目次
第三章 交 錯 す る 想 い
22・夢の中なら
風が海へと吹いている。
遠く懐かしいあの声は聞こえない。
僕は一人だ。本当は一人ぼっちだ。
消えたってよかったんだ、母が亡くなったあの日。
けれど、繰り返す日々に追われここまできてしまった。
今聞きたいのはただ一人の声。欲しいのはただ一人のぬくもり。
なのに今は、いつも聞こえたあの音すらどこにもなかった。
たどり着いたのは、十八年間暮らした懐かしい葉山の家だった。突然の思いつきで来てはみたものの、空き家となり鍵でかたく閉ざされた扉は開いてくれるはずもなく、僕は仕方なく近くの海岸へ出ていった。しばらくの間暗がりの浜辺をそぞろ歩き、夜の十一時を回った頃、他に頼るあてもなく好之に電話をした。軽く事情を話すと、彼は何も言わず僕を家に泊めてくれた。
海辺のシェアハウスへ戻ったのは、ライブを抜け出してから二日経った夜だった。
両開き扉の玄関を抜け廊下からリビングを覗くと、皆食事を済ませて部屋へ戻ったあとらしく、そこは静まりかえっていた。ふと足元に気の抜けた声がして見ると、眠そうな顔のモンが忙しなく僕に頭を擦りつけている。
「モン、ただいま」
彼の頭を撫でようと身を屈めたとき、二階から誰かが駆け下りてくる音がした。振り向くなり飛びついてきた二人は、泣きべそ顔だった。
「ひどいよ玲人っ。帰ってこないなんてっ」
「心配したんだからっ、お兄ちゃん」
凛の目は赤く、凪々はぐしゃりと歪んだ顔だ。身体は大きくなっても、心はまだまだ幼いままらしい。純粋な二人の気持ちに自然と申しわけなさがこみ上げ、僕はただ素直に謝った。
「ごめんよ、二人とも……ごめん」
叔母夫婦の部屋は、一階奥の突き当たりにある。他よりひとまわり大きな部屋の扉をためらいながらノックすると、みゆきさんが顔を出した。好之から僕を泊めていると連絡が入っていたようで、なんとか状況は心得ていてくれたが、それでも心配顔なのは予想どおりだった。
「驚いたわよ、優一が一人で帰ってくるんだもん」
彼と何かあったの? と本当は訊きたかっただろう。けれど何も言わない。訊かないでいてくれるのは彼女なりの気遣いなのだと思う。ごめん、ありがとう……とつぶやく僕に、彼女は気遣わしげな顔で、早くお風呂に入って休みなさい、と促した。
迎えてくれた優しい人たち。僕の家はもうここなのに、紛れもなくもうこの家なのに、昔の家に戻るなんていう勝手な行動をとったことを責めもしない。──家族だから。家族とはこういうものなんだろう。あの人にとっても僕は、同じ家に住む「家族」「同居人」に過ぎないんだろうか。
浴室の天井で冷やされた湯気が、冷たい雫になって肩に落ちた。僕の気持ちだけが、宙ぶらりんのまま白い靄の中に浮かんでいる。
次の日は、朝から雨が降っていた。そのせいか頭が重く、よく寝たのに身体の怠さが取れていない。倦怠感を振り払うように、なんとかベッドを抜けて階下に降りてみる。せっかく帰ってきたのに昨日の今日で、体調の悪さを理由に部屋にこもってしまうのは少し寂い、そんな気がしたから。
リビングの扉を開けると、威勢のよい掛け声が飛び込んできた。
「やぁーっ、とあっ」
見ると、凛がなにか武道のようなポーズで身構えている。対しているのは優一だった。
「そうだ、凛。まず左手を掴んで。そう、それで角度はこの辺。ここを折り曲げて、こう……」
彼は何かの技を凛に指南しているようだ。
僕に気づくと、凛は嬉しそうに頬を緩ませ、優一は無表情でちらと目線を向けた。
「どうしたの? あの二人」
テーブルに腰掛け、それをじっと見ていた智彦さんに訊いてみる。
「合気道だよ。優一が昔やっていたのを知って凛が教えてくれってさ」
「はあ……、合気道」
「凛は、あれだな。最近どうも強くなりたい願望がすごいみたいだなぁ。優一がさ、別にこれで即効強くなれるわけじゃないぞって説明してんのに、どうやら耳に入ってない様子だぞ」
「へえ」
みゆきさんがキッチンからやってきて、僕たちの前に日本茶を置いてくれた。品のよい香りが辺りを満たす。明るいところで聞く規則正しい雨音は、かえって部屋の中の空気を暖め和ませる効果があるのかもしれない。空気を含みながら湯飲みを啜ると、気になっていた怠さも散った気がした。
「なんでもね、柔道やってる友達に練習場へ連れてってもらったらしくて。そこが大学の道場だったんだって。柔道部の隣で袴を穿いてる人たちがいて、それで気になったらしいわよ」
そう彼女が説明していると、一息ついたらしき当の二人が、いそいそとダイニングへ入ってくる。
「あーっ、喉かわいたっ! みゆきさん、何か飲むものちょうだいっ」
「はいはい」
体を動かしたあとの気持ちよい顔をしている凛は、喉を鳴らしながら冷たい水を豪快に飲む。ひとしきり喉に流し込むと、彼はふーーっと息を吐いて高く背伸びをした。
優一はシャツを軽く煽ぎながら冷蔵庫を開け、アイス珈琲を出してグラスに注ぎ出す。なみなみ注いで氷まで投入している。その様子をぼんやり見ていると、凛が僕を見て言った。
「玲人っ、あのさ、俺合気道やりたいんだ。道場見つけて入ってもいいかな?」
わかっていた。そう宣言されることは。凛はこうと決めたらブレることなく前へ突き進んでいく性格だ。壁にぶち当たるまで脇目もふらず突き進む競走馬のごとく。僕にとっては捉え所がないけれど、そこが彼の魅力でもある。
「ああ。やりたいならやってもいいけど。ただし、お財布と相談はさせてもらうからな」
ひとまず差し障りのない返答をしておく。すると凛は破顔し、
「やったーー!! 俺っ、強くなるっ!」
そう言って合気道とはまったく無関係であろうポーズを決めたので、それがはははっと皆の笑いを誘った。
「おい、凛。これでケンカに強くなれるなんて思うなよ。わかってるか?」
もう秋口だというのに、カラカラと氷の音を立てグラスを口に運びながら優一が言った。ケンカに……。まだ鮮やかに脳裏に浮かぶ、高校二年の春の日。強かったじゃないか、あの日の優一は。
「でも、技知ってたらさ、なんか格好いいじゃん! 自慢できるし」
「お前な、実力つけたいのか、人に格好よく思われたいのか、どっちだ」
「両方!!」
凛は迷いもなく声を張り上げ、手にはピースサインだ。さらに笑いだす皆につられて僕も笑い、見ると質問を投げかけた優一も穏やかに笑っていた。
彼の襟元は、よじれて首元がいつもより露出している。凛に掴まれたせいなのか、いつも着ている薄水色のシャツには一方向へ皺が寄っていた。前髪や耳元の髪の毛は湿っている。ほのかに上気した頬。すっと伸びた首筋と汗ばんだ肌……。見れば見るほど顔が火照り、目を背けた。
「ねえ、なんか玲人、いつもより顔赤くない?」
みゆきさんに言われ、優一を見ていたのがバレたと思った。でも、皆が関心を向けたのはそのせいじゃなかった。
「本当だな、少し熱でもあるんじゃないか?」
智彦さんに額を触られ反射的に顔を上げたとき、こっちを見ていた優一と視線がぶつかってしまった。彼は一瞬目を見開き、さっと僕から視線を逸らす。
「うん、これはけっこうあるぞ。玲人くん、今日は部屋で休んだほうがいいな」
「えっ、そっかな」
額を触ると、手のセンサーでも十分感知できるほどにそこは熱く……散ったと思った気怠さが一気に戻ってきた。
「玲人、大丈夫?」
心配気な凛とみゆきさんの顔を見ながら、渡された体温計を持ってそそくさとダイニングを出た。お茶を啜っただけで退場し、自室にこもる羽目になった残念な休日に小さくため息を吐く。部屋着に着替えて身体をベッドに横たえた。するとタイミングを見計ったかのように部屋の扉が叩かれる。寝そべったままドキンと心臓を鳴らす。ノックして入ってきたのは果たして優一で、「これ、みゆきから」と言って、サイドテーブルに水のボトルと薬の瓶をことんと置いた。
僕は何も反応しなかった。
布団に包まったまま、彼に背を向け寝たフリをしてみる。デスクから僕の近くへ椅子を引っ張ってくる音がする。優一はそこへ腰掛け、こっちを見ているみたいだった。何か言われる。反射的にそう感じた。何を言われるんだろう。今度は何を……。
「一つだけ、訊いていいか」
やっぱり。……返答しないことでそれを肯定する。
「あのさ……」
「…………」
「好きなのか? あいつのこと」
予想外の内容ではなかった。
「うん」
嘘じゃない。透さんのことは好きだよ。あんな公衆の面前で告白されても彼を避けるなんてこと、やっぱり僕はできないよ。透さんへの親しみの気持ちは消えないんだ。ダメなの? おかしいのかな、僕は。短い答えの中に無言の訴えを込めても、優一にそれが伝わることはないのだろう。優一はどう思っただろう。
沈黙が続く。部屋の中は窓の外の雨音以外聞こえる音がなかった。
しばらくののち、低い声が訊いた。
「……付き合うのか?」
そう言ったまま、また黙り込む。
庇から滴るぽたぽたという音が、降りしきる雨に新しいリズムを加え始めた。
「わからないよ、そんなこと。でも……また会いたいんだ」
さっきより長い沈黙が続く。そして、注意していないと聞き逃すほどの、低く小さな声。
「……そっか」
今、優一はどんな顔をしているんだろう。背を向けている僕にそれを見ることは叶わない。その顔は歪んでいるんだろうか。落ち着いているんだろうか。もしかすると呆れた顔をしているのかもしれない。そんなことを考えた。──彼の心のなかが見られたらいいのに。それは宇宙で何よりも遠く、手にし得ないもののように感じる。
「ゆっくり身体休めろよ」
ただ静かに言葉を残して、優一は部屋を出ていった。
夢の中で、僕は凛の勇姿を見ていた。
白い道着と紺色の袴を穿いた凛が、ガタイのいい男を相手に組み合っている。大勢の観客が彼に声援を送る。その中に僕もいた。僕の隣には優一がいて、長い指を持つ手が僕の手を包むように握っていた。
優一……。
ぎゅっと力を込められ僕もその手を握り返す。寒々しい外気に触れたあと急に暖かな陽だまりへ飛び込んだときのような、心に広がったのはそんな安らぎと深い悦びだった。
幸せだ……。
──ああ、そっか。そうだよな。僕はバカだな、今頃やっと気づくなんて。優一はずっと前から僕のことを好きだったんだ。そうだよ、知ってた。たぶん本を貸してくれたあの日からだ。あの日から彼は僕だけを見ているじゃないか。抱きしめられたし、キスだってされた。彼女を作ったのは僕の気を引きたくて恋人ごっこをしているんだろう。きっとそうだ。
嬉しい……。
気持ちがあふれ、彼に微笑みかけたくて僕は隣を見る。その瞳で微笑み返してほしい。けれどそこにいたのは、
「──あと何回、こんな幸せな気持ちになれんのかな」
うつろな笑いを浮かべた面影で……
夢は意識の果てへ遠ざかっていく。
焦がれたものを再び隠して、無情にも消えてしまうんだ。
額にひんやりしたものを感じ目が覚めた。見ると凪々が僕を心配そうに覗き込み、細い指先でそこに触れていた。
「凪々……」
「お兄ちゃん、大丈夫? すごく寝言言ってたよ」
「え、なんて……」
「優一さんの名前呼んでた。何度も」
まだ怠さで覆われた身体を動かすこともできず、僕は身を横たえたまま凪々を見た。彼女は床を右足で突つきながら、もぞもぞと変な動きをしている。
「お兄ちゃん、好きなの?」
「ん?」
「優一さんのこと」
凪々はそう言うと片手で口元を覆い、恥ずかしそうにうつむく。女の子らしい仕草だな、と思う。まだ朦朧とする頭の中で、僕は今訊かれた言葉をゆっくりと咀嚼してみる。
──好きなの?
答えはひとつしかなかった。
「……好きだよ、すごく」
ついさっき手を握り隣にいた人を思い浮かべながら告げると、そう、と凪々ははにかむように静かに笑った。
風邪だったのか、ただの疲れだったのか、原因を判定できぬまま次の日熱はあっけなく引いた。僕の身体はいつもの調子を取り戻す。昨日夢のなか、手の届かない遠いものに近づき、それに触れた気がする。幸せな感触だけが残っていて、他は何も思い出せなかった。
いつの間にか、シェアハウスの周囲に吹く風も涼しさを増していた。
本格的な秋とまではいかないのに、皆が自室へ引き上げる頃は、天井の高い廊下や階段にはぴんと張り詰めた冷気が満ちていた。僕は上手く寝つけずにキッチンまで降り、牛乳を温めて飲んでみた。ホットミルクを飲むと眠れるらしい。
「まだいたのか」
入り口で声がして、びくりと肩を震わす。
優一が入ってきた。こんな時間に……。彼は僕に気を留める様子もなく、戸棚からスピリッツの瓶を取り出して氷を入れたグラスへ注ぐと、向かいの席に腰掛けた。身体は横に向けたまま、無造作に脚を組む。駅で見かける広告のモデルみたいな長い脚。目の前に座ったのに、僕と目線を合わせようとはしない。こんな静かな部屋に二人きりという状況は、さすがに落ち着かなかった。カップを持って部屋に戻ろうかと考えていたとき、
「神崎の父親の本、読んだか?」ふいにそんなことを訊かれた。
「え」
グラスを手にしてそっぽを向いたままの彼の手元で、透明な液体が揺れる。
「お父さんの本……って、闘病手記のこと?」
「ああ」
「いや。読んでないけど」
そうだ、読んでいなかった。実際、本はおろか掲載された記事も、優一が個人的に書いた文章すら、僕は見ていない。そこから始まった関わりだったのに……。
「お前、病気の話、正確に聞いたか?」
透さんの父親の病気。実のところ、その話題に触れたことはほとんどなかったし、傷口に触れるのは気が引けて、わざわざ僕から訊くこともなかった。僕は彼と音楽の話に夢中だったんだ。
「聞いてない」
「そっか」
「それがどうかしたの」
「いや、別に」
別に……って。何もなければそんなこと訊かないだろう。納得できない気持ちで優一を見ると、観念したようにため息をつかれる。
「最後のほうにさ、息子のこと書いてたから、読んだのか知りたかったんだ」
……透さんのこと? 個人の手記だから家族のことが書かれていてもおかしくない。それをわざわざ訊くのはなぜなんだ。
「寝るよ、じゃあな」
優一はグラスを持ったままキッチンを出ると、自分の部屋へ上がっていった。
ミルクを飲んだ甲斐もなく、ベッドに入ってから三十分も経たないうちに青ざめて飛び起きた。
なんで、なんで気がつかなかったんだろう。
──死ぬまでに。
以前、電話口で透さんは言った。父親の病気は遺伝性の難病だと言っていた。遺伝……。自分の頭の回転が鈍いのは知っているけれど、本当に僕はバカだ。汗がじわりと滲んだ。快復しない病気だと言っていた。病名は遺伝性何とか……たしか略した名前が英語で三文字だったはず。手記を読んでいない僕はその病名を思い出せなかった。でも、問題は名前じゃない。思ったことはただひとつ。もしも、透さんが、透さんが、同じ病気だったとしたら──?
時計を見ると、意外にも時間は経っておらず、夜の十一時を回ったところだった。とっさに部屋着の上に薄いコートを羽織る。外へ飛び出すと、ギリギリ上りの終電に駆け乗った。電車に揺られる時間がまどろっこしい。やっとのことで目的の駅に到着すると、透さんのアパートへと走った。
「高城っ。どうしたんだ、こんな時間に」
出迎えてくれた彼は、こんな時間に突然やって来た僕を訝っているようだった。
「あの……っ」
息を切らし、まっすぐ彼の目を見て言った。
「聞きたいことが、あるんですっ」
23・彼が欲しいもの
※R18表現があるためパスワード保護中です。
お手数ですが、パスワード「dealbreaker」を入力してご覧ください。
24・甘い衝撃
※R18表現があるためパスワード保護中です。
お手数ですが、パスワード「dealbreaker」を入力してご覧ください。
25・トンネルの中
僕のことを嫌いなら、放っておけばいいのに。
恥ずかしさと、苦しさと、疑問ばかりが毎日頭に渦巻いた。
ある日の就寝前。ふと携帯を覗いたときタイミングよく受け取ったのは好之からのメッセージだった。内容はいつかの彼女のことだ。
『玲人元気? 例の彼女だけど覚えてる? 岬理恵のこと』
覚えてるも何も、今さらなんだよこんな切り出し方。改まった言い方がおかしくてくすりと笑みがこぼれる。彼が送ってきたのは、その後の経過についてだった。どうやら好之の想いは通じたようで、真面目な告白に彼女はいたく感動して、二人の仲はいよいよ本格的な恋人と言えるものになったらしい。
『よかったじゃん、好之。おめでと』
親友からの微笑ましい報告に素直な嬉しさが込み上げたが、文字でのやりとりなので軽く返してみた。
『彼女大事にしろよ』
彼の肩をポンと叩く気持ちでもうひと言送信しようとしたとき、『お前のほうは、どう?』と訊かれてしまう。
僕のほう──。
核心をつかれた問いに戸惑い、文字を打つ指先が止まる。
誰かに聞いて欲しい気持ちはたしかにある。自分の頭で考えても深みにはまるばかりだった。手の届かない優一の心の中。何を考えているのかわからない人。この気持ちを好之に話すのは……迷惑だろうか。
少しの迷いがありながらも、メッセージ画面を閉じ彼の連絡先をタップした。そんな相談やめてくれよ、と言われたら素直に謝ればいいんだ。少なくとも僕の親友は、僕の悩みを気持ち悪がりはしないだろう。
「なに? どうしたんだよ玲人」
文字ではないリアルな声音は、文字と同じく優しい響きを持っていた。
「うん、あのさ。聞いて欲しいことがあるんだ」
「……なんかあったんだな、なんでも話せよ」
言葉の端から感じる優しさに思わず涙腺が緩みそうになる。
「ありがと……、え……っと」
「なあ、ひょっとして……先輩に気持ち伝えたの?」
歯切れの悪い僕に、好之はいつもの調子で直球に切り込んでくる。
「いや、それは。できないよ、そんなこと」
「どうして……」
「僕さ、あのさ」
「ん?」
「優一に嫌われてるみたいなんだ……」
一瞬間があった。
「……、なんで?」
「なんでって……」
「なんでだよ?」
調子を強めたストレートな問いかけで、話さざるを得ない状況になっていく。この前のあの出来事を──。
「変なこと、されたんだ」
「変なことって? なに、それって……」
「…………」
そのあと待っても、好之の言葉は続かなかった。仕方なく自ら白状する。
「……キス……とか」
「…………」
彼はさらに黙った。
どうしよう。何か言ってほしい。告げてはみたがやはり気恥ずかしい。ああ、やっぱり相談なんて無理だ……言えない。とても言えない。先日彼と僕の間にあったことなんて……。たまらなくて目をつむったそのとき、
「あのさぁー……」
いささか気の抜けた呆れ声がした。
「……それって、嫌われてんじゃなくて」
「いや、嫌われてるよ」
好之が何を言おうとしてるのかわかり、速攻で否定の言葉を出す。
「蔑んでるようなことを言われたんだ。なんか……とにかく僕の態度とか気に食わないみたいで」
「でも……」
ごくりと好之が唾を飲み込むのが伝わった。
「キス、……されたんだろ?」
「…………」
「普通、嫌いな奴にそんなこと……」
「キス以上のことも……された……」
「え……っ」
思わず続けてしまった僕の説明に好之は短く叫んだきり止まってしまった。驚く顔が目に浮かぶ。さすがにその反応になるよな。それ以上ってなんだよって……。自分から告げておきながら、僕はそれ以上言葉を継げなかった。
「……玲人、あのさ」
「うん」
「お前この前、先輩のことひねくれてるとか言ってたじゃん?」
「うん、言った……」
「まあ、仮にそうだとしても。やっぱどう考えてもさ……」
今度は僕がごくりと唾を飲み込む。
「先輩、やっぱ玲人のこと好きなんだと思うな」
「僕を……」
ふと、それは高校二年の夏。彼に同じ言葉を言われた日を思い出す。『先輩、玲人のこと好きなんだろうな』……あれは、人に本を貸さない主義の優一が僕にだけ本を貸し続けることへ好之が何気なく放った意見だった。あの頃はまだ優一のこと何も知らなかったんだな、僕は……。でも今は……。
「でも、優一には……瞳子さんが」
「彼女がいるにしても! 玲人に気持ちがなびいてるってことなんじゃね?」
「……まさか……」
「だから。先輩まだ気づいてねーのかもよ、自分の気持ちに」
「気づいて……ない?」
「ああ。例えばさ、男のお前に惚れるわけねーって頭で考えてて、でもさ、どうしてもやっぱお前のこと気になって……それで、そういうことしてくるんじゃねーの?」
「そんなこと……」
僕の身体を這った優一の手の動き。指先や唇から伝わったあの人の熱。あれが、純粋に僕を求める気持ちから起きたことなら……どんなによかったか。なのに願ったとたんによみがえる、苛立ちと蔑みに満ちた言葉。
「あり得るけど? ……俺だってするつもりなくても彼女にキスしたくなるときあるしさ。それに、自分に置き換えて考えてみると、こう……男が男にそういうことすんのって……やっぱハードル高いと思うんだよな。だからやっぱ……好きって気持ちがないとそもそもキスとかってできないと思うんだよ」
──好きじゃないとキスなどできない。
至極真っ当な意見に聞こえる。けれど優一という人は、ずいぶんぶっ飛んだ思考の持ち主な気がする。普通なら、と考えることをいつも平気で超えてくる。そのことを嫌というほど僕は心得ている。それでも好之の確信に満ちた声に一縷の望みを託しそうになる。鼓動が騒ぎ立つ。
「玲人から言っちまえばいいじゃん、てか訊いてみなよ、本当の気持ち。……な、何されたのかは、知らねー……けどさ」
彼は最後の言葉を濁した。
優一が僕を好き。とてもそんな風には思えない。けれど、僕はそれを願っている。悲しいほどに。それだけを願っている。
「嫌われては、ないのかな……」
「当たり前だろ」
好之の力強い即答が、胸に安堵の火を灯した。
「うん、ありがと。いいんだ、もう」
もう充分だ、聞いてくれてありがとう、と彼に告げた。
「玲人……あのさ」
「…………」
「嫌われてるとか……それだけは絶対ないよ。……これは根拠とかねーんだけどさ、わかるんだ。先輩……あの人さ、絶対玲人のこと嫌ってなんかいないよ」
最後に念を押して好之はそう言った。根拠はない。彼らしい言い分だ。
「う、ん。ありがと」
──ありがと、好之。話してよかった。
もう一度そう告げて、僕は電話を切った。
ダイニングルームで顔を見ないのは幸いだった。廊下でも、リビングでも、浴室でも、階段でも、あれからなぜかすれ違うことすらない。みゆきさんが毎日空いた席をふと眺め「仕事詰まってるみたいね」と、ぼそりつぶやく。僕が事情を知っているとでも思ったのだろうか、彼女は顔を上げると僕へ向け、ね、と相槌を求めるようにした。僕は何も言わずに首をかしげてみる。
優一と、不思議なほど顔を合わせないのはなぜだろう。帰宅したらずっと部屋にこもっているということだろうか。朝すら、姿を見せない。たしかに僕には都合がよかった。今、彼の顔は見られない。ひたすらに気まずい思いしかない。でも、ふと。
──避けられている? そんな疑問が頭をよぎる。
拒めたらよかった。俺を殴れ、と言った優一からすれば僕がそれほどの抵抗をするだろうと踏んでいたわけだ。なのに微塵も抗えずその行為に身を預けてしまった僕に、彼は失望したのだろうか。
『淫乱……』
優一は、確信してしまったのかもしれない。
食事とお風呂を済ませたあと、凛たちは叔母夫婦とリビングでおしゃべりに興じ始めたが、僕はさっさと一階から退散した。個室の灯りを消して布団に潜り込む。何かをする気すら起きない。ただ、眠ろうとしても身体の疼きが止められなかった。
汚れている自分を知られてしまった。そんな感覚が拭えない。同性に触れられてこれほど反応してしまう僕に、彼はもう心配すら通り越して呆れ切ってしまったのかもしれない。事実、あの日から僕の身体はおかしい。優一の唇や指先の温度を覚えてしまった皮膚は、少しのきっかけで熱を持ってしまう。入浴時、鏡に映った自分を見たとき。ベッドに入り温まった身体に意識が向くとき。……持て余すその熱をどうにか追い出したくて、自らを慰めてしまう。彼の唇と手の感触──あの甘い衝撃を思い出し、身体は素直に優一に愛されている実感をつかもうとする。
だってそうだろ、あれほど求められたんだ。
優一はきっと僕を──。
やがてのぼりつめて快楽を得る。するととたんに、胸の中に冷たいものが降りてくる。僕を嫌っているはずないと、親友は言ってくれたけれど。
──あいつのものになるつもりか。
──それともお前は……ただの淫乱なのか。
冷たいあの言葉が、灼けた道路に降りかけた打ち水のように一気に熱を奪い、無惨に期待を剥ぎ取ってしまう。
もう半年以上が過ぎた。ここに来たあの日から。
ぼんやりと天井を見て考える。
憧れた人と家族のような距離で生活を始め、叶わぬ望みを抱いてしまった。矛盾した思いがある。この心と身体には。諦めと、夢を見たがる熱と。
僕の心の迷いに呼応してか、いつしかなくなってしまった喜びのせいか、あれからアルペジオを聴いていない。最後に聴いたのはいつだったのか。
今はただ音のない世界を歩いている。
抜け出せないトンネルを行くように。
26・プレゼント
「なんでこうも会っちまうかなぁ」
「ですよね」
学校の帰りに池袋まで足を伸ばして、駅に直結する大きな書店の専門書のコーナーにいた。学校の友人から聞いたタイトルを探していたら目が疲れ、思わず目頭を押さえたときだ。ふと顔を上げ振り向くと、反対側に背中合わせになっていた人物と目が合った。僕たちはお互い目を瞠った。
「高城、元気か」
「早坂先輩も。お久しぶりです」
いつもと違い様子が変だった二年前の早坂先輩。僕は彼の口から聞きたくなかった言葉を聞いて傷ついた。だけど、それももう遠い過去に思える。
彼は相変わらず薄いレンズの眼鏡をかけていて、鋭い目元を僕に向けた。
「奇遇だよな。こうも本屋でばかり会うとは。しかもこんな場所の」
普通の本屋では見つからないと思いわざわざやってきた何フロアもある大きな書店。その同じ階の同じコーナーで……本当に奇遇というしかないと思う。
「あ、でも待てよ。都合いいかもこれ」
何かを閃いたように彼はそう言って、身体に斜めに引っ掛けていたバッグの中をまさぐり始めた。
「なんですか?」
「ちょっとさ、お前に渡したいものがあって……あれ、入ってるはずなんだけどな」
僕たちがもそもそやっていると、周りからの冷たい視線を感じた。見ると本を手にした数人がこちらへ視線を送っている。
「高城、ちょっとあっち行こう」
隣のビルまで彼に案内されてついて行った。小洒落たカフェ。ガラス張りのカウンター席の背の高い椅子に、入口で注文したドリンクを手にし、並んで腰掛ける。店内には静かな洋楽が流れていた。
「あーこれでいい。ちょっと待ってくれ。あ、あったあった、これ」
いったいなんだろうと訝しがる僕に、彼がバッグから取り出して見せたのは、チケットらしきものだった。バッグの底に押し込まれていたのか小さな皺がついている。
「なんですか、これ」
細長い指で挟まれ差し出されたそれは、ぞわぞわと妙な期待みたいなものを僕に抱かせた。
「高城の好きなバンドが出演してる音楽イベントのチケットだよ」
「えっ」
胸がバクンッと反応する。薄い外袋から中身を取り出して見るとチケットが二枚。会場は横浜の名前をよく聞くホールだ。秋頃に何かのイベントに参加する噂は聞いていたけれど、単独ライブというわけでもないので特に気にはしていなかった。イベント自体の情報には暗かったが、そこに印刷された馴染みの文字列を見ると興奮が沸き上がり、もう止めることは不可能に思えた。
「どうしたんですか、これ」
「実はさ、これ。都合の悪くなった友達から譲ってもらったんだ。代金はサキが払ってるから」
僕の問いにさらりとその名が告げられる。
「ゆ、優一が……」
無邪気に踊り始めていた好奇心が、とたんに緊張を孕みすっと落ち着く。
「ああ。そもそもこの日付のチケット探せって、俺に命令した男があいつだから」
優一が……そんなことを……。
「何週間も前から頼まれてやっとお務め果たせたぜ。ふーっ、肩の荷が降りた!」
早坂さんはホッとした表情で肩の力を抜き、手にしていたアイスティーを啜る。
ディーブレが見られるイベントのチケット。それを僕が手にしている。それだけで鳥肌が立つほど興奮しているはずなのに、心の隅にある小さな疼きが僕を冷静にさせていた。
「あの、これ。もらっていいんですか」
「もちろん。お前のために探したんだ。危うく破棄されるところだったけど、これで無事に高城の手元へ届いたな」
ほっとした表情を見せて言う。
破棄されるところだった? わけがわからず僕が言葉を継げずにいると、彼は少しだけ神妙な顔を見せる。
「あの、これ、僕がもらっていいってことですか?」
「ああ。本当の本当はさ、俺が見つけたチケットをサキに渡して、サキ本人が高城に直接渡すつもりだったんだ」
──優一がこのチケットを自分で?
「なのに昨日電話したらさ、あいつ……自分からは渡せないって、怖気づいてしまって。できれば自分の名前を出さずに高城に渡るよう取り計らってほしいって。もしできないなら破棄してくれってさ。でもそんなことできるわけないじゃん」
「え、そう、なんですか」
「ああ。勝手に話してしまって怒られるかもしれないけど、これはサキからだって言わないと意味がないからさ。だから高城、ちゃんともらってやってくれよ」
「早坂先輩、あの……じゃあ、遠慮なくもらいます。ゆ、優一には……僕からちゃんとお礼言うし、チケット代も払うから」
「チケット代? 高城、何言ってるんだ。これはサキからのプレゼントだって。日付見てみろよ、ちゃんと」
「え」
そう言われ、もう一度そこに印刷された日付を見ると、それは見慣れた数字で──
「誕生日……」
「ああ、だからこの日付のを探せって煩かったのさ、あいつ」
僕の誕生日。
優一が僕の誕生日を知っていた。みゆきさんが話したのだろうか。それはいいにしても、本当に、優一は本当に、誕生日プレゼントとしてこのチケットを……僕に自分で手渡してくれるつもりだったのだろうか?
「本当はちゃんとあいつが自分で渡す気だったってことも、ちゃんと伝えておくな。何があったか知らないけど……」
早坂さんはもう一度胸を撫で下ろすようにため息を吐いてから、「まあ、これでよかった」と一人うなずき、残りのアイスティーを啜り始めた。
きっと優一がこれを頼んだのは、ずっと前のことだったのだろう。ライブに行く前だったかもしれない。本当にこれを僕に「はい、プレゼント」と言って、直接渡してくれる予定だったのなら。さすがに、今優一に突然そんなことをされたら僕は混乱したと思う。素直に「ありがとう」って言って受け取れただろうか。
優一と僕の間にある空気を思うと、今このチケットを手にしていることがとても不思議に思える。じっと、ただ薄い紙切れを眺めていると、早坂先輩は急に身体を伸ばして言った。
「あのさぁー。音楽もいいんだけどさ、こう、サキにはもっと高級な物を買ってもらってもよかったのにな」
「なっ、なんですか、突然。なんで僕が……そんな」
「んー例えばこういう、かっこいい腕時計とかさ」
早坂さんは左腕をキュッと右手で掴み、そこに時計が嵌めてあるかのような素振りをする。
「サキのやつ、高城のためだったら何でも買ってくれんだろ」
僕のためなら──どうしてそんな。
「そんなわけ、ないじゃないですか。なんで僕が」
……彼女を差し置いて。そう言いたかったが黙っていると、彼はグラスの氷をカラカラと鳴らし、無くなりかけた中身をストローでかき回した。
「あいつ今、金たんまり持ってるからな」
少し神妙な口調で言う。
「え、あ……ライターの仕事でしたっけ」
「いや、そっちじゃなくて」
ずずっ……とアイスティーを啜る最後の音がした。
「……他にも何かやってるんですか?」
「人から個人的な依頼を受けててさ。東京のとある市の地主の息子から……ま、俺も知り合いだし、紹介したのも俺なんだけど、とにかくすげー額を報酬で受け取ってるからなあいつ。あの車なんで買えたと思ってる?」
「車って、ミニクーパー……」
「ああ」
鮮やかなメローイエローが脳裏に浮かぶ。
「すげー額なのには訳があって……まあ、あれだと二台は買えただろうな」
「そんなに、ですか」
ぎくりとする。それは尋常じゃない額ではないだろうか。訳があるってなんだろう。
「それにさ。俺から言わせると、少しはお前にももらう権利あるっていうか……」
「え?」
「だってさ、あいつが肝心なこと言えないのはそもそも……」
「肝心なこと?」
さらに意味がわからなくなった早坂さんの言葉にふいに返すと、彼は一瞬動きを止め、再び神妙な表情を作った。
「あ、いや。まあ、だからさ。誕生日なんだし。サキならもっとすげー物を買ってあげられただろ、って話」
苦笑いを見せて、頭をかいた。
「はあ」
「まあ、そういうことで」
早坂さんは話に切りをつけて立ち上がり、じゃあな、と僕に手を振った。去り際、俺も別の人間にこのイベント誘われてるからまた会ってしまうかもな、と笑う。彼の言うことは、後半ほとんど意味がわからなかった。何やら色々と事情があると言いたげだったが。
おそらく世界で一番、誰よりも優一の素性をよく知っているであろう早坂充──。彼はいつも、僕の前にいくつかの疑問を残して去っていく。
ちょうどその日の夕飯時、久しぶりに優一と向かい合ってしまった。気まずいには違いなかったが、どっしりかまえたマホガニーのテーブルは大きくて広いからいくらか距離がある。それが幸いしている。だけど伝えなければいけないことができてしまった。
僕に視線を合わせず淡々と食事を続けている優一。どこか元気がなく見えるのは疲れのせいだろうか。だめだ、どうしても話を切り出せない。どうしよう。会話もなくただ黙々と食事の時間は過ぎていく。ここのところ、ずっと続いている食卓での僕たちの他人行儀な空気に、周りは気づいているのかいないのか。いずれにせよ、特に何も訊いてはこない。訊かれないのをいいことに、僕はそれを放置している。
「ずいぶん忙しいのね、仕事なの?」
しばらく経ってからされたみゆきさんの問いかけに、ああ、と低い声で優一が答えた。そしてそのまま立ち上がり、食器を運ぶと部屋を出ていく。みゆきさんは、やれやれという感じで僕を見ながら肩をすくめた。今追いかけなければ何も言えなくなる。そんな気がして思い切って彼の後を追い、なんとかやっと階段の途中で優一を呼び止めた。
「……優一」
振り向いたその表情は冷たく強ばっていて、僕はわずかに萎縮する。
「今日、早坂先輩と会って……」
「ああ、チケットもらったんだろ」
「うん」
「楽しんでこいよ。じゃあな」
ズボンのポケットに手を入れたまま、そう言い放ち立ち去る優一。早坂さんから電話で事情を聞いているみたいで、すんなり答えられはしたが、僕はそれ以上声が出なかった。
眠る前、ベッドに寝そべったままチケットを手にして掲げてみる。薄っぺらな二枚。願ってもない誕生日プレゼント。これを自分で僕に手渡そうとしていた。ひょっとして、あのことがなければ、優一は僕と一緒に行くつもりでいたのだろうか? まさか。……確かめる勇気すら起きず目を閉じる。
二週間前。彼の目の前で醜態を晒した記憶がよみがえる。乱暴にベッドに押し倒され、恥ずかしい場所に触れられ、混乱と甘い衝撃に翻弄されたあの時間。彼は見ていた。抵抗と呼ぶには非力過ぎる僕の拒絶を。達した瞬間もその姿を真顔で見下ろされた。どれもこれも、未だいたたまれない気持ちだ。だけど……。
『ありがとう』
結局、短い一文しか打てなかった。辛うじて伝えたお礼の言葉を、彼は携帯画面で確認しただろう。今の僕にはこれが精一杯だ。
どこかじれったく淀んでいた時間も、過ぎてみればあっという間のことだった。待ち望んだ音楽イベントの日がやってきた。やってきたんだ。ディーブレに会える日が! 今はもう、その興奮だけが僕の頭の中を埋め尽くしていた。
空は快晴。問答無用で今日は最高の一日になるはずだ。
あれから僕は、同じバンドを大好きな好之を誘って共に出向くことに決めていた。なんでそんなすげー物持ってんだよと言われ、渋々どうやら優一からの誕生日プレゼントらしい、と電話口で答えると、彼はヒューと口笛を鳴らした。
「なんだよ、結局愛されてんじゃんか、お前」
「バ、バカなこと言うなよっ」
軽口を叩く好之に焦りながらも、そう言われて思わず口元が綻んでしまった僕は、バカなのかも。単純な自分に呆れながらも、にやにやはずっと止まらなかった。
夕刻、改札がいくつもある大きな駅で親友と落ち合う。
赤い陽が沈んでいく街の空を背景に、僕たちは会場へ向かった。ディーブレが出演して歌う曲は何だろう、もうそんなことしか頭になかった。
魔法の空間。奇跡の時間。
それはあまりに短くあっけなく過ぎた。
けれど、まさに魔法と奇跡の形容にふさわしいひとときだった。
ステージ上に立つボーカルの彼をこんな近くで見られるなんて。その歌声を生で感じ、力強く刻まれるリズムとメロディーの波に身を委ねた。どこでも感じたことのない、ここにしかない音と高揚感が、光りの粒になって目の中で弾け飛んだ。
会場の熱気に呑まれ、僕たちは興奮状態だった。最高の気分だった。すべてのステージが終わると、僕の肩を大きく揺らしながら好之が叫んだ。
「玲人ーっ、来年はチケットゲットしてツアー行こうな! あははっ、お前顔緩みまくってるぞ」
「お前こそっ。ああ、行こうよ。最高だったな」
胸に興奮の名残りを抱き泣き笑いしたまま、肩を組んで僕たちは会場をあとにした。目にはまだ感動の涙が残っていて、ようやく僕がそれを拭い始めた頃、好之はふと会場を振り返り、夜空を見上げて言った。
「あのさ、咲野先輩ってひょっとして、今日のセトリ知ってたのかなぁ。ドンピシャじゃなかったか?」
小さな奇跡。そんなものまでこの最高な夜に色を添えてくれた。親友もそれに気付いていた。
「……『BIRTHDAY』だったな」
「うん」
普遍的な愛のテーマが楽曲に多いDEAL BREAKER。そんな彼らには珍しいほど、それは誰かに向けたストレートな恋の歌だった。
素直になれないけど
本当は君が好きなんだ
誕生日だから伝えるよ
隣で君が笑っている
そこがオレの居場所だと
「誕生日……か。玲人、いい誕生日になったじゃん」
「ははっ、まあね」
「なにがまあねだよ、コイツ。全部先輩がくれたプレゼントだろ? おいっ」
頭をぐりぐりと拳で弄られる。
「あはっ、やめろよ、おい」
そう言いながらも、胸にくすぐったい気持ちが湧くのを抑えられなかった。これは全部優一が僕にくれたプレゼント。そのとおりだったから。
あんなにもどかしく淀んでいた気持ちが嘘のように、今僕は晴々とした気分だった。重い空気を押しやり吹き飛ばした風が、その澄んだ空気が、何より確実に僕の胸を満たしていた。ディーブレのメロディーと共に。
「本当は咲野先輩、玲人と来たかったんじゃねーの」
「さあ……」
「いつかさ、ライブ行ってみなよ。先輩と二人で」
優一と二人で……。
まだ熱気と音楽が胸に響いていた。
隣に優一がいる。笑っている。そこが僕の居場所だと……そう言えたならどんなにいいだろう。もしかして、いやひょっとしたら、優一もそう願ってくれているのだろうか。だから今夜、彼らはそう歌ってくれたんじゃないかな。……そんな益体もない考えを抱きながら、夜も更けた繁華街の道を親友と肩を並べ歩いた。けれど、夜はまだ終わっていなかった。
27・最低な男
「ほらな。会っちまうだろ、また」
「ですね……」
駅の改札へ続く階段の手前で出会したのは、今日のチケットを僕に手渡してくれたその人だった。彼を取り囲んでいるのは、大学の友達だろうか、男性が一人、スタイルを強調する服装をした瞳の大きな女性が二人。早坂さんは僕たちのことを「サキの一個下の後輩たちだ」と紹介した。すると、露出度の高いほうの女性が大きなリアクションを見せた。
「サキくんのー? やだこれも何かの縁よ、カラオケ行こ、今から一緒に、ね、行こ行こ」
「えっ、でもさ。ほら、こいつらもう帰るとこだし。な、高城」
「何言ってんの、今日は特別よ。ねえ?」
「いや、だけど……」
突飛な計画を押しとどめようとした早坂さんに頓着することなく、彼女は僕たちをいとも簡単に巻きこみ、駅のそばにある大きなビルの最上階へと引っ張っていく。「……ったく」と困り顔の早坂さんをよそに連れの三人は楽しそうだ。こういう場所は高校時代に何度か数人で来たし、凛と凪々を連れて来たことも幾度かあったが、それ以来だった。
薄暗い照明の部屋に、男女数人でなだれこむように入った。早坂さんと好之はテーブルの向こう側。僕は女性たちの横に座ることになった。なぜか早坂さんは僕のほうを気遣うように見ている。隣の女性たちに「お前ら、高城にちょっかい出すなよ」と言ってまた渋い顔を見せた。何かまずいことでもあるのか。
さっきの彼女がやけに手際よく僕たちの前に、注文したドリンク類のグラスを並べていった。「ありがとうございます」と僕が言うと「あら」とこっちを見て、彼女はくすりと笑った。決して派手なメイクをしているわけではない。けれど元々の顔のパーツがきれいで、印象はかなり華やかだ。美人……こういう人を美人っていうのかな。明るさと相まってきっとかなり人目を引くのだろう。
今日早坂さんたちは、お目当てが別のアーティストだったようだが(ライブなどただの口実で、皆で騒ぎたかっただけなのかもしれない)、順番にマイクを回し皆が歌う歌は、見事にバラバラだった。流行曲からひと昔前の曲まで、こんな古い曲も知ってるのかと感心するバリエーションの広さだ。
「玲人くんって、今日誕生日なの? じゃあ今日はお祝いね! ほら、遠慮なく飲んで飲んで」
ファーの付いた薄いセーターから胸の谷間を平気で覗かせている彼女が、いつの間にか僕の隣にピタッとくっつき、腕まで絡めてきていた。
「いえ、でもまだ未成年なんで」
「カタイこと言わない。こんなのアルコールのうちに入らないわよ?」
そうは言われても。
先日の酒での失敗がかすかによぎり、苦い顔になってしまう。好之に助けを求めようと視線を送ったが、彼は採点に夢中になっていて、なんだよもう、とひとりごちて諦める。重低音が響く室内。時々マイクのハウリングが起きて耳がキンキンした。
「おい、ミカ。高城に大人の話題を振るんじゃないぞ。高城もミカの言うことはまともに受け取るな。わかったか?」
早坂さんが、また心配気な表情を見せて言った。彼女はミカという名前らしい。グラスに口をつけただけでもう頭の中がぼんやりし始めている僕。気にされているのはわかっても、この状況じゃどうにもならない。
ちょうど早坂さんが歌い始めたとき、ミカさんが「サキくんとはどういうお友達?」と訊いてきた。「同じシェアハウスに住んでるんです」とシンプルに答えると「ふぅーん」と口を尖らせてからグラスに口をつける。
優一とは親しいのだろうか。どれぐらい親しいのだろう。
徐々にぼやける思考の中で、そんなことばかりが気になってしまう。
重低音の効いた曲に少し頭がズキリとした。
「私同じ大学なの。今の彼女ができるまではしょっちゅう会ってたのよ、サキくんと」
「え」
興味が顔に出ていたのか。まだ心の準備もできぬ間に、かなり親しい間柄なのだと彼女の口から聞かされた。僕はもう一口なんとかサワーというドリンクに手をつける。僕の腕に細い腕を絡ませたままの彼女は、自分のグラスを飲み干すとこっちを見て、
「玲人くんって……地味だけど、よく見るとすごくきれいな顔してるのね。ねえ、私と付き合ってみる?」
ふふ、と楽しげに笑った。
「あのっ、前の彼女だったんですか? 優一の」
彼女の誘いも差し置いて、気づくとそんな質問をしていた。
「あら、無視? えっと、あたしはね、彼女じゃなくて……」
大きな瞳をおかしそうに細め、僕を見つめて言う。
「ちょっとエッチな関係だったの。サキくんと。こういうの知ってる?」
そこで一旦言葉を切り、僕のほうにいっそう身体を寄せると、口元を手で覆い隠して、ある一言を僕の耳にささやく。
「おいっ、やめとけってミカっ。高城にかまうなよ」
こっちに気づいた早坂さんが止めようとしたけれど、言葉はもう僕の耳にしっかり届いていた。
優一が過去に誰と付き合っていたとか、そんなこと聞いたところでそれがなんだというんだろう。だけど……。白いシーツの上で絡み合う男女の快楽のみに耽る淫猥な行為。あの人の姿でそんな想像をするのは……いい気分ではなかった。真面目に付き合っている相手だったら平気というわけじゃない。だけど……。
「あんなイケメンそうはいないからさ。楽しかったけど、本命が別にいたからねぇ、彼」
「本命……」
瞳子さんのことだろうか。
頭がさらにズキズキし始めた。お酒のせいだろうか。そうだといい。
「そ。でもね、週一じゃ物足りないとか私に言ってくるしさ。彼、これが大好きで。んふふ」
そう言った彼女は、自身の豊満な胸を手で掴み、揉み上げるような仕草をした。ぎょっとするほど下品なのに、彼女にはそれが許されるような妙な愛らしさが漂っている。ぐびりと勢いよく喉に流し込むアルコールが、みるみる間に全身を駆け巡る。
向かいの席からこっちに回ってきた早坂さんが、ミカさんをたしなめている声が聞こえた。
「お前、なに言った。だから一緒に来たくなかったんだよ。高城にかまうなと言っただろ」
「なによ、別にいいじゃない」
「よくない。あー俺が軽率だった」
何やら頭を抱えたらしき彼の声を聞きながら、僕は意識が薄れていくのがわかった。
──日付が変わってしまうまで、まるまる意識がなくなっていたとは。
気づくと僕は自分の部屋のベッドで寝ていた。またやってしまった。きっと早坂さんと好之がここまで連れてきてくれたのだろう。うっすらと心もとない記憶を辿る。辿ると、ぼんやり気になることを思い出す。ベッドから跳ね上がり、好之に電話をした。聞くとやはり、優一が皆を車で迎えにきてくれたと言う。
「そうだったんだ」
「ああ。なんかさ、早坂さんと色々話してたよ。玲人が寝てる間さ」
「なんかって……?」
好之はぼそぼそと眠たげに言った。
「俺がやったチケットで、よりによってあの女と遭遇するなんて祟られてんのか俺は、とか文句言ったり……あと、契約がどうの事情がどうのって、よくわかんない話もしてたな」
好之の話し声は聞こえていたが、胸がむかむかしているせいで頭が回らなかった。
「なんかさ。俺が思ったのは、咲野先輩……玲人に言いたいことがあるんだけど、今は訳あってそれができない、みたいな……そんな感じに受け取ったけど」
「…………」
言葉の意味を飲み込めない。本当にもう何かを考えられなかった。とりあえずお礼を言って電話を切る。よくわからない好之の話をぼんやりと反芻しながら階段を降りる。時計を見たら二時を回ったところだった。シャワーを浴びたあとキッチンへ行き、冷蔵庫から冷たい水を出して喉に流し込んだ。それでもまだ胸がむかむかしていた。
最高の気分で音楽を聴いて、最低の気分で意識を失った。皆に迷惑もかけてしまった。でもそんなこと気にしている場合じゃない。さっきから胸にどうしようもなく、たまらなく、怒りのような感情が込み上げてきていた。気持ちを抑えられず二階へ駆け上がると、優一の部屋のドアを激しく叩いた。何度叩いたろう。やがてドアが開いて、伸びてきた腕にみるみる部屋に引き込まれてしまう。
「どうしたんだよ、皆が起きるだろ」
煩くしたことを注意された。なんだよそれくらい、と思いながら睨みつける。
「玲人……?」
僕の表情に不安を覚えたのか、問いかけるように手が肩に伸びてきた。反射的にその手を振り払い、叫んだ。
「触んなよっ」
「玲人」
「僕に触んなよっ」
目を剥く優一に迫るように詰め寄る。
「……好きでもない相手と関係持てるんだ、優一って」
情けないことに、声が震えた。
「なに言っ……」
「好きでもない人間に、そういうこと平気でできるんだ」
「玲人、それは」
「だから、だからっ、男の僕にも変なことできるんだろっ」
「…………」
彼が動きを止める。
「最低じゃん、優一って……最低だよ……っ」
憧れていたのに。人として尊敬していた。
やることなすこと何もかもが眩しくて、恰好よくて、こんなに苦しくて、どうにもならないほど好きになって──それは僕の一方的な気持ちだ。だけど、これほど裏切られた気分になるのはなぜだろう。キスをされたこと、身体に触れられたこと、全部、全部、裏切られた気持ちになる。
「僕をからかって楽しい?」
優一は何も言わず、ただ僕の罵倒を聞いている。
「虐めたいんだろ、バカにしてんだろ、僕のことっ」
彼の顔は歪み、気のせいかもしれないけれど、今にも泣きそうなほど悲しげに見える。それとも、僕自身の顔がその目に映っているだけだろうか。
「違う……玲人、俺」
「何が違うんだよっ、ひどいよ、優一っ」
「…………」
僕が遮って叫んだからか、また黙る。今何かを言いかけたくせに。黙られると耐えられない。
「なんとか言えよっ! ヘンタイッ」
拳で彼の胸を叩く。何を考えているのか僕には見当もつかない。優一はしばらく動じなかったが、繰り返す僕の反発に、気が変わったのか身体が揺らぎ後ろへずれた。こうして、僕の気が済むまで受け止め続けるつもりなんだろうか。
そういう余裕なところも。
嫌いだ。
「玲人」
「……っ」
僕の怒りは収まらない。
「……話を、聞いて欲し……」
「なんだよっ、優一なんか……嫌いだっ」
何かを言いかけた優一を振り払い、僕は部屋を飛び出した。もう、本当に嫌いだ。そう思えば楽になれる。いっそすべてを忘れてしまいたい。一人そこに立ち尽くす彼の目が、悲しそうに何かを訴えたのを最後に見た気がした。けれど、もうどうすることもできなかった。
部屋に戻ると携帯が鳴っていた。早坂さんだ。受電のボタンをタップすると「こんな時間に悪りぃ」と断って何かを僕に告げようとする。
「なんですかっ」
「ああ、そういう展開か」
気が立っている僕に、彼は心得たふうにため息を吐いた。
「あのさ、高城。今度こそはちゃんと弁明させてくれ。ミカが何言ったか知らないけどさ、サキは女好きの遊び人てわけじゃないからな。そこだけは誤解すんなよ」
「は? モロそれじゃないですか」
「高城、あのな……違うんだよ。あいつな」
早坂さんの声が、やけに小さく淀んで聞こえた。
「昔から好きな子がいてさ。本気で好きな子が。ただその相手は、普通に考えてまず振り向いてもらえない相手で、一時嫌われたと思ってショック受けてた時期もあって……。ほら、男だし気を逸らせたいときだってあるだろ。そんな頃しつこく迫られてたあの子と会ってたんだよ、だから……」
早坂さんが言いたいことは耳に入っていたが、僕は無視して冷たく返す。
「知りませんよ、そんなこと。軽い気持ちで人と付き合える人だってのはわかりましたけど」
「高城……そんなことないって」
「…………」
「そうじゃないんだよ。軽い気持ちなんかじゃなく、本気で惚れてる相手がいたからさ。いたというか、いるというか」
「なんか……それって瞳子さんに失礼ですよね、って、あ。瞳子さんのことでしたっけ? でももういいです、早坂先輩。僕には関係ないからっ」
彼の返事も待たず電話を切った。
ベッドに横たわり布団に包まる。
そもそも早坂さんは、なぜそこまで必死に僕に説明したがるのだろう。僕が優一をどう思っているのかがそんなに気になるのだろうか。優一を庇いたいのだろうか……。ピョコンとメッセージ受信の通知音がして携帯を見ると、今電話を切った人物からだった。……本当に、必死だ。
『片想いってすげーつらいんだよ、高城』
──片想い。片想いのつらさなら知っているよ僕だって。
でもそれがなんだよ。優一が本気で好きだった人。それがなんだよ。そんなこと、もう微塵も考えたくない。これっぽっちも知りたくない、優一のことなんて。もう、知りたくないよ。
28・スーパームーンの夜
思い切りが必要だった。
その日、僕は勇気を出してみゆきさんと席を交代してもらった。
「みゆきさん、席一個ずらしてくれる? 僕ここに座るから」
あからさまな行動だったけれど、家にいるのに夕食の席を外すわけにもいかず、ついに決行してしまった。優一と向かい合わせの席はもう耐えられない。
「いいけど、なんで?」
当然の疑問だ。何も言わず、とすんっと席に着き黙々と食事を続ける僕に、彼女どころか凪々も凛も智彦さんも、皆が訝し気に僕を見る。あまりにじろじろ見られるので顔を上げて言うしかなかった。
「ケンカしてるんだ。……顔見たくないから」
語尾は小さく言った。
凛がすかさず優一を見やり訊く。
「玲人とケンカ中なの? 優一さん」
「え、本当?」
凪々も同じく優一へと視線を向けた。彼は食事の手を止め、二人に告げる。
「ああ、まあ。意見が合わなくて」
無難な対応をしてくれたことに胸を撫で下ろす。
「近頃、なにやら冷戦繰り広げてるのは感じてたけどなぁ。でもまぁ、ケンカするほど仲がいいとも言うしなぁ」
いつもののんびり口調で、智彦さんがメインディッシュの中華料理を箸でつつきながら言った。
「ま、いいんじゃないか」
その一言で、あとは皆気にも留めず食事を始めた。
凛と凪々は、大皿から各自奪い取ったウズラの卵を箸に持ち(持ちというか刺している)、互いにこれだけは譲れないのだと主張するかのように一瞬睨み合う。彼らの子供っぽい行動はやはりおかしくて、つい小さく吹き出してしまう。そんな僕を見て安心したのか、みゆきさんたちは次第に穏やかな表情を取り戻していった。食事の途中ふと彼女は顔を上げて、
「玲人、さすが何作っても上手よね。今日もピカイチの味よ」
今日食事担当だった僕に、ウインクしながらそう言った。けれどそのあとちらりと優一の反応をうかがったので、一瞬血の気が引いた。さいわい彼に何も声はかけなかった。
優一はわずかの間僕たちのほうを見たけれど、また顔を背け、真顔のまま食事を続けた。そんな具合で、なんとか今日も滞りなく夕食の席は過ぎていった……と思った。優一が席から立ち上がったとき、みゆきさんが彼の服を掴み、睨めつけるまでは。
「優一、ひと言いい?」
「なんだよ」
怪訝な表情で、シャツの裾を掴む彼女を見返す優一。みゆきさんはすっと息を吸い込んだかと思うと、ピシャリと彼に言い放った。
「あのね。玲人は私の大事な甥なの。虐めないでくれる?」
皆に緊張が走ったのを感じた。みゆきさん、気持ちはありがたいけど、やめて欲しいよそれは。態度に出せないまま、僕は気持ちの中で頭を抱える。
「俺と玲人の問題なんだ。放っておいてくれ」
「何があるのか知らないけどね。あなた歳上のくせして大人気なくない? 平和にやれないの?」
「み、みゆきさん、やめてよ」
優一は反応しないし、たまりかねて僕は声を上げた。皆の視線が僕に集まる。
「……放っておいて欲しいんだ。お願いだから」
今度は声を絞り出して言った。
彼女に事情を詮索されるのは怖いし、一方的に優一が責められるのも耐えられない。とても言えない。優一と僕の間に何があるのかを。
「玲人……」
彼女は渋々、掴んでいた服の裾を離した。
ただでさえややこしいことになっている僕らの関係に、恋愛関係のいざこざは遠慮して欲しいと、規則まで作ってしまった彼女。僕は、純粋に心配してくれる叔母に迷惑をかけている。ごめん、と心の中で謝るしかなかった。
「スーパームーンなんだって、今日」
数日後の夜、凪々があのね、と皆の注目を引いてから元気に言った。
「食事終わったらみんなで見てみようよ」
シェアハウスの裏庭は、持っていこいのスペースだ。周囲を人の背丈ほどの常緑樹がびっしりと覆い、囲われた芝生の絨毯の上に、半屋根付きの広いテラスが張り出ている。皆でこぞってリビングを出て夜空を見上げた。
いつになく大きく輝く、白い月が浮かんでいる。月なんて特段珍しい景色でもないのに、まるで何年も忘れていたかのように、新鮮に輝いて見えるのが不思議だった。
「きれいね! 今日は一段ときれいよね」
「本当ね」
女性陣は口々に、静かな夜空の住人を称賛した。そして誰からともなく、家の中を暗くしてみようという話になる。
「消すよーっ」
凛が声をかけた。次の瞬間、煌々と点いていた家の明かりがすべてプツリと消える。
「わぁ……」
皆が感慨深く、暗闇にいっそう輝きを増すその姿にため息を漏らす。僕たちを照らすのは、淡い月明かりのみだ。互いの表情などはよく見えないけれど、肩を寄せ合っている叔母夫婦、くすくすと楽し気に言葉を交わし合う僕の弟妹。十人ほどは余裕で座れそうな組み木でできた床に、それぞれ並んで腰掛けていく。
「真っ暗なのもたまにはありだね。少しの間、お月見といこうじゃないか」
智彦さんの言葉につられ、僕も弟たちの隣に腰を下ろしてみる。その僕の隣、開いた隙間に優一がやって来て、「いいか、ここ」と訊いた。こくり、と静かにうなずき、僕は前の庭のほうを見た。ゆっくりと僕の隣に腰掛け、彼もまた前を向いた。ただ前を……。
胸のざわめきは聞かない。今は平然を装って夜空を見上げていればいいんだ。
気にしない。もう、彼の心の内をあれこれ考えるのはやめたい。
かすかな夜風を頬に感じながら息を吸い込み、時間をかけてゆっくりと吐き出すと、不思議と気持ちは落ち着いた。
「ねえ、やっぱりいつもの満月より大っきいのかな? スーパームーンって」
凪々が素朴な疑問を誰へともなく投げかける。智彦さんがそれに答えて「ああ、どうなのかな。今いち定義がわからんな」とぼやくように言ったけれど、それに続くものはいなかった。凪々が「どうなの? 優一さん」と、自然に彼を指名した。
「ああ、実際に大きいんだよ。十四パーセント位かな。ただ、肉眼では識別できないはずだから、大きく感じるのはほとんど錯覚だろうな」
「へえ、そうなの……」
凪々も他の皆も、黙って納得した様子だった。すると突然、凪々が突飛な感想を漏らした。
「私、結婚するなら、優一さんみたいに色々知ってて教えてくれる人がいいなぁ!」
「あら、凪々ったら」くすりと微笑むみゆきさん。
「お前には結婚なんてまだ早いだろ」と憎まれ口の凛。
すると当の本人が、
「頭でっかちの木偶の坊みたいな奴に掴まんなよ、凪々」
と無愛想な声でつぶやいたので、反射的に僕の口が反応してしまった。
「さらばポンコツ、みたいな?」
「なにそれ」
凛がぼそりと返す。あ……バカだ、僕。何言ってんだろ。つい滑らしてしまった口を後悔する。優一は何も言わなかった。言わなかったから、とても気まずかった。気を張るのをやめたらとたんにこれだ。僕って……どうしようもないな本当に。
そうこうしていると、凪々とみゆきさんが息を合わせて小さく歌を歌い出した。馴染みある秋の夜の愛唱歌か何かを。たったそれだけで、さっと素朴な空気が辺りに広がった。こんな時間は子供の頃以来かもしれない。床の上に手をついて、脚を庭に投げ出し、静かなこの時間に身を委ねていると、心のもやもやもいつしか薄らいでいた。
隣の弟たちを見る。
ふいに、じんわりと温かな気持ちが込み上げてきた。
凛と凪々。人生のスタートから複雑な家庭事情を経験してきた二人。こうして心身共に健やかで伸び伸びと育ってくれたのは、ある意味奇跡かもしれないな。ここまでくるのは容易いことではなかったけれど、僕は素直に二人のことを愛しいと思える。手を伸ばし、後ろから彼らの頭を撫でてみた。
「背伸びたよな、お前たち」
「玲人」
凛は小さく微笑み、僕を見返した。これまで呼び捨てだったり、兄ちゃんだったり、態度に迷っている風だった凛だが、最近の彼は、もう何もつけずに僕の名前を呼んでくる。凪々が「お兄ちゃん、そのうち凛に抜かれたりしてね」と笑った。
「あはは、そうかもな」
「俺、玲人より高くなるよ。強くなって玲人のこと守るしっ」
「凛……」
「あら、頼もしい弟ね、玲人」それを聞いていたみゆきさんが笑う。
夜風がさわさわと僕たちの間を吹き抜けた。
辺りに聞こえる虫の音や草木の騒めき。
目を閉じると、かすかな旋律が聴こえてきた。
あ……。耳を澄ませる。それは鈴が鳴るような小さな小さなアルペジオだった。
弟たちの笑い声がする。穏やかな時間はどこまでも胸に温かい。ただ、僕たちが談笑する脇で、さっき一言しゃべったきり、黙り込んで月を見ている人がいる。本当に見ているのかなんて知らない。ただ寡黙に、僕たちと叔母夫婦のおしゃべりを聞いている優一。
……あんなことをされたのに。あんなことを言ってしまったのに。なのに結局、彼が隣にいるだけでこうも嬉しさを素直に感じ、胸に温かな空気まで溜めてしまっている僕は、もう救いようがないなと思う。心の天秤はとうに狂っている。でも、もうどうしようもないんだ、この気持ちは。
肌に触れる夜の空気は不思議と暖かい。
「あの月さ、玲人みたいだよね」
唐突に名前を出され、戸惑った。
「あ、わかる。普段目立たないけど私たちを優しく照らしてくれてるような?」
「……はぁ?」
突拍子もない、何だか小っ恥ずかしい表現を使った二人を見る。
「やだ、凛と凪々ったら、詩人じゃない」
みゆきさんはウケている。
「はははっ、君たちそういうセンスがあったのか」
智彦さんも笑い出す。
「だけど玲人くんなら、そうだなぁ。たしかに多くを語らないけどしっかり者だし、まぁ、今宵の月さながら穏やかな性格だしなぁ」
彼はすっかり気恥ずかしい二人の言葉に賛同してしまっている。
「そう、ですか? ははっ」
なんと返せばいいんだろう。人から自分のことを語られるのは妙な気分で、少し照れ臭い。
「あら、穏やかというよりボーッとしてるかもね」
みゆきさんが茶化すと、凪々がその言葉に飛びついて言う。
「うん、そうそう! そうだよ。玲人兄ちゃんっていつもポケーッとしてるもんね」
「なんかフワッとしてて危なっかしいんだよな。頼りないっていうか」
「なんなんだよ、お前たちはっ。僕はそんな風に思われてんの?」
真に受けて損をした。笑いながら二人の頭をコツンとやると、彼らはまた楽しげに肩を揺らした。
「たしかに玲人くんって、危なっかしいほどぼんやりしてるときがあるよなぁ」
「智彦さん。そんなにボケッとしてますか僕」
「ははっ、ごめんごめん。……でも、な、優一もそう思うだろ? 玲人くんのこと、どうだ?」
突然、隣に向けて話がふられ、心臓が跳ねた。あの席替えの日以来誰も触れてこなかった二人の関係に、智彦さんが何でもないように橋を渡す。
無視していいよ。何も言わないでくれ。
鼓動が速くなっていた。
「……そういうとこ、好きだよ」
ぼそりとこぼした彼の言葉に、皆が振り向く。
「え、なに、今なんて言った?」
僕の緊張も知らずに智彦さんが訊き返す。声は、穏やかだった。
「俺は、玲人のそういうとこ好きだ、って言ったんだよ」
一瞬、誰も言葉を返さなかった。頬が赤らんでくる。でもこんな月明かりしかない暗闇じゃ誰にも気づかれないはずだ。
「ボーッとしてるとこも、一生懸命なとこも、危なっかしいとこも、……ときたま感情抑えられなくなるとこも、俺は全部好きだよ」
「…………」
「お兄ちゃん、優一さん好きだって。お兄ちゃんのこと」
凪々が僕の顔を覗き込み、どういうつもりでかそんなことを言う。凛も話に乗っかってきそうなのに彼は何も言わず、智彦さんもみゆきさんもなぜか黙っていた。
どくどくと拍を打つ僕の心臓の音が、皆に聞こえたらと思うと不安だった。常緑樹の向こうに広がる暗い夜空を、目を見開き眺めるしかなかった。
静かに、冷えた指先が僕の手に触れた。
「俺は、嫌いじゃないから」
右隣に、低く聞こえた囁き。
何度も言った。嫌いだと。僕は嫌いだと、彼に。
指先がわずかに動いて僕の指先に絡む。そのまま手を静かに握られた。冷たいと思った指から熱が伝わってくる。
「好きだよ。玲人のこと」
そんなつもりはなかったのに、雫が膝に落ちてそこを濡らした。
「なんだなんだ、冷戦終結か?」
「これで仲直りね、二人とも」
智彦さんと凪々が小さく笑い出す。
暗がりのなか薄い月の光では細かい表情までわからなかった。ただ優一は微笑んでおらず、真剣な目つきでまっすぐ前を見ているようだった。僕には、そう見えた。
──好きだよ。
その言葉の中には何があるのだろう。そこに、僕の心の中と同じ意味はあるのだろうか。
静謐な輝きを湛える白い満月が、視界に滲んで溶けた。
そっと握られた手はいつまでもそこにあって、偽りのない言葉の温度を僕に伝えた。
29・失恋
「曲を作ったんだよ」
数週間ぶりに透さんに会う土曜日。いつも入るランチが手頃なお店で、食後のコーヒーを飲みながら彼が言った。
「曲……。オリジナルってこと?」
「そ。昨夜弾き語りでさ、デモテープ作ってみたんだ。テープってか、メモリに入れてんだけど」
そう言って彼は、普段いつも掛けてくる黒いボディーバッグの中をまさぐり始める。
「あれ、おかしいな。高城に聴いて欲しくてさ、持ってきたはずなんだけど……」
どうやらアパートに忘れてきたらしい、と透さんは一旦諦めかけた。でもやはり聴いて欲しいと頼み込まれ、僕は久しぶりに彼のアパートに上がることになってしまった。
錆びた手すりの階段が築年数を物語る小さな二階建て。薄い玄関扉を開け、申し訳程度の三和土で靴を脱ぐ。狭い畳の部屋に入ると、初めて身体を触られたあの日の記憶がよみがえり、わずかな警戒心といたたまれない気持ちがわいた。なんとか深呼吸して気を取り直す。
透さんが台所で飲み物を用意している間、僕は自分のイヤホンを取り出し、渡されたメモリをプレーヤーに挿した。昨夜作られたばかりの曲を聴く。
『青い夕暮れ』
……どこか寂しげなタイトル。けれど曲調は軽やかだ。爪弾かれるアルペジオが美しく流れるように旋律を彩る、それは落ち着いた曲だった。
「どうかな?」
透さんが僕の前に、ミルクティーのカップを置く。珈琲は苦手だと言ったのを覚えていたみたいだ。
「うん、なんか……かわいい感じの曲だね。タイトルから想像つかなかった」
「そっか。ああ、歌詞があまり明るくないからさ。曲調だけはと思ってこんな感じになったんだ」
頭をかき、少し照れているのか、眉尻がわずかに下がった。
「どうして夕暮れなのに青いんだろう……」
ふと疑問を口にしてみると、透さんは笑いながら説明した。
「ブルーモーメントのことだよ。天候の条件が揃ったときだけ見られる、日暮れ後の青い闇っていうか。きれいだって言われてるけど、なんかこう……切ない気持ちになるんだよな俺は。だからさ、こういう歌詞しか出てこなくて」
美しい景色なのに切なくなる……。わかるような気がする。
透さんは目を細め、青い闇の向こうを眺めるようにしばし黙った。
言葉で説明しきれない何かが胸の内にあるのだろう。それは彼の人生観だろうか。前向きな性格の裏側を見るようで、少し寂しい気がする。けれど、これがありのままの透さんなんだな。それはとても尊いもののように思えた。
「スタジオでさ、ちゃんと録音しようよ。CDにしたりとかできるかな」
「ははっ。まあな、そのうちやりてぇ」
彼はいっそう照れたように笑った。時々とても子供っぽい表情になるこんな彼を、やっぱりどうしても憎めない。
ミルクティーを飲み終わる頃、話題は互いの近況に触れるものになっていた。近頃、体調を崩すことが多くなったという透さんが心配になる。やむを得ない事情で辞めた教職をそのまま諦めたのも、病気が発覚したせいだという。精神に負荷がかかる定職は避けるように医師に言われ、ストレス自体が症状を誘発する、と注意も受けているらしい。
「バイトは大丈夫なの?」と問うと、
「少しはやらないと、ここに住めなくなるしな。バンドのほうも金かかるし」と小さく口端を歪めて答えた。
僕にできることがあるなら助けになりたい──そう思ったが、学生の身でどれほどのことができるだろうか。気持ちしかない言葉を口にするのは烏滸がましいだろうか。そんなことを考えて結局口に出せずにいると、
「それはそうと、もう一つ言うことがあって」
急にゆるやかな笑顔が消え、真顔になった彼が居住まいを正した。
何事だろうと訝る僕に向けて口が開く。
「寝耳に水っていうかさ。いや、青天の霹靂か」
ごくりと僕のほうが緊張して唾を飲み込む。
「俺さ、家族がいたんだよ」
「えっ」
ボォーーン……と、昔の古時計を模した懐かしい音声が、父親の形見だという小さな置き時計から響いた。夕刻の五時を報せる音が終わると、またコチコチと秒針の音がし始める。
「かぞく……」
「ああ」
「かぞくって……あの家族」
「ああ、あの、家族だよ」
驚きだ。天涯孤独と言っていたのにいったい何があったのだろう。詳しく聞くと、父親の書いた本を取り上げたブログ記事を見て(つまりそれは優一が書いたものだ)、自分も同じ病気だというある人物が連絡を入れてきたのだという。その人はなんと、透さんが幼い頃に生き別れた実の姉だと名乗ったらしい。そして、母親と共に今は北海道で暮らしているのだと。その事実を知って以来、透さんはその人と毎日のように電話で話し込んでいるそうだ。
「実はさ、姉の番号も咲野が知らせてくれたんだ。記事のコメント欄に『親族かもしれないから気になって』って書き込みがあったらしくて。あいつが問い合わせてくれたんだよ。それで、知れたわけ」
「あ……」
いつか神妙な顔で小さなメモ切れを渡されたことを思い出す。あれから、その存在すら忘れてしまっていた。
「驚きだろ?」
「……うん。び、びっくりした」
「だよな。この俺にさ、家族だってよ。しかも母親生きてたなんてさ。親父からとうに死んだって聞いてたのに」
「そう、なんだ……」
「……え、高城?」
嬉しかった。嬉しくて、まるで一瞬自分の母親が戻ってきたような感覚がして、気づけば見開いた目から雫がこぼれ落ちていた。
「よかった……透さん、家族いて……お母さん、生きて……」
「高城──」
ここまで強く抱きしめられたのは初めてだったかもしれない。背中に指が食い込むほどの力で、透さんが僕を腕で包んだ。
「……ったく、お前って奴は」
彼は僕の肩口に顔を埋めて鼻を啜り始めた。そのとき。
透さんのスマホから音がして、ハッと僕たちは身体を離した。瞬間、また自分の携帯の電源を切っていることを思い出す。この感じ、覚えがある。透さんは電話に出て、「ああ、ちょうど今、お前が教えてくれたその話をしてたとこで……」と話し始めた。それで確信する。やはり今度も相手は優一だった。
「え? ああ、高城ならここにいるけど……ってか、あのさ、咲野」
また電話に出てくれと言われるのだろうか。わずかに鼓動が速くなる。
「お前には感謝してるから、あんまりこういうこと言いたくないけど……」
ふう、と深く息を吐き、透さんが言葉を続ける。
「お前さ、なに? 高城のこと追っかけてるわけ? いつも電話してきてさ。彼女いるんだろ、なんでこうも高城にかまうんだよ」
なにを急に、と慌てて止めようとするが片手で制される。胸にちくりと痛みを感じた。言わないで欲しい。頬が緊張で引きつる。
「お前、本当は……高城に惚れてんだろ?」
強張った顔中の皮膚が痛い。たまらず座り込んでぎゅっと膝を抱くと、そこが密閉空間のようになって、心臓がばくばくと鳴っているのがわかる。
「ごまかすなよっ、本当のこと言えよ。ちゃんと答えたら返してやる。今すぐにさ。どうなんだ、はっきりしろよ」
透さんが責めるように声を荒げ、再びゆっくり問いかけた。
「お前、高城が好きなんだろ」
……恐い。すごく恐い。どうしよう。
とても長い時間が過ぎた気がする。
やがて静かな動作で、透さんは通話を切った。
隣室の住人が帰宅した音がする。連れがいるらしく、がやがやとしゃべりながら玄関を入り、派手な音を立てて扉を閉める。隣の部屋とは反対に、こちらの部屋は静かだ。透さんは、ことんとテーブルにスマホを置き、ゆっくりした動作で畳の上に胡座をかいた。僕は顔を埋めたまま耳を澄ませる。
「答えたぜ、あいつ」
心臓が痛い。苦しい。
「あのさ、高城」
たまらず、胸に溜まっていた息を吐き出した。
「お前のこと、すごく大事なんだってさ。好きだって……」
ちゃんと聞き取れなかった。
もう一度深呼吸をしてから僕はゆっくり顔を上げてみる。
「でもそれは、恋愛感情じゃないって……あいつ、そう言ったよ」
「え……」
目を見開き、もう一度確認しようと彼に尋ねた。
「……れ、恋愛……感情……じゃない……?」
「ああ、はっきりそう言った」
「優一が……恋愛感情じゃないって、言ったの?」
「高城、諦めないかもう。咲野のこと」
「優一がそう言ったの?」
「ああ」
「本当に?」
「そうだよ、高城。はっきりと……」
胸に、鉛を撃ち込まれたみたいだった。
それは僕の中に波紋を作って、ざわざわと冷たく広がっていく。
「……キス……されたんだ……」それ以上のことだって──……
込み上げてくるものを抑えられず、喉が引きつる。きっと今僕は、ひどく無残な歪んだ顔をしているんだろう。
「お前のこと、ついかまいたくなるんだってよ」
聞きたくなかった。
なんでそんなにすいすいと言葉が出てくるんだ。
透さんは、嘘をついてるんじゃないか。
「……彼女がいるのにバカ言うなよって……言われたよ」
「彼女……」
色んなことが頭をよぎった。
彼女がいる。そんなことは前から知っている。
知っているけれど、それでも……。
胸に広がった冷たい波紋は、固く重い塊となり、心の奥深くに沈んでいく。
もう手が届かない場所へ、僕のわずかな望みを道連れにして、深く沈んでいく。
ああ、どうしてこんなにショックを受けているんだろう僕は。
わけのわからないまま触れられたときのこと。
好之に電話で励ましてもらったこと。
誕生日にチケットをくれたこと。
そして、あのスーパームーンの夜、暗がりの中で彼がくれた言葉。
なんで……。
「高城……」
ふいに名前を呼ばれ、唇が触れた。
透さんの皮膚は乾いていた。
そっと優しく触れてから、また離され、別の角度から触れた。柔らかに、それは何度も僕の唇に降りてきた。避けられなかった。どこか気怠く甘いキス。……優一のはほろ苦かった。ほろ苦くて、なのにとても甘くて、熱くて、溶けそうで、心も身体も鷲掴みにされるキスだった。優一のは……。
ゆっくりと手を引かれ、ベッドに寝かされた。着ているものを一つ一つ剥がしていくその手が、心なしか震えている。僕を見下す透さんの顔が、瞳を覆う水の膜の向こうに霞んでいた。身に纏うものをすべて剥ぎ取られる。彼も着ているものをすべて脱いだ。ベッド脇の畳の上に僕たちの服が積み重なる。シーツと透さんの間に閉じ込められた僕の身体が、寒さに少しだけ震えた。
首筋から、胸も腹も腰も、晒されている肌のあらゆる場所に大きな手が這う。僕の熱を確かめるように、彼の手に強引さはなく、ひどく慎重に動いた。ふいに思った。大事にされているっていうんだろうか、こういうのを。まだ頬は濡れている。あふれてくるものはまだ止まらなかった。
窓から入り込んでいた夕陽が名残惜しげに消えていき、やがて部屋の中は暗く寒々しい空気に包まれた。
冷えた空間で僕たちの吐息だけが熱を帯びていた。
一つ一つ彼が与える刺激から快感を拾い上げていく。触れられる気持ちよさが少しずつ腰の奥へ、焦ったい疼きとなって積み重なっていく。透さんからの口づけと愛撫を受けながら、ゆっくりと僕の中に育っていく熱が──今はその熱だけが救いだった。
胸と下腹部に透さんの口づけが降り、彼の手が僕の体の裏側に回った。ぞわりとした感触と共に尻をなぞられたあと、片脚を持ち上げられ、彼の指が硬く閉じた僕の敏感な場所に触れた。彼は一瞬ふと離れて、何かを手にして戻ってくる。ひやりとした感触と滑りにたじろいだが、それが何かの想像がつくと、僕は息を吐いて身を任せる覚悟をした。驚くほど滑りのいい指先でこじ開けられていくその場所が、これから行われる行為を僕に伝えた。やがて柔らかさを増したそこに複数の指が侵入して中を弄ばれると、自分でも聞いたことのない嬌声が口から漏れた。
「ふ……ぁ、んんっ……あぁ」
「俺が忘れさせてやるから、あいつのこと」
透さんが僕の耳に唇を寄せる。指が執拗に中を弄る。
「全部忘れさせてやるよ、──高城」
そう言って、指が僕自身もまだ知らない快楽の在処を探り当てる。
「はあ……っ、や……なに」
「ここ、感じるんだ。気持ちいい?」
「んあぁぁ…………」
はしたない声と同時に目尻に先ほどとは温度の違う涙が出た。指先からの刺激が脳天をかき乱していく。変になりそうだ。
「……俺の、挿れていいよな、もう」
何をされるのかわかっていたし、それでよかった。透さんのものが、たった今快楽を覚えたばかりの場所へゆっくり押し入ってくる。感じたこともない感覚に頭の中で違和感を覚えながらも、身体はさして抵抗もなくそれを受け入れていった。
これで、僕は透さんのものになるのだろうか。優一とのことにけじめをつけて。もう何も考える必要はない。もう涙を流すのは終わるんだ。このままこの身体が、違う何かになったとしてもかまわない。
「きついか?」
「んっ……ん、へいき」
「いい?」
「ん……」
彼は僕の腰を手で抱え、律動を始めた。緩く、激しく、緩急をつけて僕の中に欲望を押し込んでくる。彼の腰が動くたび僕の腰も動きに合わせて揺れ、喉から小さく声があふれる。
「んん……んっ」
腹の中が熱い。熱いところをまた突かれ、押し寄せるとめどない快楽に戸惑った。それは徐々に激しくなり、意識のすべてを翻弄していった。頭上に荒い息遣いが聞こえる。恍惚に溶けそうな透さんの汗ばんだ顔。鋭く、責め立てるように激しくなる律動。彼が低く呻く。身体の中で弾けそうな熱を感じ、僕自身が余裕をなくしていく。そのまま二人で快楽の高みとへ駆け昇る。
「高城っ、俺、ダメだっ、もう……うっ」
ああ、僕も、もう……。
明滅する意識を揺り戻したのは、隣の部屋から侵入してきた無遠慮極まりない生活音だった。誰かの話し声と笑い声。遠くから聞こえるような、すぐそこにいるような、居心地の悪いその音に侵略され、二人で作り上げたムードは一気に壊れた。
「……高城」
それでも、初めて身体を繋げ同時に精を放った僕たちは互いから目を離さなかった。僕の髪をかきあげる彼の手はまだ熱い。
「好きだ……高城」
冷たい空気の中で汗ばんだ互いの肌を撫で合い、熱を確かめ合った。
「透、さん」
──僕が好きになったのは男の人だった。
それを裏打ちするように、この身体は男の人に抱かれた。
これで透さんと同じだ。僕たちは、同じになったんだ。
まだ苗字で呼ばれていた頃。
あの人の周りには音があって、それはキラキラと光を反射しながら僕の耳に流れ込んできた。きれいで、楽しくて、気づけばその姿をいつも追いかけていた。僕はその人が大好きで、まだ誰にも告げていないけれど、彼はまるで音楽のような存在だった。
最初から叶わない恋だと知っていた。
知っていたから、今さら嘆くこともない。
ついに、とうとう、紛れもなく、……僕は失恋したのだろう。
30・理想の結末
夕飯後に部屋へ戻ろうと、いつもより早めにダイニングを出た。しんと静まった天井の高い廊下を渡り、階段に足を載せたとき、突然名前を呼ばれた。
「……なにか用?」
立ち止まって振り向くと、急いで僕を追ってきたせいか呼吸を早めた優一がいた。今まで見たこともない顔をしている。焦っているのか、緊張しているのか、わずかに頬が紅潮していて、彼らしくもない心もとなげな眼差しで僕を見つめている。
「玲人……」
同じ高さの目線が僕をもう一度呼んだ。
「…………」
「昨日、神崎に訊かれたんだ、電話で」
──昨日。
昨日、僕は透さんとセックスをした。
初めてだったけれど、彼に恋しているかはわからないけれど、後悔はしていない。
それがなんだというんだろう。もう、知っているんだろうか。
「玲人のこと、好きなのかって……」
「知ってる。僕も隣にいたから。それが何?」
淡々とした返答に、優一はわずかに戸惑いの表情を見せた。なんでそんな顔をするんだ。変な人だ……。
「……好きだ、って答えたんだ」
微妙に上擦った声が言った。なんだ、その言い方。こんな自信なさそうな言い方をする人だったっけ。
「聞いたけど」
「ちゃんと直接伝えたかったんだ、本当は。その……もっと、ちゃんと……」
キレのない声。彼らしくもない。
僕たちを変な空気が取り巻いている。居心地が悪かった。
「やめてくれないかな、そういうの。もう散々聞いたし、わかってるから。僕のことずっと前から心配してくれてたの、知ってるよ。僕もすごく感謝してるし」
──抱きしめてくれたあの日。
『そういう場所がなかっただけなら、俺がなってやりたいよ』
嬉しかった。言葉で言い表せないくらい。
僕は一生あの日のことを忘れない。
「僕だって、す……」
言ってしまえば終わりにできる。何もないのだと片づけられる。
「……?」
握った手すりにぎゅっと力を込め覚悟を決める。優一はただじっと僕の言葉を待っているように見える。
「好き……だよ? だからなに? こんな話変だよ、なんかさ。やめようよ」
僕にだって何もないんだ。好きなんてありふれた言葉、僕のほうだって特別な意味なんてないから。そう受け止めて欲しい。
「れ、恋愛……感情とかじゃないから。僕のだって、そんなんじゃないから」
──わかってるよね? そんなこと。心の中で問いかける。
優一の動きが完全に止まった気がした。
瞠目して微動だにしない。
本当に変な人だ。そんな深刻になるなよ。こんな変な空気もうやめようよ。そうだ、この際全部話してしまおう。そしてすべて終わりにしよう。黙り込んだ彼に続けた。
「あのさ、……変なことされたときは、驚いただけで。僕慣れてないから、ああいう冗談。冗談っていうか……セクハラっていうか、虐めレベルだけど、優一のって」
あははっと、ひきつる顔で精一杯笑う。
「でもさ、もう許すし。同じ家に住んでんだし、無かったことにしない? もう忘れようよ、お互い……」
わざわざ昨日のことを持ち出して優一が何を言いたかったのかはわからない。でももう言うことはない、僕からは。少しは昨日の仕返しのつもりもある。けれど、『親愛』に『親愛』で応えたのだから、ちゃんと彼が望む答えを与えたはずだ。
「おやすみ」
顔を背け、階段を駆け上った。優一がどんな反応をしたのか見ることはしなかった。どうせわかりきったことだから。バタンと部屋のドアを閉めて、胸に溜め込んでいた息を一気に吐き出す。
これで終わった……。
終わったけど、もう戻れないんだろう。いくら言葉上終わりにできたって。
こんなぎくしゃくしたものが存在しなかった頃には。
朝から海が見たくて、まだ皆が起きる前にそっと玄関を出た。
夜が明けきった海岸は、空も海も碧く澄み、冷たい風が吹いていた。海鳥の鳴く声が、繰り返す波の間にゆるやかに消えて行く。まだ誰も歩かない浜辺を行き、水平線を眺めた。靴の間に入り込んだ砂粒が、足を踏み込むたびキュキュと音を立てた。
ふと、風が止まる。凪だろうか。
陸から吹いていた風が海風へと変化していくこの静かな時間。人々が日常に追われ気づきもしないその隙に、海はこうして同じ営みを繰り返し、ただ大きな腕を広げいつもそこに佇んでいるんだ。
人名からその人の顔を想像してみるのは、よくあることだと思う。ただその人の場合、十人中十人が皆、似た顔を想像する羽目になるのではないだろうか。クマタロウという名を聞いたとき、僕の脳内にももれなく、どこか朴訥で男臭く不器用な、そんな風貌がイメージされたのだった。だが実物は、僕が想像したのとは少し違っていたんだ。
その日、夕凪ハウスに『クマ』がやって来た。空の高いよく晴れた日曜日の午後だった。
大学生たちはいなかったが、みゆきさんと智彦さん、凛と凪々、僕と優一。いつものメンバーが揃った時間だった。呼び鈴を押され出迎えたみゆきさんが、彼をリビングまで通した。智彦さんが歓迎の意味を込めて温かな飲み物(ミルクティー? 多分ロイヤル何とかという凝ったやつだ)をテーブルに腰掛けた彼の前に差し出した。
「あの……っ、咲野くんに用が……っ」
「ああ、どうしたんだ? わざわざこんな所までやって来て」
瞳子さんの許婚と名乗った彼が、緊張した面持ちで声を上擦らせているのに対し、優一の声はひどく冷静で、対照的だった。隈太郎さんはたしかに男臭い見た目ではあったが、田舎者の風情ではなく、上背があり、鼻筋も通ったなかなかの美男子だった。ただ、顔が濃かった。一文字の眉は太く、二重瞼で、頬骨が高く彫りが深い。優一と並べても優一よりも男前だと言う人もきっといるだろう。アクション俳優とファッションモデルのように格好よさの種類が違うような気がする。そんな、名前以上にインパクトある人物が、物申す勢いで目の前の男を睨みつけている。
「俺、決めたんです。今日ははっきり伝えておきたくてここへ」
「何を?」
「瞳子と……。俺、瞳子と結婚したいんだ。君より先に彼女にプロポーズするつもりだから……」
バサッ、と背後で何かが落ちた音がした。振り返ると、リビングの入り口に瞳子さん本人が立っている。彼女は手にしていたバッグを床に落とし、目を瞠りこっちを見ていた。
「瞳子ちゃん、帰ってきたの?」
みゆきさんが声をかける。振り向いた許婚と恋人は、彼女を見ても表情を変えなかった。
「瞳子、ごめん。来ちゃった」
「クマ……」
彼女は顔を赤らめ、明らかに動揺している。諦めの言葉を引き出したかったはずなのに、真逆の宣言を聞いてどう感じているのだろう。すると優一が鋭い声で『クマ』さんに語りかけた。
「あのさ。それじゃまだ足りないだろ。あんたはなんで瞳子と結婚したいんだ、理由をちゃんと言えよ。許婚だからか、親や周りが勧めるからか、それとも……」
「……それは」
多分、本来奥手な人なのだろう。言いあぐねる彼に、さらに優一がけしかけるように問い質す。
「瞳子の目の前でちゃんと言ってみろよ。ここまでやって来たんだからさ。あんた、瞳子と結婚したい〝理由〟はなんなんだ?」
瞳子さんは震えている。皆が彼の挙動を見守った。ゆっくり、静かに、しかし力強く、彼がそれを言葉にするのを今、皆が聞く。
「愛してるからっ。俺、瞳子を愛してるから一緒になりたいんだ……! 咲野くんじゃなく、俺を選んで欲しい。好きなんだ瞳子、俺と結婚してくれ」
彼は立ち上がると瞳子さんに近づき、迷いなく彼女の手を取った。その真剣な顔を大きな目で見つめ、瞳子さんは泣いている。
「私、でも私……サキくんと」
震えるような小声で彼女が言うと、続けて立ち上がった優一がゆっくりと彼女に近づき、そっと肩に手をかけた。
三角関係の彼らの動きに、全員が固唾を飲んで見守っていた。
「瞳子、もういいんだ。素直になれよ。お前だって本当はもう気づいてんだろ、自分が本当に好きなのは誰か」
え──。
僕と周りの皆は、この思わぬ展開に驚き、さらに彼らを凝視する。
「私、私……」
「いいんだよ、最初からわかっていたんだ。瞳子、この男が好きなんだろ本当は。言ってやれよちゃんと、今ここで」
優一がそう促すと、彼女は溜めていたものがあふれ出したかのようにしゃくり上げ始めた。
「ごめんなさい、サキくん。私、本当は……」
「瞳子、本当に? え、俺を……?」
慌てる隈太郎さん。頬を赤くし、自分を指差しながら口をパクパクさせている。
「あなたが好きなの。言って欲しかったの。私を好きだから結婚したいんだって。周りが勧めるとかそんな理由じゃなく……」
見守る僕たちにもようやく真相が見えてきた。
瞳子さんは……そうなんだ。彼女が好きだったのは許婚の彼だったんだ。優一はそれに気づいていて、彼女のために身を引いたということで……優一が、これはつまり優一が、フラれたということ?
今にも抱き合いそうな隈太郎さんと瞳子さんに、みゆきさんがそっと寄り添う。二人を廊下へ連れ出して、どこか落ち着く場所で二人でよく今後を話し合ったほうがいいと伝えていた。
一同、ポカーンと彼らを見送ってから、広いリビングに取り残された人物を心配そうに見やる。優一は、がくりと肩を落としたように見えた。頽れるようにテーブルに肘をつく。その様子は痛々しく見えたが、すぐに顔を持ち上げた。すると今度は片手で顔を覆って後ろを向き、深いため息を吐いて肩を震わせ始めた。
──泣いている……優一が。今目の前で自分の彼女に別の男を選ばれ、事実上フラれてしまった優一が。そんな役など回されることのない人だと思っていた。でもそれが優一の身に起きてしまったんだ。
傷ついた優一の気持ちを想像すると、胸にちくちくと痛みが走った。僕は二人の仲にあれほど嫉妬していたのに……なんでこんな気持ちになるんだろう。
「優一さん、失恋しちゃったの?」
沈黙を破り、凪々が悲しそうな声でこぼした。
「そうみたいだね。まさか優一さんがフラれるなんて、嘘みたいだな」
凛がそっと凪々に返した。僕が唇を噛んでみゆきさんたちのほうを振り返ると、彼女とその夫は、
「気づいていたから、二人のことは。でもまさかこんなことになるとはね」
と、僕を遠慮がちな眼差しで見つめ、肩を竦めて言った。
夕飯は僕の担当の日だったので、この日は得意の和食にさせてもらった。初めて作ったときと同じメニューの、肉じゃがと、出汁から丁寧に入れた具だくさんの味噌汁を皆の前に並べて、席に着いた。僕は優一の前の席へ戻っていた。
「まぁ、あれだな優一。あまり気を落とさずに」
智彦さんが声をかける。
「付き合っていたおとがめは無しにしてやって!」
凛は多少無神経なところがあるが、彼なりの思いやりの言葉をかけた。
「優一さん、元気出してね。次の恋人すぐ見つかるわよ、優一さんなら」
「そうよ。あまり落ち込まないで、優一」
次々に気遣いの声をかけられた優一は、真顔で皆を眺め、おもむろにうつむいたかと思うと深く息を吐き出した。肩が震えているように見える。また泣いているんだろうか?
「ちょっと玲人、あなた……」
みゆきさんが慌てた様子で僕を見る。
「玲人くん……なんだ、もらい泣きか? 優しいんだなぁ、君は」
言われて初めて気づく。僕の頬に細い雫が伝っていることに。
「お兄ちゃん、泣いてるの?」
凪々にまで言われ焦った。
「あ、なんだろ。いや、なんか……」
失恋の痛みならよく知っていた。それを経験させられた当人の身に同じことが起きても同情してしまうなんて、おかしいとは思う。だけど、優一の心にあの痛みが広がっているのかと思うと、どうしてもそれがつらかった。
そのとき、優一がガタンッと音を立てて椅子から立ち上がった。かと思うと僕のほうへ周りこみ、僕の腕を掴んで引っ張り上げる。
えっ、なに……?
はっと彼の顔を見ると、なにかを堪え、歯を食いしばっているみたいだ。そのまま強く肩を押さえ込まれた。なにがなんだか意味がわからず、僕は口を開けたまま彼を見た。
「玲人」
「……?」
訴えるような瞳で僕を見る。一瞬、泣くなんて失礼だったのかと不安な気持ちがよぎったが、優一の眼に浮かぶ色は僕を責めるようなものではなかった。責めるどころか、むしろ……。
僕に向かい合ったまま、彼は苦しそうに項垂れた。それが、まるで子供みたいに慰めを欲しがる姿に思えてしまい胸が締めつけられる。その肩や頭を撫でてあげたい衝動にすら駆られた。おかしな言動は多々あれど、間違いなく、彼は純粋に、真剣に、瞳子さんを想っていた。なのに、恋敵である許婚に恋人を譲ってしまった。僕はそんな彼の本心など知らず、ただ嫉妬してばかりで、いつも醜い感情を抱いていた。
「元気……出して、優一」
ゆっくり手を動かし彼の腕を軽く撫でた。──知らなかった。彼に焦がれ、求め、翻弄されてきた自分の心の中に、こんな慈しみの感情が湧くなんてこと。優一の肩はまだ震えている。皆が僕たちを見ている。すると、ふいに何かをつぶやいた。
「違うんだ、玲人」
「え」
彼は顔を上げた。当然、皆が泣き顔を予想していた。
なのに……あろうことか。
──笑っている?
「どうした、優一。お前、フラれて頭イカれちまったか?」
その場違いな表情にぎょっとした智彦さんを気にも留めず、優一は強く僕の腕を引っ張り、そのまま廊下に連れ出した。……一体どうしたっていうんだ。パタンとドアを後ろ手に閉めて、まっすぐに僕を見る。
「計画通りなんだ、玲人。上手くいったんだ」
「え」何が?
「あまりに鮮やかだったからさ、笑いが止まらなくて」
息を吐き出すようにそう言い、口元に笑いを浮かべた。
まさか──震えは笑いを堪えていたせい?
「な、に、言ってるんだよ」
奇妙な優一を、呆然と見つめる。
彼は「いや、ごめん」と言って再びため息を吐き、なにやら呼吸を整えている。やっと気持ちを落ち着けたのか。しばらくの時間が経ち、唖然としていた僕に向けてゆっくりと説明を始めた。
「……あのさ、彼女と俺の計画は上手くいったんだ。本当の目的はこれだったんだよ」
軽く握った手を口に当て、逸る気持ちを抑えるように小さく咳払いをする。姿勢を正し、そしてゆっくり僕のほうを向いた。
「本当の、目的?」
「ああ。実は彼女とは別に、瞳子の兄貴に個人的に頼まれごとをしてたんだ、俺。瞳子は本当はクマが好きなのに素直になれなくて困ってるって。だから、煮え切らない許婚を刺激して奮起させる計画でさ」
「お兄さん?」
いつか電話で話していた人。
「そ。兄貴って言っても年が離れた親父みたいな存在なんだよ。一家を取り仕切ってて瞳子を溺愛してる。俺もひょんなことであの人たちに関わってしまったからさ。兄貴の望み通り、あの二人がくっつくように擬似彼氏演じて、ひと肌脱いでやったってわけ」
「え? ……それじゃあ」
目を瞠る僕に、優一はまっすぐな瞳を向け告げた。
「瞳子は恋人でもなんでもない」
──うそ。
驚嘆の言葉を口には出さず、心の中でつぶやいた。
「彼女は許婚を諦めさせるために俺を利用してたんだけど、知らずに本心を見抜いていた兄貴の思惑通りに動いて……結果、素直な気持ちに従って彼を選んだんだよ」
「瞳子さんと優一って、こ、恋人じゃないって、こと?」
「ああ、違う」
じっと、僕を眺める優一の表情は落ち着いて見えた。そして、肩の荷が降りたとでもいうふうに深く息を吐く。
「無事二人が結婚するまでが契約なんだけどな。多分心配ないな、さっきの様子だと」
彼らが出て行った方向へ視線を向け、ゆるい微笑みを口端に浮かべて言った。ふと、先日の早坂さんの言葉を思い出す。
「ひょっとして、地主の息子から報酬もらったって……瞳子さんのお兄さんのこと?」
「ああ、そうだよ」
優一は、くくっと楽しげに笑った。
頭が混乱していた。今日起きたこと。優一から聞かされたこと。そのすべてに。
知らなかった。優一と瞳子さん。彼女の許婚と彼女のお兄さん。彼らの間に僕の知らないこんなドラマが展開していたなんて。
「話してくれればよかったのに……」
優一に彼女がいる。その事実にひどく苦しめられてきたのに、軽い口調を装いこぼしてみた。
「玲人には、本当のことを言っておきたかった。だけど、クマがここへ来る可能性があって、それらしく装っておかないとまずかったんだ。お前から凛と凪々に伝わって万が一そこからバレたら大変だった。いや、口で伝えなくてもちょっとした態度から察知されるのすらまずかった。高額の報酬で契約した以上、絶対失敗できない約束だったから。それに……」
一瞬言葉を飲み、さらに僕の目を覗き込む。
「誰にも事情を明かさないことは条件でもあったんだ。兄貴と交わした契約の。かといって智彦たちに追い出される羽目になるのも面倒で、色々厄介だったよ」
微苦笑を交えながらもすらりと語る。
「そう、だったんだ……」
絶対に失敗できなくて、瞳子さんとはあくまでも恋人として振る舞わなきゃいけなかった。それが約束で、誰にも事情を伝えてはならなかった。いつか早坂さんが言ってた『訳』ってそのことだったのだろうか。お前には本当のことを話すよ、と僕に伝えてくれたあのとき、察して欲しいぐらいに思っていたのかな。鈍い僕にはそんなことできやしなかった。拳を握りしめ、うつむいた。
「驚かせたな」
「ううん」
一番驚きなのは隠されていた事実ではなく、今、優一が誰のものでもないというそのこと。
「すべて片付いてから、ちゃんと話したかったんだ」
彼はゆっくりと僕を見た。さっきの笑いはどこかへ消え去り、そこにはうっすらと寂しげな微笑みが浮かんでいる。向けられた瞳の奥を眺めてみる。
振り向くといつもそこにあった壁。「彼女」の存在は、取り除こうにもどうにもならない現実としていつも目の前にあった。今、その壁は思いもかけず揺らめいて崩れ、眼前からあっけなく消えてしまった。
開かれた視界のすぐ先で、優一が僕を見つめている。
言葉はなくても、その視線の意味が伝わってくるように感じる。気持ちが揺れる。期待のような何かが胸に渦巻く。ずっとずっと望んできたもの。きゅう……っと胸の片隅が締めつけられた。
優一、本当は僕……本当は……。
ただ穏やかに、彼の瞳が僕を映す。
もう一度夢を見たがる無邪気な願いが瞬く間に胸に広がっていく。
「……優一」
唇に想いの端を乗せると、ゆるやかに僕の名が呼ばれた。
「玲人……」
冷たい空気が満ちる廊下の隅。僕の心に灯っていた焔は消えていない。そこにはまだ息づき、叫びたがっている想いがある。伝えたい言葉がある。おそるおそる声を出した。
「優一……本当は、僕……」
戸惑いつつ言葉を発する僕を、じっと覗き込む優一。
「優一が……」
彼の瞳孔がわずかに広がった気がした、そのとき。
勢いよく誰かが扉を開けて廊下に飛び出してきた。凛と凪々、みゆきさんも顔を出して何か言っている。
「玲人ー、電話、電話ーっ」
けたたましく鳴る携帯が、僕の手に投げるように渡された。急いで応答のボタンをスライドさせ耳に当てると、聞こえてきたのは、「おきしとしん」のボーカル担当の声だった。張り詰めたように彼が言う。
「神崎の携帯からかけてんだ、これっ」
え? と思う間もなく、その声が僕に告げる。
「玲人くん、すぐ来てくれっ。神崎が救急車で運ばれたっ!」
31・青い闇
「悪りぃな、高城。色々手伝ってもらって」
「ううん、無事退院できてよかったよ」
透さんは三日間、お腹の中に発症してしまった浮腫のせいで、入院を余儀なくされた。
三日前の夕刻、ひどい痛みのなか、やっと身元引き受け人となってもらっている牧さんに連絡をつけ、病院へ運ばれた。牧さんから連絡を受けた僕が病院へ駆けつけたときはまだ痛みがひどく、面会することは叶わなかった。それでも、その夜、なんとか言葉だけは交わせた。
「こんなにひどくなるんだ……知らなくて、ごめん」
「なんでお前が謝んだよ。大丈夫だって。このまま痛みが引けば……、っ」
いつものように軽く返してくる言葉に安心しかけたら、とたんに透さんの顔が歪んだ。
「……たっ、うっ……」
激痛なのは一目瞭然だ。痛みに耐える彼の姿を見るのはつらかった。腹部にできたら相当堪えるらしいことは、病気について調べたときにわかっていたけれど、ここまで苦しむものだとは知らなかった。
その後、適切な医療処置と鎮痛薬により、彼の症状と痛みはようやく落ち着いた。完全に元に戻れたのは、倒れてから二日後のことだった。
秋風が冷たく頬を刺す夕暮れ頃、僕は透さんのアパートへ彼と一緒に戻った。入院中に必要だった少しの荷物をバッグに詰め、僕が抱えて戻ってきたのだ。もう完全に症状も痛みも引いたとはいえ、病み上がりの体調がやはり心配だったから。
叔母には事情を説明して、しばらく帰りが遅くなると伝えてある。透さんのことは、優一の知り合いでもあり、僕の趣味の合う友人だと話してある。みゆきさんは了解してくれたけれど、電話を切る前、できるだけ早く戻りなさい、とだけ強く言われた。
「バイト、首になっちゃったよ。今回の件で」
「うそ……」
「仕方ないよな、こんな役立たず抱えてたってそりゃ困るさ、あっちだって。……仕事、どうすっかなぁ」
役立たずなんて……言わないで欲しかった。
「透さん、僕さ」
「ん?」
「少しの間学校休んで、働いてみようかな。ここ追い出されないように、僕が頑張ろうかなって思って……。ご飯も僕が作りに来るから」
思いついたとたん口をついて出てしまった言葉。
透さんは瞠目して、言葉を失ったようだった。
彼のために休学して働くなんて、よくそんな思い切ったアイデアが浮かんだな、とどこか冷静に感心もした。だけど後悔するほど悪い考えではない気がする。
僕が、僕なんかが力になれるのなら。
「前から考えていたんだ。実は、学校さ、本当に今やりたいことかどうかもよくわからないし、考えてみる時間が欲しくて。いい機会かなって」
逡巡しながら黙ったままの彼に、自分にしては珍しく話を押してみる。思いつくままにどんどん口にする。
「透さんがここにいられるよう僕がなんとかするから、任せて欲しいんだ」
僕の気持ちに迷いはなかった。けれど、
「そんなことはさせられない」
苦渋の顔で、やけに低く暗い声音で、透さんは言った。言ったが、それでも次に出てくる言葉もなかった。だって、そうだろう。今は、何をおいてでも安静にしていて欲しい。新しい仕事に就くバイタリティーを発揮する余裕はないはずだし、そうして欲しくもなかった。
僕は気持ちを固め、彼を説得した。夜が来るまで延々と、小さなアパートの部屋の片隅で、それが今一番僕がやりたいことだからと説明をした。……別に、学校を辞めてしまうわけではない。叔母にも学校にも事情を話し、一時的に時間を作るのだ。そのできた時間で、僕が今一番やりたいこと──透さんを助けること、それを果たしたいんだ。きっとその間に少しは透さんの体力も回復するだろう。そうなれば……。
そのときふと、唐突な記憶が頭を掠めた。──『自分を与え過ぎるなよ』。それが僕の悪い癖だ、とでも言わんばかりにあの声は言った。僕の……悪い癖……同情し過ぎているということ──? そんな動機から誰かに助けられることに寂しさを覚えていた過去の自分。けれど、今この気持ちを止めることはできない。どうしようもないよ。記憶のなかの声に反論するように心の中でつぶやいた。
透さんが顔を上げた。そこではっと思いは途切れる。僕の熱意は伝わり、彼は最後にとうとう、じゃあ少しの間だけ力になってもらう、と納得してくれたのだった。
よかった。明日、早速仕事を探しに行こう。
毎日昼間は働いて、夕方になればここへ来てご飯を作ろう。一緒に食べられるといいな、と思う。できるだけここへ来て、彼のそばにいよう。また何かあってもすぐに対処できるように。……僕にできることはたったそれだけだ。だけど可能な限りで力になりたい。烏滸がましいなんていう遠慮はとうにどこかへ消えていた。
彼が僕の〝恋人〟だから──?
ふと、心の外側から内側へ問いかけるそんな声があった。僕らは恋人なんだろうか。そうなのかもしれない。そうだと思う。理由がなんであるにせよ、これが責任というより願いなのはたしかだ。ただ純粋に、僕は彼を助けたいんだ。
夜の八時を回っても、僕はまだアパートにいた。数回、優一から電話がかかってきて、その都度はっと顔を上げた。だけど、名前を見ても僕は電話に出なかった。
ずっと、彼の恋人だと思っていた女性。その人は今や別の人と肩を並べて笑っている。優一は今誰のものでもない。その事実を思ったとき、アスファルトに閉ざされ萎れた芽が負けじと再び顔を出すように、彼を求めるこの強い気持ちが、硬い地面を突き破り、今にも飛び出してきそうだった。恋人がある身でありながら。それすら忘れて。
けれど、男である僕が彼女の代わりに収まれる場所なんて最初からないはずだった。……好かれているのはわかっている。大事に思ってくれていることも。だけどそれが『恋愛感情じゃない』と知らされた以上、もうどうにもならないことだ。廊下で言葉を交わしたとき、じっと見つめる彼の視線に、僕はいったい何を期待したのだろう。
晩ご飯を食べ、シャワーを浴びた。
「帰らなくていいのか?」
透さんが後ろから僕を静かに抱きしめ、言った。
「うん、いいんだ」
壁にぴたりと沿わせて置いたベッドの上。薄いマットレスに間に合わせで取り付けたシーツ。触り心地はごわごわしていた。今ですらギリギリの生活なんだ。それでも音楽という夢を追いかけ、侘しさなど微塵も感じさせない明るい表情で生きている。透さんは似ている。置いてきた心の闇に目を背け、必死で前を向き生きてきた僕に。弟たちの世話をすることが、自分の存在意義だったし、生きる理由だった……あの頃の僕に。
声を控えて、と言われてもあふれてしまう声を、必死で噛み殺した。体温が伝わり、冷たかった肌が熱を帯びてくる。
優一と出会ってから、心の奥の張り詰めた心が解けていくようだった。抱きしめられたあの日から、僕は彼しか見えなくなっていた。
男性と経験のある透さんは、細かいところまで僕の身体を気遣ってくれる。受け入れる場所も、痛みを感じないようにたくさん時間をかけて解された。最中も、何度も苦しくないかと僕に尋ねて、互いの熱が通い合う抱擁をくれる。彼がくれる快楽の細波を僕は少しずつ拾い集め、やがて大きなうねりとなって愉悦の大波へ飲み込まれると、素直な男の精を吐き出し一気に果てた。彼は僕を抱くとき、時々「玲人」と名前で呼んだ。
その夜、僕は家へ帰らなかった。
次の日、幸運にも手頃なカフェのバイトを見つけて面接をしてもらえた。学校にはとりあえず休みを伝えたし、この件はいずれみゆきさんにもちゃんと伝えてから正式に手続きをする。しばらくの間は、透さんと一緒に彼の生活を支えるために頑張っていこう。凛と凪々にも説明をしなきゃ。一緒に過ごす時間は減るけれど、帰らないわけではないし、彼らもわかってくれるはずだ。
昼ご飯を透さんと食べたあと、彼が眠っている隙に、僕は思い立って、デモテープのメモリを持ち出し牧さんに会いに行った。
「へえ、なかなかいいじゃないかこれ」
「ですよね」
駅近くの喫茶店。カウンター席で、僕は勝手に持ち出した透さんの曲を彼に聴かせてみた。曲を聴き終わり好感を示してくれた彼に、独断で大胆な提案をしてみる。
「あの、ライブでやること……出来ないですか」
考えというよりは閃きに近かった。
「やれるかもな。年末のライブで、神崎に弾語りしてもらおうか」
意外にも悪くないという顔で牧さんはそう言ったが、すぐに案を修正した。どうやらメンバーにもその日までにこっそり練習させておくという考えのようだ。彼は、神崎には内緒な、その日に突然皆で演れるってサプライズしてやろうと、ものすごく素敵な提案をしてくれたのだ。そうして、
「高城くん、君って……あれなんだよね。神崎の……」
おもむろに彼はいい淀み、頬をかく仕草をしながら目を泳がせた。
僕はこくりと静かに頷く。
「そっか……」
彼は何も言わなかった。
ああ、勝手なことをしてしまった。本人の了承も得ず。だけど、すべて上手くいきそうな気がする。年末が来たら楽しいだろうな。透さんは、思わぬ展開に目を輝かせて満面の笑顔になる。そんなイメージを思い巡らしながら歩き、気づくとアパートに着いていた。
古ぼけた階段を上り遠くの空を見ると、透き通った青い闇が広がっていた。街が作り出す生活の音をすべて飲み込み、静かな時間へと変えていく深い色。……ああ、これが。まるで夕凪のようなブルーモーメント。収穫の多い充実した一日の終わりに、ご褒美のような空だった。
ふと、玄関前で足を止める。
そこに信じられない人物が立っていた。
「うそ……」
「ここだったんだな。探したよ」
「なんで? なんでこんなところへ」
硬く、低い声が言う。
「駅までは知ってたから、訊いて回った。やっと見つけたよ。帰ろう玲人」
優一は、僕に手を差し出した。
「優一……」
戸惑い、言葉が出ない。こんなところまで迎えに来られるなんて……思いもしなかった。
外の様子に感づいたのか、玄関のドアが開き透さんが顔を出した。
「咲野、……なんでお前が」
「そんなに変か?」
苦笑し、いつものように淡々とした声で言った。
「玲人を迎えに来たんだ」
「お前……」
吃驚する透さんにかまわず、彼は僕に向き直り、迷いのない視線を向けた。
「俺たちの家へ帰ろう、玲人」
……僕たちの、家。
どこか恋しいその響きに気持ちが揺れる。しかし決めたことを手放すわけにはいかない。しっかりしなければ、と気を取り直し彼に告げた。
「優一、あの、僕しばらくここで生活するつもりなんだ。夜だけは戻るけど、それ以外は……透さんといたいから」
「何言ってるんだ、玲人」
優一があからさまに顔を歪めた。ぐらつく心を押さえ、平坦な声を作り出す。
「僕、付き合ってるんだよ、透さんと。……恋人として。だからもう、心配とかいらないから。僕はもう、大丈夫だから」
「どうして……何言ってる、玲人」
優一は瞠目して、腑に落ちないと言いだけな変な顔をした。そして突然力任せに僕の腕を掴む。だがその手を透さんがすかさず振り払った。
「そういうことなんだ。悪いが咲野、もう俺と高城の間に割り込んでこないでくれないか。高城のことは大事にするつもりだ、放っておいてくれ」
優一が透さんを強く睨めつけ、声が怒気を孕んだ。
「神崎、どういうつもりだ。俺から玲人を奪うつもりか」
乱暴に突き放した透さんに、優一は低い声で問い詰める。
奪う──なんで優一はそんな言い方をするんだ。毅然と、相手を責めるように見る優一の視線の意味が、よくわからない。
明らかに対立する二人の緊迫した空気に、ごくりと唾を飲み込んだ。どうしてこういう状況になってしまったのだろう。僕が透さんと付き合っているとはっきり告げたのだから、優一にはもう心配したり気にかける理由などないはずなのに。なのに、今優一の表情にはっきりと、この状況を許し難く思う根拠があるように……見える。
「咲野」
透さんが、一言一句区切るように優一へ告げる。
「高城と俺はな、もう深い関係なんだよ。もうお前には関係……」
「神崎っ、貴様……ッ」
最後まで言い切らないうちに、それは遮られた。一瞬、目の前の空気が激しく揺らぐ。優一が透さんの襟を掴み、その身体を壁に叩きつけたのだ。
え……。
目を疑う僕を尻目に、二人は荒い息を吐いたまま睨み合う。
「玲人に……、玲人に、何をしたっ!」
「何?」
透さんの唇がかすかに歪む。
「……抱いたよ、高城を」
瞬間、鈍い音が響いて、気づくと透さんは壁から滑り落ち、その場に倒れ込んでいた。腫れあがっていく頬に、何が起きたのか嫌でも気づく。
──優一が、透さんを殴った。
「なっ、なにすんだよ……優一っ、ひどいよっ」
僕はとっさに透さんに駆け寄り、手を伸ばした。
病み上がりの人間を殴るなんて、どうかしている。優一は、どうかしている。
透さんは僕の伸ばした手を受けつけず、一人で立ち上がったかと思うと、躊躇いなく振りかぶったその拳で優一を殴り返した。
ガッと、再び鈍い音がする。身体を飛ばされ、体勢を崩した優一の唇の端に赤いものが滴った。透さんはそんな彼に吐き捨てるように言った。
「わかってるさ、俺は恩を仇で返したよな。そうだよな。散々してもらいながら奪ったからな、お前の大事なものを。でもそれがなんだ、恋愛にフェアプレーも何もあるかよ。奪ったもん勝ちだろっ、負けを認めろよ、咲野」
ここまで挑戦的な態度に出る透さんの迫力に圧倒され、この状況をどう回避すればいいかますますわからなくなる。
「黙れっ、貴様よくも……ッ」
優一の拳は止まらなかった。
しかしその手は透さんの腕に捕らえられ、あっけなく力を奪われてしまう。次に拳を喰らったのは優一のほうだった。筋肉質で上背のある逞しい体躯と腕力に突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ今の優一の姿は、弱々しくすら見えた。
「悪いがな、俺は命がけなんだ。高城は渡さない。二人で幸せになるんだ、もう関わらないでくれっ、咲野」
コンクリの地面に腰をついたまま、優一は口を拭い、透さんを睨めつけた。
頭が混乱する。あまりに不穏なこの空気にもう耐えられなかった。なのに、止めに入ろうとする僕のことなど意にも介さず、二人は繰り返し殴り合う。どうしよう、どうしたらいい。
病持ちだというのに、大人として積み上げた経験値の差なのだろうか。見ると、透さんの勢いのほうが優一を凌駕していた。優一の左頬は赤く滲み、唇は切れて色を変えている。痛々しいその姿に胸がずきんと痛み、僕もかまわず声を荒げた。
「やっ、やめろってば、二人ともっ! なんでこんなことっ」
……こんな。
ガッとまた殴り合う音。
優一。僕を助けてくれた高校二年の日、他を寄せつけないほど完璧な人間に見えた彼。今、目の前でがむしゃらな動きをし、十も年上の男から打撃を受け続ける彼に、あの日の姿など見る影もなかった。どうして……。
「恋人同士の仲を裂こうなんて、みっともねぇと思わねーのか、咲野っ」
透さんが優一を詰る。
……みっともない。そう、優一のこの不可解な行動はいつにも増して彼らしくない。ただ胸が痛む。こんな優一の姿を見る日が来るなんて。だけど、彼にそれをさせているのは僕なんだろうか。
もはや気勢を削がれ、息を切らし、大きく肩を揺らす優一を背に、僕は透さんの身体を手で押し留めた。
「もう、やめてってば、透さん」
これ以上、優一を殴らないでほしい。
「高城、来い。もういい、放っておこう」
透さんが僕の腕を掴み、玄関のドアを開けて連れ入ろうとする。そのとき、背後でのろのろと立ち上がった優一が何かをつぶやいた。今にも泣き出すような、それは必死な声で……。
「好きなんだ、玲人」
「……え」
聞こえたのに、何を言われたのかわからなかった。優一が繰り返す。
「お前が好きなんだ」
唖然とし、ただ震えている僕の腕を、駆け寄ってきて両手でがしりと掴む。優一は訴えるような視線を僕に送り、苦しげに言葉を吐いた。
「俺と一緒に帰ってほしい。お前のいない家なんかいる意味がない」
「優一」
「俺のそばにいてほしいんだ玲人、好きなんだよ、こんなにっ」
瞳に揺らめくものがあった。それは初めて見る彼の涙だった。
「……な、に、言って」
「散々聞いたなんてっ、俺の言葉を無かったことにしないでくれ、これ以上」
優一が……泣いている。項垂れて、肩を揺らして。
彼は掴んだ腕に力を込めた。顔を上げ、僕に視線を刺したまま言った。
「どうやったら信じてくれる? 好きなんだ玲人……愛してるんだよっ、お前を」
その叫びが、僕の胸に突き刺さる。
深く、深く、突き刺さる。
声が出なかった。
心臓がかつてないほど拍を刻んだ。
──愛している。
優一が僕にそう言った。
「なんで……、だって」
喉が引きつり、かすれた音しか出てこない。
それでも訊き返すしかできない。
「なんで」
「お前と暮らしたかった……だからあそこに来たんだ俺……そばに来たら、お前のこと死ぬほど大事にしようって……大事にして……少しずつ俺を好きになって欲しかった……」
途切れながらも真摯な響きをともない、僕の耳に届いた言葉。
「ゆう……いち……」
「帰ってくれっ、いい加減にしろ!!」
透さんの腕に振り払われた優一は、揺らめき力なく後退ると、閉じられた扉の影に消えた。
胸が痛い。
耳に残る彼の声を噛みしめる。
優一が僕を、愛している。
記憶の中の遠い海に、潮の音を聴いた。
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