白黒の世界とマーブル模様の世界

2024年10月19日

繊細すぎるために孤独の深みに座っている者にとっては、遠くから響く巷の人声や喧騒は決して煩わしいものではない。 むしろ、それらはささやかな慰めの一つにすらなるのだ。

『生成の無垢』「ニーチェ自身に関して」
超訳『ニーチェの言葉Ⅱ』より

すみません、今回もややニーチェ色濃いめです笑
今「大洋感情」シリーズを書いており、記事を見て、自我境界が薄い人の生き方について親身になってくださる方がいます。また、趣旨が誤解して受け止められることがある可能性にも気づき、少しだけ補足を書いておきたく思いました。我ながら粘着性の高い投稿ぶりと承知しつつも、もしよければ、読んでいただけると嬉しいです。

悩み=解決すべき問題に向き合っている状態

だと捉えます。定義として。

※ひとまずここでは、外面的な物事への対処や適応ではなく、内面に起こる葛藤、心の仕組み、性格的な癖から発生する、心持ちのあり様、生き方の定め方……といった内面に起因する問題のこととして進めたいと思います。

❶ 白黒の世界
(直線的、二極化、解決が存在する世界)

──それは正しい行動か? 善い考え方か?

例えば私が書いた、クラスメイトにチケットを渡して自分はコンサートに行けなかった、お代すら払って貰えなかったエピソード。これを読んで、「その時とった態度や行動は“正しい”と言えるのか? “間違い”と言えるのか?」「そのような気持ちは本当に“良いこと”か? “悪いこと”とも言えないか?」「それは本当に相手のためになるのか? 自分を疎かにしていないか?」……このように、正誤のある二極の世界、直線的思考で正解不正解をつけたり、善し悪しを決定したり、人としてどうするのが最善か? などと答えを探す思考があると思います。例えば、行き過ぎた思いやりやお人好し行動を相手のためと思うのは思い上がりだ、とか、相手にとって本当に善い行動とはなっていない、とかそんな答えを出そうとする捉え方のことです。

えっと、ここで言いたいのは、

──そういうことではないのです。

答えを出す(=自分にも相手にとっても益になるより善い行動や心構えを探す)ことなら、もうとっくに解決しています。「私には人間関係における線引きの仕方がよくわからない」ことをここで露わにしたいわけではないのです。「線引き」はそれなりに行ってきました。(HSS型なのである意味「心優しきサイコパス」っぽいところがあります‪。すぐに答えを相手の前に提示してしまい、感傷や心がない人かのように受け止められることもままあります。特に妹には昔から心の冷たい人だと何度も言われました笑)
これでも私なりに、たしかに共感性と関わる強い自責の念や、自尊心の欠如(自己愛の必要性)といった問題に取り組んできました。先人の知恵を借り、真逆の感性を持つ人々と関わって学び、徹底的に論理的に思考して、資本主義社会に合わせ合理的に考えて、その辺はわりと上手くやってきたつもりです。というより未だ生きづらさで悩み続けているHSPさんたちの何倍速もの速さでぽんぽんぽんと解決してきた自覚すらあります。これは無駄なことに悩まないHSS型の得意技です。リスク受容が高いのでどんどん自己変革を起こして自律心を打ち立ててゆけるのです。(むろん過去のトラウマが強い分だけ時間はかかりますよ。)

──それは苦しみか? 息苦しさか?

また、自我境界が薄いという心の状態を「そんなんでは苦しいだろう」「そんなんでは生きづらいだろう」「もっと上手く調整して幸せにならなきゃいけないよ」……などのように感じとられるのも、

──そういうことではないのです。

えっと、苦しみと幸せは表裏一体なんですね。切っても切れない関係です。別々にしてはいけないんです。
以下、少し説明してみます。

❷ マーブル模様の世界
(多層的、自由自在、マルチな方向性、解決が要らない世界)

あるがままを受け止められる世界です。
ただ、そうある。……それだけの世界です。

苦しみも喜びも「同じ」なのです。
そこに「善し悪し」は一切ありません。
「上下」の感覚も、「優劣」の感覚もありません。

世界が幸せにならない限り、私は幸せにはなれない。

この言葉を聞いて『重苦しいよ』『あなたは不幸な状態にあるのだな』『さぞ不幸せな人生なんだな』と思うかもしれませんが、そういうことでは全然ないんですよね💦

例えば、光と影の関係です。影を取り除くということは光を無くすということです。
光──つまり、自然界の美を感じ取り、宇宙の神秘性を感じとり、高揚感に包まれる、叫びたいほどの歓喜に包まれる、音楽や芸術に触れ、強烈な官能を覚える──。自我境界の薄さからくる、苦しみを感じ取る能力を消してしまうと、こうした、通常をはるかに超えた興奮性と歓喜、これがすべてなくなってしまいます。宮沢賢治さんも、美や芸術や知的刺激を受けたとき「ほっほーい」といって興奮してよく飛び跳ねたようですが、あれです。あの喜びはまさに、私も五歳の頃から感じており、その歓喜と興奮は、世界の苦しみを感じ取る感覚と完全に同じものです。それを(1)で説明しました。

誰かの深い悲しみや悶え死んだ善人の叫びを聴くということは、つまりこの歓喜と表裏一体なんですよ。元は「同じ感覚」から派生しています。

美しさへの興奮性と苦しみへの強い感受性は同じ仕組み

たしかに、最初はこの境地に辿り着くのが途方もないことに感じられました。それは「うつ」として心の部屋にべったり貼り付き、剥がしても剥がれず、自分が生きていることに焦燥感や罪悪感に近い感覚がありました。その状態は、真理に飢え渇き、善を思うゆえの苦しみに苛まれている人間の状態です。実際他者の苦しさが自分のこととして入ってくるのでそのように感じていました。

簡単に言えば、「善が悪に殺される」──これを受け入れることの絶大な苦しさですね。私の場合はここが最も苦しいです。

私はその痛みに耐えられず、二十年もの間「特定の思想」に傾倒することで痛みを癒して生きていました。他の人たちはそもそもがこの痛みを感じ取っていないか、感じ取っていても上手く線引きして平気でいられるのかなのでしょう。
皆それぞれですが、私にはこれは強烈な痛みだったので「鎮痛剤」が当面は必要でした。なぜならそれより前に取り組まねばならぬアダルトチルドレンからくる自尊心の欠如という問題があり、そっちが当面向き合うべき「悩み」だったので。鎮痛剤が効いてる間、私は精神のレジリエンス能力をフル発揮させて、こうした、答えを出さねばならぬ「悩み」を自分一人で解決してきました。

ついに自尊心が相応しい量まで上がり、そういった悩みがほぼなくなりかけた頃、鎮痛剤によって麻痺し心の奥で眠っていた『創造的本能』がむくむくと目覚め、再び私を支配し始めたので、今こうしてこの原点の痛みを文字にし始めました。

孤独な者よ、君は創造者の道を行く。

フリードリヒ・ニーチェ

これを「思考」の話とするならば

生きづらい人生をどのように捉え、どのように考え、どのように向き合っていくか……?

さて、どう考えればよいのか?
そこに悩んではいないのですね。この手の悩みはもうなくなった、といっても過言ではないです。
悩みに関しては、私が辿り着いたのはだいたいこんな感じです。

死ぬのは決まっているのだから、ほがらかにやっていこう。いつかは終わるのだから、全力で向かっていこう。時間は限られているのだから、チャンスはいつも今だ。嘆きわめくことなんか、オペラの役者にまかせておけ。

『力への意志』 フリードリヒ・ニーチェ
超訳『ニーチェの言葉』白取春彦 編訳

誰よりも朗らかに生きる──これに尽きると思っています。「苦しさを知りつつ笑って生きる」これが、まだ子供だった頃から私の理想、人生の向き合い方でした。今も変わっていません。先人の知恵の言葉に触れるたびそれはますます強くなっていきました。
(笑いとはそもそも苦しみがあるからこそ生み出されたものだと、これもたしかニーチェが言ってたと思います。チャップリンの言葉にも似たような言葉がありますよね。深い苦しみは必ずユーモアに行き着くはず。「ユーモアの心」──答え、というならば私にはこれが究極の答えかな。)

愛し方は変わる

若いときに心ひかれたり愛そうとするものは、新奇なもの、おもしろいもの、風変わりなものが多い。そしてそれが本物か偽物かなど気にしないのがふつうだ。 人がもう少し成熟してくると、本物や真理の興味深い点を愛するようになる。 人がさらに円熟してくると、若い人が単純だとか退屈だとか思って見向きもしないような真理の深みを好んで愛するようになる。というのも、真理が最高の深遠さを単純なそっけなさで語っていることに気づくようになるからだ。 人はこのように、自分の深まりとともに愛し方を変えていく。

『人間的な、あまりに人間的な』フリードリヒ・ニーチェ
超訳『ニーチェの言葉』白取春彦 編訳

この社会における人間関係だってそうです。ある特定の態度や対処法を愛していたけども、あるときその逆を愛するようになり、またさらに成熟に向かうとその逆の深みがわかるようになり、円熟段階ではもはや一周回って元の表現に還ってくる、という現象が起きますよね。ひとところに自分を定めていては、この逆転現象、この循環、は起きないのです。変化が必要です。

今『大洋感情』という観念を表現していますが、ここに私の生き方が帰着することを意味してはいません。あくまで原点の深掘りに過ぎません。精神の飛躍のための地盤の解説ですね。

人は成長する

成長する──ということは、これまでの性格的行動パターン、癖である思考パターンとはまったく違うステージに上がり、感じ方や受け止め方の基準が何もかも一変することです。私の捉え方はほんとうにニーチェと同じなんです笑

例えば、こう。

怒りっぽい人、神経質な人は、まさにそういう性格を持った人であり、そのような性格はずっと変わらないものだとわたしたちは信じている。そこには、わたしたち人間が成長しきったものであるという根強い考えがある。人の性格は変えられないと思っている。〜しかし〜

〜自分に湧いてくる他の感情や気持ちもまた同じで、わたしたちは自由に処理したり、扱ったりできるのだ。まるで、わたしたちの庭に生えてくるさまざまな植物や花を整えたり、木々の果実をもぎ取ったりするかのように。

『曙光』
超訳『ニーチェの言葉』白取春彦 編訳

特に今の若い世代の人は、価値観が多様化した自由すぎる社会の中で自分を安定して固定させる場所を探し、安心できる個性のラベリングに夢中になっています。「性格は変わらない」と思いこんでいますよね。一つの性格に帰着しようとしています。すでに成長しきっていると根強く思い込んでるのですね。人生の成長期まではそれでもいいです。でも行くべき道はまだ先にあります。発達の可能性のある人にとっては。

成長する人は、ひとつの性格に留まっていることができません。自分の中に起こる感情や思考を、ニーチェがいうようにまるで庭仕事のように、植物や花の整え方、もぎ取り方、切り方、植え方、色々な方法で自由自在に扱えるようになる。方向性は二極ではなく、マルチです。

私には、世界はマーブル模様に見えています。白黒で説明できる世界なんかではないです。二極で判定していく世界ではないです。どっちが正しい、どっちが相応しい、どっちが良い、悪い、そういう基準がありません。もちろん外面的な物事に関しては判定が必要ですよ、当然。個人的な人間関係の中で起こる内面的な葛藤がないという意味です。また人間が向き合う哲学的な問いに、言葉上はひとつの答えがありながらも感覚的にはひとつではないことが自ずと感じられる世界です。矛盾こそが愛しいです。そこは深い深い世界、苦しさと美しさが融合する世界です。

猫による記録 『複雑型』
※この話は、私の脳内小人の一人「メタ思考使いのライター」が書いたものです。 その変種の存在と生態は、橋の下の泥まみれの家に暮らす研究熱心な猫により確認された。猫…
qureco.me

世界がマーブル模様に見える人の話。↑

人に対しては、決して恥ずかしい思いを誰かにさせてはならないし、細かく相手の気持ちを感じとりその人の考え方に歩み寄らねばならないと考える。
でも自分は笑われてもいいし、蔑まれてもいい。
理解されなくてもいい。叩かれてもいい。
この世界に、自分はあまりいないです。その分世界にある神秘的な「美」を心ゆくまで感じとれます。

苦しみと喜びは「同じ」であるとしか言えない。
それが自分らしさ、あるがままの姿。

大洋感情は、共感性という切り口から見れば「息苦しさ」に見えるかもしれない。しかし神秘性という視点から見れば、この上ない「幸福な」人間の話です……。

みながそれぞれ、あるがままの姿で、
自分だけの幸せを感じとって生きていけますように。

 


あ、ひとことでいえば、これは性格の話ではない、ということだな。長ったらしく説明してしまいました、すみません。