短編:『天 秤』

短編:『天 秤』

2024年12月25日

 初霜が庭の柳を薄く覆った朝、典子は自宅で娘を産んだ。いくらか小さめの身体にひやりとしたのも束の間、赤子は元気に手足をばたつかせ泣き始めた。産着に包んでやると、小さな眼は早くも母を見つめているようだった。初めて出会えた愛しい子。やや古風だが末永く幸せな人生を送ってほしいと願いを込め千代と名付けた。設備の整った病院を避け、うすら寒い部屋でお産をしたのは彼女の信念ゆえである。万物は自然に還るのが望ましい。どんなに便利であろうと不自然な方法や人工物、本来起こる困難に過剰な介入をする仕組みや組織を典子は嫌った。自宅出産もその一環だ。
   十代の頃から自らの欲望に従うだけの生き方に嫌悪を覚えていた典子はさらに善い生き方を模索していた。教師として過ごした二十代を過ぎ三十路に入り結婚して職を去ってから漸くそれを見つけた。来る日も来る日も夕陽が西の大地へと落ちるように、人は本来あるべき場所へとかえる。彼女が引き寄せられた大地は創造の神だった。人の世の苦しみを根本から取り去る大いなる力。電波は存在するが目には見えない。それと同じく創造主も在るが目には見えない。人よりずっと高く計り知れない存在ゆえだ。神の御心に叶って生きる善良なる者にのみ苦痛のない新たな世界が待つ。子を宿した頃に聞いた音信は典子の魂を鷲掴みにした。自然に還ることを望む信念と西方由来の信仰は典子の中で見事な調和を果たし虚しい心の平野を埋めていった。燃えるような思いはいっ時たりとて揺るがなかった。
   自力で産むまでしたのだから、典子はわが子をことのほか愛しているに違いなかった。少々気が強いが母性の強い女だ、固い決意をもって生きる珍しい女性だ、と周りは感心した目で典子を眺めた。げんに典子は知的で愛想がよくあらゆる年代の人から好かれた。喋り方もいきいきはきはきといった風で、教鞭をとっていた頃は同僚や生徒から尊敬され、不屈の魂を持つ女性とまで評されていた。わずかな揶揄が込められていたとしても。

  娘の小学校の授業参観日、帰り道に親子で写真を撮った。校舎のわきから伸びるお堀沿いの一本道。田畑が広がる見晴らしの良い場所だ。ちょうど十字路にさしかかる場所に沈丁花がこんもり咲いており、そよりと風が吹くたびに香りが道いっぱい広がっていた。
「ここで撮ろう。お母さん何そんなにすましてるの。のっぽのニワトリみたい」
  千代が笑う。典子は無邪気な声に包まれ、幸せに身体中が満たされた気がした。このまま家族と共に他愛ない日常を過ごしつつ志した道を進んでいけたらいい。互いの姿をレンズに収めては見せあった。辺りには清々しく甘い香りが漂っていた。まだ陽が傾かない西空を、とんびが優雅に羽を広げ滑空していった。くすくすと喉元に笑いを溜めた千代の手を取り典子ははずむ調子で歩いた。沈丁花が香るお堀沿いの一本道を。

  神の道を嫌い、浮世離れした言動を制するよう働きかけたのは夫だった。これほど世間と違っている妻を同僚や上司に紹介すらできない。口を開けば、やれ神のご意志だ、救いの道だ、家庭人としてのあらゆる行動も神に捧げる行為に較べたら取るに足らない責務だとでもいうのか。自分はなんと呪われた結婚をしたことか。もう耐えられない。子を愛する母親というが、家事も娘の面倒見もそこそこに、一日中外に出かけて奇妙な団体行動をしている。恥ずかしげもなくこの街の家々を訪問し書物を開き玄関先で勧誘行為を働いている。それが女のすることか。妻の在り方か。母親の務めか。お前は生き方を間違えている、家族より神を選ぶお前に娘を育てる資格はない。夫の言い分は変わらず、夜ごと罵倒が絶えなかった。

   離婚したことで、典子は夫ばかりか愛する娘とも顔を合わせることができなくなった。家庭がどうあろうと千代はすくすく育ち、ひたすら母を慕ってくる愛嬌のある女の子だったのに。自力で産んだからだろうか。世間の母娘よりも絆が深いように彼女には感じられていた。
   家を追い出された日、白く細い雪が庭の柳に積もり、見送る娘の肩にひらりと雪片が舞い落ちていた。痺れるような寒さが典子の身体を硬くならせ、娘のこわばった表情をさらに凍らせていた。
「お母さん、行かないで。私のこと大事だよね、何よりも」
   何よりも……。
   縋るような目を向ける千代から目を背けた。ここで気を抜くわけにはいかない。断腸の思いで身を離し歩道へ飛び出した。典子はより高きものを目指し娘との暮らしを断った。いや、わたしは娘を捨てたのだろうか? 心の奥で不穏な声が響く。追い払おうと強くかぶりを振り、例年になく高く積もった雪路をただ前へ前へと進んでいった。

  借りた小さなアパートの窓を開け、遠くに流れる薄雲を眺めるのが、祈りと同じくらい彼女の習慣となっていた。灰色に近い空の色、もう会えない姿を目に焼き付けぎゅっと唇を引き結ぶ。再会などない。胸に手をあて息を吐き出し、そして顔を上げる。わたしには為すべき使命がある。怯むな。恐れるな。わたしの強さと孤独は神のみが知っている。世は終末の時を迎え、新しい世界が来る前に従順な羊たちを探さねばならない。この無慈悲で残酷な世で、真の自由を求めて嘆き悲しむ者がいる。彼らを救い出すため尽力しなければ。したいのだ。神は今、苦痛に耐えながら「見定める期間」を設けておられる。真実を求める者を救い出すための猶予を敢えて下さっているのだ。歴史は神がいないことを物語っていると訴える人に音信を届けなければ。今の苦しみは、世界「全体」を救うための処置なのだと。裁き主こそが苦しみに耐えているこの事実を伝えなければ。楽園の反抗が二度と起きぬよう人間による支配が愚かであることを実証するために今がある。やがて神の国が新しい世を治める大地には本物の平和がみなぎるだろう。これは聖なる書物に二千年も昔から著されていたことだ。だから次の楽園へ行ける羊たちを探さねばならない。この時代、人の世に生まれ落ちて、これ以上の務めがいったいどこにあるだろう。洗剤も使わず皿を洗いながら、近所の八百屋で見切品の野菜を買いながら、古本のページを捲りながら、アルミの窓枠をせっせと拭きながら、典子はいつも繰り返し心に唱えるのだった。
   夜毎集まる神の家はあたたかかった。実生活で何もかも失くした典子の心の空洞を、仲間の声と笑顔が優しい灯りで照らしてくれた。心地よい交流から力を得て典子はなお熱心に神を思い、比類ない活動に身を捧げていった。わたしは献身の道を歩むのだ。熱いものが心に沸き立ち、典子は常に活動の最前線に立っていた。

   強い信念とは裏腹に、夕暮れどきは寂しさが胸を覆うこともあった。青紫に溶けゆくインクのような空を見つめると微かなため息がもれた。乱雑な住宅街を抜けて辿り着く住処。錆びついた郵便受けに一枚の葉書を見つけた。胸騒ぎを覚えつつ手にとれば、見覚えのある文字が目に飛び込む。はっと息を呑んだ。
「私のお母さんはもういない。そう思って生きています。だけどお母さん、私はあなたが本当に好きでした。神より私を選んでほしかった。できるならずっとずっと一緒にいたかった。さようなら」
   筆圧の強い文字が紙面を凹ませている。力の込め具合から言外に伝わりくるものがあった。嘆きの裏に潜む冷たい拒絶と怒り。──母よ、私はあなたを知らない。私はあなたのようには生きない。これは完全に見切りをつけたとの通告なのだ。──さようなら。なんて冷めた言葉だろう。そこに温かなものは一欠片も感じられなかった。むろん真に温かなものは神の愛の中にある。ふつふつと心に何かが湧いた。鬼胎を宿したような胸苦しさに耐え切れず、歯を食いしばり、拳を握る。典子は強く目をつぶり、葉書をひと息に破った。力任せに細かく割いた薄黄色の紙片が、はらはらと靴の上に舞い落ちた。階段をかけ上がり部屋に入る。窓を開けると、暮れた空に浮かぶ細い月が冷ややかに典子を見下ろしていた。胸の中がやたら熱かった。

   神の家に足しげく通う。ひねもす集い、ひねもす歌い、ひねもす喜びに満たされ述べ伝えた。けれどもこの道を共にゆきたいと望む者などいなかった。どれほど家々を訪ねても。誰しも自分が心地よい生き方にしか興味がない。人として生まれた意味や、命の価値ある使い方に心を砕く人間などどこにもいやしない。人類の歴史に脈々と続いた悲劇、現存する世界の苦しみや悲しみ、そんなことを真剣に悩み、苦しみもがき、無慈悲な人の在り方を嘆き、喉から手が出るほど真理に飢え乾いている人間などどこにいるというのか。皆が皆、自分と家族が今このとき幸せならば何ひとつ不自由を感じていない。世界の幸せを願う心などきれいなお飾りの言葉に過ぎず、実感など一片もありはしないのだ。誰だって自分の幸福以外に真摯に向き合う問いを持っていない。わかってはいるが、どこかにいるかもしれないわずかな羊を探すために行くのだ。
   集まりは学びの会でもある。調べてきたことを元に皆の理解をたすける意味での発言の機会がある。会には親に従って参加する人々も多くいた。彼らはひときわ目立つ彼女のてきぱきした態度や発言に対し、ややもすると嫉妬深い目を向けていたし、決してああはなれない、とどこか距離をとって見つめてもいた。典子は背の高い見た目に加えやたらと行動が目立つ。好かれているのか疎まれているのか。中にはうっとおしいと思う者もいたことだろう。それを彼女も察知していた。しかしそんなことは微塵も気にならないのだった。神に魂を捧げた女には。

   ある日、典子は訪問先で一人の老女と出会った。老女は初栄と名乗った。すらりとした細身の心許ない声でしゃべる人だが、いかにも賢そうな目をしている。傘寿をとうに過ぎてるというが、瞳の奥にひそむ鋭い光を典子は会うたび見てとった。この人は洞察と知恵にあふれた人物に違いない。罪深い世を嘆き悲しみ愛の神の必要を感じている。わたしは、創造神の愛を神の書から教えて賢明な彼女の心に希望の灯をともそう。ああ、武者震いだろうか。そう誓った瞬間に身体中がひどく震えた。高潔なる光とともに霊的な痺れが脳天から爪先まで一気に駆け抜けた。恍惚にも似た感覚が典子のすべてを覆いつくした。

   老女の家の玄関口には小ぶりな沈丁花の低木があった。土が痩せてるのか、手入れが行き届かぬせいか、開花中もさして香りがしなかった。門を開け、猫の額ほどの庭に足を踏み入れて呼び鈴を押す。古ぼけた民家に一人暮らし。初栄は身寄りもないという。天涯孤独とは寂しいものだ。それでもわたしたちには希望がある。この家を訪れ毎週行う学びの時間は、げんに典子と初栄に充実したひとときをもたらした。彼女がすべてを学び終えて理性的に献身を誓ったとき晴れて正式な仲間となる。その日を皆が望んでいる。何もかもが順調に進んでいくようだった。集まりでは、これほど望みある者を引き連れてくる典子の行動力に一部の者たちが羨望の目を向けるほどだった。やがて典子は初栄に他の人にはあえて知らせぬことまで語り始めていた。自分の生い立ちも、結婚後に起きたことも、娘から一通だけ届いたあの葉書のことも。──ほんとうはこうして誰かに聞いてほしかったのだろうか?  心の奥いささか不安げな呟きを聞きながら身の上話はなめらかに幾度も口からこぼれ出るのだった。
「娘さんは千代ちゃんというのですねぇ。千代に八千代に……さざれ石の……巌となりて……」
   聞き馴染みのある歌を口ずさんだ初栄にすかさず顔をあげきりっと返す。
「わたしたちは神の国を待ち望む者です。日本の国歌に唱和することは正しいことでしょうか?」
「いいえ、それは正しいことではありません。先週そう学びましたね。覚えていますよ。ただね、元々これは愛する人の幸せが末永く続くように、と詠った誰かの真心がこもった詩じゃないのかしら。千代という名前にあなたはそんな意味を込めたのではと思ったんですよ」
   静かな微笑みだった。窓から差し込む柔らかな陽が初栄の頬を照らしていた。
「たしかに、千代に八千代に、とは末永くという意味ですね。愛する人には長い月日を幸せに過ごしてほしい。そうですよね。神の国ではすべてが叶いますよ、だから今は……」
   元気な赤子に千代と名付けたとき何を願っていただろう。あれはもうひどく遠い日に思える。わたしにとっての幸せはもっと高い場所にある。典子は唾を飲み込んだ。少し苦味を感じた。初栄は安らかで寂しげな笑顔を終始典子に向けていた。

   夏の終わりが近づいたひと日。初栄の部屋の窓から忙しく流れ込んでいた蝉の声は止み、畳と卓袱台のある空間はいつになく静けさを増していた。
「今日もありがとうございました。また来週来ますね」
   いつもの挨拶をし去ろうとした典子を、つと引きとめるものがあった。それは服の裾に伸ばされた手。ぽつりと心許ない声が言った。
「来週はもうないと思います」
「え」
   皺の寄った目の端からとめどない雫が流れ落ちているのを典子は見た。はじめて知る初栄の涙だ。死が迫っていることを悟った身体は、喉から搾りだすように声を発した。
「わたしにも母がいました」
「母、が……」
   やにわに語り出した話に耳を澄ませる。
「この歳でやっとわかったことがあるんです。私は、私は……母ともっと一緒にいたかった。もっといろんな思い出を作りたかった。それだけがこの心にあった本当の本当に強い願いだったなんて、嘘みたいです。今になって初めて気づいたんですよ。母は、男を作り家を出ていったどうしようもない女でした。軽蔑して生きてきたはずなのに……」
   何かに押し出されるかのように切迫詰まった声だった。おしだまる典子に初栄は目をしばたたかせ言葉を継いだ。
「今の今まで、これっぽっちも較べてみたりなどしなかった。母と過ごせたはずの月日と、母がいなかったこの人生を。だって明らかだったんですもの。母とお別れをしたあの日。天秤にかける価値など少しもなかったの。なのに、なぜ、今になって。この強い願いはいったいどこから湧いて出たのでしょう」
   価値、天秤、比較、……老女の言葉が胸に刺さるのはなぜなのか。立ち尽くすばかりの典子に初栄はひとつため息のような言葉を添えた。
「自分がわからないんです。ほんとうにこれでよかったのでしょうか」
   どういう意味だろう。学びを続けてきたことを指しているのだろうか。これまで過ごしてきた日々すべてを指しているのだろうか。
「去っていく母を、私は一瞬たりとて引き止めようとしなかった。それなのに……」
  典子は目の前に、はらはら舞う欠片を見た気がした。なんだったろう、これは。

   二週間ばかり経った長月の夜。いつも集まる会場でしめやかに初栄の葬儀が行われた。聖なる書物からいくつも句が引用された。典子が好きな詩篇の句も度々引き合いに出され、静かに話は流れ、簡素極まりない葬儀はつつがなく終わった。涙を流す者がいた。予期してたかのように振る舞う者もいた。平坦な表情で見送る者もいた。水那田しげな微笑を湛えた者もいた。初栄は愛されていた。多くの人に。愛の神に。けれども最後彼女は何と言ったのだったか。初栄の本心は典子の鼓膜の奥にのみ残っていた。

   季節は流れ、典子もまたその顔に皺を深く刻み込んでいった。もう昔のような体力はない。アパートの急な階段が足腰にこたえる。心に蘇る幻影を振り払うしかない日もあった。孤独に飲み込まれそうな夜はひたすら祈った。不屈の魂が燃やす熱意は少しも損なわれず日々を滞りなくつなげていた。歳を重ねてもなお溌剌とした彼女の言動にあいかわらず羨望の眼差しが向けられていた。時にあからさまに嫌味を言う大胆な若者もいた。褒められようと、嘲笑われようと、罵倒されようと、何ひとつ彼女の意志を挫きうるものはなかった。片時も心が折れぬ鉄の女だと噂されもした。

   早春の明け方前。忙しない街の喧騒などまだ聞こえない、ことに静かな青い朝だった。彼女はアパートの寝床でまだ目を閉じていた。薄い眠りとも祈りともつかぬ毎朝の黙想の時間。何十年という月日繰り返してきた尊い神との交信のひとときだ。胸いっぱいに鼻から息を吸い込みゆっくりと吐きだせば、聞こえてくるのは鼓動のみ。典子は荘厳な静けさに身体ごと包まれた。

   ──神よ。わたしは惜しみなくこの身をあなたの道に捧げてきました。真理に導かれ、自力で産んだ娘の元すら離れ、片時も臆さず歩み続けました。この世で得られる楽しみも、家族や友人から受けられる愛情も、あなたの愛に較べれば見劣りするものだったからです。ああ、そうです。これまで多くの人を助けてきたように思います。この務めに心血を注いできました。後悔はしていません。一片たりとも。愛の道を歩んできたことに今何より誇りを感じています。自分より苦しむ誰かのために──。若い頃から求めてきたこの生き方ほど尊いものはありません。夫はもちろん、娘には娘なりの人生があったのでしょう。
   明るい陽が瞼を照らした気がした。まだ明けやらぬ空からこうも光が差しこむのは、最善の道を選んだ典子への祝福であるに違いなかった。光の向こうに舞っているものがある。春が近い。あれは桜の花びらだろうか。いや、あれは薄黄色をした紙の欠片みたいだ。郵便受けに入っていた一枚の葉書。びりびりに破り捨てた、あれは娘の真心だった。わが子という二度と得られない存在が渾身の力を込めて綴った、あれは、あれはわたしへの愛だった。悲しみの叫びだった。わたしはそれを破り捨てたのだ。多くの人を助けながら、ただ一人の叫び声に耳を貸さなかった。娘と繋いだ手の温もりが胸に過ぎる。道いっぱいに広がった沈丁花の香り。なんて清々しく甘い香りだろう。懐かしい笑い声。胸が……胸が痛い。そのとき、脳天から爪先へ電流のような痺れが流れ落ち、典子の身を貫いた。衝撃に鼓動が速まり、額から汗が滲む。ぴくぴくと指先が小刻みに震え、心臓はばくばくと騒ぎだす。わたしは遠い昔、何と、何を、天秤にかけたのだったか。何十年と繰り返した途方もない月日。一生をかけて積み重ねた日々をたった一瞬の感情が覆すなどあるはずがない。この期に及んで、あるはずがない。天秤など知らない。較べようがないからだ。ひと筋の雫が典子の目の端からこぼれ落ちた。いつの間にかとめどなくそれは流れていた。
   心臓が最後の拍を打つ。典子は鼓膜の奥にはっきりと声を聞いた。──だけどお母さん、私はあなたが本当に好きでした。神より私を選んでほしかった。できるならずっとずっと一緒にいたかった。