雪解けを待つ (著者:凪瀬夜霧さま)

雪解けを待つ (著者:凪瀬夜霧さま)

2021年7月27日

 そいつに出会ったのは、旭川の買物公園だった。駅から真っ直ぐに伸びる歩行者天国にも短い秋の風が吹いていた。
 こっちにきて半年くらい経っていた。姉は元気で明るくていい人で、血の繋がりを感じられる家で一緒に暮らした。体調も落ち着いてきている。
 それでも胸に空いた穴は埋まる気配がない。自業自得だと言われればそれまでで、俺は間違いなくしくじった。
 嘘をついて騙して、俺は高城を求めた。手に入ったと思ったが、そうではなかった。あいつの中には常に咲野がいて、俺を通してそっちを見ていた。感じていたはずだった、そういう目を。
 それでも求めたのはあいつが優しかったから。俺の、このどうしようもない虚しさや寂しさ、人恋しさを理解して埋めてくれる気がしたから。
 最初から他人のものだと分かっていながら求めて奪い、でも結局は勝てないまま。更には情けない姿を晒して、負担をかけて、腐っていく自分に嫌気が差して逃げるようにこっちに来た。
 本当は、支えてやりたかった。笑っていてもらいたかった。俺が、あいつを幸せにしてやりたかった。

 不意に聞こえたギターの音に、俺は俯けていた顔を上げる。買物公園のベンチに座る一人の青年が、アコースティックギターを抱えて歌っている。俺の好きな『DEAL BRAKER』の曲を。
 伸びやかな声だった。ギター一本の弾き語りを、そいつは実に気持ち良さそうに歌っていた。長めの黒い前髪からチラリと見える黒い目ははっきりとしている。日に焼けた小麦色の肌。歌うときに見える白い歯と、小さいながらも見える八重歯。薄手のコートを着た彼は本当に楽しそうに歌う。

 そうだ、歌は楽しいんだ。歌う事が、ギターが、大好きなんだ。

 知らず、俺の目からは涙が溢れていた。ケジメとして捨てた夢。手放した相棒。あれがなくなってから、この手はどこか寂しいままだ。

 青年の歌を聞いていた人達から拍手が起こって、俺もハッとして拍手をしながらポケットを探る。青年はこれがラストだったのか立ち上がって手を振って挨拶をしている。
 もう終わってしまった。また、聞けるだろうか。

「どうしました? 大丈夫?」

 気づいたら周りに人はいなくて、青年は心配そうに俺を見ている。触れる手が、とても温かく感じた。

 これが俺と、佐藤哲夫との出会いだった。

◆◇◆

 三月、ようやく北海道にも春がくる。分厚い雪はだいぶ溶けて下から緑が見え始め、薄く残る雪の合間から柔らかな黄緑色のフキノトウが顔を覗かせる。
 冬の間は穏やかな農作業もそろそろ来期に向けて動き出す頃合いだ。

 俺は旭川で定期検診を終えて、今は待ち合わせの楽器店へと向かっている。哲も農業講習が終わったら合流する予定だ。
 そう広くない店内には所狭しとギターが置かれている。エレキにアコースティック。浅い場所にはウクレレもあって、時々子供が面白そうに見ていく。
 壁にかかるそれらを見ているとふと、懐かしいような感傷が広がっていく。やっぱり、手放したものは大きかったのだろう。
 あれ以来、俺はギターを弾いていない。哲には話したし、一緒に弾こうとも言われた。でも俺の中では未消化のものがまだあって、それを思い出しちまいそうで勇気が出なかった。
 ギターの奥に高城がいる。いい恋人ができたってのにまだその影を見るのは申し訳ない気がしている。

「透!」

 入口で声がして振り向くと、哲が此方へと近づいてきた。最近の若い奴らしく股下が長いからあっという間に距離が詰まった。

「ごめん、待たせた?」
「いや、そうでもない」
「検診、どうだった?」
「何でもなかったよ」

 伝えると、哲はほっとしたような笑みを見せた。
 俺の病気は一時期の不調が嘘のように回復している。おそらくストレスが大きかったのだろうと言われた。
 今考えると確かに無理をしていた。思うようにならない現実、大事な奴に負担を全てかけてしまっている事、手放すべきなのに手放せずに縋った弱い自分と、もうどうしたってあいつの唯一にはなれないという思い。
 あの時の俺は、相当病んでいた。

 哲は俺の病気を知って心配してくれたが、こいつと暮らすようになって体調は以前と同じくらい安定した。規則正しく健康的な農家のサイクルで動くし、そうでなければ経営しているペンションの仕事をしている。
 案外これが合っていた。空気はいいし、自分で作った野菜も美味い。俺には北海道という土地柄は合っているように思える。
 そんな事で、哲は俺の定期検診にはくっついて旭川まで来ている。まぁ、車を出してくれるのは正直助かるし。

「今日はなんか用か?」

 合流した哲に聞くと、あいつは笑って「うん」と答える。そして店員に何やら話しかけて、ギターケースを一つ受け取った。

「ギター?」
「そっ。修理出してたんだ」

 俺は首を捻った。哲のギターは大事に部屋に置いてある。壊れてもいないはずだが。

「さっ、帰ろう透」
「あぁ、うん」

 だが結局、俺はこいつに押し切られたままだ。


 ペンションに戻ると暖炉に火を入れる。ここは哲の祖父さんが拘った別荘で、今も現役の暖炉がある。間伐材の薪を入れてしばらくすると、炎の自然な温かさが室内を巡った。

 今日は客がいない。二人きりのリビングのソファーに腰を下ろした哲が自分のアコギを片手に座る。そして俺の好きな歌をのんびりと歌う。ロックナンバーなのにこいつが弾くとバラードに聞こえてくる。でもそれが、今の俺には馴染んでいる。ギターだってエレキじゃないしな。

「透、弾かない?」

 誘いかけてくるけれど、俺は知らんぷりをする。そこに哲はさっき楽器店で受け取ったギターのケースを置いて、ロックを外した。
 使っていた感じのあるアコースティックギターには、真新しい弦も張ってある。新しい金具が見えていたりもしたが、全体的に古いものだ。
 嫌な顔をする俺を、哲が困ったように笑って髪をくしゃくしゃっと撫でた。

「いいよ、透に捨てられない思い出があっても。そこに、高城くんがいても」
「は?」

 目を見張る俺を見つめる哲はとても穏やかに笑っている。年下のはずだが、こんな時こいつは大人の顔を見せる。

「忘れてなんて言わないし、思わないよ。透にとって大切な人なんでしょ?」
「だけど!」

 お前を、裏切る事にならないのか?

「透の大事なものを全部含めて、俺は大事にしたい。そりゃ、今からそっちに乗り換えるとか言われたら絶対に阻止するけどさ。でも、苦しい事を苦しいまま閉じ込めるのは止めよう。俺が側にいるんだからさ」

 俺は、こいつのこういう優しさにまた縋りたくなる。大事にされている、愛されている、その事に幸せを感じながら、どこかでまた過去を繰り返すようで怖くもある。

「そんな優しい事を言ったら、俺はダメになるぞ」
「ならないよ、俺が側にいるんだから。透がダメダメな大人だってのは分かってる。今も拗らせてるだろ? 好きな事断ちしてさ、高城くんや咲野さんが喜ぶと思う? いい迷惑だよ」
「うっ!」

 案外ズケズケものを言うんだよな、こいつ。
「透、ギター好き?」
「……好きだ」
「歌うのは?」
「……好き」
「俺、透と一緒にギター弾きたいし、歌いたい。過去とかいいから、今を生きてよ。苦しい事を楽しい事に変えよう。その方がきっと、高城くんも咲野さんも喜ぶんじゃない?」
「そう、か?」

 これは罰でもあるから。そう、思ってきた。
 だが目の前の哲は確信を持ったように頷いている。

「透が不幸な顔するのを喜ぶ人達じゃないでしょ? ダメ人間を更にダメにした状態の透のことを健気に支えてくれたんでしょ?」
「お前、言いようが」
「だって、ダメだったよ。俺ならそんな献身的なことできないし。生きたきゃ働く、これが人間の基本だ」
「……ごもっともです」

 この点、こいつは本当にきっぱりしている。過去の話をしてもあの頃の俺を完全否定しやがる。まぁ、俺もどうかと思うが。

「そんな優しい人がさ、透の不幸を望むはずがない。自ら望んで不幸になんてなるなよ。俺もさせない。透は笑ってる顔が可愛いんだから、沢山笑ってくれないと」

 笑う哲の口元に、可愛い八重歯が見えている。こんなおっさんを捕まえて「可愛い」ときたもんだ。
 ……愛されてるよな、俺。幸せだよな、本当に。

 思ったら、なんだか目頭が熱くなる。年を取ると涙腺が緩むらしい。情けない事だ。
 哲がそっと隣にきて、俺の頭を抱きしめて胸元にしまいこむ。声も上げずに、俺は少しの間その心地いい場所にいた。

「……透、笑えよな」
「俺なんかが……」
「それやめろ。なぁ、どうしたら笑える?」
「……あいつらに、謝りたい」
「そっか。了解、今度美和さんに連絡先聞いておく。咲野さんの連絡先なら知ってるかもしれないし」

 俺のアドレスからは二人の連絡先は消えている。ケジメとして、真っ先に消した。
 それに、どの面下げて連絡なんてできる。冷静になればなるほど罪悪感に苛まれた俺は、あの二人にはもう一生会えないだろうと思っていた。

「会って、くれるか?」
「それは咲野さんの判断に任せよう? なんにしてもさ、そろそろ行動を起こす時なんじゃないかな?」

 俺を促す哲の言葉が、俺の萎れた思いに水をくれる。一度は枯れた気持ちを生き返らせてくれる。
 謝りたい。あいつらは受けてくれないかもしれないけれど、今の俺としてちゃんと。そして、高城に見せておきたい。俺はもう大丈夫、ここで元気にしているからと。
 俺もお前も、幸せになれると。

◆◇◆

 恐る恐るメールを咲野に送った。何度も書き直しながら。

 それから数日後、あいつからメールが返ってきた。

『今年の夏に伺います』

 俺の隣で画面を覗き込む哲と二人で顔を見合わせ、俺はようやく一歩を踏みしめた思いがした。
 頃は春。北の大地にも温かな始りの風が拭き始めている。

Fin.


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