々。
三人がしばらくぶりの再会を楽しんでいると、ふと好之の動きが止まった。いや、彼はある一点を見て固まってしまっている。ダイニングから食事を終えたらしき人物がもう一人顔を出したからだ。好之は視線を固定し目を大きく見開いたまま僕の服の裾を掴み、ピンピンと引く動作をした。
「れいとっ、俺、今目の前に……、さっ、咲野先輩が見えるんだけど……。えっ? どういうこと」
わかりやすいほど動揺した反応に、一同がくすくすと笑い出してしまった。たしかに、彼には引越し先で誰と同居人になったという話をしていない。僕が説明しようとすると、
「藍沢。久しぶり」と優一がにこやかに声をかける。
「先輩なんですかっ、本当に?」
「ああ」
ここへ来た日の僕がそうであったように、親友もかなりの衝撃を受けている。まさか僕が住む家に咲野先輩がいるなんて、そりゃ想像もしていなかっただろう。けれど優一はこともなげにすっと僕のそばへ近づいてきて、ふいに肩を引き寄せてきた。えっ、と驚く僕に、にこりと微笑みかける。なんだか嬉しそう? その意図がまったくわからず戸惑っていると、何を思ったのか、彼は好之へ向かい飄然と言葉を放った。
「藍沢。俺と玲人、ここで一緒に暮らしてるんだ」
改めて報告するけど、と言わんばかりの、やや畏まった口調で。しかもあまりに自然な言い方だった。僕の心臓は、勝手にばくばく鳴り始めた。
「──え?」
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔の好之。
優一は「な、玲人」と僕の顔を覗き込み相槌を求めてくる。
「……っ、あ、優一っ」
否定もできず肯定もしづらい。僕の身体は優一に引き寄せられたまま彼にくっついてしまっているし、おまけに優一はじっと僕を見つめたままだ。これって、ただの同居人としてはいささか密着し過ぎているはずだ。けれどこの状況を上手く回避する方法が見つからない。
「……あのっ……それって」
好之がぽつりと何か言い始めた。
「あ……なんだ、二人とも名前で呼び合ったりとか、そっか、そうだったんですね」
指で鼻の下を忙しくかき、声がわずか上擦る。
「お二人って……なんだ。……俺、全然知らなくて」
「……って、えっ、なに、好之」
嫌な予感がして鼓動が速まった。好之は続ける。
「ここで一緒に暮らしてるって、つまりその、ど、同棲中ってことですか?」
「はっ、お前っ、何言ってんだよ」
完全に誤解された気がする。慌てて否定しようとしたのに、好之は畳み掛けた。
「あの……付き合ってんならそう言ってくれないと、のけ者にされるのは寂しいっすよ」
「つ、つきっ……待てよ、好之っ、 違うって……っ」
手を振り否定したが、好之の表情がそれを受けつけていないのは明らかだ。
「玲人そっか。お前やっぱり、先輩のこ……」
「わーーっっ」
情けないけれど、とっさに声を出して遮る他なかった。これは何重の意味でもまずい状況だ。
「凛ーっ、凪々っ、ちょっとこっちへ来てなさい」
突如みゆきさんが二人を呼んで、何やら言いかけていた彼らを、強引に部屋から連れ出していく。それはよかったものの、優一はこんなとき何も言わないんだよな。僕は深呼吸して、口を開く。
「あのさ、好之、僕たちは……」
「ちょうどよかったよ、玲人」
「え?」
僕の言葉を遮って好之の目がランと明るく輝いた。とっても都合がよいことを発見したときの目だ、これ。
「俺、お前に訊きたいことがあったんだ実は」
「なに……」
「岬 理恵って覚えてる?」
「え? ……うん。と、突然だなっ、どうしたの?」
覚えてるっていうか、彼女は……。
高三のとき、僕の隣のクラスの女子だった。急に呼び出され、好きだと言われた。驚いた。感じのいい子だったけれどあまりに突然過ぎた。僕の何を知っているんだろうこの人。そんなことを思いながら、照れた姿を眺めていたあの日。でも、それがなんなんだ。
「三年の夏休み明け、九月頃だっけ。お前が付き合っていた女の子。二ヶ月くらいで別れたんだよな」
「うん、……そうだけど」
話が逸れたことに胸を撫で下ろしながら耳を傾ける。とても短い間ではあったけれど、彼女とはその後なんとなくの成り行きで交際という形になっていた。今頃それがどうしたというんだ。
好之がおもむろに照れくさそうな顔になる。
「俺、実はさ。あの子と今そういう雰囲気っていうか……付き合えそうなんだよね」
「えっ、そうなのか?」
「ああ。玲人と別れてからも俺に色々訊いてきてさ。話してるうちに仲良くなったっつうか……」
「そ、そうだったんだ……びっくりだな」
寝耳に水だ。たしかに高校三年の一年間は、進路や勉強のこと以外多くを語らなかった時期がある。まさかその頃、好之が特定の、しかも僕がよく知っている女子と親交を深めていたなんて。本当に意外なニュースだった。
「それでさ、今度、真面目に交際したいってちゃんと告白したいんだけど、元彼の玲人にさ、未練とかそういうの、もう全然ないのかどうか念のため確認しときたくなって……それで来てみたわけ」
「み、未練って……そんなのあるわけ……」
僕が言いかけると、パッと顔が明るく輝き渡った。
「でもよかったよ! 未練どころか、お前っ、先輩とこんな……こ、こいび……いや、その、よかった、ほんと安心した」
さっきから彼女の話なんかを先輩がいる前で堂々と話す好之を不信に感じていたけれど、むしろ優一の前だからこういう言い方をしているんだ。今好之が言いかけたワードに頭が痛い。彼は完全に僕と優一の関係を……まずい、とにかくこれはまずい。
本人の目の前で、ありもしない想像をされるのは死ぬほど恥ずかしい。相変わらず心臓はうるさく鼓動し、さっきより胸が苦しくなってきた。言葉を探す僕の横で、優一がやっと口を開いた。
「玲人、お前彼女いたのか?」
──は?
「えっと、あ、少しの間だけ」
好之の誤解を解いてほしいのに、何を言い出すんだろう、優一は。なんだか目が恐い。そんなに意外だろうか。慌てながらも口が真面目に答えてしまっていた。
「告白したの、どっちから?」
追い討ちをかけるような問いかけ。
「え……」
好之が割って入り答えた。
「彼女からです、先輩。あいつずっと玲人のこと好きだったみたいで。それで告白したら玲人が意外にもオーケーだったんで。……でも玲人、ほとんど上の空だったって言ってて。別れたのも彼女からで」
言い出しておいて、声のトーンは徐々に神妙なものへと変化していった。
正直言って、あの頃の僕は、彼女との関係を真剣に考えてはいなかった。心の隅に存在していたわだかまりを追い出したくて、相手にはとても失礼な動機で簡単に交際を受けてしまったのだ。本当は彼女に悪いことをしたとの後悔もあった。だから、好之といい雰囲気だという今日の報告には少し安堵した。彼女をちゃんと見てくれる相手がいて。それが自分の親友だったことに……。これってなんだか最低かもしれないけれど。
「で、お二人は、その……いつからなんですか? やっぱりここに玲人が越してきてから、そういうことに?」
自分で言いながら照れくさげに問う好之に、今度こそやっと優一が反応してくれた。
「残念だけど、藍沢。俺と玲人はそういう関係じゃないから」
「え」
楽しんでいるのか、はにかんでいるのか、優一は奇妙な笑い方をして言った。その上、続けて飄々と説明し始めたそれは僕の想像の斜め上を行く。
「ここ、交際禁止ルールってのがあるんだけど……あれって男同士も適用されんだっけ? 確認してないんだけど、ま、たぶん無理で」
「はあ……」
な、何を……言い出すんだ。
「俺たちが付き合ったとしたらどっちかが退居しなきゃいけなくてさ。だから、俺と玲人は付き合えないんだ。期待に沿えなくて悪いな」
「え 、な、こ、交際禁止……って、そんなの、あるんですか」
好之は混乱している、明らかに。
なんでっ、そんな否定の仕方を?
「な、玲人」
「そ、……えっ、と」
再び相槌を求められても、返す言葉がない。
どんな意図でこんなことを言うんだ、優一は。まさか、盛大なボケなのかこれ。だとしたら求められるツッコミが高度過ぎる。
「玲人……」
好之がもう少し詳しく説明してくれ、と言わんばかりの目で僕を見る。こうなったら仕方ない。
「あ、えっと、好之、送るよっ」
「わっ、ちょっとおい、玲人っ」
混乱顔の好之の腕を掴み、ぐいぐい身体を引いて玄関を飛び出した。逃げるしかなかった。彼はもっといたかったのかもしれないが、僕に引きずり出され仕方なく抵抗を諦める。シェアハウス前の国道を横切り、そのまま駅方面へ夜道をとぼとぼ歩きだす。頭をくしゃくしゃとかき、腑に落ちない様子でしばらく考え込んでいた好之が、ふいに謝りだした。
「なんか、ごめんな。ひょっとして気まずい感じにしちゃったか? 俺さ、てっきり二人のこと……」
「ん、いいよ」
信じられない勘違いをされ、迷惑千万なのはたしかだ。でも悪いのは好之じゃない。あんな悪ふざけをする優一が悪い。
「でもさ、さっきの先輩のあれ。ルールさえなかったら玲人と付き合えるって意味なのかな」
「そんなわけないじゃん」
「でも……」
「あのさ、好之。お前に真面目に交際したい相手がいるように、優一にもいるんだ。そういう人」
「え、うそ」
僕自身が淡々と話すのに、親友のほうが僕を気遣うあまり悲痛な顔をしている。ずっと前から、好之が僕と優一のことを気にかけてくれているのを知っている。岬さんと付き合っていた頃「よかった、玲人。吹っ切れたみたいで」と呟いたことがあったし、別れたと知ったときは逆に「そうなんだ、ま、仕方ないか」とやけに物分かりのいい顔をして言った。名前こそ言葉にしなかったけれど、ずっと高校二年の夏の出来事を思っていたのだと思う。
「本当だよ、本人から聞いたし」
駅が近づき、街灯や店の明かりが歩道を明るく照らした。
「おまけにここに住んでるんだよ、その彼女。内緒で付き合ってるみたいで」
「彼女……って。本当なのかそれ……」
先日のカフェで、優一が瞳子さんと見つめ合った場面がよみがえった。歌っている間身体が触れそうなほど近い距離で座っていたことや、彼が彼女の名前を呼ぶときの親しげな慣れた感じとか、そんなこともくっきりと。
「ああ。さっきのはあの人なりの冗談だよ。男同士なんて、とか、そんなありきたりな反応したくなかったんじゃないの。ひねくれてるからさ、優一って」
「そう……なのか」
「子供の頃アメリカにいたらしくて。あいつがあっちで学んだのは逆輸入の合気道とスキンシップだよなって、知り合いの人が冗談ぽく言ってた。遠慮もなくあんなふうに絡んでくるの普通なんだ、あの人」
僕が言うと、好之はついに黙ってしまった。
「でも安心していいよ。未練がどうのっての。それが気になってたんだろ? 全然関係ないから。彼女にちゃんと言ったげなよ、好之」
「ん、ああ。わかった。ありがとな、玲人」
彼はためらいながらも素直に喜んでいる様子だ。
かすかに吹く夜風が、頬を冷たく撫でていく。
「あのさ、……優一しか見てないから」
「え」
好之が足を止めてこっちを見た。
「あの人のことしか考えてないんだよ、僕は。死ぬまでずっと同じ気持ちだから、安心してくれよ」
「…………」
駅の改札まで彼を送り、僕たちは手を振って別れた。好之は会えてよかったと言いながらも、僕を慮ってか、どこか寂しそうな顔をしていた。
家に戻ると、リビングがなにやら賑やかだった。智彦さんがまたギターを出してきて皆に囲まれているらしく、軽快なストロークが廊下まで響いていた。カフェでも時々流している大分前に解散した例の英国バンドの曲だ。さすがに今日は大学生たちもおらず、いつもの五人で楽しんでいるらしかった。
僕はそんな気分じゃないので、静かなキッチンに入り、暗い中冷蔵庫から水を取り出して飲んだ。好之に告げた言葉は、今自分は優一に本気の恋をしているという意味も同然だった。けれど、それでいいと思えた。冷蔵庫の扉をパタンと閉じると、明かりはリビングから漏れ入るかすかな光のみになった。
すると暗いキッチンに、誰かが入ってくる気配がした。明かりも点けず歩いてくる。その人影に、突然肩を掴まれた。なに、と声を出す間もなく勢いよく身体を後ろの壁に押しつけられる。捉えられた両手が壁に固定されると、キッチンの硬い壁面が背中に当たり冷ややかな感触を伝えた。鼻先にかかる吐息で、顔がもう僕の目の前にあるのを察知する。瞬時に僕の顔は熱くなり、心臓が早鐘を打ち始めた。
「……彼女、いたんだ。お前」
低く、どこか不機嫌な声が言った。
「それが……どうし……」
「そんな簡単に、誰かと付き合ったりするんだな、玲人も」
「ゆ……」
掴まれた手首が痛い。怒っている……?
「キスしたのか?」
「……っ、そんな、の。どうして……離して、優一」
暗がりの中で彼の表情を探るけれど、うっすらとした輪郭以外何も見えない。
「お前が彼女にしたキスってさ、こういうのだろ?」
僕の唇にふわりと何かが触れた。
「……っ」
あまりに急過ぎて頭が追いつかず、影にしか見えない目の前の顔を凝視する。
キスを……されたんだろうか?
まさか。
「違ったか、もっとちゃんとしたやつ?」
──?
状況が上手く飲み込めない。何か問いかけようとしても、握られた手首に指が食い込む痛みのせいか、それとも別の理由か、声まで思うように出せなかった。
「こんなキス……?」
考える間もなく、僕の唇に乾いた皮膚が触れた。今度ははっきりとわかってしまった。柔らかな感触とかすかに感じる息遣いで、それが優一の唇だと……。焦って身体を引こうとすれば、さらに強く密着してきて、僕の唇は蓋をされるようにしっかりと彼の唇で塞がれてしまった。呼吸が上手くできない。
んっ、と小さく声を漏らし身を捩ると一瞬唇は離れた。けれどすぐさま別の角度から遠慮のない力が唇を押しつけてきた。離されては、また塞がれる。何度も何度も甘噛みをするかのように、彼が僕の唇を捉える。
「んん……っ」
わけがわからず、ただ声が漏れる。
頭の芯を貫くような強烈な熱が身体を駆け抜けた。左胸が痛い。心臓がすごい音で鳴り、今ここに飛び出てきそうだった。
優一にキスをされている。優一に……うそ……だ。
何度も繰り返される口づけで、互いの皮膚が湿り気を帯び、それが離されるたびにちゅっと軽い音を立てた。僕と優一の間に起こるはずのない音が、暗いキッチンに小さく響く。
手首を掴んでいた指が這い上がって僕の指へと絡みつき、僕の手は強く壁に縫い止められた。一際強く唇を覆うように口づけられたそのとき、胸に、突き刺すような甘い痛みが広がった。頬を熱いものがつ、……と流れていく。彼は僕の耳元へささやくように言った。
「もっと激しいやつ?」
……身体が震えた。
かぶりを振り否定しようとするが上手くできない。すると突然に、優一は激しく僕の唇を貪り始めた。
これは何かのジョークなんだろうか。からかわれている──?
「んんっ……」
息ができないほど強く唇を吸われる。受け止めるのに必死だった。抗えないまま震える唇に吐息がかかり、容赦ない熱が僕を翻弄した。痺れのような感覚が身体に広がる。からかわれているのだとしても、たとえそうだとしても──胸は甘く疼き、意識の奥まで彼の熱に侵略される。激しく繰り返される行為に意識は徐々に遠のいていく。いつの間にか割り入ってきた舌が僕の舌に絡みついたとき、味わったこともない生々しい感触と衝撃を覚えた。
「ふ……んっ」
漏れる声と身体の震えは訴える力にすらならない。そのまま強烈に舌を吸引される。ぢゅう、と唾液が混ざり合う音がすると腰の辺りに電流が走り、膝が砕け落ちんばかりにがくがく揺れた。
こんな……優一……どうして……。
頭の中が甘い渦にかき回される。
すべてが熱くて、溶けてしまいそうで、もう何も考えられなかった。
「──誰かいるの?」
キッチンに明かりが点き、同時に僕たちの唇は離れた。
「こんな暗い所でなにし……」
「っ……、なんでもないよ、飲み物を取りに来ただけだ」
軽く口を拭い、優一が彼女のほうへ振り向いて説明したが、僕の頭は混乱したままで、壁際に顔を埋めたまま振り向けなかった。
「玲人どうかしたの……?」
みゆきさんの声。
「なんでもないって」
優一は、背中で僕の姿を隠しながら歩いていき、彼女の腕を捉えてキッチンから連れ出した。
冷たい空間の隅で、心臓が収まらない鼓動の音を打ち続けた。今起きたことのすべてが信じ難く、なぜこんなことをされたのか理由を考える余裕すらなかった。見開いた眼から、ただ雫が流れ落ちた。
20・我慢ならぬ者
「ごちそうさま」
夕食の席で早々に食事を終えて立ち上がると、皆が顔を上げる。みゆきさんが心配気に僕に声をかけた。
「あら、もう終わり? ちゃんと食べたの、玲人」
「うん、あまり食欲なくて」
食器には、ほとんど手をつけてない食事が残っていた。そのまま手に持ち流しへと運ぶ。凛と凪々も顔を見合わせて「玲人、夏風邪でも引いた?」「珍しいね」などと言葉を交わす。智彦さんは「無理することないよ」と言って気にも留めない様子だった。僕の向かいの席にいた人だけは、こちらに関心を寄せるでもなくマイペースに食事を続けている。淡々と。何も変わることなく。声をかけられず済んだことに胸を撫で下ろし、そのままダイニングルームを出て、部屋に戻った。
あれから、彼の顔をまともに見ていない。向かいの席にいても視線が合わないように配慮して食事も手早く済ませ、とにかく接点を最小限に留めるよう注意している。
顔を……見られるわけない。あんなことをされて。
彼の気持ちがわからない。瞳子さんという恋人がいながら……。僕は男だというのに……。
胸が痛かった。痛くて苦しくて、味わったこともない高揚感と、甘く疼くものが頭の中を支配していた。彼の唇が僕を求めてきたあの数分間。夢ではないかと何度も思った。指でそこに触れてみる。唇の熱さを思い出す。まさか……ひょっとして、そんなことあるんだろうか。優一が僕のことを好きだなんて。
手を伸ばしてはいけない望み。封印していた想像を、ゆっくり解く。
何事もなかったように振る舞っているけれど、優一の中にも僕と同じ気持ちがあるのだろうか。そうでなければあんなこと……。狂おしいほどの甘い想像にじわじわと胸が膨らむ。好きな人の唇と、伝わってきた熱、息遣い、皮膚の感触。絡み合った僕と優一の──。
鼓動が高まり始めたそのとき、突如携帯が鳴った。びくりと身体が跳ねて反射的にそれを手に取る。発信相手の表示は『神崎透』だった。
神崎、さん? こんな時間になんだろう。
ボタンをスライドさせ応答すると、大人びたバリトンが耳に届いた。
「高城くん、ども。神崎だけど」
「あ、こんばんは。神崎さん」
彼の用件は、明日バンドの個人練習で小さなスタジオを借りて練習するけど来てみないか、という誘いだった。僕は声をかけてもらえたらすぐに応じたいと前々から思っていたので二つ返事でオーケーをし、明日の学校帰りに彼の予約したスタジオまで出向くことが決まった。
「じゃあ、楽しみに待ってるよ」
「はい。ありがとうございます」
電話を切ると、とたんにさっきの想像に気持ちを囚われかける。込み上げてくる漠然とした期待のような何か。あり得ない、と思う。神崎さんの電話が少しだけ僕を冷静にさせてくれた。頭の中から暴走しそうな想像を必死で追い払い、その夜は音楽をかけながら眠った。
明くる日、最寄りの小さな駅で降り、神崎さんのいるスタジオへ向かった。地図どおりに進んでいくと、比較的道幅の狭い、駅から一直線に続く通りに、年季の入った小さな音楽スタジオを見つけた。ここだ。暗い色の壁には知らないバンド名やいかにもロックな単語の走り書き、破れたステッカーなどが貼りついている。
神崎さんは、愛用のエレキギターを抱えて機材の調整をしていた。僕を見ると明るい笑顔で手招きをしてくれたので、躊躇いなくスタジオ内のブースまで足を踏み入れる。個人練習と言っていたとおり、そこには彼一人しかいなかった。
「ジャーーン!!」
入るといきなり僕の目の前にスポーツタオルを広げて見せてきた。バンドで作ったオリジナル商品だという。大きなロゴでデザインされているけれど、目に飛び込んだ言葉に目を疑う。思わず二度見してしまったその文字は、
──『おきしとしん』。
え、たしか、撫でたり抱擁したりすると分泌されるとかいう脳内成分だったっけ。愛情ホルモンとか言われている……それはわかる。わかるけど……。
「な、なんですかっ、これ」
「ほら、言ってなかっただろ? コピーやってるとは言ったけど俺たち自身のバンドの名前はっ」
神崎さんの声は無邪気に弾んでいる。下がり気味の眉がいつもより愉しげに垂れている。
──ただ。
「ん? どうした高城」
──ない。
「え?」
──これはない。
悪いけど、カタカナならまだしもひらがなって……。うそだ、あまりにもかっこ悪過ぎる。誰がつけたんだ、こんな名前。申し訳ないと思いながらも、あまりのひどさにうつむき肩を震わせていると、
「あーーっ、高城っ、今笑ったな? 笑っただろっ」
彼は慌てて手をバタバタさせた。いい歳した大人なのに、その仕草がとても子供っぽくてさらに笑える。
「いえ、笑ってないです……っ。ぷっ」
「あーーっ、うそだっ、今笑った! おかしいか? そんなにこれ、おかしいかっ」
彼は相当焦っている。そりゃそうだよな。自分が力込めてやっているバンドの名前が失笑を買うなんて。
「あの……正直に言うと、えっと……」
僕がこほん、と小さく咳をすると、彼は唾をごくりと飲み込み、緊張顔になった。
「──ダサいです」
神崎さんは床までへたり込み、撃沈だった。
ギュイーーン、ズクズクズク……ギシャーーッ、ザクザクザク……
ディストーションをかけたギター音がブース内に響く。歪み系サウンドは僕が弾くアコギにはないので迫力があって格好いい。神崎さんの担当はリードギターだ。その日はいくつものリフ、ソロパートなどを弾きながら、僕は音響や雑多な用事をあれこれ手伝ったりしてあっという間に時間は過ぎていった。バンド名に関しては、まぁそこはバンドあるあるなんで、ってことで強引に片づけ、真面目に音楽に関する色んなことを彼と話した。
その半分ほどは、僕たちの共通点であるDEAL BREAKERの話題だった。僕が歌詞やメロディー、ボーカルの人柄などを話題にするのに対し、神崎さんは音楽理論的なことやサウンドへの印象、感想が多かった。あそこのベースとギターの絡みがカッコいいだとか、イントロのインパクトが秀逸だとか、そんな内容だ。僕がこれまであまり注目してこなかった点を彼はたくさん指摘してきて、聞いているだけで新鮮で胸が高鳴った。
音楽とは無関係な話題もあった。彼が今しているバイトの話。亡くなった父親の病気のこと。彼は天涯孤独と言っていたが、聞いてみると大げさな話ではなく、本当に身寄りは誰もいないようだった。身元引受人や保証人になってくれる存在がいないので、今はバンドのリーダーである、彼より二個歳上の男性に、その役目を引き受けてもらっているのだという。
その話を詳しく聞いたとき僕の胸にあったのは、紛れもない彼への親近感だった。僕にも両親がいない。母は五年前に亡くなり、父は家族を捨て去り消えた。義理の弟妹は家族だけれど、血の繋がった兄弟はいない。
知り合ってまだそれほど経っていないのに、気づくと神崎さんにはたくさん身の上話を語っていた。僕と神崎さんには共通点がたくさんあるように思えたし、彼は実際僕にそう言った。「高城だから言うけどさ……」神崎さんはすぐそんなふうに切り出して、衒いもなく色々な話をしてくれた。
初めてスタジオで練習の手伝いをしたその日。笑い合ったり、音楽談議で盛り上がったり、神崎さんとはずいぶん距離を縮められた気がする。また来いよ、と言われ、はいと即答した。自然と彼は僕のことを「高城」と呼び捨てで呼ぶようになっていて、別れ際、僕もそれに合わせ「透さん」と呼んでみた。彼はふいに照れたように手で頬を忙しく摩る動作をしてから、「うん。またな」と満面の笑みを見せた。
そんな夜、携帯にメッセージの通知が入っていた。見ると神崎さんからで、
『次のライブまでにまた練習やりたいから、〇〇日来れるかな。今度は一緒にご飯も食べよう』とあった。すぐさま『行きます。よろしくお願いします』と返す。
歳が十以上、上。気さくで優しくて面白くて、彼といるとリラックスできたし、素直にただとても楽しかった。
朝から陽射しが強かった。
いつの間にか、季節は本格的な夏へと突入していた。数ヶ月前に越してきたこの街も、八月の強い光に満ちあふれ、街路樹は輝き、熱を帯びた風が潮の香りをまとい街なかを吹き抜けていく。シェアハウスの近隣の浜辺は日々観光客で埋め尽くされるようになっていた。だから皆でのんびりと海に出ることはめっきりなくなっていた。
空を見上げると、突き抜けるような青と入道雲の白さが眩しい。
そのとき、小さなアルペジオが流れるように降りてきて、おのずと僕の口元が動いた。ここへ来てから春の海辺ではよく聴いていたけれど、なぜだろう。景色を見ても音は徐々に聴こえなくなっていたから、本当に久しぶりで懐かしい気すらした。景色以外からの音は──聴こえる気配すらなかった。高校の頃いつも聴いたメロディーは、もうずいぶん遠い記憶になってしまった。
あれから度々透さんと過ごすようになり、僕はあの動揺する出来事から少しずつ気持ちを切り替えることができていた。会いにいく日は必ず一緒にご飯を食べたし、ときには練習が長引いて遅くなり、夕食の時間に差し掛かるほど帰宅が遅れることもあった。そんな日は、必ずみゆきさんに連絡を入れて断るようにしている。皆で和気あいあいと夕飯を食べる習慣が出来上がっている夕凪ハウスでの生活。その空気を壊してしまうような僕の行動は歓迎されないのではないかと思う。それでも透さんと楽しく話が弾んだ日は、それを断ち切って帰路に着くことが困難だった。
どこかに、優一と会うのを避けたいという思いがあるのかもしれない。彼に会ったとき、僕はどういう顔をして向き合えばいいのか、いまだにわからなかったから。
その日は透さんと、コンビニで買った夕食をアパートで一緒に食べていた。ふと彼の携帯の呼び出し音が鳴る。優一からだった。
「咲野か。おう、その後どうかな」
会話からすると、あれから頻繁な連絡はしていない様子だ。
「えっ、ホントかっ。おーーやった! ありがと。まさか掲載してもらえるなんて、ありがたい」
彼の父親の手記の件だ。透さんの話ぶりからわかったのは、どうやらサイトの運営会社のほうで、病気の種類からして希少な闘病手記であるということが評価され、特集コーナーで取り上げてくれる運びになったらしい。来月頭には記事が掲載されるとのこと。
透さんは優一と電話で話しながら、深く感じ入ったように言葉少なくなった。時おり静かにうなずきながら返答している。僕も、自分のことのように嬉しかった。目的が果たせて本当によかったと思う。
「お礼は充分にさせてもらうよ。……いや、させてくれって! あ、それとお前、書いてくれたんだな。実は昨日読ませてもらったよ」
彼が付け加えて言ったそれは、優一が個人的に書くと言っていた記事の件だろう。
「あれ読んで思ったんだ。本当に、頼むのお前以外考えられなかったよ。俺が想像してた何倍もいいの書いてくれて……感謝で言葉も出ない」
世の中には色んな人種がいる。
友人や知人や身近な人間のために平気で骨折ったり世話してあげたり、そんなことを特別好む人間が。そういうことが好きなんだろうな、と思っていた。優一という人は。僕に対して然り、透さんに対して然り。あの人のそんな性格は、人間関係に乏しい僕には眩しくもあり、切なくもある。
「あ、高城ならここにいるけど?」
突然二人の話が切り替わり、透さんがこっちを見た。僕はさっき家のほうに『今日は知り合いと夕飯食べて帰るから遅くなる』との連絡を入れたあと携帯の電源を切っていた。なんとなく、誰かからの反応が怖かったからだ。誰かというよりまさに今電話の向こうにいる人からの。
「高城、咲野が代わって欲しいって」
僕は首を横にブンブンと激しく振った。
すると透さんは「出るの、嫌がってるけど」と軽く告げる。そのまましばらく話をしていたが、ついに彼は電話を切った。
「……咲野とケンカでもしたのか?」
食事を終え、小さな台所からお茶を出して煎れて小ぶりなローテーブルの上に置いたとき、透さんがそう尋ねた。
「別に……」
小声で返してはみたけれど、携帯を切っていたり、電話に出るのを拒否したり、どう考えても通常でないのはバレているはずだ。それでも答えられなかった。
「あのさ……」
透さんは畳の上に胡座をかいたまま、徐々に声のトーンを落とした。
「高城って……咲野のこと好きだろ?」
衝撃でズキンッと胸が痛む。
「……わかったんだよ俺。ほら、この前三人で会って、あいつがお前の髪触ったときさ、高城すげー赤くなってたし」
膝を立てて座り、僕は体を丸めて顔を脚の中に埋めた。
すべて気づかれていたんだろうか。
「高城ってそういう反応するところ、ホントかわいいよな。……これまでにないタイプだよ」
「…………」
顔をまだ上げられない。
「咲野にもかわいいとか言われるだろ?」
また首をブンブン振る。変なこと言わないでほしい。優一には瞳子さんという恋人がいるんだ。
僕がいつまで経っても顔を上げないせいか、透さんは、棚にしまってあるCDアルバムを一枚取り出してきた。床に寝っ転がり脚を組むと、それを高く掲げ眺める。
「……我慢ならない、ってことだよな」
「え」
「これ、DEAL BREAKERってバンド名。元々交渉を決裂させるって意味らしいけど、恋愛とか日常でも〝我慢できない者〟とか〝譲れない自分のルール〟みたいなのを指して言うみたいなんだ。バンド名としては、なんかロックな感じでいいけどさ」
──そのわりには優しい曲が多いな、と以前優一が言っていたのを思い出す。
「俺も、あるんだよな。自分の中の〝ディールブレイカー〟が」
顔と膝の隙間から透さんをこっそり覗くと、彼はため息を吐き出したようだった。
ディールブレイカー。
透さんにとっての我慢ならない者、か。
それって何だろう。純粋に好奇心が疼く。
彼はぽつりと言った。
「……同性愛を本人の目の前で蔑む奴ら、かな。これだけは我慢ならないな。そもそも人の恋愛をとやかく言う奴!」
僕は顔を上げて、彼を見た。同性愛というワードを直接吐いた彼の真意が知りたかった。
「実をいうと、さ。俺もそうなんだ高城」
「……?」
「俺……男が性的対象なんだ。こう……どっか儚げな感じの……そういうタイプの子が」
「え、男……」
「そ。高城みたいな──」
シェアハウスへ戻ると、広い玄関の一角に一番顔を合わせたくない人物が立っていた。まるで僕の帰りを待ちかまえていたみたいにこちらを見ている。優一は僕がドアを開けて入るなり暗い声で「おかえり」と声をかけてきた。こくり、とただうなずいて無言のまま靴を脱ぎ、廊下を進もうとすると、腕を掴まれた。
「……っ!」
とっさに手を振り払うと、優一が低く言った。
「遅いな」
そのまま無視して歩き出せば、背後から話しかけてくる。
「ずっと神崎のとこにいたのか」
はたと立ち止まる。
「そんな頻繁に会う必要あるのか?」
仕方なく振り向き、廊下の一点を見つめて言葉を吐いた。
「練習の……手伝いしてるんだ。何か問題でも?」
「凛と凪々が心配してる。みゆきたちも」
「家族──だから?」
なぜわざわざそんなことを言ってしまったのかわからない。ただ、彼が言いたいことはそういう意味なんだろうと思った。
「ああ、そうだよ。いくらなんでも、お前学校やバイトだってあるのにこんなにしょっ中……おかしいだろ」
「心配されるような年齢じゃないと思うけど」
まだ顔は見られない。反発的な言葉しか出なかった。
「今日、メシ担当じゃなかったのか?」
……!
そのことはすっかり忘れていた。
「お前そういうの平気ですっぽかす性格じゃないのに、こんなんだとさ、そりゃ心配もするだろ」
「…………」
言葉に詰まる。ここで作っていた決まり事すらすっかり忘れてしまうほど、僕は透さんと会うことに夢中になっていた。でもそれは全部……誰のせいだと思っているんだろう。
「悪かったよ。……あんなことして」
小さく優一が言った。
鼓動の音がやたら煩くなる。
僕は何も言えず、ただ自分の足元を凝視していた。
この人とあれほど密着して唇まで合わせたことが、嘘みたいに思える。『悪かった……』たったそれっぽっちの言葉で片づけられることなんだろうか、優一にとっては。僕がこれほど動揺しているというのに……優一は……。
「お前って、相手を払い退けたりしないんだな」
気持ちの中で何かがぷちりと切れた。
「な……っ」
勢いで顔を上げ、彼を見る。
「たとえば、神崎に同じことされても、お前は抵抗しないのか?」
「は? なんだよ、それっ」
「俺を殴ればよかったんだ」
これ以上優一と話すのは嫌だった。
階段を駆け上り、自分の部屋へ駆け込むと、バタンッと派手な音を立てて個室のドアを閉めた。
キスをされた……あのときとは違う涙が頬を伝った。
この甘やかな刺激を持て余していたのは僕だけだった。彼にはそんな気持ちなど更々なかった。からかって反応を見ていただけだったんだ。一瞬でも勘違いしそうになった自分が情けない。あんな熱いキスをされた僕は、優一にとって特別な存在なのかもしれないと一瞬でも考えてしまった自分が、死ぬほど憐れに思えた。
優一と出会ってから、泣いてしまうことばかりだ。
21・ライブの日
夜の海辺を歩くのは中学生の頃以来だった。
真っ黒に渦巻く潮の高なりと怒涛の唸り声を聞いていると、いつも心を落ち着けられた。母を亡くしたあと、何度か地元の海へやみくもに飛び出していったことがある。波打ち際まで駆けていき、暗い水平線へ向け行き場のない怒りと悲しみをぶつける。真っ黒な波間にあっけなく飲み込まれてしまう声。光を失った自分はあまりに小さく非力だった。
びゅうう……と強い陸風が吹き抜けた。
こんな真夏でも夜はさすがに肌寒さを感じる。
先日透さんは、自分をゲイだと言った。気づいたのは十代前半頃だったらしい。僕のことを好みのタイプだと言ったけれど、恋に落ちるかどうかは別の話だよ、と笑った。それに常に男に欲情しているようなイメージを持たれるのも悲しいからやめてくれよ、と。けれどそう言った先から、咲野がそんなにいいか? 俺に乗り換えない? などと冗談めかして言う。僕と透さんとの間に、同性を好きだという共通点が加わった。距離を置きたいなんていう感覚はこれっぽっちもない。同じ男にこんな感情を抱いてしまう苦しみを共有できる相手など他にいはしなかった。どうしてこんな意味のない感情が生まれてくるんだろう。僕にも、透さんにも……。
夜の砂浜をひとしきり歩き部屋に戻った。暖かな部屋に入ると、不思議と心は落ち着いていた。
月末が近づいてきて、透さんから伝えられていた『おきしとしん』のライブ日が迫っていた。彼からは、咲野と一緒に来いよ、と言われている。優一も個人的に誘われているのかもしれない。どうするんだろう。優一は行くんだろうか。
ライブを翌日に控えた、八月最後の土曜日。隣の市では、毎年恒例らしき海上花火大会が開催されていた。海に面したリビングの窓から、独特の聞き慣れた音が連続して響いていた。
今月初頭にはこの市でも花火大会があり、僕以外は皆繰り出していったというのに、元気な人たちだ。みゆきさんと凪々などは飽きもせず、またしっかり浴衣を着込み出かけていった。見ると、建物の反対サイドに住む大学生たちの部屋も暗く静まり返っていて、人がいる気配がなかった。皆本当に好きだよな。
誰もいないリビングで明かりを間接照明だけにしてソファーに腰掛け、ぼんやりと外の音に耳を澄ます。
花火は苦手だ。本当は好きだったのに、観るのがつらくなっていた。凛と凪々を連れ何度か足を運んでみたが、よみがえる想い出に心が挫かれるばかりだった。一年のうち特別楽しみにしていた日。幼い頃からたいてい母と二人で出かけ、一緒に空に咲く大輪の花を眺めた。毎年繰り返される当たり前の光景だった。今はこうして距離を置き、音だけ聴いているのが一番いい。
今日は、皆が出かけていったのだと思った。
瞳子さんもいないようだから、当然その彼氏もいないのだろうと高を括っていた。飲み物でも取ってこようと立ち上がりキッチンへ入ろうとしたとき、リビングに誰かが入ってきた。彼は出かけていなかった。
「……いたのか」
優一のほうも、僕が皆と出かけたと思っていたらしい。思いがけずこの家に二人きりになってしまった。
「作り置きしたアイス珈琲があるんだ。ソファーにかけてろよ、今持っていくから」
僕が飲み物を取ろうとしていたことを察知してか、そう言って僕を座るよう促し、自分は冷蔵庫の中からガラスのボトルを取り出してグラスに注ぎ始めた。
カランカラン、と氷の音がする。冷たい珈琲が咽頭を滑り落ちていく。
僕の向かい側のソファーに腰掛けた優一と、平和な空への打ち揚げ音を背後に聞きながら、薄明かりのリビングで一緒にアイス珈琲を飲む。苦い珈琲。本当はこんな味少しも好きではないのに。背伸びをしてしまっていた自分が、とても哀れに思える。
打ち砕かれた期待の残骸は時々胸を刺す。
だけど、あれほどやるせなく淀んでいた気持ちも、今はどこか収まりがついていた。
──好かれているわけじゃない。
そう思えたことがむしろ潔く心に決着を付けてくれたのかもしれない。
「明日、ライブ一緒に行こうか」
「……うん」
ごく自然に彼が問い、僕も自然にそう答えた。
携帯が鳴った。真夜中、こんな時間に誰だろう。飛び起きて電話に出ると、透さんだった。どこかいつもとは違うぼやけた調子の声だ。
「やあ、たかしろ……」
切れの悪い言い方。彼は酔っているようだった。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「悪りぃな。どうしても声が聞きたくなって」
明るい笑顔が印象的な人なのに、声はいつになく翳りを帯びている。
「透さん、お酒飲んだんですか?」
僕の問いに彼は答えず「……すごくさ、楽しいんだよ」と明後日の方向から返してきた。
「え、何があったんですか」
「お前といるとさ。俺すごく満たされるっていうか」
「透さん、飲み過ぎですよ」
明日ライブなのに、と言いたかった。でも彼の醸す雰囲気がなぜかそれを阻む。
「高城、俺のこと気持ち悪いか?」
「そんな、全然、そんなことないです。僕だって同じなのに」
「高城と俺って……出会う運命だったのかな。俺、お前といるだけですげー幸せなんだ」
透さんの言葉は、どこまでもピュアで心が震えた。お酒に酔って出た言葉だとしても、彼の本心なのだろうと思える。僕が静かに耳を傾けていると、彼は切なげに吐息を吐き出し、つぶやいた。
「死ぬまでに、あと何回こんな幸せな気持ちになれんのかなぁ……」
──死ぬまでに。
突然飛び出した重い単語。とたんに気持ちが乱れた。
しかしそれは一瞬のことで、すぐさま彼は口調を戻して言った。
「ところでさ、明日来てくれよな高城。お前に伝えたいこともあるし。それだけ。じゃあな、いい夢見ろよ」軽く笑うと、こともなげに電話を切った。
まったくいつもの彼だ。さっき見せた暗さは何だったんだろう。しばらくの間、頭の中を思考が駆け巡ったが、やがて僕はそのまま眠りに落ちていった。
会場は意外にも広く、三十人ほどだろうか。よくもまあ、あのおかしな名前のバンドのためにこれだけ人が集まったものだと感心してしまう。オリジナル曲も演奏するとはいえ、半分は某バンドのコピーサウンドなのだからあやかった人気であるには違いない。でもやっぱり、透さんのバンドが人気があることは素直に嬉しかった。
音響がばっちり効いた薄暗い会場にて、僕はなんとなく気後れして、後部に併設されているバーのカウンターにもたれかかりステージを眺めていた。隣には優一がいる。僕と優一の距離は二十センチもなく、手を少し伸ばせば触れるのも容易な近さだった。これほど接近したのは、心を乱されてしまったあの日以来だ。ここへ来るまでも、電車の中ではお互い何も語らず、目を合わせることもなかった。
なんとなく僕の視線を感じたのか、優一がこちらをちらと見て、再び無言のままステージへと視線を直した。暗い会場に点る照明が、彼の輪郭を滑らかに浮かび上がらせる。いつもと違う角度の横顔。無駄のない頬や顎のラインに不覚にも見とれてしまう。胸がきゅうと締めつけられた。
透さんは、フロントマンのイメージを勝手に持っていた僕の予想とは違い、話に聞いたとおり一歩下がった位置で、メロディー寄りのギターポジションをやっている。彼はライブ開始から、終始活気ある表情でパフォーマンスを繰り広げていた。
僕が好きなディーブレの楽曲が次々と演奏される。隣にいる優一と同じ曲を聴いている。聴き慣れた歌声とは違うけれど、いつも弾き語りをしていた曲、電車の中でよく聴く曲。僕の生活と密着した馴染みのメロディーを、こうして生で、優一と並んで聴いている。そのことがなんだか不思議に思えた。優一はどんなことを感じているんだろう。
会場に来た人たちはほとんどバンドのボーカルがお目当てのようで、黄色い声に加え時々野次が飛んだりもして、客層は得体が知れなかった。
ライブも終盤に差しかかった頃だ。
ボーカルの彼が「えっと……今日は、実はギターの神崎くんの誕生日で……」
そう言いかけると、ノリのよい客がヒューッと口笛を鳴らす。
彼は続ける。
「一分だけ彼にマイクを渡そうと思います。神崎、何か言ってくれ」
透さんがステージの真ん中へ出てきた。彼は僕と優一がいる場所をすぐ察知したようで、こちらへ向けて、
「今日友人が来てるんだ」
と言って、手をひらひらさせ笑顔を見せた。そうしたかと思うと今度は咳払いをし、マイクを掴んだ。
「えっと。牧くんの計らいで少しだけ時間をもらいます。今日誕生日なんで、ははっ、ありがとう! ……えっと」
透さんは楽しそうだ。昨夜のこともあり、朗らかな表情にほっとした。そうしていると、わずかに緊張した表情を見え隠れさせながらおもむろに語り始めた。
「みんなは、好きな人っていますか? あ、ははっ、なんだそれっとか言わないで。ちょっと聞いてください。えっと……」
再度、彼は咳払いをし息を整えた。
「俺、好きな人ができたんですよ。誕生日だから、記念に今日ここで告っちゃっていいかな?」
最前列のほうから口笛が飛んだ。「いいんじゃないのー!」「よっカンザキッ」などと声をかけられている。客の中には彼より歳上らしき人物も多くいた。おっさんくさい、と言ったら申しわけないけれど、ライブというより飲み会とかそんなノリにすら見えてしまう。
……それにしても今の言葉。何を言い出すのだろう。一抹の不安が胸をよぎった。彼は僕がいる方向へ視線を投げた。そこには真剣な表情が浮かんでいて、僕の胸はどきりと鳴る。
「えっと……」
透さんが喋りかけたのと同時に、優一がすっと僕の手を握ってきた。驚き、思わず隣の彼を見る。優一は、あからさまに顔をしかめてステージ上を凝視している。僕はたじろいだが、今は透さんの語ろうとする言葉に集中するしかなかった。
「ここにいるから、思い切って言っちゃいます。……えっと、高城」
「えっ」
名前を指され、身体がびくりと動いた。
「俺っ、好きなんだ、お前のこと。俺と付き合ってくれないかな」
一瞬何を言われたのかわからなかった。さっきまでと打って変わり、ざわりとした妙な空気が会場に漂った。サイドのほうから女の子たちのきゃっという声が聞こえる。
何が起きたんだ、今。透さんが、僕を……?
客たちは、彼が名指した相手が男である事実に気づいていないようだ。辺りをキョロキョロ見回している人もいる。公私混同になりかねない彼の発言が波紋を招き初めているのを肌で感じる。
どうしたらいいんだろう。取るべき態度がまったくわからず立ち尽くしていたら……
──!
ものすごい勢いだった。
優一が、握った僕の手に強く力を込めたかと思うと、とたんに元来た方向へ大股で歩き出した。僕の身体は容赦なく彼にぐいぐい引っ張られていく。騒めく会場を抜け、気づくとあっという間に二人で建物の外へ飛び出していた。
「帰ろう、玲人」
「えっ、ちょっ……優一っ」
掴んだ手の力は少しもゆるむことなく、僕の身体は会場前の歩道を力まかせに引かれていく。
「透さんに……っ」
その力に抗い足を止めると、優一は目を瞠り声を張り上げた。
「お前っ、わかってんのか? 告白されたんだぞ、あいつに。戻る必要なんてないだろ」
「……っ」
優一の指が僕の手に食い込んだ。こんなに迫力ある声で、焦った表情で、何かを訴えられることは初めてだ。ざわざわと胸がさわぎ立つ。
「でも……何も言わずに帰るなんてっ」
「お前、バカか。あいつにオーケーするつもりか?」
「っ……で、でも」
会場に留まることが、告白に同意することに直結しているみたいだ、優一の頭の中では。顔に浮かんでいるのは明らかに怒りだった。こんな顔を見るのは初めてだ。強引なところがあるのは知っているけれど、ここまで強い反応をされるなんて。
「やめろ。もう二度とあいつに会うな」
「どうして優一がそんなことっ……僕が誰と会おうと……っ」
横暴な物言いにカチンときた僕は、自分が徐々に冷静さを失っていくのを感じた。僕を掴んだ手を振り払おうともがく。
「心配してるのがわからないのか」
「優一は……っ、僕の、保護者なわけ?」
ずっと彼に放ってみたかった言葉。優一は、僕の何になろうとしているのだろう。助けたい、放っておけない、そんな彼の欲求を満たすための道具にされているんじゃないだろうか。あんなふうにからかわれたことも含めて……全部。
「……きだから、言ってるんだ」
打って変わり小さな声が何かを言った。
よく聞き取れないまま僕は反論する。
「家族、……そう言いたいわけ?」
「違う」
「なにが違うんだよ……っ!」
「俺は……っ」
──優一がわからない。
「関係ないじゃん! 優一には関係ないだろっ、僕が誰と付き合ったって! 男だからいけないの? 男同士ってそんなにダメなのかよ?」
頭に血が昇り、感情的な言葉しか吐けなかった。ふざけてる。こんなのひど過ぎる。優一は僕のなんなんだ。なんでそんなに僕にかまうんだ。
「何言ってんだお前、付き合うとか、本気じゃないだろっ」
焦った声で、けれど変わらない強い声で、僕を責めてくる。
「まさか本当に、神崎が好きなのか……⁈」
「だったらなんだよ! 気持ち悪いんなら、手を離せよっ」
投げ捨てるように冷たく言い放つと、優一は顔を歪ませて僕を見ていた。
「もう僕にかまうなよっ、お節介だって気づかないの? 優一、僕のことにでしゃばり過ぎなんだよ。迷惑なんだ、もうっ」
彼の手を完全に振り払い、拳を握りしめた。
本当は、本当はそんなこと言いたくなかった。優一がくれた優しさは、今もずっと僕の心の中にあり、それを拠り所としている自分がいる。抱きしめてくれたあの日から、それがあるから立っていられる気がしている。なのに……今それを自分で打ち壊そうとしている。わかっている。でも──……
苦しいんだもう。優一とこうして向き合うのは……。
「瞳子さんとよろしくやってれば?」
「……っ」
会場にも家にも向かわず関係ない方向へ飛び出した。
暗い道をがむしゃらに、力一杯駆けた。やがて彼の姿が見えなくなると、肩を落としたまま歩道を歩いた。行き交う人々や車の音が騒がしい大通りへ出るとタクシーを拾い、自分の行動の意味がよくわからないまま行き先を告げる。
かつてなく優一に反抗した。あんな態度と言葉しか出てこなかった。
『心配しているのがわからないのか』
心配だって? 僕が聞きたいのはそんな言葉じゃない。
……好きだと、言って欲しい。
お前が好きだからあいつに取られたくないんだと。
俺が好きなのは瞳子じゃなくお前なんだと。
そう言って欲しいんだ、優一……。
車道を行き交う車のテールランプが、滲んだ視界に赤く尾を引いていた。ラジオから音楽が流れてきた。母がよく口ずさんでいた古いスコットランド民謡だ。
『The water is wide……』
瞼を閉じて耳を澄ます。カーラ・ボノフの温かでさらりとした歌声が、シンプルながらも鮮烈に懐かしい旋律を歌い上げる。小さな頃、歌詞の意味を母に尋ねたことがあったっけ。
『──この歌はね、玲人。人を愛する重みに押しつぶされそうで、生き方がわからなくなって、そんな気持ちをね、広い海の向こうへ沈まずに渡っていけるだろうかって……そう喩えながら歌っているのよ』
遠い水面の向こう岸を眺めるような目で母は微笑んでいた。
頬を冷たいものが伝う。あの家へ戻りたかった。夜を駆け抜ける車は、僕の身体を海辺の町へと運んでいく。見慣れた懐かしい風景が視界に飛び込んでくる。
帰りたかった。ずっと暮らしていたあの家へ。
彼のいないあの場所へ。
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