嵐のように恐怖と混乱が吹き荒れる日々はまだあるものの、落ち着きを取り戻し、冷静に自己を分析できる時間も増えてきました。価値の断層を見つめながら、内なる理想と照らし、今自分にある能力の何が、どう意味を持つのか──ここ数日で、また飛躍的に自己理解が深まった気がします。
いま私が行い始めたこの自己分析、そして自分で自分を方向付けていくプロセスが、TPDのレベルⅣでみられる 「自己精神療法」や「自己教育」に該当するのかどうか。その結論を出すことは、まだ保留しています。私の心の素直な願いとしては、「理論とは無縁でありたい」という思いがいまだ燻っているからです。また、私はいわゆるギフテッドというアイデンティティには該当しないと考えているため、この理論の高次発達との関わりを否定したい欲求が今なお存在しています。
では、なぜこれほどの恐怖の最中にありながら、冷静に、客観的に、自らの心理現象を分析できるようになってきたのか。その理由は、はっきりと説明できます。
かつての世界認識であった 「横の分類」に加えて、「縦の階層」という、全く新しい物差しを手に入れてしまったからです。(例えば、世間で流行りのMBTIなどは横の分類の好例です。垂直の階層が見えない段階では自己理解として有効ですが、一度この〝高さ〟が見えるようになると、分類そのものの意味が失われてしまいます。)これは、少し前までの私にはなかった能力であり、内面に生まれた新しい「眼」と言えるものです。
▼ 想像性OEという名の、「怪物」を可視化する力
そして、ここまで強烈な恐怖が起きていた理由も、今ならよくわかります。
私はこれまで、第三因子のことを自我を食い潰す「怪物」という、やや詩的な表現を使ってきました。しかしこれをそう表現させたのは、想像性OEという名の、強力なレンズの仕業なのです。
この想像性OEは、私にとって、小説や音楽といった創造活動の源泉となってきました。しかし理論が示すように、人格の発達という文脈においては、全く別の役割を担っています。それは、第三因子が創り上げていく 「人格理想」の姿を、あまりにも鮮やかに、生々しく描き出す力として機能するのです。
その理想像の人物が「持っているもの」と「持っていないもの」が、くっきりと見えてしまう。そして、その「持っていないもの」の中に、私がサバイバル時代を生き延びるための救いとなり、心の在り処であった、愛すべき内面世界の独特な様相が、〝見えなかった〟のです。
そう、その理想像の中に、かつての私を救ってくれたものは、同じ形では存在していない。
それが、この想像性OEのレンズを通して鮮明に見て取れるからこそ、「自分が消えていく」という感覚に苛まれ、言葉にならないほどの恐怖が生まれてきたのでした。自我を食い潰す怪物、築き上げてきた自己という土台を崩壊させる力──その輪郭を、私はこの想像力によって、いわば〝可視化〟してしまっていたのです。
ドンブロフスキが示した通り、発達の最も強い鍵となり炎を燃やし続けるのは情動性OEです。これは共苦の心を伴うため強烈な痛みを引き起こしながらも、発達のあらゆる力の燃料となります。しかし、高次の発達を意識的に方向付け、そのプロセスを自己分析していく〝再現性〟という点においては──これは個人的な感触ですが──情動性OEと密接に繋がった知性OEがその役割を司っている気がします。
▼ 私なりの自己精神療法
今、私は少しずつですが、自分の中に起きている現象の何をどう意味づけ、何をどう方向付けていけばよいのかがわかり始めています。ひとまずは、この囚われた恐怖と悲嘆を鎮静化させることが先決です。私にできること、自分が持つ能力と、内なる理想との調和を図るために、分析と計算を始めています。そして、弾き出された結論を元に、日々の実践を試みるところまで来られました。
ドンブロフスキの理論によれば、レベルⅣの自己精神療法とは、自己の内面にあるものを 「データ」として扱えることだとされます。私のこの営みがそれと完全に合致するかは今の段階ではまだ断言できません。ただ、私なりの、オリジナルな自己精神療法と呼べるものが確かに生まれ始めている。その感触があります。
人格理想と今の自分のあまりの落差ゆえに生じる、自己への強烈な羞恥心、自責、自己否定──このレベルⅢの凄まじい精神不安定の渦中にありながら、このようなデータ分析ができてしまうというのは、客観的に見て、ある種の脅威にすら思えます。
私は知能が高いわけではないので、高次発達(レベルⅣ以上)を成し遂げるほどの知性OEは十分でないように思います。加えて、継続的な発達に必要なエネルギーとしての精神運動性OEや、何より最も強力な要因となる第三因子の欠如を、(その意味が理屈と体感でわかるがゆえに)はっきりと感じ取れます。
それでも、ドンブロフスキの理論を把握することでここまで自己理解を深められたこと(つまり、第三因子からの退避の必要性と、今後どこへどう着地すればよいかの分析を行えること)は、やはり幾らかのDPを持っていたことの証明なのかもしれません。でなければ理論の一連の記事を、ここまで〝手触りの感触をもって〟書き上げることはできなかったでしょうし、今のこの冷静な自己分析も不可能だったと思えます。
いずれにせよ、いまは自分なりの自己精神療法で、この恐怖と悲嘆を治めていくしかないのです。それは、遠い過去にカウンセラーの力も借りず自己肯定感を築き上げてきた過酷な道のりとは、桁違いに困難なものです。
▼ 同じ道を歩むかもしれない人へ
以前のアカウントや個人サイトで何度も書いてきたように、創造性とは〝諸刃の剣〟というしかありません。それは自己という大地を崩壊させる「揺らぎ」を引き起こす力であり、精神の痛みと分かちがたく結びついた特性です。
私のように、この自己破壊能力とも呼べる創造的本能が強すぎる方。知性の枠を超えて、精神性の深奥部と接触してしまう方。そして、〝情動の伴わない高い知性〟とはまるで対照的に、理知的構造の奥にある、魂の痛みそのものと繋がってしまう方……。
そのような、およそ他者からの理解を得られそうもない、孤独な道を歩む人のために、私のこの混乱と分析の記録が少しでも何かの役に立つなら、それに勝る喜びはありません。
積極的分離理論への深い理解を得たい方に、役立つかもしれない記事。↓