大洋感情を持つ人間(2)─ 利他心は方位磁石の針

大洋感情を持つ人間(2)─ 利他心は方位磁石の針

2024年10月17日

先回の記事↓

大洋感情を持つ人間(1)─『大洋感情』とは?
やっと本命記事の投稿へと辿り着けました。なぜ本命かというと、誰かに伝えたい明確なメッセージであり、私の生きる意味と繋がっているからです。このシリーズは大洋感情を…
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今回から、大洋感情の全容を知っていただくために私自身の過去の経験を引き合いに出してみたいと思います。この感情を生まれつき持つ人間の特徴を一例としてご覧いただけると思います。
もしあなたもこれに該当するならば内省にお役立てください。または観察なり分析なりご自由にどうぞ‪。

(ちなみに最近気づいたことですが、スピリチュアルでいう『スターシード』と概念が酷似しているのが不思議です。インディゴチルドレンという性質の方がいるそうですが、調べてみると表現まで一致しているのです。まったく別分野からの切り出しではあるものの、当事者の方々にも何らかの共通点を見出していただけるかと存じます。)

子供の頃のエピソード

その① 小学一年
心の「方位磁石の針」を初めてメタ認知

これは、私の中に強く存在している、冒頭で述べた❺ =報われず亡くなった歴史上の死者に対して持続的に強く働く共感性に繋がるもののことですが、自身の中でその存在を確認した一番最初のエピソードは、もっと身近なごく小さな場面におけるものでした。

それは小学一年生のとき、おそらく人生初のくっきりしたメタ認知をした時のことです。
当時親の離婚前で、父親は社長だったので私の短い社長の娘時代のこと。制服を着て通った小学校のおそらく学校に入りたての時の記憶。

教室で、先生の言いつけ通り後ろの席へ配布されるプリントの束を回す場面がありました。よくある風景です。各自が一枚取って次に渡すというあれです。そのとき私が渡したプリントの束を後ろの席の子が床に落としてしまいました。咄嗟に拾うため身をかがめましたが、その子が取ることになる紙にうっすら汚れが付いてることに気づきました。それを見て私は咄嗟に、相手に見つからないよう、既に自分の分として取っていたきれいな紙の方を相手のものとしてすり替えました。わざわざ汚れた紙を自分のものにして、きれいな紙とプリントの束を「はい」と言って後ろの席の子に渡しました。その子は出来事に気づかずそのまま紙を受け取りました。私も汚れの付いたプリント紙をそのまま使いました。なぜかこのときのことを昨日のことのように覚えています。自分の行為と心の中にあるものをメタ認知したから記憶に鮮明に残ってるのですね。
初めて自分の無意識的な何かを感じた瞬間でした。この行為は、意識的に気遣ってしたのではなかったからです。おや、これは何だ? という感じです。「知、情、意、感覚」のうち、このどれでもない何か独特なものが、人間の心の中に、普段は見えていないけれど心の深いところに生まれつき存在しているのだな、と。人は生まれた時から自分の考えや意思とは関係ないところに、元々刷り込まれた何かを持っている、と感知したのをくっきり覚えています。……今思えば、ユングがいう「元型」と捉えれば良いのでしょうか? その中で言うなら「セルフ(自分の本当の姿)」かと思います。

私は頭のなかでこの感覚の意味するところについてしばらく思い巡らしました。この感覚を強く持っていない人の方が多いのだろうとも感じました。なぜなら他の周りの子供たちは、相手のプリントの小さな汚れなど気にも留めていないように思えたからです。よほど困る事態なら何か対処するだろうし、自分に非がある場合ならむろん意識的に行動するでしょう。しかしこんな些細なことまで徹底的に常に相手を優先してしまう、しかも相手に気づかれずにそれをしよう、という感情より先に起こるこの感覚。自分が何かに制御されているような感じ。自然と北を指す方位磁石の針みたいなものです。──大人なら気遣いやマナーや社会人としての配慮として意識的に行う人がいるでしょう。これは六歳の子供の話です。両親から教わったものではなく(私の親は何一つ私に〝教える〟行為をしてくれませんでした)、先生の目を気にしたわけでもなく、これが正しいと思考して判断したのでもないのです。ただひたすらに「方位磁石の針」です。

そして、このときはたまたま些細な出来事でしたが、起きたハプニングの程度がどうあろうと、今後の人生私はこの元々備わっている心によって支配され生きていくのだろうな、という予感がこのときありました。今思えばものすごくメタ認知していますね。自分の心の中を外側から客観的に捉えて見ています。

また先の記事の話に戻りますが、宮沢賢治が、「人にだけ備わっている心」だとしたものがあります。あれです。どうしてもそうなってしまうもの、です。自然に内面に存在する良心といえば伝わるでしょうか。人だけが持つ生まれ持った心です。他者から促されて育つ実益的な道徳観念よりも〝前に〟生じる心のことです。

たぶんこれを幼い頃から強く持っている人と、自分で意識するほどには強く持っていない人がいます。持っていない子供は、自分が被る小さな不利益に対して比較的不満や不平を抱きやすく、それを態度や言葉で表します。意識するほどに持っている子供は、自分の不利益をほとんど気にかけません。それよりも他の子供の利益を気にかけますので、自分に関しては不平や不満をほぼ抱かず、怒りもほぼ抱きません。それが自然なことなのです。
小学生時代、友だちが普通にしている噂話や悪口、それにつながりかねない無邪気なお喋りなどが私はすごく嫌いでついていけなかったのはこれが元になっています。

その② 小学校4、5年の頃
相手の喜びが私の喜び

人から変な話と思われるエピソードにどんどん踏み込んでいきます。大げさだ、嘘だ、愚かだ、幼稚だと感じる方、または何となくわかる、よくわかる、自分も同じだ、という方。色々分かれてくるかと思います。

特に親しくもない、あるクラスメイトがとある歌手のコンサートに行きたがっていました。この頃の私は両親が離婚して土佐の田舎町で母子家庭で生活していました。小さな古い町、祖母の家にある仮小屋みたいな部屋で台所も土間で風呂もないという貧乏暮らし。この小さな町から、中心部にある大きな市(よさこい祭りで有名)へ出てコンサートに行くなんて夢みたいな体験です。そのクラスメイトが欲しがっていたチケットを、私はたまたま興味を持っていたため何とか入手し持っていたのですね。

私はクラスメイトの気持ちを聞いて、そのチケットを渡しました。これで行っていいよ、と。なぜかというとその子の喜ぶ顔が見てみたかったからです。一応お代は後で払ってもらう約束でした。その女の子は「やったー」と大喜び。私も嬉しかったです。
その子は私と違って活発でクラスでも人気があり友達も多く何でもはきはきとしている子でした。自分に自信を持っており、どこかクラスの中でも上にいる子でした。そのためか、私のことなど気にもかけておらず、お代の件はなあなあにされました。声もかけてくれなかったので私もほとんど声をかけず、結局払ってもらう機会はありませんでした。
何千円という、貧乏家庭にとっては大金となる代金でしたが、これに対して私は特に腹立つことはありませんでした。その子を責めることもしませんでした。まあ、そうならそれでいい、むしろその子がコンサート楽しめたのならそれでいい、嬉しいな、という感じでした。……変でしょうか?  でも私にはちゃんと怒らなかった理由があります。コンサートに行けなかったことはやや残念でしたが、お金の損失は(この場合特別に配給された自分の小遣いですね)私には小さなことだったからです。

もちろんお金の大切さなら貧乏家庭ゆえに他の子たちよりずっと知っており深刻な家庭事情として嫌というほど体験しています。でも私はいつもいつも考えていたのです。掘立て小屋のような部屋の小さなガラス窓から、低い空を流れる雲を見つめながら考えていたことを、これもまた昨日のことのように覚えているのですが。

世界にはお金がないために生活に苦労している人、お金がないために亡くなっていく人がいる。それなのに世界の多くの人にとっては「自分が」お金を得ることが大切なのだ。自分が得るかどうかが、多くの人にとって大切な問題なのだな、このお金獲得への執着から世界で様々な問題が起きてるようだ、お金を得ることと人に対して優しくあることとどちらが価値があるだろう? 人にとって最終的に一番大事なものはお金を獲得して幸せになることだろうか、それともひたすら人に優しくあることだろうか?  うちはお金に困っているけれど、お金に対して私は世の中の人とはかなり違う感じ方を持っているから生き方も他の人とは違うことになるのだろうな、……そんなことばかり毎日考えていて、自分なりのお金へのスタンスというものが何となく決まっていました。

一度家庭内暴力から発展したご近所も関わる事件で刑事が家に来たことがあります。その時我が家の人間(私か母)が近所の方の財布から万札を盗んだ疑いがかけられていたのです。そんな事実はないことを知っていましたが刑事は疑ってかかりました。私は刑事に声を振り絞って訴えかけたことを覚えています。「刑事さんは、本当にうちの人間が犯人だと思ってるの? 違うことがわからないの?」……人は常に人の表面を見ているのだなと思いました。お金に対しても、「皆それを強く欲している」と決めてかかっている。お金を得ることなど良心の大切さと比較すると取るに足らない、まして他者から奪うなどあり得ない、そう考える子供がいることを思いもしない。そのような大人の人の心の見抜けなさに子供の私は絶望しました。大人ってなんて馬鹿なんだろうと。人の心が読めない人間が世界のほとんどを占めているという現実を見た思いでした。

このように、真剣にお金と人の心のあり方や生き方について自分なりに考えていたので、その友達の態度もある意味、これが人間の世の中なのだなという、どこか達観した感覚を持っていたのです。あの子はお金に執着する人生になるのだろう、けれど私はそれより重要なものに価値を見い出していく人間になるようだ、と自分の身に起きた出来事にもかかわらず場面を「遠目」に見ており、そもそも皆が幸せであればいいという素朴な願いがあるので幸福ですらありました。だから「怒り」などとはほど遠く、人生に起きたただの一場面、ほんの小さなことに思えたのです。……こうして明瞭に記憶しているのは多分、世間の人との「ズレ」を強く実感していたからだと思います。

自分の損得ばかり気にして不満を持ったり喧嘩したり相手を責めたりしている同世代の子供の世界は、私には正直とても小さく思えていました。……素直な気持ちをここに書いてしまうと、私は自分のことをこの星の人間ではないような感覚を幼い頃から持っていました。人にとって大事なものとして捉えているものが、他の人たちと大きく違っているように思えたからです。教室では青空ばかり眺めて自分の星からのお迎えがいつ来るかとそんなイメージを抱いて何かを待っていました。(これを誰かに話すと笑われると思い長年黙ってましたが、同じ感覚を抱く人が他にもいることを知り、遂に書きました。)

これら以外にも、私は同じようなことを度々繰り返しています。クラスメイトや友達に対してはいつも相手を優先して、自分は(外側から見ると)損ばかりしています。こういう〝損する役回りの子〟は世の中に一定数いるでしょうが、私が彼らと全然違うのは、それが我慢や損とは感じないところです。自分を殺してるわけではなく、耐えているのでもありません。ごく普通の感覚、どちらかというと楽しんでいますし、幸せなのです。それが「自分」だから。

損をしても怒らない人のことを寛大な精神とかお人好しとか(確かにお人好しは過ぎていますね)何か特別な者のように思う人がいますよね。しかし正直な気持ちを言えば、私にとってその程度のことどうでもいいのです。あまりにも小さいのです。
またあるいはこんな人間のことを、バランスが悪い人、理性的な考えが足りない人、頭が弱い人とみなす人もいます(私の義理の兄に当たる人は、私みたいな人間のことを、現実を把握できていない、理性的に考えることができない頭の弱い人間だと思っており、あからさまにさげすむ目線で反応します。そういう言葉を何度か言われました笑)。どう評価されようと、それが自分なので互いに違っているだけとしか言えません。

この二つの出来事は、私の記憶の中に鮮明に残ってるものですが、出来事の重大性でいえば蚊に刺された程度の些細なものです。蚊の方がまだ重大かもしれません。

次に、「大洋感情を持つ人間(3)─怒りは悪に向く 子供時代との別れ」に続きます。これは小学三年生の時に起きた私にとってとても大きな出来事です生死の表現が出てきますので苦手な方は注意してほしいですが、差し支えない方は読んでいただけると嬉しいです。なお「大洋感情」の『核』となるのは(4)です。(4)にて、積極的分離理論との繋がりを感じ取っていただけることと思います。

続き↓

大洋感情を持つ人間(3)─ 怒りは悪に向く(子供時代との別れ)
先回↓ https://qureco.me/ocanicfeeling-2/ 生まれつき標準より強く利他的な方向に動いてしまう心(方位磁石の針)が存在しているこ…
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