信仰心と世界の平和を祈る心は、カルチャーでは多様性という価値観で包まれて面白く描かれたり、人間の普遍性として冷静に語られるが、個人的なシリアスな状況においてそれを行動に移してる人をたいていの人は鼻で笑う。
(大洋感情=自我境界の薄さ)は統合へと向かう意識によって近代では「脆弱性」と評価され、見下げられてきた部分が大きい。
自我の統合へ向かう意識とは、つまり積極的分離理論でいうところのレベル1(統合された精神状態)を強固に固めてしまうことではないか。所属する社会に自我を適合させて永続的立場をそこに確保しようとする行為だから。それは既存の価値観に整合性をつけ保持しようとする意識だ。日本は資本主義と民主主義でできているから個人の権利を主体とし、むしろこれを主張することで、この社会ではより高みへとあがってゆける。多くの人が目指す高みとはこれのことだ。
この範疇を飛び出してしまう、統合を拒み特定のイデオロギー社会も超えて世界に広く浸透していこうとする境界の薄い自我、世界を包み込むような意識というものは、果たして「創造的」なのか、「脆弱的」なのか、ということだ。心理学関係の書にもここに存在している利己と利他の軸の違いが見えない故に同じものとして扱われている場合が多い。
人は極端な例を直視しない。
突然に遭う悲劇。歴史の中にある悲劇。今世界で起きている悲劇。これは自分にも起きる可能性があることを頭で知ってはいるが、自分の生活圏外と結論する。対岸の火事。他人事という判を押して終わり。はい、次、だ。それらが意味するところに、一瞬だけ思いを馳せ次の瞬間には忘れて生きる。だから極端な例を考えないまま「信頼できる法則」とやらを作り出す。中間ばかりを見て試行錯誤している。例えば引き寄せの法則とか、努力は報われるとか(逆も然り)、色々ある。
理性による正しい推論とは、科学的視点と合致した論理的思考を基盤とするが、世界全体はまだ解明されていない非科学部分を持つのだから、論理的思考だけでは真理の深奥部にある答えが出せない。無知の領域が世界にあるのは当然。
理屈では説明つかないこの宇宙の神秘と、抽象バイアスであたかも理論として体系化された既存のスピリチュアルや信仰の両者は似て非なるものだが、外側からは同じにも見える。
例えばメディテーションはどうか。
あれを科学とみなすか、しかし仏教もキリスト教も坐禅や瞑想や祈りという形であれを生活に取り入れてきた。精神は身体と切り離せない。バランスを取るのに最適であることは科学が証明しているが、あのスタイルは信仰とも深く関わる儀式だった。
世界に対し、理想的概念を持つことと、主観や体感で得る理解の間には、おそろしく大きな壁がある。
人は基本的欲求を満たす権利を持っている。
生存、安全、自由、など。身体面と精神面でこれが確保される権利を持つ。
残念だがこの権利が正当に得られない人たちが過去から現在まで世界に多く存在している。これは確固とした事実なのだが、ある人にとっては一瞬垣間見る不都合な歴史や世界の事情に過ぎず、ある人にとっては自身が生きる上で深い意味を持つことになる事実だ。人間の力には限界がある。よって理想と行動にはバランスが大事というが、ではそのバランス基準は何により決められるのか。絶対的にそのバランスを決める存在はどこにあるのか。精神医学か。では精神がある程度不安定であることをむしろ健全だとし、西洋医学に対置する理論を構築したドンブロフスキは愚かな視点を持っていたというのか?
生まれつき他者の権利を、自己の権利より「前に」重要事実として捉える人と、自己の権利を心配して確保した後に初めて他者の権利にも目を向ける人と、この大きな開きが人の意識(成長段階)にあるのではないだろうか。
前者は、大洋感情(世界を包み込むような共感的感情)により、剥奪された他者の権利を強く感知して共感することで精神がある程度不安定になる。ドンブロフスキはむしろこの(現存する世界の事実に疑問を抱ける)不安定な性質こそが優れた精神の証とみなした。(だから私の真理の探求はドンブロフスキに行き着いた。)
この不安定な意識を慰め、統合させるために、人は古来より宗教を作ったのかと思う。美と残酷さが共存する世界の意味とは? その仕組み、この事実に対する納得のいく答え(真理)を人は探し求めてきた。哲学や科学や宗教で答えを見出そうとしてきた。しかし暗澹たる闇の前には無力さが露呈されるばかりだ。
明確な答えの見えない曖昧さや不安定さは言わば完全なる自由を意味する。完全なる自由とは人にとって恐怖でしかない。土台を持たないこの恐怖は物理的にも我々が理解できることだ。そこに理論という枠を作った。しかしこの既存の論理により形成された歴史的組織に属し従順と忠誠を誓う行為は、つまり自身の創造性を無くすことと同じ。統合された社会という世界に盲従して生きる人と、統合された社会を逸脱し信仰の名の元に教義に盲従する人。両者は創造性を抑圧しているという意味で同じなのだ。
(創造性をなくすばかりか権力や我欲の隠れ蓑として機能してきた宗教組織と、そこに甘んじて堕落した人間の精神を批判したのはニーチェ。)
だから、信仰に身を捧げる人は盲信者として嘲笑されるが、社会に盲従する人もつまりは同じ穴のムジナではないか。
自己の権利に重きを置く人生と、他者の権利に共感して何かをなそうとする生き方と、そのバランスを取ることや基準値を定めることを既存の知恵に依存して決めるのか、それとも不屈の自分軸で創出するのか。この違いが創造的かどうかの違いだと私は信じている。
また創造性には利他心の方向性が重要だが、この利他心がすっぽり抜けた創造的心理機能を持つ脳がサイコパスではないか。ギフテッド(と一部共通部分を持つが根本的本能の部分が真逆になっている)のだ。(この構造はno+eで発信されてるギフテッドの方の記事を見て確信した。)
疑問を持ち、苦悩して、答えを見つけて新たな価値観を創りだし人間性を成長させていく──これは誰しもが行っていることでは? と、とある高学歴の方が言ってたのを聞いた。確かにそう見えるだろう。
何に疑問を持つか、の話だ。
私たちが日々社会生活で一定の規範に従い安心安全快適に暮らしていくということは、世界中に多く存在するイデオロギーの中の一つ(厳密に言えば日本は二つ)を存続させるための「駒」として機能しているに過ぎない。例えば会社は市場を回すために、個人の権利を獲得し成長させることと引き換えに個人を市場の歯車の一つとして利用する組織でもある。それは自分自身の倫理で作ったものでなく、すでに作られていたものだ。私たちは既存の倫理に従って生きているのだ。この既存の倫理は、世界で権利を侵されている善良な人々の苦しみと叫びに目を向けることはない。善と悪が、美と残酷さが存在しておりそれは他人事ではなく、自分の身に起きることと同じことである。偶々起きていないだけで、世界に存在する限り自分の問題である。なのに不都合な真実として脇へ押しやられ、自分の利益のために生きる人生のレールを人は歩んでる。この事実をどれだけ直視するか、ここからことは始まる。疑問を抱き自分の頭で考え答えを出すのか? それとも答えは自明だから個人の権利を確保してくれるこの既存社会に従い敷かれたレールの上を快適に歩くのか?
この文章は、科学的に思考して真理を理解しようと生きた月日も、高次な存在への信仰により真理を理解しようと生きた月日も、両方を主観的に、真剣に、体当たりで経験してきた一人物の頭の中。外面的なキャリアは持たないが、主観でこれらの価値観を体験したキャリアは持つ人間から見えている社会の仕組みの話。
わからない人にはどこまでいってもわからない話。
人間はみな違うから。
