
昨日アップした記事↓ に、少し追記させてください。
目次
答えが出る背景
実は、昨日書いたものは、私自身が思考して結論を出したようになっていたけれど(また、結論と言いながら曖昧なことを書いたようにも思うけど)、実際はこんなことがあった。
夫が、私のいない間に私の書いた文章をすべて読んでくれていた。このnoteの自己探求のシリーズも他のもすべて。それで、こう言った。
「これまで過去の出来事などは散々聞いてきたけど、ここまでのことだとは思っていなかった……乗り越えてくるのは並大抵のことじゃなかったことが、改めてよくわかった……」
二十代以降のことも、私の表面しか見えていなかった、ということを彼なりの言葉で伝えてくれた。
口で話すより文章の方が、強く物語ってくれることがある。そう感じた。会話しているときは、相手は別のことにも気を取られている。けれど文章を読んでくれるということは、書いた人本人の心と真剣に向き合ってくれている、ということ。伝わる度合いが違うのはそういう理由があるのかもしれない。……このように少しの希望が見えた、という背景があった。
だから私は、自分への不理解、無関心、誤解、表面だけの評価……そんなものを感じるこの日常生活という孤独を、無闇に捨ててはいけないのだと感じ始めた。いや、本当いうとこの思考の巡りは初めてじゃなくて、何度も何度も、この過程を行き来してきた。けれどそれが今回ちゃんと言葉としてまとめられたことで、日常生活は捨てない、という一つの終着点へ辿り着けたのだと思う。
孤独という現実を教えてくれる生活や交流も、それを私が自身で選び取り自分の幸福へと換えていく……そんなことができるのか。できるのだ、と本の中から訴えてくれたのがレスリーだったと感じたのだ。私という脳は人生に強烈に深い意味を求めてしまうけれど、深い意味のない日常もまた私の一部なのだと、そう信じること以外、正解はないのだろう……と。
デヴォン州へ行きたい
デヴォン州のトーキーへいつか行かなければいけない。クリスティーが育った場所へ。壮大な自然、美しい丘、恐怖すら覚える広大な海、あの風景を実際にこの目で見て、空気を吸って、そこにある緑や花にこの手で触れてみたい。
……自然と語らう時間が人一倍必要な人間なのだと強く自覚したのは、かなり大人になってから。子供の頃から自然が大好きだったけど、都市生活に呑まれるうち実際に接するのは「人並みより少し多め」程度で終わっていた。だけどそれでは全然足りていなかったのだ!と気づいた数年前から毎日今までの何倍もの時間、ひとりでじっくり自然と対話する時間を取るようにしている。
自分の小説にも登場させたし、今回再読した本の縁もできたし、もうこれは行くしかないでしょう。三度目のイギリスへ。まだ見ていないクリスティーの生まれ育った場所へ。
……こんなふうに、心の中に、自分にしかわからない『宝物』ができる瞬間って人生の喜びだな、と思う。好きなものを持てる、何かをこんなにも好きだ!と思える。愛して愛してやまないものが心にできる。これこそ生きる喜びだと思う。少しずつこの喜びをまた増やしていこう。もうすでに両手では支えきれないほどに好きなものを持っているけど……一つ一つを叫びたいほどに私は深く強く愛しているけれど……これからもまたどんどん増えていきそうだ。
考えすぎて悩みすぎて、今、頭の芯が疲れ切っている。ここまで頭の中が疲れたのはさすがに初めて。休んでも休んでも休み足りない。もう少し私は休まなければいけない。この疲れが取れたら、続きを書こうと思う。
お礼
スキやコメントをくれた方に、心からのお礼を伝えさせてください。優しい気遣いや親身になってくれたお言葉、感謝しています。皆さまの書かれたものも、心身が回復したら少しずつ拝読するつもりでいます。本当にありがとうございました。
